鎌倉オフ Vol.5  別願寺の宝塔と上行寺   2016.07.18  

別願寺

おおくにのデザートの後は、まず別願寺へ。一見普通のお宅の玄関の様に見えるんですが、屋根を見て下さい。ちゃんとお寺の建物で、時宗(じしゅう、当時は時衆)のお寺です。大弐局様、時宗(ときむね)が建てたお寺ではありませんよ(笑)。だって時宗(ときむね)は一遍を追い返しているじゃん。でも確かにややこしい。
『鎌倉の寺小辞典』には「弘安五年(1287)、公忍上人(後に覚阿)が真言宗能成寺を時宗に帰依し、別願寺とした。鎌倉における時宗の中心となった別願寺は、室町時代には足利一族が深く信仰し、鎌倉公方代々の菩提寺として栄えた。天正19年(1591)には徳川家康からも寺領を寄進され寺勢を誇ったが、江戸時代から次第に衰微した」とあります。

鎌倉公方が居た頃には村の単位での寄進を受けていましたが、ただ徳川家康時代の天正19年(1591)ぬは2貫560文、東慶寺や英勝寺の何十分の一。1貫は4石、2貫560文は約10石、そんなに裕福ではない農家1軒の田畑ぐらい。そこからの年貢ですから家康の頃には「寺勢を誇った」とまでは言えないと思いますが。

別願寺の供養塔と上行寺_01.jpg

なぜここへ来たかというと、もちろん石塔です。でもこれではありません。 

別願寺の供養塔と上行寺_02.jpg

別願寺の宝塔

こちらです。不思議でしょ。こんな形は見たことがありません。 

別願寺の供養塔と上行寺_03.jpg

こんな鳥居も見たことありません。あくまで「私は」ですが。

別願寺の供養塔と上行寺_04.jpg

私が見たことないだけで、あるんだそうです。
「鳥居の真ん中の柱に見えるものは扉かもしれない」と赤星直忠先生も書いていました。
何で鳥居に扉が? と疑問に思っていたのです。でもたまたま『門のはなし』という本を読んでいたら、鳥居も出ていて、その中に三輪鳥居、三ツ鳥居、三光鳥居というものが。三輪鳥居で画像検索すると扉のあるもの無いもの、ぞろぞろと出てくるではないですか。
鳥居フェチな悪の秘密組織さん、知ってたの? 云ってくんなきゃ〜。(;^_^A アセアセ

それがこんな風に普通のお墓の中に立ってるんです。なんでしょう、これは。

別願寺の供養塔と上行寺_05.jpg

鎌倉の観光ポータルサイトには

・足利持氏の供養塔
境内には、室町幕府に対して「永享の乱」を起こした足利持氏(四代鎌倉公方)のものとされる供養塔(宝塔)がある。高さは3mを超す高さ。
・供養塔に鳥居
この供養塔には、持氏の怒りを鎮めるため、四方に鳥居の浮彫りが施されている。

とありますが、先ほどの『鎌倉の寺小辞典』には「足利持氏の供養塔といわれる」と書きながら「鎌倉時代後期の作ともいわれる」と記しています。歯切れが悪いですねぇ。

こうなったら『鎌倉市史・寺社編』を見てみましょう。ふむふむ、『鎌倉の寺小辞典』のこのお寺の由来は『寺社編』の要約ですね。でも『寺社編』にこの宝塔の記載はありません。石塔のことなので『考古編』を見ると、こちらには詳しく書いてあります。どうも『新編相模国風土記稿』が足利持氏の墓で法名と没年月日があると書いているらしいですが、そんなものはありません。

『風土記稿』は江戸時代後期の伝承や状態を詳しく書いているので、参考にはなりますが、風化して文字が見えないと書かれた石碑の文字がちゃんと読めたことがあるので、私は細かい点での信頼度いまいちだと思います。資料を集めたり、観察した人間と、それをまとめた人間が別人、かつ専門家ではないので、細かい錯綜があるんでしょう。

『鎌倉市史・考古編』の著者は赤星直忠先生です。赤星先生は「各部にあらわれた手法は鎌倉後期の石造建造物であることを示し、伝えるがごとき室町期のものでは決してありえない」と断言されています。

赤星先生は「鎌倉城」とか「やぐら」が掘られた時期とか、確実な物証の無いところでは空想が先走るきらいはありますが、考古学者ですから物証のある領域では信頼性は高いと思います。

