わびさび2世号 信州小海線ロングポタ.3日目 02.09.04

3日目の朝、海瀬館を出発して羽黒下を過ぎた頃だったでしょうか? あっ、これだ、臼田町だったみたいです佐久乃花酒造

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300石足らずの小さな蔵ですが、丁寧に醸す暖かみのある蔵元です。良酒とは良き米、良き水、造る人の三位一体が混然と調和するものと考え、それお念頭に置き日夜酒造りに励んでいます。 これからが楽しみ!

なんだそうです。飲んだことは無いですが。 ん? 海瀬館で飲んでいたのがこれか!

龍岡城

実は中学高校の頃、歴史と一緒に城にも凝っていて色々と読んでいたのですが、龍岡城は幕末に作られた和洋折衷?のお城です。北海道の五稜郭の前身とでも思えばよいのかも。ここも五稜郭です。

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ラン補・画像掲示板 信州小海線ロングポタ: 賄い岩田 2002.09.07 

m-kojimaさん> 竜岡城は城郭マニアなら必ず行きたい西洋式のお城ですね。・・・
こんな山奥に誰が最新式の大砲を持って攻めてくるんだ!ッて思います。幕末のドタバタが感じられます。
御意! それプラスあんな1万6千石の小藩がよくもまあ幕末にあんなもの作れたものだと思いますね。藩主はそうとうの逸材だったようですね。日本赤十字社の創立者のひとりとはしらなんだ。
m-kojimaさん> 校庭にある木造の大きな倉庫のような建物はまだありましたか。
有りました。後で知ったのですが資料館になってるそうですね。

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龍岡城の中にある小学校の生徒達です。川遊びが授業にあるなんてええな〜。
下の画像はこの枯れたトウモロコシからポップコーンを作るんだそうです。

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ここはですねぇ。お寺なんですが判らないんですよ。確か鎌倉時代から戦国初期ぐらいまでの豪族の城跡とか案内板に書いてあったと思うので貞祥寺(ていしょうじ)かもしれません。かなり立派なお寺でした。前が四角い池ですから地図で照合するとそうかもしれません。

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ん? ここに出ている山門は、そのようですね。豪族と言うのは伴野氏、甲斐源氏の小笠原一門ですから武田信玄の遠い遠い親戚です。豪族だなんて失礼しました。


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FCYCLE 山紫水明会議室 「小海線ロングポタ御報告」 Date: Wed, 11 Sep 2002

"ぴー助"さん、どうも。(^o^)/

> いぬいさんの方の写真も見せていただきました。
> 小海線の旅を堪能されたようで、羨ましいです。最初の写真の真ん中、
> ダブルトラックで真ん中に草が生えている・・・あんな道がワシ、一番好き
> なんですよ。

あの道は行き止まりを承知で下りていって登り返してきたところです。
いい感じでしょう。(^o^)/
あと、広い田圃を見渡して、耕耘機しか通らないような作業道を見つけては方向関係なしに走ったり、道草しほうだいで遊んできました。
あるところで、狭い農道に耕耘機が止まっていてお百姓さんが二人休憩していで「兄ちゃん悪いね〜、気おつけて通ってね」と言うんで、「大丈夫ですよ、こういう手があるんだから」と山サイで良くやるようにハンドルをグイッと持ち上げて1輪押しで通ったら「すごいすごい!」と手をたたかれました。
しかし、兄ちゃんて歳じゃないんだけどね。(爆笑)
あちらにUPした民家は宿場町中心に編集しましたが、そうでない普通の農家もとっても良かったです。
まあ、見方を変えればただの屋根の波打った古くてボロい住居ってだけなんですけど。住んでる人は不便かもしれませんが、でもよそ者の私は好きです。

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FCYCLE 山紫水明会議室 「小海線ロングポタ御報告」 Date: Wed, 11 Sep 2002

