4.吾妻鏡の原資料

  1. AZM_s03.jpg吾妻鏡は公式記録か・明治の研究
  2. 吾妻鏡は公式記録か・八代国治以降
  3. 吾妻鏡の構成
  4. 吾妻鏡の原資料 
    原史料の類型  
    合戦記・合戦注文
     ( 奥州合戦記和田合戦記承久合戦記
    公事奉行人
      ( 藤原俊兼藤原邦通、 大江広元三善康信
    問注所
    ベースとなる筆録
    −− 頼朝将軍記 
    −− 頼家・実朝将軍記 二階堂行光
    −−藤原頼経・頼嗣将軍記 中原師員  
    −−宗尊親王将軍記 二階堂行方 中原師連
  5. 吾妻鏡の曲筆
  6. 吾妻鏡の編纂時期と編纂者
  7. 『吾妻鏡』編纂の背景
  8. 歴史資料としての価値
  9. 吾妻鏡の諸本  
  10. 流布している俗説 
  11. 吾妻鏡の周辺・嘉元の乱
  12. 和田合戦に見る吾妻鏡と明月記

吾妻鏡の原資料

ここでは吾妻鏡の原資料が何であったかを簡単に整理してみる。

原史料の類型

五味文彦氏は『吾妻鏡』の原史料としていくつかの類型が浮かび上がるとする。それは以下の3つである。

  1. 『吾妻鏡』が依拠した原史料つまり文筆の家(文官)の日記とかに載っていた文章。
    但し主たる日記とそれを補足する従たる日記と、複数利用されたことも考えられる。先の仁治元年十月小十日条と小十九日条はまさにそのようなものであろう。
  2. 地頭・御家人、寺社などから多くは訴訟の証拠、由緒として提出された文章や、求めに応じて提供された文章(家伝に近いもの)
    また、頼朝に感心されたとか褒められたかの顕彰記事が、下河辺行平、その他千葉氏、三浦氏の佐原義連など沢山出てくる。その子孫が家に伝わる文書を資料として提出した可能性が高い。頼朝の下文にも含めて下河辺政義・下河辺行平が絡むものが多数あり、『尊卑分脈』には下河辺行平の実子とある斎藤時員の元服が『吾妻鏡』1193年 (建久4)10月10日条に見える。これも異例なことである。この斎藤時員(野本時員)の子孫からその家伝・由来が『吾妻鏡』の編纂者の下に提出された可能性もあるだろう。 (五味文彦 増補 p308-309) 千葉氏、三浦氏の佐原義連などにもそうしたことが十分に考えられる。
  3. 幕府に特別な形で保管されてていた文章、例えば寿永3年3月9日条に見える2月18日宣旨など、幕府の重要な権利関係の書類と、それらに対応する幕府の書類、文治2年正月9日条に見える北条時政が京に派遣されて朝廷との折衝や、寺院権門との交渉、調整を行っていたときの文章などである (しかしそう多くはない)

おそらくは、(1)をベースとして、それを(2)や(3)で補強する形で編集していったと、とりあえず置いてみることが出来る。つまり切り貼りなのだが、そう想定して検証していくことで、『吾妻鏡』の成り立ち、そしてそれがどこまで信用出来て、どういう部分が信用できないかを洗い出す事が出来る。

その上に『明月記』や『十訓抄』などからの記述の「盗作」が加わるが、ただしそれは主に鎌倉の外に関係する部分であり、分量としては多くはなく、あくまで補助資料として使われているにすぎない。

そうすると(1)のベースとなる筆録が誰のものであったのかが一番重要なポイントとなるが、その推定はかなり困難な作業となる。そこに入る前に、将軍記の全体ではないが、部分的に比較的明らかなものからまず見てゆき、そのあとで(1)のベースとなる筆録の推定について追ってみることにする。

合戦記・合戦注文

八代国治はこう書いている。

木曽義仲征伐の記、四国、壇浦、奥州征伐の合戦記等は、玉葉、山槐記、源平盛衰記等の記事とは異なり、一種特別にして、精細名文なり、これらも亦(また)政所にありし合戦記、及び其の時の勲功次第注文等によりしものなるべし。(p78)

