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5.吾妻鏡の曲筆 |
吾妻鏡の曲筆「編集方法と記事の特徴」で触れた編集者の意図しないミス、用いた史料からの誤謬を除いて、ここでは意図的な曲筆と顕彰について述べる。言うまでもなく、それが『吾妻鏡』を歴史資料として利用する上で、もっとも注意しなければならない点だからである。その点を見誤ると鎌倉史そのものを見誤ることになる。かく言う私自身、北条泰時の人物像には殆ど警戒心を持たずにいた経緯があるのでなおさらそれを強く感じる。 源頼家 (北条時政の弁護)2代将軍・源頼家はしょうもない馬鹿息子で、頼朝は世継ぎの育て方に失敗した、源氏が滅んだのはそのためだ・・・、と多くの人が思っているのは『吾妻鏡』からの印象である。しかしそれの実態は、藤原基経によって退位させられた陽成天皇の病弱退位説や暴君説。と似たようなものだろう。官製の歴史とはもともとそうしたものであり、決して『吾妻鏡』に限った問題ではないのだが。 『吾妻鏡』にはこうある。しかしこれは嘘である。
京の朝廷には、9月1日に頼家が病死したという鎌倉からの使者が1203年(建仁3)9月7日早朝に到着し、実朝を征夷大将軍に任命するよう要請していることが近衛家実の『猪隅関白記』(「続御暦」とも)、藤原定家の『明月記』、白川伯王家・業資王の『業資王記』などによって知られている。頼家が存命しているにもかかわらずである。 比企能員の変は9月2日であり、鎌倉からの日数を考えると、9月1日か2日には鎌倉を出発していなければならないが、9月1日であれば、使者が発った時点で頼家や能員の殺害が決定していたことになる(石井進 『日本の歴史 7 鎌倉幕府』 p292)。2日に鎌倉を出発としても、比企能員の館で戦闘があったのは『吾妻鏡』によれば申の刻,、つまり16時前後である。そのあとに朝廷への使者が決まったのなら、その出発は翌朝の3日だろう。 それよりもなによりも、頼家が殺されたのはそれから1年近く後のことである。八代国治は『吾妻鏡』の1204年(元久1)7月19日条にサラリと書かれる源頼家の修善寺での死は、『愚管抄』にはこうあると紹介する。
「頸(首)ニヲ、ツケ、フクリ(陰嚢)ヲ取ナトシテ」の意味がわからなかったが、大山喬平(小学館『日本の歴史』 9 鎌倉幕府 1974年)によると首に紐をつけ、陰嚢をつかんで刺し殺したということらしい。『承久記』、『松論(梅松論)』では北条時政の沙汰とし、『武家年代記』、『増鑑』では北条義時の指示とする。 そして八代国治は源頼家の末期、事件の直前の1203年(建仁3)7月20日から8月27日条を挙げながら、特に8月7日条に「将軍家御不例太だ辛苦すと」とあるにも係わらず、その実・・・と下記のように書く。
源頼家については色々なところで書かれており『吾妻鏡』の曲筆は定説なのでこれ以上は省略するが、「自筆の般若心経」の「文字生気に満ち」までは知らなかった。流石に星野恒もこればかりは「頼家變死ノ一事ハ曲筆ヲ免レズト雖・・・」としているのは先に見たとおりである。 畠山重忠 (北条義時の弁護)『吾妻鏡』では、北条氏を首謀者として追放された源頼家や梶原景時の悪行は著しく誇張されている。また、人望厚い畠山重忠を追い落とした人物は時政の後妻で悪名高き牧の方であり、北条義時は畠山重忠の謀殺に反対して父時政に以下のように熱弁をふるう。
歴史小説の原資料として吾妻鏡を読む者はともかく、歴史資料としてこれを読む研究者で、この記述を鵜呑みにする者はいないだろう。これはその後北条政子と北条義時が父時政を追放したという「背徳」を正当化する伏線となっており、八代国治より前に、原勝郎もこれを評して以下のように述べている。
