大内義隆記 2017.06.15-6.22 |
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『群書類従』 第21輯 「大内義隆記」原文はカタカナですが面倒なのでひらがなで打ちます。なお口語訳でなく意訳で書きます。 p.411上段最後の文字から 「都督在世の間より石見の国の太田の郡には銀山の出来つ、」 「都督」は官職の唐名(注1)で日本の官制では「大宰帥」のことです。ただし大宰帥は親王がなる名誉職で大内氏がなることはあり得ません。しかし平安時代の昔から大宰府の実質的なトップは太宰大弐(大宰府の次官)でこの役職の者が実際の命令を出します。大内氏でその官職についたのは大内義隆だけです(注2)。従ってここは、大内義隆のことと見て良いでしょう。そこからおおよその時代も特定出来ます。石見は石見国。現在の島根県西部です。島根県は西が石見国、東が出雲国です。石見銀山は非常に有名。 (注1):唐名とは日本の官職をカッコ良く中国の官職名で呼ぶことがあります。「中納言」=「黄門」とか。
海外では非常に貴重であった銀が取れたという話が諸外国にも伝わり、中国やインド、朝鮮などからその銀を分けてもらおうと沢山船がやってきた。
これはちょっと難しい。そちらの東西交涉史の先生の方がお詳しいでしょう。 最初は暦かと思いました。「十二時を司るに夜昼の長短をちがえず」は暦に日の出、日の入りまで書いてある天文学的な暦だろうと。「十二時」とは中国の時刻の区分で、今なら24時間のことだと。響鐘の声と 十三の琴の糸ひかざるに五調子十に調子を吟ずると」はそれとは別に「琴」もあったのかと。 しかし上記の文がひとつのものを指しているとすると、これは時計ではないかと思います。そこで時計の歴史をWikipediaで調べたら、ガリレオ・ガリレイはまだですが、その前に初期のヨーロッパの機械式時計とかオスマンの機械時計なるものがある。天竺=インドですが、この時代にインドから来る船とは東インド会社のような(東インド会社が出来るのはもう少し後ですが)のヨーロッパ人のものでしょう。インド文化で考えるよりヨーロッパ文化で考える必要がある。 ヨーロッパの国策武装商社なら世界各国のハイテク商品や、貴重商品を世界規模で右から左へと流通させるのが仕事です。そんなものを見たこともない国に持って行って、その国には豊富で、ヨーロッパでは貴重なものに交換する。それで莫大な利益を上げた。アフリカに持って行って物々交換に使ったのは首飾りに使えるガラスの玉です。日本の骨董界では「アフリカのトンボ玉」として一部に有名。現に私が持っているものは18世紀にオランダで作られたものです。アフリカでそれを何と交換したのかは知りませんが、インド近辺なら胡椒と布の染め物。中国なら景徳鎮などの青磁白磁、日本なら銀です。後には伊万里の絵付の白磁も主力商品になりましたが、この時代にはヨーロッパが欲しがった白磁は日本にはありません。漆器も輸出しだすのはもう少し後だと思います。 実際に大内義隆は有名なイエスズ会の宣教師、フランシスコザビエルと会っています。フランシスコザビエルは銀目当ての船に乗ってきた訳ではなくて、九州の平戸経由ですが、そのときの献上品に置時計がある。それらを重ねあわせると、上記の一文はその置き時計を指しているのではないかと。その頃の日本に「時計」と云う言葉はありません。それが置時計ならこの表現は実にしっくりきます。 意訳はこういうことに。 「インドから来た人の贈り物のその中には、時刻(十二時)を正確に測り(夜昼の長短をちがえず、司り)、一時間毎に鐘が響き、琴に糸など引いていないのに様々な音色のメロディー(五調子十二調子)を奏でる。」
次ぎの「程遠けれども くもりなき鏡」は「遠くがはっきりと見える鏡」、つまり望遠鏡( telescopic)かと思いました。そう解釈した人は私以外にも沢山いるようですが。 ところが中国の大学院の依頼主Cさんは近眼用の眼鏡ではないかと。う〜ん。 「老眼のあざやかにみゆる鏡のかげなれば」の中の「かげなれば」どんな意味かとも聞かれたんですが、解りません。
意訳は「このような、不思議な宝物を沢山(5種類も)贈られたということである。」
意訳は「中国人の献上品は数多くあった」。 「天竺」の人からの贈り物はどんなものか細かく書いてあるのに唐土、高麗、つまり中国・朝鮮からの贈り物については具体的に書いていません。大内氏は千年も昔に朝鮮から渡ってきた王族の末裔であるとの伝承を作り、中国・朝鮮との貿易をほぼ独占しています。中国・朝鮮のものは大量に日本に輸入されているので「如常」だったのでしょう。「天竺」の人からの贈り物も一番ビックリした置き時計や眼鏡しか書かなかったように。
「1539年8月に唐船が帰国するときには、唐人の方式で酒宴をはじめました。」
「しんす(寝す)とふす(臥す)と慈眼院」はその当時の流行言葉なのでしょうが判りません。今で云えば流行歌のフレーズみたいなものでしょうがその歌を知らなければなんとも。慈眼院は高野山にある子院ですが、その慈眼院が本当に関係するとは思えません。 「三日三晩続いた中国人のための中国式の宴会の間は、もてなす日本人まで含めて全て中国語で、日中貿易の担当者でない普通の大内家の家臣たちはびっくりした」 ぐらいのところでしょうか。中国・朝鮮と貿易をして大もうけをしているので、接待に当たった貿易担当者は中国語が話せて、中国式の宴会も知っていたのでしょう。多少誤訳はあると思いますが、おおよそはこんなところかと。 その後は全く違う話です。東西交渉史には関係無いかと。以上です。 |
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