まず文中最初の「合戦記」は、単純に合戦に関する記事を指すが、後半の「政所にありし合戦記」について説明しなければならない。こちらの「合戦記」はどのような状況で味方の誰が敵の誰とどのように戦い、戦功を挙げたかという武士の勤務評定のようなものととりあえず思えば大きくは外れない。そこに名が上がることは単に名誉の問題ではなく、もっと現実的に恩賞を得るために必要なのである。

戦国時代まで一貫して、武士は忠義の為に命をかけているのではない。恩賞を得る為に戦っているのである。南北朝の前半ぐらいまでは合戦1日毎に自分はどれだけ戦って何処と何処に疵を受けたと軍忠を申告し(鎌倉幕府滅亡から南北朝時代に関してはこの軍忠状がかなり重要な原史料となっている)、軍奉行側は申告された疵の箇所、数、深さまでを確認する。それをきちんとやらないと、誰も戦わない。そしてその「合戦記(合戦注文とも)」が大将に報告され、それを元に恩賞が与えられる。

その合戦記の筆者として大将は手書き(右筆)を連れている。木曽義仲には大夫房覚明という右筆が居た。八代国治のいう「木曽義仲征伐の記、四国、壇浦」は源義経の合戦だが、源義経の右筆には1185年(文治元)4月11日条から中原信泰という右筆が知られる。『平家物語』も、『吾妻鏡』も、木曽義仲、源義経それぞれの合戦についてはかなり詳しいが、それは共にそうした元右筆の手元に残った合戦記の下書きが書き写され、流布していたのではないかと五味文彦氏は推測する。例えば源義経について妙に賞賛しているところがあるかと思えば、反対の部分もあり記述態度が一貫していないことなどは、元史料の相違からによるものだろう。

また、鎌倉に送られたそれら「合戦記(合戦注文)」を大江広元が所持しており、それが散逸したものを北条泰時が集めさせて、大江広元の二子・長井左衛門大夫時広に送っている。

吾妻鏡 1232年 (貞永元)12月5日 
庚辰故入道前の大膳大夫廣元朝臣存生の時、幕府の巨細を執行するの間、壽永・元暦以来京都より到来する重書並びに聞書、人々の款状、洛中及び南都・北嶺以下、武家より沙汰し来たる事の記録、文治以後の領家・地頭所務條々の式目、平氏合戦の時東士勲功の次第・注文等の文書、公要に随い右筆の輩方に賦り渡し、所処に散在す。武州この事を聞き、季氏・浄圓・圓全等をしてこれを尋ね聚めしめ、目録を整え、左衛門大夫に送らると。

 

奥州合戦記

信頼度は比較的高いとされる奥州合戦は、頼朝にとっての御家人体制の総仕上げともいえるものであり、鎌倉時代の御家人にとっても非常に感心の高い「ハレの場」である。 奥州合戦の軍奉行(いくさぶぎょう:論功行償の資料として合戦記として記録をまとめる作業を統括する)は二階堂行政と思われる(五味文彦p136)。

義経の合戦に従軍し、合戦記をまとめたと思われる右筆は朝廷での官職(小内記)も剥奪されて追放されたが、奥州合戦の軍奉行二階堂行政は、その後も幕府の組織の中において重要な位置を占めている。彼が記した、あるいは集めた書類は、一部は四散したにしてもかなりのものがその家に伝えられたと推測される。

二階堂行政の『吾妻鏡』での初見は1184年(元暦1)8月24日条であり、公文所新造の奉行として登場。同年10月6日の新造公文所の吉書初め(代変わり、新年の最初の行政文書、業務開始の意味)には大江広元の元で寄人(よりうど)として列席している。公文所は後に政所 となり、二階堂行政は政所令から別当となる。

軍奉行や、右筆らによる記録・報告の他にも、合戦に従軍した御家人達の言い伝え、家の伝承は相当数に登ると見られ、そうした資料の豊富さが反映したものと見られる。

和田合戦記

その奥州合戦と並んで実にリアルなのが和田合戦と三浦合戦(宝治の乱)の記述である。勿論ここでは合戦に至る背景については軽々しく信じる訳にはいかない。ここでの問題は合戦そのものの経緯の記述である。

