寝殿造 6.2.1 九条家一条室町殿と京極殿    2016.11.11 

平安時代末期の平家政権以降、摂関家も含めてもはや方一町の屋敷は持てなくなったような印象を抱きかねないが、そういう訳ではない。対も対代も完全に消えたのかというとこれまたそうではない。まず一町屋の実例を挙げる。

一条室町殿

一町屋の実例

一条殿は元は頼朝の同母姉妹を妻とした一条能保の屋敷である。能保は藤原道長の庶子・右大臣頼宗から6代目で、父通重の代から一条と呼ばれるのでそこに屋敷があったのだろう。祖母の関係で後白河法皇や上西門院に近い立場にあった。 『愚管抄』によれば、京が木曾義仲の勢力下にあった寿永2年(1183年)頃、東国に下ったとされ、『玉葉』寿永2年(1183年)11月6日条によると、元暦元年(1184年)には平頼盛などとともに鎌倉に滞在していたという。平氏が滅び、頼朝が新たな権力者となると、妻の縁により頼朝から全幅の信頼を寄せられるようになる。そしてその頼朝の威光を背景に、讃岐守・左馬頭・右兵衛督・参議・左兵衛督・検非違使別当・権中納言・従二位と異例の栄進をする。

九条兼実の子良経が能保の女婿になって能保の本所一条殿に迎えられたことが『玉葉』建久2年(1191)6月25日条にある。ただしその後、兼実と能保は不仲になったようである。西園寺公経も同様に能保の娘を夫人とし、能保の一条邸に迎えられている。能保はほぼ同時期に一条殿に二人の婿を迎えたことになるが、『明月記』天福元年(1233)2月10日条にその頃の一条殿が詳しく書いてある。それによると一条殿には東殿と西殿があり、公経が当初より居住したのは西殿のようである。この東西両殿は町口小路をはさんで東西に位置してしたそれぞれ方一町の屋地だった。つまり能保は二町の屋地を持っていたことになる。なお、良経は能保娘であった妻と死に別れたあと松殿基房の娘と再婚し一条殿を去ったようである(高群逸枝『招婿婚の研究』 p.918)。ただ、良経と能保娘の間に生まれた九条道家は叔母にあたる宣秋門院の御所で育てられ、16歳で西園寺公経の娘と結婚して一条室町殿に入り、ここを伝授される。

この、屋敷の位置は高群逸枝も太田静六も一条南と解釈している。しかし川上貢は、天福火災前の西殿の正確な位置は『明月記』寛喜2年(1230)12月25日条に、後堀河天皇持明院殿に行幸されたときの経路が「一条町〔北行〕、中宮御所北路〔東行〕、室町北〔云々〕」、つまり一条大路と町口の交叉点を北に行き、当時中宮藻壁門院の御産御所であった一条東殿の北面の路を東に行き、そして室町小路に出ているので、一条東殿が東は室町、西は町、北は武者小路、南は一条大路に接する方一町の地であるとしている(川上 貢 『新訂・日本中世住宅の研究』 p.211)。

「一条北・町東」は条坊制のグリッド上での位置を示しており、こちらの図を参照されたい。一条大路は一番北端なのだが、その北端一条大路を南とする屋敷である。「一条北・町東」の「町東」はグリッドの東から8番目の町小路の東側ということである。

天福火災後の一条室町殿の位置について、道家は日記『玉蘂(ぎよくずい)』嘉禎3年(1237)4月16日条の賀茂祭の行列を見物する桟敷の設立に関わる記事で、

一条以北町以東壌御所南築垣、造櫓皮葺七間一面御桟敷

と、御所、即ち室町殿の南築垣が一条大路に面していることを記す。つまり御所は一条大路の北、町小路の東に位置している。この室町殿はその後、道家の子実経より一条殿の本御所として室町時代末期まで代か相承され、
『尋尊大僧正記』明応2年(1493)1月12日条の一条殿御所地に関する記事にこうある。

一条殿御知行御地事、南ハ一条大路、北ハ武者小路、東ハ町、西ハ小河ヲ附(限)ル御地也、南北行四十六丈三尺、東西行五十八丈余、御奉書等在之、厳重御領也、又一条殿御所地ハ、南ハ一条大路、北ハ武者小路、西ハ町、東ハ室町也

これで、一条能保の西殿、東殿はそれぞれ方一町の広さを持ったことが判る。西殿は天福元年の焼失後は再建されずに、知行地として保有していたのだろう。おそらく従者の家とか牛舎、倉などが建てられていたのかもしれない。

