寝殿造 4.2       檜皮葺の屋根      2016.8.28 

古建築の屋根 

寝殿造の実物は現存しない。よく京都御所が持ち出されるが、あれは江戸時代に復古調で建てられたものであり、古文書から想像して設計されたものである。寺院建築には奈良時代もものも現存するが、しかしそれらの建物の屋根は何度も作り替えられている。屋根を葺く素材も移り変わる。桧皮葺もこけら葺きも、数十年に一度は吹き替えなければならないが、江戸時代には屋根の修理時に茅葺きに返られたものも多い。ましてや平安時代の状態となると解体修理のときの調査で、建造当時にはどうだったかが初めて判るという状態である。現存する古建築も、屋根の材料だけでなく屋根の形も今の状態とは違う。

例えば勾配である。江戸時代には屋根の勾配は葺材料にかかわらず六寸(勾配をあらわす数値で一尺先で六寸あがる勾配を意味する)前後であった。現在 の古建築のほとんどはその状態である。京都御所も同様だ。ところが解体修理のときの調査から当初の姿を復元すると、奈良時代から平安時代の屋根勾配はもっ と緩やかで、四寸から五寸の間におさまるという(平井『屋根の歴史』 pp.31-37)。現在残る京都御所の紫宸殿は六寸五分であるが、屋根の下が当時と同じだったとしても、屋根の高さは平安時代より5割近く高いことになる。

それでも寺院建築は解体修理のときに調査出来る現物が残るが住宅建築はそうはいかない。古文書を紐解いても桧皮葺かそうでないかがたまに書かれるぐらいである。

屋根葺の素材

桧皮葺

先の法隆寺大講堂など寺院は伝統的に瓦葺きだが、寺院以外の京の住宅は板葺き、最上級の屋敷は檜皮葺である。

法隆寺西院伽藍・西園院の屋根

寝殿造ではないが檜皮葺の屋根の例として三渓園の臨春閣。木の皮が重ねられているのが解る。

 しかしこの軒先に見える檜皮の厚みは、屋根全体の檜皮の厚みではなく、軒先だけの飾りである。

春日大社にある檜皮葺の断面サンプル 

古代の瓦屋根

江戸末期には、農村や下層民の家を別にすれば瓦屋根が普通であったが、瓦が一般に普及したのは江戸時代に現在の瓦の原型ともいえる桟瓦が開発されて以降である。瓦は仏教の伝来とともに中国文化として伝わったが、それが使われたのは主に大寺院の中心的な建物である。

ただし朝廷が大陸文化に右へならえしていた奈良時代の平地の大寺院の話である。山岳寺院ではそうでもないし、摂関時代からのいわいる国風化の流れの中で、平地の大寺院でも檜皮葺の例が増えてくる。もうひとつ、有名な宮大工故西岡常一の言葉だが、法隆寺の時代でも寺院建築が中国そのものであったのかというとそうでもないらしい。軒の深さは中国には無い日本の気候に合わせた工夫だという。

平城宮では儀式のための朝堂院は、発掘すると瓦の破片がたくさん出土することから瓦葺だったらしい。しかし内裏の中心に建つ大安殿、小安殿の跡からは瓦の破片は出てこない。内裏正殿は檜皮葺だったのだろう。大寺院を建てるときには近くに窯を作り、その土地の土で瓦を焼いた。従って品質は今より大きく劣り、重さも現在の瓦の2〜3倍ぐらいにはなる(2004、p.23)。

瓦自体は現在の和瓦でも1枚3kg弱である。法隆寺の瓦は約3kg(西岡常一,2010p.38)というのでそんなに変わらない気はするが、しかし本瓦は平瓦をずらしながら二重に張る。更に瓦の横の隙間に丸瓦を乗せる。丸瓦の重なりは二重ほどではなくとも屋根面積あたりで使われる瓦の量は2倍以上。更に昔は屋根の下地の上に壁土のような、藁を混ぜた土を塗っている。この土で緩やかな曲線を作っている。それも合わせれば瓦の重さは現在の2〜3倍ぐらいということだろう。ちなみに瓦メーカーサイトによると1uあたり2.8kg×16枚で45kg。それに対して重要文化財妙心寺庫裏は屋根面積240坪、約800uで約100トンという(2004、p.30)。1uあたりで125kg、現在の瓦屋根の2.8倍だ。妙心寺庫裏は元々こけら葺だったものを文化5年(1808)に瓦に直したそうだが、瓦の加重で屋根は最大18cm沈み、建物そのものが南西方向に傾いていたという。妙心寺の庫裏は桟瓦でなく本瓦である。