*孫子(そんし)の兵法の一つ。『孫子・九地』に「始めは処女の如くんば、敵人戸を開く。後は脱兎の如くんば、敵拒(ふせ)ぐに及ばず」とある。 初期御家人の明暗上総介広常あまりに多すぎるのでひとつひとつの事例は紹介できないが、畠山重忠、梶原景時、和田義盛、比企能員については主に北条氏の時代に滅ぼされたものであり、いまさら理由の説明はいるまい。北条氏がらみではないが、頼朝の挙兵直後、まだ鎌倉へ入る前に房総の大武士団を率いて馳せ参じ、その後明暗を分けた御家人に上総介広常とその同族千葉常胤が居る。 上総介広常は頼朝が梶原景時に殺させたが、その理由は『吾妻鏡』でも明らかではない。おそらくは編纂者も知らなかったのだろう。『愚管抄』には頼朝が後白河法皇に語った内容が書かれているが、慈円自信あまり信じていないようである。ただし、『吾妻鏡』には上総介広常は後に殺されることを予感させるような人物像として描かれる。上総介平広常は千葉介常胤の様な源家に対する忠君の士ではなかったと。粗暴な男だったと。その最たるものは上総介広常が初めて頼朝に会ったときの話しである。
二万騎もあり得ないが、逸話そのものは『将門記』からの焼き直しである。上記の引用の後にその『将門記』の逸話が続く。経験的にこういう場合は文飾がほとんどなのだが、だいたい広常が内心思ったことを何故編纂者が知り得たのだろう。その前に上総介広常が挙兵以前の彼の立場はどうだったのか、駆けつける前に上総国で何をしていたかを考えれば、どっちにつこうかなどという選択の余地はもう無いことは明らかである。 千葉常胤千葉介、上総介一族が、頼朝に加担したのは、『吾妻鏡』にいうような、両氏が累代の源氏の郎等であったからではなく、平家と結んだ下総の藤原氏、そして常陸の佐竹氏の侵攻に対して、頼朝を担ぐことによってそれを押し返し、奪い取られた自領を復活する為の起死回生の掛けであった。もうひとつ、上総介広常の所領の大半は千葉常胤らのものとなった。 その千葉氏は鎌倉時代を通じて大御家人である。粗末にはあつかえない。その千葉常胤はどう描かれるか。これも実に有名な下りで、何故鎌倉かという話しには必ず引用される。鎌倉は天然の城だというのもここからである。
しかし千葉常胤にとっては、頼朝の父・源義朝は「御恩」を感じるような相手ではないことは相馬御厨での経緯を見れば明らかである。野口実編『千葉氏の研究』に収録されている「古代末期の東国における開発領主の位置」で、黒田紘一郎は、源義朝はその段階では棟梁などではなく、同じレベルで領地を奪おうとした形跡があるとする。千葉氏は(実はその他の大武士団も等しく)源家累代の家人ではない。 1180年(治承4)8月29日に「武衛實平を相具し、扁舟に棹さし安房の国平北郡猟島に着かしめ給う。」以降、10月6日の鎌倉入りまでは千葉氏に伝わる家伝書を参考にしたのではとすら思えてくる。実際その期間のことを書き記し、鎌倉時代末期まで伝えそうな家は千葉氏以外には考えにくい。そういえば「源平闘諍録」は千葉氏関係者により東国で成立したとする見解が有力となっているそうである。(福田豊彦,服部幸造 『源平闘諍録―坂東で生まれた平家物語〈上下〉』 講談社、1999年)。千葉氏には現在知られる「源平闘諍録」の材料となるような家伝があったのかもしれない。ただの推測だが、あり得ない話しではないだろう。 意図的な顕彰(実務官僚)三善康信先に出てきた問注所の三善康連の父、三善康信(善信)であるが、確かに彼が残した記録が編纂のベースのひとつとして利用されたであろう。しかし注意しなければならない点がある。それは三善康信自信に関わる記述の中に、彼を意図的に顕彰されていると見られるものが多いことである。八代国治が『吾妻鏡』に『明月記』が多く利用されていることを発見するきっかけとなったのは朱雀門焼亡に関する『吾妻鏡』同年10月21日条の記事であるが、そこから集中的に検証を加えていくと、下記の条が見つかる。これは『明月記』建暦1年10月23日条を若干縮めて書いたものである。(この長さの漢文は辛いので読み下し文のみ紹介する)
更に翌年の1212年 (建暦2)には「適有造営事、須上臈上卿宰相弁奉之歟」(歟の字を捜すのに苦労した)と『明月記』建暦2年7月27日条の丸写しがある。該当部分を読み下しにするとこうなる。大夫屬入道とあるのも善信とあるのも三善康信のことである。
