2018/4/21 建築史学会・京都大会


下級寝殿造の中門廊と武士邸の南門


--絵画史料と北条得宗邸・鎌倉御所の文献史料から--





発表者:岩田 尚一


発表と云うより普段抱いている疑問を紹介し、諸先生方のご意見を伺いたいというのが本音。

(本スライドは配付資料末尾のアドレスで最低今月中は・・・。)


→お話しすることは・・・


LAST









 お話しすることは3点


 (詳細目次)                      NEXT↓












 1. 中門廊について。                     1:20

『年中行事絵巻』 別本巻三・「安楽花」 (ほとんどの場合画像のクリックで次ぎに。変わらなければNEXTで。)

『年中行事絵巻』のこの老朽化した屋敷を見て思うことは3点。











3点とは・・・


1. 絵巻はトポロジー             (例えば棟の位置)

2. パースは関心度のパースペクティブ (場合によっては一点逆透視まで)

3. 絵巻の建物は舞台で云えば大道具 (大道具にも二種類あるが)


絵師の腕の見せ処は、右から左へ読み進む絵巻の

限られたスペースでどう効果的に情景を伝えるか



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伝えたい情景の中心はこの部分。

安楽花の踊りにそれを楽しむ貴族一家、門の外から覗く庶民。
舞台でも役者の居る処の大道具は三次元だが・・・         NEXT↓











↓それ以外は背景。舞台で云うならベニヤの絵

絵巻は今なら映画。この寝殿は桁行3間に描かれているが・・・、
観客をテンポ良く次のシーンに導くためのフェードアウトだろう。

樹木も絵巻の場面の切り替わりに使われることが。その意味ではこの絵は実に巧妙。三間しか描かれていないことに気づかない。

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絵の通りに平面図を起こすと

こんなことになってしまう。

こんな寝殿は聞いたことがない。


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奥に縦蔀らしきものが・・・。

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 このような侍廊の前の縦蔀だろう。

『松崎天神縁起』の裕福な受領の屋敷の侍廊。

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  それらを含めて、屋敷の元の姿はこのように復元出来る。         3:30

しかし、中門廊が無い。 朽ち果てたのではなさそう。        NEXT↓


実はこの絵にもトポロジーが。
これを立面図にすると屋根の勾配は当時の屋根よりも急勾配になるだろう。多分。








藤原定家の家にも最初は中門廊が無かった。

藤田盟児先生の 「主殿の成立過程とその意義」 『中世的空間と儀礼』 (2006)より模写

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    しかし絵巻には地方の多数の屋敷に中門廊が描かれる。      3:50

    


                NEXT↓












『法然上人絵伝』  法然の生家。(美作国の押領使・漆間時国の屋敷)

この絵は明らかに「都鄙」の「鄙」であることを強調している。

  この屋敷はシーン毎に間取りが変わる。    NEXT↓










『一遍聖絵』  信濃国の地頭の屋敷。(佐久の大井太郎)


この地頭の敷は漆喰白壁に横連子窓はあるものの、梁行四間なので、寝殿から突き出した中門廊なのかどうかは判らないが。
なにしろ絵巻はトポロジーなので、棟の位置は信用出来ない。ただし白壁に横連子窓は出入り口面を表す記号だろう。

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これらの中門廊は絵画的な記号ではないのか。


「田舎の名士」の「田舎」を農家のような屋根で表し、

      「名士」を中門廊で表現したと?


少なくとも中門廊は必ず有る訳ではなさそう



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2. 武士の屋敷の中門廊と南門               4:50

『西行物語絵巻』の屋敷には中門廊南門が描かれていると。

平井聖、『日本住宅の歴史』。及び「絵巻に描かれた寝殿造の中門」『学苑』No.845(201/3)。
正確には「鎌倉時代に入った頃の中下層の公家や武士の住宅では」と書かれていて武士に限ってはいないのだが。


絵巻を100%信用するとこの屋敷の平面図は・・・

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・・・このようになる。

横が四間に縦が五間、すると母屋は縦になって右側は南ということに。

しかし絵巻の桁行は信用出来ない。 

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これは侍廊東門ではないのか。

我々は必死に建物を読み取ろうとするが、絵師は物語を描いている。

建物はただの大道具。しかし 記号はちゃんと踏まえる

だから説明を省いても当時の人には情景が伝わる。          NEXT↓










 問題はこの部分。妻戸に加え漆喰の白壁に・・・

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・・・横連子窓がある。

これは寝殿の正面ではなくて側面(妻)なのでは?