西殿は当初板屋小屋と評される程小規模な家であった。後に太相国とまで云われる西園寺公経は檜皮葺ですらない板屋小屋に住んでた訳だ。承久2年(1220)に造作が行われ、西を晴として、華亭と呼ばれる程の立派な屋敷となったようである。承久3年( 1221)5月の承久の乱では無事だったが、10月1日に放火で消失する。その後に再建された西殿は南に惣門をたて、晴向を東に変更した。貞応2年( 1223)に後高倉院の仮御所となるが、同年5月14日に同所で崩御する。その後も公経の娘や夫人が住んだがそれぞれ病気になりここで死ぬ。それからも色々あって、その経緯が詳しく書かれるのが『明月記』天福元年(1233)2月10日条の火事の記事なのだが、そこで定家は「今又如此、案之又不可被造欺」、つまり西殿に関わる不吉な由緒を考えると、もはや西殿は再建しない方がよいのではないかと書いている。おそらくそうなったのだろう。その後は今出川殿に対して西殿と書かれるのはかつての東殿である。『明月記』嘉禎元年(1225)4月21日条には「殿下御西亭〔室町〕」とある。その段階では西殿は屋敷には使われなくなっていたらしい。

一条室町殿の構成

方一町の一条室町殿の全容を示す指図は残っていない。公卿の日記や仏事の記録に現れる建物の名称を列挙すると次ぎのものがある。

  • (内郭) 寝殿、北対、透渡殿、東二棟廊、東対代、東中門廊、東中門、御念講堂、
  • (外郭) 北門・西小門、車宿、随身所、蔵人所(他に侍廊が見えるが蔵人所と同じだろう)。

この屋敷にはまだ透渡殿や東対代があった。

一条室町殿の寝殿

貞永元年(1232)9月、一条殿の寝殿で九条道家の娘で後堀河天皇の中宮、藻壁門院の御産御祈のための七仏薬師法が執行された。そのときの道場室礼の指図がこれである。なおこのとき生まれたのが後の四条天皇である。

寝殿造の歴史・一条殿寝殿

川上 貢『日本中世住宅の研究』より

これは寝殿母屋と東庇の東西四間、南北二間を壇所に、南庇五間を伴僧座に、母屋西方を御所に、南庇西端一間を承仕宿に割当てたことを示している。南庇に階間の書き入れがあり、ここが階隠間で、南階が位置して母屋の桁行方向中央間になる。なお東端に広庇と書き入れがある。そこから母屋は桁行三間で梁中央に柱列がある。これでは本来の母屋ではなく総柱建築だ。本来の、あるいは平安時代の平均的な寝殿ではない。東西に庇があり、そして東広庇のついた建物であったと思える。南庇の西端一間の承仕宿の間は東方と同じく西広庇、あるいは孫庇かもしれない。それを孫庇として平面図を起こしたのがこれである。北孫庇は史料に出てこない。なお、この東面の南第一間に透渡殿、北端に二棟廊が接続し、その更に東に東対代があり、東対代の南に中門廊と中門があったことになる。

寝殿造の歴史・一条殿寝殿

屋根から見るとどうなるんだろう。摂関家の寝殿なんだから入母屋造の体裁は崩すまい。しかし孫庇、弘庇を後から追加したのならともかく、最初からこう建てたのなら変な形になる。というか作りにくいのではないだろうか。私なら五間四面と見立ててこのようにする。どうせ柱は総柱なんだから平面構成と屋根は関係無い。

寝殿造の歴史・一条殿寝殿

ところでこういう総柱入母屋造にすると何か良いことがあるだろうか。勿論間取りは一間単位の組み合わせで自由自在。といっても一マス4畳半ぐらいを横につなげるか、縦につなげるかで、上の指図のように6つつなげて母屋、祈祷の道場にしようとすると真ん中に柱がくるが。しかしコスト的には梁が太くなくても良くなる。なにしろ二間の両端だけで母屋の屋根を支えなくとも良くなるのだから。この時代既にヒノキの大木は入手難なはずで、コスト的にだいぶ助かるだろう。既に貫(ぬき)の技法は広まっている頃だから柱も細くて済む。すると母屋とは何なのだろう。ひょっとして天井のあるスペース? いや、もちろんそれは今思いついたも妄想で、そうであった証拠などどこにも無いが。

ところが、それから5年後の嘉禎三年(1237)1月26日に娘婿の近衛兼経が一条殿に九条道家を訪ねたときの記事が道家の日記にある。私は弘庇を三面吹き抜けと理解しているが、どこかおかしい。川上 貢は『新訂・日本中世住宅の研究』 p.218 でこう書く。

道家は寝殿東庇の簾中に坐して待っているところへ兼経が中門廊を昇り、一旦公卿座(客亭)に坐したのち、東面妻戸より東庇に入り、そこで対面言談した。その後、兼経は公卿座に下り、引出物の贈与が行なわれたが、それは東孫庇南面妻戸より出し、中継の公卿に渡されたことがみられる。つまり、東庇の南端柱間に妻戸が東面してたち、その外の東孫庇には南面して妻戸のあったことがわかる。

弘庇に妻戸(つまど)があるのか? 弘庇じゃない、東孫庇じゃないか。南にも東にも妻戸などあるのだろうか。こうなっていたのか?