五味文彦氏は和田合戦記の記述を評して「『吾妻鏡』の無機質な記事のなかでは最も精彩にあふれ、それ自体文学作品と言っても過言ではない」と言う。まさにその通りである。それだけでなく、この1213年 (建暦3)5月の記事は、2日から7日までの6日間だけで、前後の月の数倍はある。ところでこの合戦記を記したのは誰か。1213年 (建暦3)5月4日条に「山城判官行村奉行たり。行親・忠家これを相副う」とある。

山城判官行村とは政所別当二階堂行政の子、二階堂行村である。行村は文筆の家ながら京で検非違使となったことから山城判官と呼ばれ、鎌倉では侍所の検断奉行(検事兼裁判官)として活躍しており、和田合戦では北条方の軍奉行とみて間違いない。そしてこの二階堂行村、その兄行光の子孫は代々政所の執事として活躍していることから、二階堂行村の記録が『吾妻鏡』編纂に使われたのだろう。

承久合戦記

1221年 (承久3)5月19日条に始まる承久の乱もまた『吾妻鏡』の中では詳細な記述として知られるが、このときの軍奉行は後藤基綱である。基綱は承久の乱で後鳥羽院側に付いた後藤基清の子であるが、基綱は幕府方についている。

父の後藤基清は藤原秀郷流の嫡流とも言える佐藤義清(西行)の兄弟、佐藤仲清の子で、後藤実基の養子となる。その後藤実基は藤原秀郷の流れを汲む北面の武士・藤原実遠の子とされるが詳細は不明。後藤実基は平治の乱では源氏方に属して活躍し、乱後源義朝の娘(後:一条能保妻)を京都で育てたとされる。養子の後藤基清は養父と共に源頼朝の挙兵に応じ、屋島の戦いなどで戦功をあげるが、頼朝の推挙によらない自由任官で兵衛尉となり、怒った頼朝が「眼は鼠眼にて、ただ候ふべきのところ、任官稀有なり」吐き捨てたと『吾妻鏡』1185年(元暦2)4月15日条はある。本質的に京武者と言える。

後藤基綱は確かに藤原秀郷流の流れをくむ京武者の子ではあるが、その活躍は武士としてよりも、文官に近い実務官僚であったように見える。歌人としても有名で、新勅撰和歌集には10首選ばれており、十訓抄の著者説もある。

承久の乱の後、1225年(嘉禄1)に設置された評定衆を経て、検非違使となったあと、恩賞奉行や地奉行となっている。その後藤基綱が記した記録は、かなりの量が『吾妻鏡』に利用されていると思われる。四代将軍藤原頼経の側近でもあった為か、1246年(寛元4)6月7日、宮騒動によって評定衆を解かれ藤原頼経とともに京に同行する。その6年後に引付衆として返り咲くが既に72歳の高齢に達しており、後藤家の名誉回復に近いものであったのかもしれない。その子基政は引付衆から六波羅評定衆となり、以降後藤氏は六波羅評定衆を世襲する。

公事奉行人

『吾妻鏡』の原史料については五味文彦氏が詳細に分析しているが、その前に八代国治以前から注目されていた公事奉行人達について見ていくことにする。頼朝の時代の初期の文官は右筆と、公事奉行人である。その公事奉行人が後に公文所(政所)や問注所となる。初期においては公事奉行人が公文所や問注所の別当や執事を兼ねたぐらいのニュアンスで考えておいた方が良い。

先に原勝郎の項で江戸時代初期の林羅山が『東鑑考』に「廣元邦通俊兼之筆記亦當混雜而在歟(廣元、邦通、俊兼の記、叉交じりてこの内にあるべし)」と書いていることを紹介したが、以下の部分を指していると思われる。現代語訳はこちらに。

吾妻鏡 1184年 (元暦1)11月21日条
今朝武衛御要有り、筑後権の守俊兼を召す。俊兼御前に参進す。而るに本より花美を事と為す者なり。只今殊に行粧を刷い、小袖十余領を着す。その袖妻色々を重ぬ。武衛これを覧て、俊兼の刀を召す。即ちこれを進す。自ら彼の刀を取り、俊兼が小袖妻を切らしめ給う後、仰せられて曰く、汝才翰に富むなり。盍ぞ倹約を存ぜんや。常胤・實平が如きは、清濁を分らざるの武士なり。所領と謂うは、また俊兼に双ぶべからず。而るに各々衣服已下麁品を用い、美麗を好まず。故にその家富有の聞こえ有り。数輩の郎従を扶持せしめ、勲功を励まんと欲す。汝産財の所費を知らず、太だ過分なりと。俊兼述べ申すに所無く、面を垂れ敬屈す。武衛向後花美を停止すべきや否やの由仰せらる。俊兼停止すべきの旨を申す。廣元・邦通折節傍らに候す。皆魂を鎖すと。

