西上州道普請.6 楢原の重文・旧黒澤家住宅  07.05.04

切妻造りの旧黒澤家住宅は18世紀中頃から19世紀中頃の建築といわれ、桁行11間半(正面:21.9m)、梁間8間半(側面:16m)の2階建てです。昭和45年に国指定重要文化財になりました。

そのときまで今我々が見る姿で使われていた訳ではなく、昭和54年に村が買い上げ、昭和55年10月から翌年の12月まで1年以上かけて半解体修復工事を行い、間仕切り、建具、造作、屋根を江戸時代の姿に復旧しています。

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高校生の頃から建築史、生活文化史の本や古民家の写真集などで知ってはいましたが、何処にあるのかまでは忘れていました。北関東山間部の農村民家様式と言うだけで、上野村なんて知らなかったですからね。

それからうん十年。初めてここを訪れたのはまったくの偶然でした。いつもより早く終わった2001年の道普請の後に旧道沿いに走っていたら突然目の目の前に。ですからここに来るのは今回で2度目ですね。

黒澤家の歴史

黒澤家は上州(上野国:こうずけのくに)中山領の初代代官伊那備前守忠次が慶長3年(1598)に行った検地で、中山領を上山郷・中山郷・下山郷の三郷に分けた頃から、その最奥の上山郷の大総代を務めた家です。中山領というのは現在の多野郡にほぼ近似でしょうか? すると上山郷が上野村、中山郷が中里村?、下山郷は神泉・鬼石あたりでしょうか? このあたりの地理史にはあまり詳しくないのでわかりませんが。

黒澤家の家系図はどこまで信用してよいのかは判りませんが、良文流平氏の梶原景時の子孫相馬氏(下総相馬氏は良文流平氏でも千葉氏の系統のはずだけど)の流れで、永亨4年(1432)、行田合戦で討ち死にしたと言う黒沢豊後守景朝の孫が武蔵国長尾郷に住んだことから長尾氏を名乗り(相州長尾から発した長尾氏とは違うのね)、更に下って弘冶2年(1556)に長尾左衛門尉重員の子が家を分けて黒澤右馬助重時を名乗り、北条氏に属して上野国信州境に住むところから始まっています。

  • しかしそれから7代目が小田原合戦で討死とはどういうことだい?途中に女子が沢山出てくるし。女子二人の子が景成とか。そんなバカな! 一部は系図の信憑性以前の、ディスプレイ屋の系図の写し間違いでしょう。ちゃんと専門家に見てもらった方がよいのでは? 上野村さん。

当時の状況からすると、小田原北条氏に仕えていた武士でもある小領主(土豪)が北条氏の滅亡後に武士を止めてその地の庄屋(この場合は大総代)になったと。こういう例は沢山あります。庄屋の大半はそうして始まったのでしょう。その後の入れ替わりもあったでしょうが。

3つある玄関

玄関は3つあります。日常は「だいどこ」と呼ばれる土間に通じる「大戸口」、勝手口のような処ですね。そして「村玄関」と呼ばれる村の行事の時の玄関。これは「茶の間」と言う板の間に通じます。そして最後は「式台」と言う天領の代官を迎える玄関の3つです。

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大総代とは、まあ大庄屋と思っていれば良いでしょう。ですから天領の代官の領地見回り時の宿泊場所としても使われることから、代官とその従者を迎える専用の玄関と座敷が用意されています。左側がその代官一行を迎える玄関「式台」です。

「式台」を上がると「おしらす」という8畳の間があります。私は「おしらす」は罪人や被告が引き出される玉砂利の庭のことだと思っていたのですが。そこで天領代官はこの地での裁判を行い、「獄門打ち首!」とか「お構いなし!」とか判決を下していたのでしょうか。実際にはそんな時代劇みたいなことは無かったでしょうがね。

お代官様一行の為の休息の間

その「おしらす」の左隣がこの「休息の間」

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中の間

その隣がこの「中の間」、写真の左側に見える隣の部屋が「休息の間」です。

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上段の間

そしてその「中の間」の右側が「中段の間」、一番奥に「上段の間」です。

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平面図を見ると畳の部屋がたくさん有って、今でいえば豪邸なんですが、でも11室ある畳の部屋の内のほぼ半分の5室(「おしらす」も含めて)が代官一行の為のもの。更に「化粧の間」が客人の為とすると、大総代黒沢家自身はそれほど豪勢な生活を送っていた訳ではないんですね。

村議会場・茶の間

こちらが「茶の間」。えらい広いです、31畳半もの広さ。がそれは家族のためではなく、上山郷(現上野村?)大総代として村の主だった者を集めた会合の場、今でいえば村役場・村議会場を兼ねていたからでしょう。そのための「村玄関」ですね。

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こちらは神棚? まるでお城の模型みたいです。普通の神棚は神社の模型なんですが。さて、その向こう側がこの家の主達の部屋になります。右が「客間」、左に見えるのが「女部屋」です。

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家主家族の部屋・「女部屋」

こちらが「女部屋」。この間取りで見ると女房子供の部屋はこれしか見当たりません。男の子が大っきくなったらどうするんだ? 「客間」かい?