それでも瓦は貴重品で、中国的権威の象徴である。時代は下がって織田信長の頃の『上杉本洛中洛外図屏風』では、屋根は4種類に描き分けられている。瓦屋葺と檜皮葺と板葺が二種類。高級なこけら葺と粗末な板葺である。粗末な板葺はこんな風に屋根板の押さえに石が置いてある。
その内瓦屋根は寺院だけで、神社や内裏、足利将軍邸は桧皮葺で描かれている。寺院でも鞍馬寺や西芳寺などは檜皮葺である。高級な板葺であるこけら葺は細川管領邸などの屋敷。粗末な板葺は町屋である。都市には茅葺はない。平安時代末の『年中行事絵巻』でもその光景は同じである。ただ高級な板葺であるこけら葺は出てこないが。

奈良時代の大寺院においても、中心的で大きな建物は瓦葺だが、それ以外の建物は檜皮葺、付属的な建物や臨時的な建物などは板葺や草葺といった葺き分けが確立していた。天平宝字5年(762)の『法隆寺伽藍縁起井流記資財帳』によると、法隆寺東院伽藍は、瓦葺の建物は八角仏殿(夢殿)、講堂(伝法堂)、僧房だけで、回廊や二つの門、その他の付属建物(碓屋、稲屋、木屋など)も檜皮葺だった。

現代でこそ檜皮葺といえば特殊な屋根造りで、もっぱら国宝・重文などの文化財建造物の他は小さいが贅を尽くした茶室ぐらいのものである。しかし奈良時代の檜皮葺建物は我々が見、思うものとはだいぶ違うはずである。板屋寝よりは上だが、それでも寺院本堂などに比べれば簡素な建物ということになる。もっとも寺院本堂などの方が異常なのだが。あれは建築というよりモニュメントである。

奈良時代の檜皮葺

古代では檜皮葺は宮殿なども含めていろいろな建物に使われていた。例えば法隆寺にある伝法堂は現在は瓦葺だが、元は聖武天皇の后、橘古那可智の住宅で、屋根は檜皮葺であったらしい。聖武天皇の左大臣が屋敷跡の発掘された長屋王である。

奈良時代には、檜皮葺の建物は掘立柱だったに対し、瓦葺の建物は礎石を用いていた。これは先にも述べた当時の瓦の重さにもよる。柱の径と礎石の径を考えて欲しい。感覚的にだが面積で4倍近くにはなるだろう。柱だけでは時間とともに地面にめり込んでいくがろう。礎石を使って地面に接する面積を大きくすればめり込んだとしても数分の一で済む。

檜皮葺の建物も掘立柱だった頃には建物自体の寿命はそんなに長くはない。地中に埋め込んだ部分が腐っていく。良く例に出されるのが伊勢神宮本殿で20年に一度建て替えている。20年以上保ったとしても檜皮葺の葺き替え周期は現在35年ぐらいと云われるが、伊勢神宮だけでなく、飛鳥時代以前には天皇の宮殿は即位する毎に建てられていたらしい。要するに住宅は屋敷であっても二世代以内に建て直しというのが掘立柱当時の感覚だろう。例え御殿であっても住宅と寺院は感覚が違う。寺院は半永久的なモニュメントのつもりで建設する。

平安時代末期に内裏や大臣家などが絵巻に描かれる頃には、檜皮葺でも上級の屋敷では礎石が描かれるが、寺院と内裏以外で礎石建築がいつ頃から屋敷(住宅)広がったのかは明らかではない。

発掘調査では先の長屋王邸、長岡京東院 (桓武天皇仮皇居)、長岡京左京二条二坊十町、平安京右京一条三坊九町(山城高校遺跡)、平安京右京六条一坊五町(京都リサーチパーク遺跡)、斎王邸(推定900年前後)まで掘立柱と礎石の混在。寝殿造の代表として有名な束三条殿は絵巻で見る限り礎石建築である。