しかもこの2件とも、三善康信の評、または献策として書かれている。これは事実の詳細を他の資料で補ったとは言えない。この2件とも八代国治氏は『吾妻鏡』が後年の編纂物である証拠であり、歴史資料として過信しすぎることの危険性の傍証としている。そしてこのことからも、三善氏の子孫たる町野、大田氏が『吾妻鏡』編纂の中心に居たのではないかとする(八代 p75)。 また近年では五味文彦氏も同様に、1184年(寿永3)4月に三善康信が鎌倉に参着したときの記述にも顕彰の意図を感じており、「相当に疑わしい」と指摘する。(五味 p284)
「本よりその志関東に在り」「武家の政務を補佐すべきの由」は明らかに三善康信の顕彰を意図した下りである。確かに三善康信はその年の10月に問注所の執事となる。 しかし、大江広元ほどの活躍の記事は見えず、それほど大きな活躍はしていなかったのではないかとされる。源光行は『海道記』の著者ではと一部では思われた人間で、やはり京より下ってきた者である。その源光行との対比、「内々仰せらると」の下りは真偽のほどは別として、善信こと三善康信からしか伝えられない内容だろう。 『海道記』の著者は仕官(と当時いったかどうかは別にして)の希望を持って鎌倉に来たが、かなえられず、源光行は頼朝に仕えている。また、年代も矛盾する。この件ではないが、八代国治氏は『海道記』からの『吾妻鏡』への流用に関してその作成年代をp130で述べている。八代国治氏が指摘したのは承久3年7月13日条であり、それが『海道記』の「一三 蒲原より木瀬川」での「木瀬川の宿に泊りて萱屋の下に休す。ある家の柱に、またかの納言(宗行卿の御事なり)和歌一首をよみて一筆の跡をとどめられたり。」の下りである。 更に1191年 (建久2)6月に一条能保の娘の左大将九条良経との婚姻に際しその衣装が遅れ、その沙汰をした御台所政子か頼朝が「御気色不快」になったときに善信(三善康信)が「秀句」を語って怒っていた政子か頼朝は「御入興」、でお咎め(沙汰)を回避したと『吾妻鏡』にはある。
これはひとつの例だが、総じてエピソードのたぐいに三善康信はよく登場する。 そうすると、流人時代の頼朝に、月に3度京都の情勢を知らせていたとか、以仁王の挙兵二ヶ月後に頼朝に使者を送り、諸国に源氏追討の計画が出されているので早く奥州へ逃げるように伝るななど、頼朝の挙兵前から、そして挙兵にも大きな役割を果たしたとする『吾妻鏡』に基づく説は、かなり注意が必要かもしれない。 大江広元大江広元、は北条氏の大事なときには必ず、北条氏のアドバイザー、相談役として登場する。そしてその広元を顕彰するような記事も多く見られるが、しかし広元は実際に多くの場面で活躍しており、それらが顕彰のための創作(でっち上げ)とは言い切れない。むしろ、北条時政や、泰時の顕彰記事の中で、それに付き合わされる形で登場することが多いように思われる。しかしこれはどうか。
有名な大江広元が「守護・地頭」設置を献策したという下りである。同年11月28日条に、これを北条時政が後白河法皇に要求した記事がある。かつてはこの条をもって「守護地頭」の始まりととして注目された。
『玉葉』には「守護地頭」と書かれていないことは勿論知られていたが、それは『玉葉』は九条兼実が「伝聞」を記したからであって、『吾妻鏡』の方が当事者の記録だから信頼性は高いとされたらしい。『玉葉』にはこうある。
あの石母田正氏が、1960年にこの問題に鋭く切り込み、石井進氏をして「史料解剖と呼ばれる手続きの模範例」といわせしめた。石母田正氏は「庄公を論ぜず」以下その他が殆どが『玉葉』と一致していること、「諸国平均に守護地頭を補任し」は鎌倉時代の後期には他の史料にも見えることから、これは幕府独自の記録によったものではなく、『玉葉』を下敷きに鎌倉時代の後期の一般的な通説に基づく作文ではないかと指摘したという。 『玉葉』を下敷きかどうかは簡単には頷けないが(というのは、『玉葉』を鎌倉側が目にすることが出来ただろうかということが腑に落ちない)、上記『吾妻鏡』と『玉葉』のどちらに信がおけるかといえば、それは『玉葉』であろう。