寝殿造

しかし透渡廊を渡ったら蔀なんてことがあるだろうか。確かに弘庇と呼ぶなら日中は蔀の上を上げ、下は外して弘庇状態にするだろうが。しかしそれなら何で「東孫庇南面妻戸より出し」なんだろう。下のような形ならまだ納得出来るが、聞いたことがない。

寝殿造

それについて川上はこう書く。

東西両孫庇の建具の種類は相違していて、東のものは広庇として東庇との間に外と内の間仕切による隔絶が考えられるが、西のものでは西庇との間に障子をたてただけの同じ空間内の間仕切としか考えられず、両者の空間としての取扱いは東は開放的、西は閉鎖的の明白な別がみられる。即ち、構造上、外見上東西何れも庇の二次的拡張空間であるが、それを建具によって、母屋と庇を一体のものにするか、または母屋と庇を隔絶するかによって両者の機能の別が生まれて来る。これは呼称の上で東孫庇の如き開放的なものは弘庇と呼び、西孫庇の如き閉鎖的なものを孫庇または又庇と呼んで両者を厳密に区別したようである。

解らない。そうなのかもしれないが、他に同様の例があるのだろうか。同様の例があるなら、川上貢はそれを書くだろう。どこかからそういう例が聞こえてくるまで、とりあえず5年の間に建具の追加をやったと考えておく。外に出るのに妻戸二つ経由してなど聞いたことが無いが、弘庇を孫庇に改造したからというなら話はわかる。

しかし弘庇は弘庇で必要なのだ。特に大臣家では。内裏から勅使が来るときにそこで面会するのが有職故実だからだ。それに御産御祈の指図は9月。婿殿来訪のこの記事は1月26日。グレゴリオ暦なら3月1日だが、まだまだ寒い頃。特に京の冬の夜は寒い。なので冬仕様に弘庇も風避、寒さ避けに蔀や妻戸を付けたのかもしれない。根拠の無い妄想だが。しかしあれこれ考えていると、川上貢説もうなずけるように思えてきた。夏冬バージョンではなくて、事実上孫庇なものを弘庇と強弁するには、寝殿内部、庇との間に妻戸などの隔壁があれば良い訳だ。更に壁代も御簾も下ろさなければ。そしてそこを弘庇と強弁するのにも理由が見つかった。

摂政藤原良経の京極殿

九条兼実の二男・良経は次の節で述べる一条能保の婿となり、当初は能保の一条殿に住むが、その後、他の屋敷に移り住む。その最後がこの京極殿である。建仁2年(1202)には後鳥羽上皇の後楯で摂政となり、続いて太政大臣となったが、建永元年(1206)に38歳で没した。

京極殿の造営過程は『明月記』に記されるが、それによると上棟は建仁3年〔1203)11月27日である。2年後の元久2年〔1205)には大体工事を完成し、同年7月以降には庭園関係の記載が多い。『明月記』に、元久2年7月から10月までの間にこれだけある。

七月廿一日、為御覧中御門殿御造作渡御、・・・・南庭池橋可作由、依仰沙汰之、
九月廿目、掘坤角桐樹、進中御門殿、
廿三日、早旦行東、掘桜樹栽京極殿、殿下御出、
十月十一日、殿下御移徒也、

7月21日条により、京極殿には南池があり、橋をかけるようにとの沙汰があった。9月20日条では定家が自宅の桐樹を掘り、車二輔に積んで中御門殿へ運んで進呈している。

『愚管抄』(巻六)にもこうある。

中御門京極に、いつくにもまさりたるやうなる家つくりたてて、山水池水峨々たる事にて、めでたくして、

摂政良経もこの新造京極第が余程気に入ったとみえ、半年近くを過ぎた翌建永元年(1206)3月3日に、ここで曲水宴を開くことにしたが、良経は急 死して曲水宴も沙汰止みとなった。かつての大寝殿造のように舟の浮かべられる大きな池があったことは判るが、建物の様子はわからない。当時の日記類に京極 殿指図は見当らない。指図が残るような儀式・行事を行う前に良経が死んだためである。

江戸時代の学者・裏松固禅が『院宮及私第図』中で「寝殿図拠後京極殿第図之」として図を紹介している。しかしこの出典が判らない。その図は普通儀式の室礼指図には書かれない北庇の建具(遣戸)まで描かれているので、私は信頼性が低いと思う。


初稿 2016.10.04