寝殿造の時代は一旦保留して奈良時代まで戻るが、原田多加司はその頃の檜皮葺工法を以下のように推測する。

  1. 檜皮の軒付によって、軒に厚みをもたせることがなかった。
  2. 屋根の勾配は3〜4寸勾配と、茅葺や葦葺の一尺以上の勾配と比べて緩かったと考えられ、雨漏りの恐れが強かった。ちなみに、当時の雨対策の弱点には次のようなものが考えられた。
    1. 檜皮葺の軒先先端から裏面へ雨水がまわり込みやすかった。
    2. 緩勾配の屋根面では、特に勾配の下限値となる軒先で雨水が滞留し、職人言葉で言う勾配が緩くて「昼寝ができる屋根」が現出して、浸透圧によって漏水する恐れがあった。
    3. 檜皮屋根面の流層厚が増大し、葺材間の隙間に局部的な圧力がかかった。
    4. 檜皮材料の縦重ね部の両側には水頭差ができるが、これが小さくなる。
    5. 檜皮材料の下面に沿って流下する雨水の滴下が生じやすい。
    6. 檜皮層の隙間の流れにおいて、屋根勾配に沿う方向の流速成分が減少する結果、流れの方向が雨漏れする危険のある方向に近づいた。
  3. 竹釘はおそらく使われてはおらず、今でいう榑板(くれいた)の押縁(おしぶち)で檜皮を固定するか、藁縄などで縄括りをしていたと思われる。
  4. したがって檜皮屋根の締まりも悪く、厚ぼつたいうえに葺斑も目立った。
  5. 檜皮の使用量は、中世以降の半分ないし三分の一と少なかった。

後世の檜皮葺の軒付は、檜皮が厚く積み重ねられ、落ち着いた色調もあいまって重厚な趣きを見せている。このような技法は、奈良時代の終わりから平安時代にかけて考案されたものであろう。初期の桧皮葺工法は、現代の杉皮葺に似たような、軒付に厚みのない構造だったと考えるのが、無理のない推量だといえよう。(原田多加司,1999,p.59-60)

原田多加司が推測する奈良時代の桧皮葺の現在との違いはそのまま桧皮葺の進歩と高級化を示している。
以下も原田多加司の見解の、主に『古建築修復に生きる』からのダイジェストであるが、若干私の憶測も入る。

なお原田多加司氏は学者ではなく檜皮葺の職人である。しかし屋根に関しては歴史についても建築史学者顔負けの知識力。「学識経験者」という言葉があるが、「学識」と「経験」の両方を兼ね備えたような方である。

上記の1項目だが、現在見る桧皮葺は軒先には分厚く桧皮が重ねられている。しかしあれは装飾である。それが出来るようになったのは屋根の構造が変化して以降、具体的には庇の屋根が野屋根と化粧屋根に二重化して以降である(pp.128-129 )。しかしその施工に大変でコストがかかるし耐久性も落ちてくる。桧皮葺の葺き替えは約35年と云われるが、軒先だけはその中間で葺き替えたらしい(p.151)。

3項目だが、野地(屋根の下地)に関しても古代は単純で、藁縄、苧縄(からむしなわ)などの縄括りが主流であり、野木舞(のこまい)を垂木にゆわえるために大量の縄類が使われたと思われるが、13 世紀に入ると竹釘や鉄釘なども比較的潤沢に使えるようになったようだ。ただ、檜皮自体の洗練度という点においては、いまだに古代の影響を色濃く残してお り、檜皮加工技術が粗末でぽってりと厚い仕上げ状態だったと推測される。押縁の数や竹釘の使用量も近世と比べればまだまだ少なく、葺き斑も目立ったと推定 される。

初期の檜皮葺の面影を残すと思われるものに法隆寺西院伽藍・西園院の客殿の屋根がある。

5項目だが、奈良時代の桧皮葺は我々が見、思うものとはだいぶ違うはずである。一度皮を剥がれた檜は10年20年の間にまた皮を再生するが、その状態で採取するものが一級品の黒背皮である(p.164 )。一度も皮を剥がれたことのない檜の皮を荒皮というが、おそらくそれが中心だったかもしれない。原田はそこまで断言はしていないが。

文献などから考えてみると、古代では檜皮の長さを三尺とし、周径は三尺締めないしは三尺三寸締めとなる分量を一囲とする材料規格が11世紀中頃までは続いていたと考えられる。その後、12世紀に入ると、檜皮の長さは二尺から二尺五寸へと皮長が幾分短く、逆に周径は三尺から五尺締めへと太くなっている。ここから、葺足は狭くなって重なりの枚数は増えていったと推測できる。

