賄い家の民芸・工芸  武内晴二郎さんのジャム壺

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これは灰皿と言うか、皿じゃないから灰壺?
30年ぐらい前の倉敷のお茶屋さんとかには必ずこれがあったような気がします。原型はイギリスの田舎のジャム壺、おそらく大きさはもっと大きかったんだろうと思いますが。
でも倉敷のあちこちのお店にあったものよりも、他のどのお店に出ていたものよりも
私のこれが形も焼きも一番良い! 
と思っています。えらい自信たっぷりに言うじゃねぇかって?
当然でしょ。これは武内晴二郎窯で展覧会用にのけてあった秀作の中から一番気に入ったものなんですから。武内晴二郎さん「えっ、あっちの部屋からも取りました? あっちは展示会用のものなんですけど」 「そうなんですか〜」と言いながら返そうともしなかったら、晴二郎さんも諦めてそれ以上は言いませんでした。
晴二郎先生御免なさい。以来30年愛用してますので許してください。m(_ _)m


もうひとつは実に発色の良い呉須の湯飲みがあって、でもそれは良く焼け過ぎたの上薬が高台の下までたれてその部分をグラインダーで削った不良品。それを選んだのを見た武内晴二郎さんが、「いや、それは釉薬がたれてしまっていて・・」 「いえこれはわたし用ですから、とても綺麗なんで」 と。
晴二郎さんは「変なやつ!」とでも思われたでしょうね。でもそのおかげか、窯のこと、焼きのこと、土のこと、色々と教えて下さいました。当時は小生意気なド素人で(今でもド素人だけど)おまけに登り窯至上主義者で、武内さんの処には小ぶりな登り窯(薪窯?)もあったのにガス窯で焼いていると聞いて、今思うと冷や汗もんですが「登り窯の方が味わいのあるものが焼けるんじゃないですかね」なんて言ってしまったんです。いや、緊張して何を話したらいいか解らなくて、でもなにか話さなければと。フキフキ "A^^;
しかし武内晴二郎さんは怒らずに「登り窯は温度調整がとても難しい、ガス窯でもきちんと計算して時間もかければ登り窯で旨くいった時と同じ状態でコンスタントに焼ける」と言うようなことを教えてくださいました。


武内晴二郎さんは倉敷美術館の初代館長だった方の息子さんで、それで柳宗悦やバーナードリーチ、河井寛次郎、浜田庄司らと親交があったんだと思います。ご自分で窯を持つ前はそう言う技術指導をなさっていたように記憶します。
武内さんは第二次大戦で左腕を失うという非運に見舞われ、轆轤はろくに引けないはずですからこのジャム壺型灰皿も、焼きの良かった割れた湯飲みも轆轤を引いたのはお弟子さんでしょう。晴二郎さんはアートディレクター? このイギリスのジャム壺型灰皿の側面の模様はやはイギリスのウイリアム・モリスを彷彿とさせますが、型を押したんでしょうか、それとも削った? 削ってたらあんな値段(忘れたけど)では出せませんから「型」だと思うんですが今思えばそれを聞いておけばよかったと。


そのときの湯飲みがそのあと私の愛用だったのですが、ある時二階からそれをお盆にのせて降りるとき、妹が帰ってきたときまるで棚かなんかのように持っていた荷物をその階段の下の段に置いていて、お盆を持っていた私はそれが見えずに足を滑らせて階下に転倒、痛いことよりもなによりも、その自分で唯一仕入れた愛用の湯飲みが割れたことに茫然自失。
「許さん!○○の店の右側の○段目にこういう形の呉須の煎茶茶碗があるからそれで弁償しろ!」と東京の調布からわざわざ鎌倉まで妹に買いにいかせたのが石飛勝久さんのこの煎茶茶碗です。


数ヶ月後だったか翌年だったか、鹿児島の帰りにちょっと自慢の蓋付きの竹篭に薩摩の薩摩揚げを入れてお土産を持って伺ったことがあります。突然おじゃましたんですが、奥様だったかに晴二郎さんの仕事場に案内されて、お仕事が一段落するまで見させて頂きました。
そのあと居間にあげて頂いて、「練り上げってああ言う風に作るんですか、初めて見ました」と申し上げたら、「私も初めて人に見られました」と。苦笑されていました。「あいつはど素人だからまあいいか」とお仕事場に入れて貰えたのかもしれません。
そのときに「小鹿田の唐臼を見てきたんですけどあれは見ていて飽きないですね。ああして土を打つと土の粒子が丸くなるんですかね?」なんてしょうもないことを話していたら、
「いや、逆ですよ。ああやって打っていると土がトゲトゲになるんですよ。」
「へっ?」 
「土の粒子がトゲトゲになるからそれが絡み合ってへたらないいい土が出来るんですよ。」

なんて教えてもらいました。と言う訳で たった二度しかお会いしませんでしたが武内晴二郎さんは本職の陶芸家で焼き物のとこを教えて頂いた唯一の方、いわば私の先生ですね。

他にもいるだろうって? いや他の方は畏まってお話を伺うと言うより一緒に酒を飲んでた記憶しか残ってなくて。(;^_^A アセアセ…