岩田さん、ども。

> あと、広い田圃を見渡して、耕耘機しか通らないような作業道を見つけては方向関係なしに走ったり、道草しほうだいで遊んできました。

あ、いいな、それ。頂き。今週末は頸城オフで、初日は集中ランなんですが、宿と前泊する親戚宅が直線距離で6〜7kmしか離れていない。(笑)
大きい周回コースってーのも考えたんですが、そっちは止めて、岩田さん式無節操ポタ(笑)にしよーっと。

> しかし、兄ちゃんて歳じゃないんだけどね。(爆笑)

いい年したおっさんがこんな所を自転車で走っているはずがない。ちょっと老けて見えるけど、あれは“兄ちゃん”に違いない、と思ったのでは・・。(笑)

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FCYCLE 山紫水明会議室 「小海線ロングポタ御報告」 Date: Wed, 11 Sep 2002

> そっちは止めて、岩田さん式> 無節操ポタ(笑)にしよーっと。
も、もうちょと言いようってもんがあるでしょが (;^_^A アセアセ…

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川魚料理「竹廼家」

FCYCLE 山紫水明会議室 「小海線ロングポタ計画」 Date: Wed, 07〜09 Aug 2002

関西方面の濃い〜ラ族(+大英帝国派)が信州でツーリングの情報が! で聞いてみました。「佐久あたりでおいしそうなとこって?」と。したら「追分けから望月あたりの中山道宿場町なんてどう?」と。
おお、それは良いかもしれない。(^o^)
更に信州地元民のラ族中堀さんに飛び火して

千曲川と中山道が交差するのは浅科村の塩名田の川魚料理の「竹廼家」はオススメ・・・
塩名田から西へ・・宿場の雰囲気は残っていますが、北国街道の海野宿の方がそれらしいでしょうかね。それよりは中山道と千曲川にはさまれた、御牧ケ原や八重原の方が、ポタリングにはおすすめです。

とのこと、これも頂き! (^o^)/
さて、問題は塩名田の「竹廼家」が昼に成るようにどうコース取りするかです。う〜ん。

あの川べりの黒い2階屋が「竹廼家」です。

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FCYCLE 山紫水明会議室 「小海線ロングポタ御報告」 Date: Wed, 11 Sep 2002

ZINさん:> 鯉こくと甘露煮...洗いは好みが分かれるところです。
塩名田の竹廼家は前日に店まで行って予約しようとしたら予定した日は定休日。残念。鯉こくも注文出来る時間に宿に着けなかった。残念。でもイワナの唐揚げは望月宿で食べました。旨かった。(^o^)
甘露煮は中棚荘(宿)で食べました。でも甘露煮は甘露煮だね。(笑)


千曲川の南を海野宿に向かう途中で、中学生ぐらいの二人ずれの女の子に写してもらいました。ランドナー補完計画・画像掲示板に集まるラ族に初めて公開したのがこの写真。

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(UGの兄♭♭♭さんの記事)
 すごい! まるでパターソンブックから抜け出してきたようなおじさまやないですか。99点! あとマッドガード装着で満点です。ラ族もク族もあらへん、岩田はんは今やランドナー補完委員会を代表する人間のひとりですわ。

最近、北道3世号にはマッドガードを装着しちゃったから100点? わっはっは
でもランドナーではありません。

(m-kojimaさんの記事への返信)
> クラブモデルといいわれても、格好は正統英国風クラッシックスタイルですが、
えっ! そうなの? それでUGの兄さんがああいってたんだ。ちゃんとパターソンブック買ってきて勉強せんと・・(¨;)
・・・いや、あれは単にアウトドア系の夏場ウエアなんだけど。そう言えばイギリスのアフリカ探検隊とかアフリカ戦線のイギリス兵ってあんなかっこだね。
私は宗教上の理由から自転車ウエアは一切使わないので・・・・。

しかしみんなして私を「悪の道(ラ)」に引きずりこもうと、そうはいきませんぞ。(笑) 