これを書いていたのは藤原俊兼とは思えない。するとその場に居た大江広元か藤原邦通だろうか。廣元と邦通の関係からは廣元であるような気がする。名のみを記すのは大概は本人か目下のもの、そして書いている順番からだが。

文治元年(1185)12月6日条にも「広元、善心、俊兼、邦通等沙汰此間事云々」とあり、おそらくは前述と同様の理由で大江広元の可能性が強い。

藤原邦通

藤原邦通は頼朝の1180年の旗挙げの初戦、山木判官を襲撃する直前に、酒宴にかこつけて山木兼隆の館に留まり、周囲の地形を絵図にして持ち帰り、それを基に源頼朝達が作戦を練ったというあのときの藤判官代邦通である。結構多彩で、有職故実に通じ、文筆にも長じ、絵や占いその他百般の才能があったという。頼朝時代の初期において右筆、公事奉行人、供奉人などを務め、1184年(元暦元)10月6日条には新造の公文所の吉書初め(始業式のようなもの)で吉書(最初の行政文書)を書く。このときの初代公文所別当は当時中原性であった大江広元である。

藤原俊兼

『吾妻鏡』での初出は1184年(元暦元)4月23日条、で下河辺政義が俊兼を通じて訴え出、頼朝の命により、俊兼が常陸国目代に御書を代書している。藤原邦通と重なりつつも、それと入れ替わるように良く登場し、逆に邦通は以降は右筆としても陰が薄くなる。 同10月20日条では頼朝御亭東面の廂を問注所とし、三善康信を筆頭に藤原俊兼、平盛時が諸人訴論対決の事を沙汰することになったとある。

しかし最も有名な逸話は同年11月21日条だろう。源頼朝に呼び出された俊兼は元々華美な者だったがそのときは特に派手でで、小袖十余領を着、その袖の妻は重色になっていた。頼朝は俊兼の小袖の妻を切り、千葉常胤や土肥実平の質素さを引き合いに出しながら「お前は才能に富んだ者なのに倹約ということを知らない」「今後は華美を止めよ」説教する。その場に居合わせた大江広元や藤原邦通も肝を冷やしたとある。

1186年(文治2)3月6日条では義経の行方について静の尋問を行ったことでも有名で、同年8月15日条は、あの有名な西行の登場シーン、流鏑馬の始まりであり、西行の語る流鏑馬の奥義を頼朝は俊兼に書き取らせている。八代国治はこの条を藤原俊兼の記録とする。

同じ京の文官である大江広元、三善康信、二階堂行政ららと比べれば行政実務のトップクラスということではなかったが、奉行人、右筆として常に頼朝の側に居た様子が覗える。

大江広元

大江広元の記録が利用されているとはっきりとしているものは以下の建保2年5月7日条である。

吾妻鏡 1209年 (承元3)10月15日条
明王院僧正御所に参らる。将軍家御面談有り。園城寺興隆の事、豫州刺史禅室以後源家代々の間、当寺に帰せしめ給う事、具に旨趣を述ぶ。前の大膳大夫廣庇に候ぜしむ。 仰せに依って僧正の申さるる事等を註す。これ本寺の貴徳なり。

吾妻鏡 1214年(建保2)5月7日条
園城寺回禄の間、唐院並びに堂舎・僧坊を修造せらるべきの由その沙汰有り。駿河の前司惟義朝臣・豊前の守尚友等を以て惣奉行と為す。宇都宮入道蓮生(山王社並びに拝殿)、佐々木左衛門の尉廣綱(四足門)、源三左衛門の尉親長(鐘楼)、内藤左衛門の尉盛家(預坊)已下、十八人の雑掌を定めらるる所なり。