檜皮葺きの変化

文治元年(1185)に焼失した勝尾寺(大阪)の復興造営時に、京の大夫大工に、同行した桧皮匠が近郊の山から調達した檜皮を厚皮のまま使っている(『勝尾寺縁起』、『山塊記」)。また、貞応2年(1223)の高野山奥院拝殿の工事でも、檜皮大工物部為国の記録によると、京より葺師が来て厚皮で葺いたとある(『高野春秋』)。(pp.73-74)

それが、延応元年(1239)に九条道家によって造営された東福寺の諸仏殿や、13世紀に行われた石清水八幡宮の一連の工事では、明らかに檜皮の仕様や納入量が変わっている(『大日本史料』4.4)。この点について谷重雄は

上代の檜皮葺はかなり今日のと距りのある事、文献的に推知し得る所であるが、鎌倉時代に入っては、(中略)今日に似た工法を採る様になったと思はれる節がある」(「石清水八幡宮社殿」、『建築史』2.3、1934年)

と述べるなど、13世紀前半が檜皮葺工法の一大転機であったと見られている(p.74)。だだしこの薄皮葺化も一斉に起こった訳ではなく、貞応2年(1223)に高野山奥院拝殿厚皮で葺かれるより前の1204年に、東寺では薄皮葺化が始まっていたようだ。

檜皮を葺いたばかりの日吉大社直会殿(なおらいでん)の檜皮薄皮葺。

薄皮葺化は明らかに手間とコストのかかる方法なので過渡期においては贅を尽くせるところから採用され始めたのだろう。もちろん技術や流行の伝搬スピードというものもあるだろうが。立証は不可能だが、摂関家黄金時代の建築マニア藤原頼通あたりなら、それぐらいの贅を尽くした特注ぐらいやりそうに思える。

少しくらい鬼皮(表面が硬くなり変形した皮)がついていたり、厚みに斑が生じても、檜皮はそのまま葺かれていたものが、厚みを1.5mm程度に均一に揃え、表裏ともよくこそげて葺足を小さくすると、足並みも美しく仕上がるようになる。また、雨の流れる方向に従って足並みに変化を作り、優雅なカーブを描く個所も出てきた。

軒付であれ平葺であれ、屋根の構成で最も要求されるのは線の美しさである。軒の反り、破風(はふ)の反り、隅の背の反りと、直線と曲線の交差が美しい屋根を作る。それが絵巻や古建築で我々の知る桧皮葺の屋根である。

14世紀成立の『太平記』には、「都にては、さしも気高かりし薄檜皮の屋形の三葉四葉に作り鑿べて奇麗になるに.…」とあるが、薄檜皮といっても葺厚のこ とを指すのではなく、檜皮そのものが洗皮、綴皮といった皮栫えの工程を経て、薄くとも丈夫で見た目もよくなってきたことを意味するものと思われる。

その境を11世紀中頃から12世紀とすると、『年中行事絵巻』に描かれている寝殿造は、その檜皮の品質向上のあとながらまだ過渡期ということになるか。あるいはあそこに描かれた藤原頼通再建の東三条殿では既に採用されていたのか。

ところで『御堂関白記』 寛弘2年(1005)2月19日条には「一条院料召諸国檜皮」とあり、一条院に用いる檜皮を諸国から徴収している。檜皮はやはり高級建材ではあったのだろう。9〜10世紀においても上級貴族の寝殿の全てが檜皮葺であった訳ではない。
逆に貴族の屋敷には格式による制限があり、檜皮葺は五位以上でなければ用いてはならないことになっていた様である。11世紀頃に正六位下源相高(さねたか)はそれを破ったとして検非違使に家を壊されている(『日本記略』寛仁2年(1018))。もっとも『朝野群載』には、応和元年(961) 正六位上上海直延根後家・海恵奴子の家が「三間桧皮葺屋壱宇 / 三間車宿壱宇 / 門屋壱宇」と書かれている。平安時代の法は「再度禁止する」とあると「ああ、守られていなかったんだなぁ」と読むぐらいなので実態がどうだったのかはよく判らない。ただ、中下級の屋敷でも主屋を寝殿を名乗る場合には桧皮葺が多いように思える(3.5 家地関係史料にみえる小規模寝殿)。


外部リンク

滅多に見ることの無い檜皮葺、その作業は更に滅多に見ることはない。