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この絵で伝えたいことは・・・ ↓↓この右側のシーン。  

↑左は大道具でもベニヤの背景


舞台でもベニヤに描いた背景は場の雰囲気さえ伝われば良い。

物語をテンポ良く進めるため先の『年中行事絵巻』同様に
背景部分の横幅を圧縮しているとしたら、
絵師の思い描いた西行の屋敷は・・・                NEXT↓













・・・このようにも描ける。

横に一間増やすと母屋は横、門は南門ではなく東門になる。

そもそも南門が正門なら中門廊にはならないのでは?    NEXT↓













  同じ武士の男衾三郎の屋敷では                        6:40

門の正面に妻戸、そして漆喰の壁と横連子窓が。しかし、

西行の屋敷で中門廊と云われたものはここでは侍廊。

中門廊はこの左の面で、更に左に中門廊の先端が。   NEXT↓











「西行物語絵巻」も中門廊が無かっただけで、
 同じ角度から描いているのでは?       NEXT↓










3. 『吾妻鏡』での「南門」                    7:30 

宗尊親王が執権北条時頼の屋敷に「南門」から入ったと。

入御相州御亭・・御輿入南門寄寝殿。 建長4年(1252)4月1日条

8年後、その親王に嫁す近衛宰子は同じ屋敷の「西門」を出ている。

先寄御輿於東御亭・・・次自同西門〈平門〉出御。 正元2年(1260)3月21日条

両者の身分から両方とも晴門以外考えられない。(正しくは礼門だろうが云いにくいので)

建長4年7月に「当時御所〈相州御亭〉壊南面平門」に困惑はするのだが・・・

親王入御の「南門」とは

「小町大路に開いた 南北二つの門の南側

の意味なのではないか。と言うのは・・・NEXT↓










この屋敷は和田合戦の頃から西と北に門がある。
小町大路からみると南と北

広さは東三条殿より幅が狭い(推定30丈)小町大路面は約2町
屋敷の南面には京の小路レベルの道を想定出来ない。   NEXT↓










この先が腹切やぐら。


心証の範囲だが、ここに正門(晴門)を開くとは思えない。     NEXT↓










 若宮大路の御所への移徙は全て「南門」と。               9:20

@.嘉禄元年(1225)12月20日条(略儀/将軍・藤原頼経)  所謂・宇津宮辻子御所

南門令入御給 於南庭中央令下御給 経御車寄戸并二棟廊 入御寝殿階間


A.嘉禎2年(1236)8月4日条(略儀/将軍・藤原頼経)         ・若宮大路御所

入御自新御所南門・・・昇西廊 経二棟御所南縁 入御于寝殿南面中之間


B.建長4年(1252)11月11日条 (正式な作法/将軍・宗尊親王) ・若宮大路御所

南門外税(おろす)御駕 ・・・亦候反閉(へんばい) 自階間下御 


     その@とAについて・・・NEXT↓












@. 自南門令入御給 於南庭中央令下御給 経御車寄戸二棟廊 入御寝殿階間

A. 入御自新御所南門・・・昇西廊二棟御所南縁 入御于寝殿南面中之間

の部分を比較すると・・・、

  • 共に「南門」より入御。
  • @の「車寄戸」は中門廊の晴門向きの妻戸、
      Aの「西廊」も中門廊のことで同じ。
  • @の「二棟廊」とAの「二棟御所」は同じ。 
  • @の「寝殿階間」はAの「寝殿南面中之間」のこと。


建物の配置も動線も同じに見える。

ただしこれは略儀。正式な移徙の作法は・・・NEXT↓












正式な移徙の作法はBの建長4年(1252)11月11日条 


 到南門外税(おろす)御駕 為親朝臣参会此所 亦候反閉(へんばい)階間下御 


寝殿中央の階間の前まで乗物で行き、階より上がる。


中門廊が出てこないので動線が判らない。

しかし5年後の康元2年2月2日条で「寄御車於寝殿南面。・・・御出自西唐門」と
同様の作法で「西門」 を出ているので、この「南門」も「西南の門」だろう。

公式行事で寝殿の南階を出入り口にするのは寝殿正面に門があった頃のなごり?
移徙以外でも厳格な作法に則っているのは親王だから?

なお建長4年(1252)4月1日条の「入御相州御亭・・御輿入南門寄寝殿」も正式な移徙の作法。


略儀2件の・・・NEXT↓













略儀2件の「南門」を寝殿「西南の門」と読めば至極普通の動線になる。

「自南門令入御給 於南庭中央令下御給 経御車寄戸 二棟廊 入御寝殿階間


しかし「南門」を御所の「南面の門」とすると、動線は妙なものに・・・

NEXT↓










「自南門令入御給 於南庭中央令下御給 経御車寄戸 二棟廊 入御寝殿階間」は

南庭で馬を下り一旦中門を出てUターンして車寄戸から入ったと?

ゴールが目の前というのに、
そのまま階から上がれば正規の作法というのに、
何で迂回を?                         NEXT↓










それとも車寄戸は寝殿側に付いていた?
中門廊がメビウスの輪のようにねじれていたと? 


 横連子窓は寝殿向き? そんなバカな!