当寺は、源家数代崇重の寺なり。所謂豫州刺史禅室(頼義朝臣)、一男快誉阿闍梨を以て智證大師の門徒に加え、三男刑部の丞義光を以て新羅明神の氏人と為して以降、鎮守府将軍(義家朝臣)殊に当寺の丹祈を恃む。而るに最愛の御息女盲し給う。錦織僧正行観これを加持し奉り、忽ち以て復本す。将軍感悦の余り、三度僧正を拝し、吾が子孫永く和尚の門徒に帰すべしと。幕下将軍は、両箇の庄園を以て一寺の依怙と為す。また鎌倉中に数宇の伽藍を建立し、公顕・公胤の両僧正を以て供養導師と為す。剰え御鬢髪を青龍院に納めらる。これ等の芳躅に依って今儀に及ぶか。

1200年(正治2)5月に掃部頭から大膳大夫に転任し、1203年(建仁3)に辞しており、このときの前大膳大夫が広元である。廣庇(ひろ・ひさし)は居た場所であって廣元の誤記ではない(私は一瞬間違えてしまったが)。1214年(建保2)5月7日条の後半、「当寺」以下が1209年 (承元3)10月15日 に「仰せに依って僧正の申さるる事等を註す」という大江広元の記録からの引用であろうとされる。これもまた「追記」の証拠だろう。

中原親能(藤原親能とも、1143−1208年)

明法博士中原広季の子。大江(中原)広元の兄にあたる。大友系図には実父を参議藤原光能とし外祖父廣季に育てられ、中原姓を継いだが後に本姓に復したとしているが、親能は後に中原性から藤原性に改性していることの反映と思われる。また『吾妻鏡』には藤原親能として出てくる方が多い。頼朝に従い武家方の貴重な能吏として信任を得、元歴元年には公文所の設置に際してその寄人となる。その後、明法博士、美濃権守、式部大夫、 掃部頭、 穀倉院別当、正五位下。頼朝の元では1186年(文治2)に京都守護、1191年(建久2)政所公事奉行、1193〜95年(建久4〜6)には鎮西奉行などを務める。

在京することも多く、1183年(寿永2)に義経の軍勢と共に西上して伊勢に入り、翌1184年(元暦元)正月入京したが、このとき京の公家は義経の名を知らず、面識があり頼朝代官として朝廷との連絡に当たった中原親能が大将と誤解したとの話しもある。

九条兼実の摂政就任、平家追討などで頼朝の意を受け、公家の間を奔走する。1199年(正治元)に頼朝が死んだ後に、政子は北条時政(ときまさ)ら13人の合議制を敷くが、親能はその一人に選ばれている。1208年(承元2)12月18日66歳で京都において没。立場としてはその記録も『吾妻鏡』に用いられていても不思議は無いが、その証拠はない。

メモ『平安・鎌倉人名辞典』  中原親能(藤原親能)。ネット上では大分歴史事典こちらや、斎院次官中原親能 にかなり詳しい。

三善康信

母が源頼朝の乳母の妹であったと伝えられ、頼朝の旗挙げ以前から、京の情勢を知らせていたとされる。『吾妻鏡』の中で京下りの官人として初めて登場するのが1180年(治承4)6月19日条での三善康信であり、それ以前の『吾妻鏡』の記事は以仁王の記事である。五味文彦氏はその記事は京の官人の日記のような、他とはやや異なった形式であるという(五味p95)。このあたりは当時まだ京に居た三善康信の日記が利用された可能性が高いとする。

また1182年(寿永元)2月8日条には、頼朝の伊勢神宮への願文を三善康信が書いたとあり、その全文が載っている。三善康信が京より鎌倉へ下ったのは、1184年(元暦元)4月14日なのだが。ただし、三善康信が『吾妻鏡』に登場する回数はさほど多くはない。後で述べる盗作顕彰記事は多いが。

問注所

合戦記以外で鎌倉に直接関係する、あるいは鎌倉での記事については、八代国治は問注所の記録から取ったと思われるものろ挙げている。八代国治が紹介するのはもちろん漢文の原文だが、ここでは読み下し文でひとつ紹介する。

吾妻鏡 1254年(建長6)5月1日条
人質の事沙汰有り。その法を定められ、今日施行せらると。所謂御制以前質券を入れ流すと雖も、御制以後訴訟を経るに至らば、早く一倍の弁を致すべし。人質の事は沙汰に及ぶべからず。凡そ御制以後質人の事は、一向停止すべきの由と。此の如く申し沙汰すべきの旨、相州より問注所に仰せらると。勧湛・實綱・寂阿奉行たり。