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主人部屋

その隣が「主人部屋」。この「主人部屋」には「茶の間」から直には行けません。「女部屋」か「客間」を通っていきます。主人部屋はプライベートルームでありながらその実、村長の執務室みたいなものでもあるのでしょう。ここでいろんな書類に目を通したり、また書類・代官への報告書を作ったりとか。

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化粧部屋

ここは何でしょう? この間取りでわざわざ奥さんがお化粧をするための部屋を作るとは思えません。鎌倉の「化粧坂」でも書きましたが「化粧」には言葉として生き残っているのは「けしょう」ですが、その他に「けわい」と言う読み方があり、それで意味が違ってきます。「けしょう」はそのまんまお化粧ですが、「けわい」は身だしなみを整えると言う意味です。女性とは関係ありません。

「化粧坂」はここからが都だと身だしなみを整え、こちらの「化粧部屋」はお代官やらお役人様やら、あるいは家長にとっての重要な客人が旅装束を解くための部屋と言うことになります。

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前回来たときにはまだそこまで「歴史」にのめり込んでいなくて、つまり「けわい」なんて知らなくて、いろいろと考えてしまいました。こんな風にね。

一番化粧が必要なのは新妻、つまりここは嫡男若夫婦の部屋ではないかしらん。他の部屋から孤立しているから心おきなく出来るし、って何が。(笑) 

しかし冗談はともかく嫡男若夫婦が同じ屋根の下に暮らすとなるとここしか考えられなかったんだけどなぁ。だって核家族住宅じゃなくて下手すりゃ3世帯住宅ですぜい。残るのは納戸かい? 納戸は物置だろう。

「茶の間」を逆にみると

「女部屋」から「茶の間」を見たところ。真ん中には囲炉裏が、これが主人家族の居間であり食堂ですね。村人や黒沢一族が集まるとき以外は。そしてその向こうに、1段下がった板の間にもう少し大きな囲炉裏があり、その左に今は畳の敷かれている10畳の「ひろしき」と言う部屋があります。そちらが使用人が寝泊まりする部屋。大きな囲炉裏は使用人の食事の場だったようです。

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階段手前の左側の部屋は「客間」で、階段の裏の、「客間」と「ひろしき」の間に「納戸(なんど)」があります。

階段を上がるとそこは作業場

二階は全体に広い板の間、養蚕のために使用されたもので生活に使用された部屋は作られていません。現在は上野村の民俗資料館のようになっています。

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上野村は山間部で田圃になるような土地はほとんど無く、地味の悪い畑が多かったので養蚕、紙漉き、炭焼きなどの山稼ぎによって生活を維持していたそうです。和紙には延紙と蚕紙があり、延紙は障子紙と書写に使われるものです。
蚕紙というのはよく解りません。ちょっと検索してみましょう。ここに「蚕卵紙(さんらんし)または 蚕紙(さんし):カイコガに卵を産ませるための紙。春の季語。」とあります。これだけでも結構「産業」になったらしいですね。

その他、下駄、木鉢を信州や下仁田に売りに出していたそうです。その信州への道が十石峠街道であり、また水の戸から分岐して栂峠だったんでしょうね。

黒沢家の屋根

翌日の5月5日は実は私の誕生日。朝6時頃に目を覚ましてしまって6時20分ぐらいかなぁ、朝食前に屋根の写真を撮りに行きました。木の板で葺かれた屋根で国宝だの重文だのになっているのは私の記憶の中では確かひとつしか無かったと思います。

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木の板は栗の木だそうで、それが飛ばないようにか、その上に川の石が重石として並べられています。

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早朝の楢原の旧道

神流川の北岸を旧道が通りこの道沿いに古くからの集落があります。バスは今でもこの道を通っています。バス停はあるにはあるのですが自由乗降で村人は思い思いの場所で手をあげてバスに乗り、そして降ります。人家が密集しているわけでも交通量が多い訳でもないので合理的ですね。

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何でそれを知っているかというと1998年に初めて道普請に参加しようとしたとき、予定日の前日に余地峠、大上峠、十石峠を越えて上野村の民宿に入ったのですが、翌日台風が接近と。それで道普請は中止、仲間は誰もやってきません。焦りましたね、民宿の人に村営バスの運転手に頼みこんでもらってバスでJR新町だったかまで輪行させてもらってかろうじて帰ってきたんです。何時間バスに乗っていたんだろうか?


今考えると荷物を宅急便で送り返して自転車で走ってもあまり時間は変わらなかったかもしれませんが。でもその間にバスの運転手さんといろいろ話をしたり、地元の人の生活の一面を知ることができて面白かったですね。沿道の民家のおばあちゃんがバスを止めて、乗るのかと思ったら運転手さんに「これ持っていきなよ(ニコッ)」とか。

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古い民家

古い民家はなにも黒沢家だけではありません。いや、こちらも黒沢さんなのかもしれませんが。

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このあたりは黒沢さんだらけなんです。まあそういうのはここだけではありません。私だってご先祖様の田舎に行けば岩田だらけで、屋号とか名前を言わないとわかりませんからね。

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でもこういう古い民家もあと5年、10年でどんどん無くなっていくんでしょうね。
海瀬の集落では現に1件無くなっていましたし。