銭洗弁天お帰り編.1  六浦道の川喜多邸

さて、山?を下りてからのコース案を先にご紹介致しましょう。現在地点はNo14からNo15に向かって寿福寺の前の横須賀線の踏切を渡ったということで。

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窟堂

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歴史的にはかなり古いです。歴史的に重要なのはこの前の道です。頼朝が鎌倉に入った1180年より前から、今の形ではもちろん無いでしょうがね。文献での初出は頼朝の鎌倉入りから8年後、「吾妻鏡」文治4年(1188)10月10日の条です。

10月10日 壬申 浮雲所々に掩い、雨僅かに灑ぐ。即ち止む
巳の刻、窟堂の聖阿弥陀佛房勝長寿院に詣で礼仏。退出の後、路に於いて頓滅(年八十四歳)す。希有の事なり。則ち当寺の供僧良覺の沙汰として入棺す。亥の刻葬送。 藁を以て火葬すと。凡そこの間人庶多く以て頓死有りと。

この長寿の僧が長く堂守であったとすれば、鎌倉時代以前よりこの窟堂はあったと言うことになります。こうしたお堂、寺、神社は道に面して造られることが多いのです。そしてこの前の道は、源義朝の館であった現寿福寺の前から、現在は小町通りで切れていますが頼朝が鶴岡八幡宮を作る前はちょうど源氏池のあたりを真っ直ぐに延びて朝比奈峠の方へ伸びていたと思われます。六浦(旧読:むつら)道です。鶴岡八幡宮が作られて以降はその正面の赤橋(今の太鼓橋)を起点に化粧坂を通り武蔵国へ向かう武蔵大路の一部です。窟堂小路とも呼ばれることがあります。

川喜多邸

その六浦道で窟堂の隣にあるのが国際的な映画人として知られた故川喜多長政、かしこ夫妻の旧宅です。なんと敷地は裏山も含めて3千坪もあるようです。
川喜多長政氏は戦前・戦後を通じて、ヨーロッパ映画の輸入を行った事業家で、「アスファルト」「自由を我等に」制服の処女」「第三の男」「禁じられた遊び」等数多くの名作を日本に紹介したとか。

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母屋は大正時代に立てられ、建て増しを繰り返し、現在のものは昭和27年ごろとか。
部屋にはたくさんのパネルがあります。川喜多夫妻が活躍していた頃のもので、この家で行われたパーティに訪れたにジャン・ギャバン、アラン・ドロン、原節子に笠智衆、そしてその中に二十歳頃?の八千草薫が混じっていました。おもわず唾をゴックン、いや息をのみました。すごい美人!かわゆい♪ 今でもなかなかなあの方のホントに若い頃ですよ。それはもう。(*^,^*) 残念ながらそれらの写真は撮影禁止でした。

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川喜多邸に移築された哲学者・和辻哲郎の家です。
神奈川県大宮の麓にあった民家を和辻哲郎が練馬区に移築して住み、1960(昭和35)年に亡くなったあとの1962(昭和37)年に、川喜多夫妻がここに移築したんだそうです。川喜多夫妻は海外から来た多くのゲストを迎える場として使っていたとか。 

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こちらの公開は年に1回、春頃じゃなかったかな? たまたま通りかかって2度ほど拝見させて頂きました。次の公開がいつかは鎌倉市役所に問い合わせてみると良いでしょう。公開日にはボランティアの鎌倉風致保存会の方が詰めていらっしゃって、母屋でカンパをするとコーヒーを出してくださいます。なかなか美味しいコーヒーでした。上下の写真は和辻哲郎邸ですけどね。

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川喜多記念館建設等基金へのご協力のお願い なんてのがあるから見てみたら・・・
80席程度の上映施設・・・」、要らないよそんなの! それよりこの露地の雰囲気をちゃんと残して欲しいですね。