このときの法令は『鎌倉幕府法』(御成敗式目・新編追加) にある。

一、人質の事、人倫売買の御制以前、訴訟を致し問状を給うに於いては、證文に任せ 質人を流すべきなり。次いで御制已前、これを入れ流すと雖も、御制以後、訴訟を経るに至らば、早く一倍の弁を致し、人質の事沙汰に及ぶべからず。凡そ御制已後、人質の事は、一向停止に従うべきなり。この趣を以て奉行せしめ給うべきの旨、仰せ下され候なり。仍って執達件の如し。
 建長六年五月一日 勘甚判 實綱判 寂阿判
 大田民部大夫殿

大田民部大夫とあるのは三善康連で、このとき問注所の執事である。その他1243年(寛元元)4月20日条、1254年(建長6)4月29日条その他問注所の記録と見られるものが少なからずあるという。このうちひとつを紹介しておこう。これも大田民部大夫、つまり三善康連の関係である。

吾妻鏡 1254年(建長6)4月29日条
評定。西国庄公の地頭等所務の事その沙汰有り。これ本地頭の所務は、往昔の由緒に依るべし。故に先規の例を追い、新儀の非法を止めしむべきなり。新地頭は率法に定めらるるの上は、その外全く濫吹を停止すべきなりてえり。この趣を存じ下知を加うべきの由、即ち五方引付に相触れらると。また唐船の事沙汰有り。その員数を定めらる。即ち今日これを施行せらる。
 唐船は、五艘の外これを置くべからず。速やかに破却せしむべし。
 建長六年四月二十九日 勧湛 實綱 寂阿
 筑前の前司殿
 大田民部大夫殿

すると三善康連の記録も? とも思うが五味文彦氏の方では三善康連の筆録はメインとはされてはいない。

ベースとなる筆録

以上、部分的に比較的明らかなもの、古くから指摘されてきた部分をまず見てきたが、ここでは残る推定はかなり困難な部分、(1)の「ベースとなる筆録」の推定について見ていくことにする。

八代国治の研究は明治末期から大正時代にかけてのものであり、戦後も優れた研究が色々となされているらしい。例えば平田俊春氏と増田宗氏の『六代勝事記』との関係をめぐる論争。佐藤進一氏、野口武司氏の研究などが有名らしいが、ここでは20世紀の研究を総括していると見られる五味文彦氏の研究に沿って話しを進める。

五味文彦氏は、その原史料を探る手がかりとして氏名の表記に目を付けた。「氏(うじ)」や「性(かばね)」や「名字」と「実名(氏名の名:ファーストネーム)」は、平安時代から鎌倉時代にかけて全く性格の異なる受け取り方をしている。「実名」を呼ぶのはその者を支配しているに近い意味合いが当時はあった。

五味文彦氏はそれを『吾妻鏡』と同時代の武家(この場合は武士というより、鎌倉幕府の御家人、公家=朝廷に対して、武家=鎌倉幕府という意味で用いられる)の日記から確認する。単純にいうと、例えば「廣元・邦通折節傍らに候す」とあれば、それを記したのはその中で目上のものか、あるいはその2名より目上の者だろうと。その検証過程は決して単純ではないのだが、結論を急ぐと、ベースとなる記録は次のようになる。

頼朝将軍記

−−政所奉行人:二階堂行政(前述:奥州合戦軍奉行

この時期の記事にはいくつかの御家人の家の文書、や家伝書のようなものが利用されたと思われる記事が多い。千葉氏についてはあとで触れるが、その他でもっとも顕著なものが下河辺行平であり、頼朝に感心されたとか褒められたという記事が沢山出てくる。また、頼朝の下文についても下河辺政義・行平が絡むものが多数あり、その子孫が家に伝わる文書を資料として提出した可能性が高い。

頼家・実朝将軍記

政所奉行人:二階堂行光

二階堂行政の子で二階堂行村の兄、二階堂氏で初めて政所執事となる。 1218年 (建保6)に源実朝が右大臣となって、『吾妻鏡』には12月20日条にそのための政所始めが記されており、「右京兆並びに当所執事信濃の守行光及び家司文章博士仲章朝臣・・・」と、北条義時(右京兆は右京権大夫の唐名で、このときは北条義時のこと)の次席で、政所の実務官僚のトップとなったことが解る。