NEXT↓










  『建治三年記』12月2日条                           11:00

御所での北条貞時の元服の記事の動線は
京の寝殿造りの配置を前提とするとピッタリと収まり・・・。

    NEXT↓









その中に
西御門」の
記載もある。







あれを「南北行」と読めと・・・。
しかし古代・中世には
異体字以外にも
今の感覚とは違う言葉の世界が。

   NEXT↓













『吾妻鏡』の時宗の元服記事と合わせて図を作成し

元服を終えた貞時の動線を直線赤の矢印で示した。

中門以南 南北行 車宿前 東西行 西御門以南 南北行」


「中門」「西御門」「車宿」「西侍」が「東西南北」。

西御門の位置は寝殿造での標準的な晴門の位置

切妻戸は隣かもしれないなど細部は確実では無いが。                             NEXT↓












 移徙@の御所                                  13:30

ところで移徙@の御所を「宇津宮辻子御所」
     移徙Aの御所を若宮大路御所」と区別して呼ぶことが多い。

時代区分の呼称としてなら良いが・・・

宇津宮辻子御所と若宮大路御所の敷地は別物とする説があり、そこでは「宇津宮辻子御所は若宮大路に接してなかった」と。

しかし先の移徙の動線からはそうは見えない。

南門」は「宇津宮辻子御所」が若宮大路に接していなかった証拠にはならない。
移徙Aの若宮大路御所」でも晴門は全て「南門」と呼ばれ、
逆に
宇津宮辻子御所」に「西門」が。大路・小路に開かなければ晴門(礼門)では無い。

・・・NEXT↓











南門」は「西南の門」と思える理由

移徙の動線に加えて更に2点。

(1)摂家将軍の時代に晴門は通常「南門」と書かれるが、

例外1回が「西門」と記されたのは方位(大将軍)の話題だから。

大将軍問題以外で「西門」とよばれるケースが無いということは若宮大路に面した西の晴門は常に「南門」と呼ばれていたと言うことでは?


(2)親王将軍の時代には「南門」は減り3回、「西門」は増えて同数になるが、
  建長5年の御行始は「南門」、半月後の鶴岡八幡参拝は「西門」。

同時期に晴門が南を含めて二つなどあり得るだろうか?

『吾妻鏡』には摂家・親王将軍時代に南門12ヶ条西門4ヶ条用例不明の1件以外は全て晴門と
判断出来る。

・・・NEXT↓










 京の事例                                      16:00

『吾妻鏡』の「南門」が「南面の門」ではなく、「西南の門」だとすれば、
東西の晴門を「南門」と呼ぶ例が京にもあるはず。
と探してみると・・・

万里小路面南端の門」、
東面北門」、
仙洞南門京極面前奉留御輿」などが・・・

万里小路も京極大路も南北の路。院御所の南面に接することは無い。

用例は確かにある。



ということで・・・NEXT↓














以上のまとめ                           17:30

1. 中門廊が必ず有るのはかなり上級の屋敷のみ?
   少なくとも必ず有る訳ではなさそう。

地方の屋敷では、その地では権威あるものということを現す絵画的な記号では?

2. 『西行物語絵巻』のあのシーンにあるのは中門廊南門ではなく、
  侍廊東門では?

『西行物語絵巻』 と 『男衾三郎絵詞』は描いた方角は同じだろう。

3. 『吾妻鏡』は西の大路の南の晴門を南門と呼んでいるのでは?
  移徙@以降、将軍御所は一貫して若宮大路に接していたのではないか。

南面平門」とか「南面棟門」とかの記載もあるが、南面に門が有ったとしても晴門ではないだろう。


残りの時間は「質疑応答」と云うより突込みタイムに。

勘違い・検証すべき点などを沢山指摘して頂けると出てきた甲斐が。もちろん後からメールでも。 

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詳細目次

中門廊について (1:20)

『年中行事絵巻』の中流貴族の屋敷  ・・屋敷の元の姿(3:30)  ・・藤原定家の家

地方の下層寝殿造に中門廊が (3:50)

武士の屋敷の中門廊と南門 (4:50)

『西行物語絵巻』  ・・このような平面図  ・・絵師の思い描いた屋敷

『男衾三郎絵詞』 (6:40)

『吾妻鏡』での「南門」 (7:30)

北条時頼の屋敷 (7:30)             「南門」とは小町大路に開いた南北二つの門の南側という意味ではないか。

若宮大路御所への移徙 (9:20)        移徙は全て「南門」と。

『建治三年記』  (11:00)             西御門の位置は寝殿造での標準的な晴門の位置。

移徙@の御所 (13:30)             『吾妻鏡』の「南門」は南面の門ではない。

『吾妻鏡』の若宮大路御所関連記事(16:00)  『吾妻鏡』は大路沿い西南の晴門を「南門」と呼んでいる。

以上のまとめ (17:30)