そしてその石母田正氏の分析に端を発して、守護・地頭の発生、位置づけについて活発な議論が巻き起こったという(石井進 『日本の歴史 7 鎌倉幕府』 p173)。 そして、現在では広元の献策「権門勢家の庄公を論ぜず、兵粮米(段別五升)を宛て課す」は、「諸国平均」ではなく「五畿・山陰・山陽・南海・西海諸国」であり、「守護」職はこのときではなく、1190年当時であり、1185年(文治元)での要求は源義経・源行家の捜索・追捕を名目とした一国単位の「国地頭」と「総追捕使」であって、室町時代にまで繋がる守護職の発端は1190年に頼朝が初めて上京し、後白河法皇や九条兼実らと合意した「諸国守護」を奉行する権限にあるとされている。 (岩波講座 『日本通史巻8 中世2』 p61-63) あとで触れるが、佐藤進一氏らが『中世法政史料集』を編纂するに当たり、『吾妻鏡』からの採用に慎重になったのも頷ける。 「守護・地頭」はともかく、1185年(文治元)当時の朝廷側の公卿の日記『玉葉』にある「庄公を論ぜず、兵粮(段別五舛)を宛て催すべし」との要求の献策は大江広元が行ったのかもしれないが、「二品殊に甘心し、この儀を以て治定す。本末の相応、忠言の然らしむる所なり」は「守護・地頭」とともに編纂時に追加されたものだろう。となればこれは広元の顕彰を意図した記事ということになる。(前述のように五味文彦氏はこれを顕彰と言い切ることには若干躊躇しているが) 長井泰秀広元の孫に長井泰秀が居るが、1232年 (寛喜4)12月5日条のこの記事が、八代の頃より注目されている。
北条泰時が大江広元時代の記録が「所処に散在」してしまったものを集めさせ、長井泰秀に送ったという記事である。承久の変の後であり、広元の長男・大江親広は既に幕府の要職から解任されているが、1247年の宝治合戦の前であり、四男・毛利季光はその翌年に、五男・海東忠成もその後評定衆となる。このとき長井泰秀は21歳で、まだ評定衆に上がるのは9年も先だが、記事の通りだとしたらこの長井泰秀が大江広元の嫡流と見なされていたことになる。 本当にそうなのか、それもまた舞文・顕彰で、実は毛利季光とかを経由していないかなどとも疑うことが出来る。そうかどうかはその父で広元の次男・長井広時の経歴を見なければ解らないのだが、金沢実時の妹が長井広時の室で、その間の子は政泰とあること以外には良く解らない。ただ「関東評定伝」によると、18歳で既に左衛門尉となっており、同年更に従五位下に叙爵、23歳で従五位上、26歳で正五位下左衛門大尉、27歳で甲斐守という官職の昇進の早さは確かに高い家格を認められていたということになる。そして『吾妻鏡』 1242年 (仁治2)6月28日条によれば、30歳で評定衆となり、そして同 1253年 (建長5)12月21日条には単独で「前甲斐守正五位下大江朝臣泰秀卒す(年四十二)」とある。 その子、長井時秀は父の死の翌年に引付衆五番(『吾妻鏡』1254年 (建長6)12月1日条)に任ぜられ、『吾妻鏡』 1257年(正嘉元)10月30日条を始め、1264年、1282年にも東使として京に赴く。その間1265年(文永2)6月11条では評定衆に新任とあり、1271年(文永8)には備前守となる。 ちょっと先走るが、長井時秀の子で長井泰秀の孫にあたるのが、長井宗秀であり、1265年(文永2)に父が評定衆となった年に生まれ、18歳で引付衆、宮内権大輔となり、1293年(永仁元)5月に29歳で越訴頭人、同年10月、北条貞時が裁判機関の引付衆を廃し、執奏を設置してその最終判決権を掌握して幕政を合議制から得宗独裁へと変えたとされるその執奏に就任している。 執奏7人の中で北条氏以外では2名だけであり、更に7人の中で北条師時に次ぐ若さであり、北条貞時政権の重要メンバーであったことが解る。またその2年後には寄合衆、復活した評定衆に在任しており、おそらくは1293年(永仁元)5月段階から寄合衆に加わっていたものと思われる。その後も1309年(延慶2)3月15日に七番引付頭人を辞すまで、幕府、あるいは得宗家の重職についている。 大江広元の顕彰、そして『吾妻鏡』 1232年 (寛喜4)12月5日条の件、推定される編纂年代からこの長井宗秀も『吾妻鏡』の編纂者のひとりとされる。 二階堂行光先に、合戦記においては二階堂行政、行村が軍奉行と推測され、その資料が『吾妻鏡』に用いられたのであろうとしたが、合戦記以外については二階堂行政の子で行村の兄にあたり、実朝の政所に関わった二階堂行光の筆録が多く利用されたと見られている。その二階堂行光の顕彰はどうであろうか。1204年(元久元)9月に実朝が北条義時の家(相州御亭)を訪れたが、月蝕の為に逗留を余儀なくされる。そこで二階堂行光は白河院の古事を語り「相州殊に御感」と北条義時を感心させたと。