この時代は源実朝の時代であるが、実権はその母の北条政子にあり、ちょうど朝廷における天皇と院政の関係にも似ている。二階堂行光はその尼将軍政子の側近として様々な場面に登場するが、その中でも重要なものが、源実朝が公暁に暗殺された後の『吾妻鏡』1219年(承久元)2月13日条に「寅の刻、信濃の前司行光上洛す。これ六條宮・冷泉宮両所の間、関東将軍として下向せしめ御うべきの由、禅定二位家申せしめ給うの使節なり。」とあり、政子の使者として朝廷に赴き、その交渉を行っていることである。慈円の『愚管抄』にもそのときの行光のことが記されている。

このときの交渉は、後鳥羽上皇の子を鎌倉将軍に迎えたいというものであったが、既に北条氏打倒を考えていた後鳥羽上皇に拒絶される。しかしこの時期の鎌倉政権の行政事務、及び朝廷との外交関係実務はこの二階堂行光を中心に動いていたともみられ、『吾妻鏡』のこの時期の記録の多くはこの二階堂行光の筆録、あるいは所持した資料によっていると見られている。
行光の後の政所執事は行光の甥の伊賀光宗となったが、光宗が1224年の伊賀氏の変で流罪となったあと、行光の子の二階堂行盛が就任し、以降この家系がほぼ政所執事を世襲する。

サブ

三善康信(前述

二階堂行村(前述:和田合戦軍奉行 ) 

藤原頼経・頼嗣将軍記

恩賞奉行(恩沢奉行):中原師員

大江広元(中原広元)を出した明経道中原氏の庶流貞親流で、師員の父師茂は中原親能(藤原親能)、広元(大江広元)兄弟の従兄弟にあたる。その縁で北条泰時の時代に鎌倉に下向し、初代評定衆の一員に加わったものとみられる。1231年春の除目で大外記補任、その直後の同年5月に摂津守に任官している。

1236年 (嘉禎2)12月26日条に「去る十八日の除目の聞書到着す。武州(北条泰時)左京権大夫を兼ね給う。師員主計の頭に任ず」とある。連署執権北条時房死後には政所下文に北条泰時の次ぎに署判を加えている。中原師員は将軍頼経の側近でもあったが、その立場は、京と鎌倉、評定衆の評定と政所、恩賞奉行としては執権と将軍の結節点となっており、執権対将軍という中では中立的な立場がそもそもの役割だったのだろう。そのため宮騒動においても、藤原定員のように連座することも、後藤基綱のように警戒されることもなく、政権中枢であり続けた。

恩賞奉行(恩沢奉行):後藤基綱(前述:承久合戦軍奉行
サブ・藤原定員

将軍頼経の側近で、おそらくは京より共に下った者か(未調査)。既に子に将軍職を譲り「大殿」となっていた頼経を担いだ名越光時らの陰謀に加担し定員は召し籠められ、頼経は鎌倉追放となる。このとき後藤基綱も共に上京する。

サブ・平盛綱

有名なのは1231年 (寛喜3)9月27日条の「盛綱諫め申して云く、重職を帯し給う御身なり。縦え国敵たりと雖も、先ず御使を以て左右を聞こし食し、御計有るべき事か」と北条泰時を諫めたという下りである。実名のみで表記されている。盛綱は1234年(文暦元)以降は得宗家被官・御内人(みうちびと)の筆頭。

宗尊親王将軍記

御所奉行(1263年(弘長3)7月5日まで):二階堂行方

御所中雑事奉行、和泉前司、評定衆・二階堂行村の子 、1249年(建長元)の引付設置とともに引付衆、1252年(建長4)宗尊親王を迎えるために京へ上る、1253年(建長5)、4番引付頭人(とうにん)、1259年(9月)評定衆、1263年(弘長3)7月5日に御所中雑事奉行を中原師連に交替。同年10月8日に出家

御所奉行(上記以降) 中原師連(なかはら もろつら:生没 1220-1283年)

中原師員の子、外記を経て縫殿頭。5代将軍となった藤原頼嗣、宗尊親王、惟康親王の3代に仕え、1263年(弘長3)7月5日に二階堂行方の後を継いで宗尊親王の御所奉行、同年11月22日には御息所の奉行も引き継ぐ。1264年(文永元)評定衆となった。