問題は『鎌倉市史』編纂はもう半世紀も前ということですね。その後の研究で一番大きいのは律宗石工集団の研究の進展が第一でしょうが、それと赤星説は矛盾しません。

山川 均 『石造物が語る中世職能集団』 山川出版社 (2006/08) もさらっと見てみましたが記載はなさそうです。ただ山川さんの本は宋人石工とその末裔、簡単に言うと律宗石工集団の足跡が対象なのですが、関東に限定すれば、鎌倉滅亡とほぼ軌を一にして足跡が消えるんだそうです。
「大蔵派が姿を消したのちも、鎌倉周辺では「関東形式」と呼ばれ る宝陸印塔が造られ続ける。基本的には心阿が創出した意匠に依拠したそれらは、細にみれば、大蔵派宝箆印塔の繊細な造形や、寸分違わぬ切石技術には遠くお よばない」と。
私には見分けはつきませんが、赤星先生がそれを見間違えるとは思えません。

知り合いの石塔に詳しい人に聞いてみました。川勝政太郎 『新装版 日本石造美術辞典』(東京堂出版、1998年)でも、別願寺の宝塔は鎌倉後期のものとなっているそうです。

2012年に出版された狭川真一・松井一明編 『中世石塔の考古学―五輪塔・宝篋印塔の形式・編年と分布』(高志書院) では1320年頃となっています。赤星説は半世紀前ですが、その後半世紀の間その説を覆す研究はない。『鎌倉の寺小辞典』の歯切れの悪さはこれで解消されました。もう「足利持氏の供養塔」説など入り込む余地などないでしょう。

追記

実は5日から三日間、鎌倉一揆(要するにこの参加者)のメンバーの中で議論と検証が進んでいたのでありました。

赤星直忠先生の「鳥居の真ん中の柱に見えるものは扉かもしれない」という説。鳥居でも三輪鳥居には確かに扉がある。しかしそれはそんなに一般的なものではないだろうという疑問。実は私もその点は引っかかっていた。
最初に思いついたのは鳥居は門であるということ。我々の意識には鳥居は単独で立っているもの。しかし平安時代末の『年中行事絵巻』を確認したら4つのシーンで脇に柵のあるものも。例えばこのような鳥居なら扉があっても不思議じゃないですね。

もっとも石造の宝塔などこれしか見たことが無いので、他はどうなのと「石造 宝塔」で検索してみたら、あるわあるわ。それらの画像を見ていて気がついたことがひとつ。
鳥居のように見えるのも見えないのもある。共通して云えることは、扉であること。
単独で立つ鳥居と見るから混乱するのではないかと思いはじめました。石塔の宝塔は建築の宝塔を模している。建築の宝塔には必ず扉がある。そこからじゃないですかね。
そう思ってもういちどそれらの画像を見ると、鳥居だと貫(ぬき)に当たる部分が、扉の上の内法長押(うちのりなげし)に見えるものが沢山ある。例えば豊後大野市県指定有形文化財《建造物》の石造宝塔 (蓮城寺永仁宝塔:下画像)もそうですね。

改めて建築の宝塔の画像を見ると、例えば武蔵慈光寺の宝塔、これでしょう、扉でしょう、とスッキリ納得です。つまり鳥居である前に扉なんです。
「三輪鳥居説」は却下! 私が言い出したんですが。(;^_^A アセアセ
先の鎌倉観光ポータルサイトの記述、こんなところで無責任に梅原猛の「隠された十字架」論なんか再燃させないで欲しいですね。

後から思うと、結論に一番近い処にいたのは竹御所かも。

別願寺の宝塔の写真を確認してみると、たしかに両脇の柱に対して貫は突き抜けているように彫られていますが真ん中は違うんですね。全然気付きませんでした。

そう云われたときに気づかなかった私の不覚。フキフキ "A^^;

上行寺

私は神社仏閣では礼儀として二礼二拍手一礼とか、合掌一礼とかするようにしているんですが、いつもここだけはしません。だって本堂で合掌しようとすると、目の前は七福神なんですから。
このこの「瘡守稲荷」「厄除」「鬼子母神」の堂にもほとんど関心は無いんですが、他のメンバーには人気ですね。

別願寺の供養塔と上行寺_06.jpg

みんなが動かないので近寄ってみると、ありゃ。軒下に鳥居が! 何度も来ているのにいままで気がつかなかった。なんなのこれ? と云ったら大弐局が「瘡守稲荷も祭ってるからでしょう」と。
なるほど。

別願寺の供養塔と上行寺_07.jpg

いや〜、私的にはノーコメントです。
ただまあ、庶民の願いが詰まっているお堂ということは云えるでしょう。 

別願寺の供養塔と上行寺_08.jpg

左甚五郎の龍」だけ見せて安養院に行こうと思ったら、みんなゾロゾロと奥へ。

実は桜田門外の変で大老・井伊直弼を襲撃した水戸浪士の一人広木松之助がここまで逃れてきて、すぐにじゃないですがここで切腹し、その墓があるんです。私は全く興味ないんですが。

別願寺の供養塔と上行寺_09.jpg

 2016.08.08 追記