ところがこの逸話は『十訓抄』1の24話なのである。
『十訓抄』の成立は、鎌倉中期の建長年間(1252年とも)で、妙覚寺本には「或人云、六波羅二臈左衛門入道(湯浅宗業)作」という奥書がある*1。五味文彦氏は、その元になった説話を二階堂行光が読んでいた可能性も無視は出来ないが、六波羅探題の関係者が(すくなくとも)所持していたことからすれば、『吾妻鏡』の編纂者がそれを見て、顕彰記事に利用した可能性はあるだろうとする。 二階堂行光については『金槐和歌集』から編纂者が採録したのであろうとされる部分のあることを八代国治氏が指摘している。1213年 (健保元=建暦3)12月19日条から翌20日条なのだが、『金槐和歌集』では建暦2年12月とある。その内容は決して嘘偽りではなく二階堂行光のことなのだが、編者の行光顕彰の意図があったことは間違いあるまい。 *1: 他に菅原為長作という説、石井進氏による佐治左衛門尉重家との説もある。 意図的な顕彰(得宗家)北条泰時顕彰と云えば、その最たるものは北条泰時だろう。かく云う私自身、直接の政争以外はつい警戒心を解いてしまい、北条泰時は人間味溢れる良い人だったんだなぁ、などと思ってしまっていたが、もう少し注意せねばというのが以下の条である。
事件そのものもは、実は『明月記』正治2年3月29日条での藤原定家の日記、泰時が語ったという「従の身として諸院宮昇殿の者を殺害す。武士に於いてまた指せる本意に非ず」は藤原定家の評を写したものである。 北条時頼八代国治氏が指摘するのはその卒去の記述である。
実に感動的なのだが、「頌云」の「業鏡高懸、○○年、一槌撃砕、大道坦然」は『増集続伝燈録妙堪』の伝記にある遺曷の年齢を変えただけのものである。確かに中国のそれほど有名ではない僧妙堪の没年は北条時頼の15年前だが、時頼がそれを知っていた可能性がどれほどあるだろうか。また他人の遺曷、解りやすく云えば辞世の句を、他人の引用で済ませるなどということが、禅宗に帰依した時頼にとって宗旨上もあり得たことだろうか。八代国治はこれを編纂者の「舞文潤飾」と断定する。 もっとも黒田俊雄は 『日本の歴史8 蒙古襲来』 p48で「ほかにもそんな例は多いそうだから、盗作などと悪口をいうほどのことでもないらしい」と云っている。そうはいっても黒田俊雄は、時頼は律宗の叡尊にもまた心をひかれていたらしいことも同時に指摘している。 ささやかながらこういうこともある。
時頼が15歳のときである。三浦氏と小山氏との間に、ささいなことから端を発し、あわや一戦にという事件が起った。高柳光寿先生も『鎌倉市史総説編』で地理史の観点から取り上げていた事件だが、『吾妻鏡』自体の分析という観点からは別なことが見えてくる。 兄の経時はこの事件で一応理のある三浦氏を助勢しようと多分数名の手勢を差し向けた。それに対して弟の時頼は酒の場での喧嘩だからと静観していた。泰時は、経時の行為は将来執権になろうという者としてあるまじき振舞てあると怒り。一方時頼は事態を静観していたので「将来、執権の器(うつわ)」に叶うと褒められたというのである。いかにもな臭い話しである。兄北条経時は祖父泰時の後を継いで19歳で4代執権となるが、4年後に弟北条時頼に執権を譲り、出家、直後に死亡する。経時の幼子が2人は時頼の意向で出家させられ僧となった。この過程もかなり不透明であり、『吾妻鏡』の伝えることを疑問視する向きも多い。(具体的に誰がそう言っていたかは思い出せないが) 2008.3.20〜5.23 |