鎌倉時代末期には摂津氏と呼ばれて幕府中枢の事務官僚を世襲する。その家系は「将軍側近の家」との性格をもっていたが、師連の子の親致の代から中原性を藤原性に改性し、また「将軍側近の家」のまま得宗家にも接近しその近臣ともなっている。

『太平記』巻10 「高時並一門以下於東勝寺自害事」で、北条高時の面前で腹を切った摂津刑部太夫入道々準は師連の直系の孫にあたる。

サブ:矢野倫長

三善康信の4代目の子孫で引付衆から評定衆・得宗家寄合。官職は外記(げき:儒学・文筆の家の下級官職、書記官)を経て対馬守

番外:北条実時

ところで、これはどこから伝わったものだろうか。

『吾妻鏡』 1260年 (文応元) 7月6日条
・・(前略)・・・・
去年八月の放生会御社参供奉人の間仰せ下さるる両條 
一、阿曽沼の小次郎随兵役子息を以て勤仕せしめ申す事 右所労の由廻文に押紙するの間、子細を言上するの処、光泰・實俊を以て度々子細 を御尋ね有り、勤仕せしむべきの由仰せ下されをはんぬ。更に自由の計に非ず候。 
一、大須賀新左衛門の尉、同五郎左衛門の尉等の間の事右大須賀新左衛門の尉に於いては、随兵の御点を下さるるかの間催促し候の処、所労の由廻文に押紙するの間、その旨を注し申し候の処、すでに所労たるの間、御免をはんぬ。次いで五郎左衛門の尉に於いては、本より直垂の御点を下され候の間勤仕しをはんぬ。この両人の事、同じく私計に非ず候。以前の両條此の如きの由覚悟候。但し胸臆の申状、御信用に足らざり候わんか。然れども此の如き事先々御書下に及ばず候の間、或いは愚記を引き勘じ、或いは御点注文に任せ、子細を言上す。
この趣を以て披露せしめ給うべく候。恐惶慎言。
 七月六日  平の時宗 越後の守實時 
 進上 和泉の前司(二階堂行方)殿

1260年 (文応元) 7月6日条に、宗尊親王が二階堂行方を介して、小侍所の北条実時と北条時宗に対して、前年随兵を命じた者の内、大須賀朝氏と河曽沼光綱が勝手に弟や子息を代役として「各々自由不参(両名は勝手にさぼった)」が、誰が許したのか詰問した。それに対して、実時と時宗は、口頭で人を介してでは正確に伝わらないからと文書にして両名連署し、それを工藤光泰を介して北条時頼に見てもらう。

しかし時頼に「状に載せるの條、頗る以て厳重に似たるか」(つまり文書での回答では角がたつだろう)と怒られて、結局口頭で説明したというのであるが、そのときに時頼にボツにされた「連署請文」が『吾妻鏡』の7月6日条に載っているのである。川添昭二氏は『日蓮とその時代』 (山喜房佛書林 1999年)でこう書く。

この連署請文はかなり激しい筆致で抗議をしており、時頼の厳命で没になり文書として作用しなかったが、それをわざわざ『吾妻鏡』に入れた同書編纂者の意図はどこにあったのだろうか。連署請文は、直接には実時・時宗の処置が「私の計らい」でないこと、つまり処置に手落ちはないことを強調したものである。・・・『吾妻鏡』がわざわざこのような文書を収載しているのは、連署請文の抗議を是としていたからであろう。そのことは、時宗による宗尊親王追放を正当化する意識が『吾妻鏡』の編纂に作用していたことを示していると見られる。連署請文は将軍の専制的な供奉人催促に対するあらわな抗議である。時宗が宗尊親王を追放する要因は、将軍を侍衛することを本とした小侍所時代に醸成されていったのである。

たしかにそうだと思うが、もうひとつ、ここではこのボツになった返答書をどうして『吾妻鏡』の編纂者が転載することが出来たのだろうか、その方も気になる。二階堂行方か、工藤光泰か、それとも北条時頼? ここは北条実時の筆録がその孫の北条貞顕によって、あるいはそこから編纂者の下に提供されて編集されたと考えた方が自然だろう。五味文彦氏はそこまでは書いていないが、北条貞顕の関与も確実だと私は思う。

 

2008.3.20〜5.23