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6.吾妻鏡の編纂時期と編纂者 |
星野恒と原勝郎は後半は日記だろうとした。もちろんその範囲にだいぶ隔たりはあるのだが、いずれにしても宗尊親王の頃までには前半の編纂も終わっていることにはなろう。それに対して1912年(大正1)『史学雑誌』(23-10)に『吾妻鏡古写本考』を発表した和田英松は、全てが後世での編纂とし、その時期は時宗、政村の時代とした。 1913年(大正2)八代国治は『吾妻鏡の研究』5章(p68)で、源氏三代の将軍記とそれ以降三代の将軍記とは大きな隔たりがあるとし、編纂二段階説を唱える。そしてそ八代言うところの前半、源氏三代の将軍記の編纂年代は和田英松同様に時宗、政村の時代、1242年(仁治3)7月以降、1270年前後であろうとする。そして後半三代の将軍記は1290年(正応3)から1304年(嘉元2)の頃とする。 五味文彦氏は2000年の『増補 吾妻鏡の方法』の中で、八代国治の2段階説は、それを裏付ける積極的な証拠は乏しいとして、全てを八代国治の言うところの後半三代の将軍記1304年(嘉元2)までの数年間とする。 八代国治の2段階説 (2008.8.19追記)八代国治は前半の源氏三代の将軍記の編纂年代を1242年(仁治3)7月以降、1270年前後とするのは、次ぎの二点からである。 上記の1点目はもっともである。しかしそれは編纂時期は1242年(仁治3)7月8日以前ではありえないということが言えるのみである。問題は2点目である。「左京兆これなり」との注記が1205年6月22日に書かれることはあり得ない。編纂時に書き加えられたものと見るのは確かに自然である。 では政村没後なら、ここは何と書かれたのだろうか。没後も左京兆と云えば北条政村だったのではないか。政村の子北条時村も左京権大夫(左京兆)となったが、それは1303年(嘉元1)11月17日になってであり、『吾妻鏡』編纂の下限ギリギリの時期である。仮に1304年であっても、「相州の子として左京兆が生まれた」と言えば、その左京兆は北条政村以外にはあり得ない。 没後に官職で呼ばれることは無いというなら、同じ文の中に相州室と相州(北条義時)の名が出てくるのはどうか。それは地の文であるのでと言うなら「左京兆進也」と同じく、注記(割書)に現れる人名「伊賀守朝光」はどうか。 同じ理屈をこちらにも適用すれば、朝光が伊賀守となったのは『吾妻鏡』1215年(健保3)9月14日条により、1210年(承元4)3月19日のことであり、1215年(健保3)9月14日に急死する直前の、同年正月1日条にも伊賀守朝光とあるので、この一文は1210年(承元4)3月19日から1215年(健保3)9月14日までの間に書かれたということにもならないか。 そうだと主張している訳ではない。数ある証拠、傍証のひとつとしてならともかく、この「左京兆これなり」との注記から、『吾妻鏡』前半の編纂年代を推定しようとする論拠は、この短い一文の中ですら矛盾をきたし、成立しないのではないかと言いたいのである。 しかし八代国治が、『吾妻鏡』前半の編纂時期をその頃と思った本当の理由(動機)は、そのことよりも、その時代認識にあったように思う。この時代を八代国治は「時宗、政村とあい和し、事を行い、国富み兵威揚がり」(『吾妻鏡の研究』 p73) というような鎌倉幕府の黄金時代と認識しているが、果たしてそうだったのだろうか。その時期の主だった事件を挙げれば以下の通りである。
北条時宗は元寇に対応した英雄とされるが、既に述べたようにこの時代は鎌倉幕府と北条一族にとっては暗黒の時代の幕開けとも言える。北条時宗は二月騒動で一族の名越流2代に当たる評定衆北条時章・教時兄弟を誅殺し、同時に六波羅探題南方の兄北条時輔も殺し、独裁体制を築いている。また平頼綱ら内管領が台頭してくる最初の時代であった。 霜月騒動の直後に、安達泰盛の娘、海蔵寺の「底抜けの井」の逸話の千代野を妻にしていた北条顕時もあおりを食らって下総国埴生庄に隠棲し出家することになるが、そのときに北条時宗による二月騒動での粛正から霜月騒動までを振り返って「凡此十余年之式、只如踏薄氷候幾、今既其罪当身候之間、不運之至思設事候」*1と綴っている。 