(OHCHOさんの記事)
おお!賄い岩田さんの素顔をはじめて拝見しました! こんなに渋いお方だったとは! これで鼻の下が伸びていなければ更に渋かったでしょうに・・。

最後の一言、なんか余計でないかい? (`ヘ´) プンプン。

でもたった5年前なんですが、この頃と比べると最近のわしの写っている写真、なんか親爺顔になってるなぁ。いやんなっちゃう。 (;-_-X;)

海野宿 

海野宿に着きました。

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ラン補・画像掲示板 信州小海線ロングポタ: 賄い岩田 2002.09.07 

北国街道は海野宿。でもちょっと出来過ぎ、映画のセットみたい。もちろん観光地化してでもあれだけまとまった景観を保存してくれることはとても有り難いことなので贅沢を言っちゃいけませんが。


こちらの雑貨屋さん風お土産屋さんでお蕎麦を食べました。なんか駄菓子屋みたいな楽しいお店でしたね。だから入ったんですが。

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が、にわかに空はかき曇り、大粒の雨が。しばらく近くの神社で雨宿りをしていたのですが、全然止まない。

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雨宿りの暇つぶしにその神社の由来を読んでいたら、平安時代にこの一帯を治めていた海野氏は木曽義仲に組みして義仲軍の主要な武将だったんだそうです。源平盛衰記にも登場します。

ところがその海野氏は鎌倉幕府の吾妻鏡によく出てくるんですよね。
何でだろうと思ったら、木曽義仲の子義高が鎌倉の頼朝の元に和睦の為の人質として送られたときに、海野幸親の子海野幸氏が一緒に鎌倉へついていってたらしいのです。義仲の死後、その子義高が いいなづけであった頼朝の娘大姫周辺の手引きで鎌倉を逃走したときに、身代わりとなって寝床に入っていた少年が海野幸氏だったんだそうです。 「おおっ、あの少年が!」って見てきた訳ではないですが。

木曽冠者義高は追手により確か武蔵国の入間あたりで殺され、その墓は私の家から数百メートルの常楽寺にあります。その後、海野幸氏は頼朝に仕えて御家人となり、また弓の名手として知られたことから吾妻鏡によく出てきたんですね。
武田信光、小笠原長清、望月重隆らと共に弓馬四天王と称されたそうです。流鏑馬の小笠原流、武田はその、小笠原長清、武田信光からの流れです。望月重隆もやはり信濃でこの近くの在地領主ですから甲斐・信濃の武士だけで弓馬四天王を占めていたんですね。


なるほど、とか思いながら、でも雨は止まない。しかたなしに近くの駅へ。列車の時間を見たら・・・、やっぱ東京とは違うのね。(苦笑)

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雨も小降りになったことだし、と輪行せずに小諸へ向けて走りだしたのですが、後悔しました。距離的にはたいしたことなくても、ず〜っとゆるいながらも登りなんですよね。おまけに雨だし、輪行すりゃ良かったと思いながらやっとこさ宿の中棚荘へ。

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いや、この上の写真は翌朝なんですが。こちらは明治32年に島崎藤村が小諸義塾の国語と英語の教師として赴任したときに住んでいた処だとか。


とったのは旧館(大正館)の一番安い部屋です。それでも二間ありましたが。この雰囲気が私の中棚荘ですね。なんとなく隣の部屋に藤村が居そうな。

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笑っちゃったのはこれです。いや、アマガエルはちゃぶ台の上にいたのをここに連れてきたんですがね。(笑)

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食事は豪勢でした。これが全部ではありません。造りたてが次々と出てきます。

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あんまり旨そうには見えないって? ううっ、この頃のデジカメにしては高感度で使える最新のやつだったのですがねぇ。
何と言っても5年前ですからISO1600にしたら粗いのなんのって・・・。(;-_-X;) 
ストロボ焚くのは他のお客さんの手前はばかられたので。 

こちらの中棚荘にはそれから半年後の3月に、娘の小学校卒業記念旅行にも行きました。

2007.04.24記