更に、二月騒動から33年後の1305年(嘉元3)4月、内管領の職務を代行して「内執権」と称されていた北条宗方が、貞時の有力重臣で連署を務めていた北条時村を殺害されたいわゆる嘉元の乱において、京の公家の日記には『宝暦間記』の記述とは異なり、正親町三条実躬の『実躬卿記』や、金沢文庫550号などによれば、鎌倉からの早馬は「時村が貞時に誅された」と伝え、六波羅探題南方であった金沢北条貞顕以下、探題北方からの襲撃を恐れて大いに狼狽したと伝える。二月騒動で北条時宗が、名越時章を討つと同時に、六波羅探題南方であった兄北条時輔を北方に討たせた一族の暗い記憶が鮮明に残っていたからだろう。 八代国治の時代認識は現在の研究のレベルから見ると外しているようにも見える。むしろ暗黒の時代の幕開けだったのではないだろうか。 *1:『賜蘆文庫文書』(東大史料架蔵影写本)所収の1285年(弘安8)12月21日付「 金沢顕時書状案」、もっともこの文章は称名寺宛に寺家敷地を寄進する文書であり、永和年間頃に作られた偽文書ではないかという研究もあるらしい。細川重男氏は「この文書が作成されたこと自体が、時宗政権が異常な緊張状態にあったこと、二月騒動が霜月騒動と並ぶ衝撃的な事件であったことが、百年以上後にまで記憶されていたことを示している。」とされるが私もそう思う。
五味文彦の1段階説八代国治の2段階説において、後半部分の四代以降の将軍記は1290年(正応3)から1304年(嘉元2)の頃とした。これは第42巻の宗尊将軍記の袖書きに、後深草院を「院」としてのみ記し、また1290年(正応3)2月に出家していると記しているので、それ以降亡くなる1304年(嘉元2)7月までの間であるはずだと。もしも編纂がそれ以降であれば、ちょうど先述の後鳥羽上皇のように、没後の謚(おくりな)である「後深草院」と呼ばれるはずだが、そうはなっていない。 この推測は戦後の五味文彦も踏襲している。ただし二段階説には益田宗、笠松宏至らもそれに反論しており、五味文彦氏もそれは踏襲せず、全てを此の段階、つまり編纂は一段階としたが。五味文彦は『増補 吾妻鏡の方法―事実と神話にみる中世』(吉川弘文館、2000年)において、八代国治があげた二段階目の時期を踏襲しながら、更に次ぎのように補強する。
それらの点から、五味文彦は吾妻鏡の成立は1297年(永仁5)以降、1304年(嘉元2)7月までの間、つまりちょうど1300年頃であろうとし、それが現在定説となっている。 ただし五味文彦は、それ以前の1235年頃に、「頼朝将軍記」とかの『原吾妻鏡』と呼べるような歴史書が原型として出来上がっており、同じころに京都では『原平家物語』が著され、また東国では『原曾我物語』がつくられたということもあり得るのではないかとする。 編纂者についての戦後の研究戦後の研究では、編纂者については、おそらくは幕府内部の有力者金沢北条氏の周辺であろうとする見方も強い。北条貞顕(崇顕)は25歳で六波羅探題として上洛して京都以西の責任者になり、以降何度か六波羅探題となりながら、自身で文献の写本にはげみ金沢文庫の充実をはかっている。その書状も金沢文庫には多数残っている知識人であり、後述する『吾妻鏡』の北条本、黒川本などの原本は金沢文庫本とされ、その金沢文庫との関係からも全体の統括者として考えやすい人物である。しかし全体の統括者については推理、推測以上には進められない。 『金沢貞顕』 (吉川弘文館・人物叢書 2003年)の著者・永井晋は前述の「有隣」の座談会で、あの時期の状況では、金沢貞顕はそこまでやっているゆとりはないだろうという。 直接の編纂者について、八代国治が『吾妻鏡』の編纂者達を政所と問注所の吏員である大江広元の子孫(毛利、長井)、二階堂行政の子孫、三善康信の子孫達(大田、町野)ではないかとしたことは既に述べた。そして近年、五味文彦氏が八代国治の推測を具体的に検証する形で研究していったのが、2000年の『増補 吾妻鏡の方法』におけるその「増補」部分、「『吾妻鏡』の筆法」である。 尚、五味文彦氏は1989年の増補前の『吾妻鏡の方法』における「吾妻鏡の構成と原史料」において、ベースとなる筆録に二階堂行政・二階堂行光、後藤基綱・中原師員、二階堂行方・中原師連をあげている。 (5.吾妻鏡の原資料 参照) さて、2000年の『増補 吾妻鏡の方法』において五味文彦氏はどのようにアプローチしたか。氏が最初に目をつけたひとつは盗意図的な顕彰の中でも既に見てきた実務官僚に関する部分である。その面々をもう一度記しておこう。三善康信、二階堂行光、大江広元である。それ以外にやはり顕彰されているのは北条時房、三善康連(大田康連)、平盛綱、北条実時らである。 もうひとつは北条泰時、時頼以外の北条氏庶流に関わる顕彰と出産記事である。得宗家と天皇家を別格として除けば、北条有時、北条政村、北条時輔、北条宗政、北条時兼、とそこまではまだ理解出来るが、一人だけ文士の家柄が混じっている。1222年 (貞応元)9月21日条に、二階堂行政の孫、二階堂行盛に子が生まれたと。そのとき生まれたのは1302年に政所執事に再任された二階堂行貞の祖父、二階堂行忠 である。
実はこれはかなり重要なポイントになる。一人だけ文士の家柄が混じっているからだけではない。それが二階堂行貞の祖父であることが重要なのである。二階堂氏の祖・行政は政所別当となるが、その後の政所の事実上のトップは政所執事であり、その政所執事でのポストは行政の子二階堂行光 が就任し、以降その子孫がその職を世襲する。
政所執事としての2代目が籐民部大夫行盛、つまり二階堂行盛である。その後政所執事の職は若死になどで行盛の3人の子の家を移り1283年(弘安6)に二階堂行忠が就任。そして1290年(正応3)にその孫の二階堂行貞 に受け継がれる。 二階堂行盛から政所執事の職は其の子二階堂行泰(筑前家)、二階堂行頼と続くが、行頼が若くして死に、一時は父行泰が再度就任するが、その死によって、行頼の弟、二階堂行実が、しかしそれも早死にして、二階堂行綱(伊勢家)、その子二階堂頼綱と続くが頼綱も就任2年後に死去し、政所執事の職は高齢の叔父で二階堂行盛の子の二階堂行忠(信濃家)が引き継ぐ。その子は早死にしていたので政所執事の職は孫の二階堂行貞が22歳で継いだ。ここまでは二階堂行盛の子の行泰の筑前家、行綱の伊勢家、行忠の信濃家と移りはしたが何れも前任者の早死にで、かつ全て二階堂行盛の子、孫、曾孫である。(細川重男 『鎌倉政権得宗専制論』 p63 ただし細川氏は『吾妻鏡』は時宗、政村の時代の編纂とされているようだが。) そこで異変が起きる。丁度北条貞時が平頼綱を討った(平禅門の乱)年、1293年(正応6)10月に、平頼綱の時代の人事の否定の一貫だったのだろうか、二階堂行貞は政所執事の職を罷免され、これまでは政所執事を出したことのない二階堂行村((隠岐流)の祖孫・二階堂行藤 (出羽備中家)が10月19日に政所執事となる。 そしてその二階堂行藤が1302年(乾元元)8月に没したあと、3ヶ月の空白期間をおいて二階堂行貞が再任されるが、この空白の3ヶ月は得宗北条貞時の元での人事の迷走を物語っていないか。その二階堂行貞が『吾妻鏡』の編纂者の一人と目されているのだが、行貞の祖父、で二階堂行盛の子行忠の誕生を『吾妻鏡』に書き込んだのが二階堂行貞だとするならば、それは単なる自分の先祖の顕彰を越えて、二階堂行藤とその子・時藤の隠岐流に対して、二階堂行光、二階堂行盛から二階堂行忠、そして自分へとつながる政所執事の家系としての正当性を主張するものとも考えられる。 死亡記事では、たまたま見つけたのだが、1244年((寛元2)6月4日条には「同日前の対馬の守従五位上三善朝臣倫重死去す(年五十五)」とある。三善倫重は矢野倫長の父である。矢野倫長は1253年(建長5)9月26日条に実名で登場する。
五味文彦氏はこの記事を矢野倫長自身が書いたものであろうとする。(p106) その父の死去まで『吾妻鏡』にあるとすれば、矢野倫長の子か孫かが『吾妻鏡』の編纂に関わっていたという推測も出来ないだろうか(不安な独自見解)。その子矢野倫経(倫景)も寄合衆就任が確認されているという。(細川重男 『鎌倉政権得宗専制論』 p66 ) こうして見ていくと、文筆の家ではもっとも顕彰されている三善康連の子孫で、時期に該当するのは1293年(永仁元)から1321年(元亨元)まで問注所執事であった三善氏の大田時連であり、それを中心に二階堂行貞が編纂者であった可能性が非常に高い。大江広元も顕彰されているところから、その子孫で1300年前後に寄合衆、評定衆であったのは長井宗秀が浮かびあがる。そして北条氏の中では金沢氏だろう。もっともそれが全てとはもちろん言えないが。 ところで中原師員、中原師連の筆録はどう伝わったのだろうか。そこで1302年の幕府要人を見ると、中原師連の子の摂津親致が八番引付衆頭人となっている。おそらくそこから編纂者の下に伝わった筆録が貸し出されたのかもしれないが、しかし摂津親致自身が編纂者のひとりということは考えられないのだろうか。しかしこれはそうだという理由が見つからない。つまり中原師員、中原師連親子についてはあまり顕彰記事も舞文と思われるものも見あたらないのである。 2008.3.20〜5.15、8.19 |