寝殿造 6.3 如法一町家は左右対称なのか   2016.9.25 

如法一町家

白河法皇に仕えた藤原宗忠の『中右記』1104年(長治1)11月28日条にこうある。方一町が寝殿造りの基本であると。

廿八日、午時許参鳥羽殿、今日(白河)上皇初為御覧御所大炊殿造作、依有御幸也、人々参集之後出御、内大臣以下公卿十二人前駈〔直衣〕右大臣殿以車供奉給〔檳榔車、御直衣〕、殿上人衣冠、経大宮三条東洞院、入御大炊殿東門御覧、件御所如法一町之家也、伊与守(源)国明朝臣造営、去十日上棟・・・

なおここは元藤原基忠の屋敷であった大炊御門(おおいのみかど)北東洞院西で、白河上皇御所となり、のちに1112年(天永3)まで鳥羽天皇の内裏となる。その後、その東隣の大炊御門北東洞院東が鳥羽天皇の里内裏となる。

ただしその「一町之家」が「如法」、くだけて云うと「お約束」であるのは院や公卿クラスの話である。
同じ『小右記』長元3年6月28日条にはこうも書かれる。

今年五月廿八日給左右京・弾正・検非違使等官符云、応禁制非参議四位以下造作一町舎宅事、右式(延喜左右京職式)条所存

方一町の屋敷を持てるのは三位以上、または四位参議以上であると昔から定められているのにないがしろにされているので改めて通達したということだろう。法的には「一町之家」を禁止されていた非参議四位以下に許された屋敷の広さは平安時代の文献には残っていないが、『続日本記』によると四位五位が1/2町以下、六位以下は1/4町以下であった。1/4町は方半町、60m四方の8戸主である(太田博太郎1989 p.94、藤田勝也2005 p.14)。

ただしその記述は平安京以前の条であり、平安時代初期には同様であっても、平安時代末の状況ではない。『小右記』長元3年6月28日条のようにその禁制が何度も告知されるということは、逆に守られてはいなかったということの現れでもある。受領の京宅は官物の倉庫の意味もあるが、一町規模の屋地をもつものが多かったようである。

10世紀 912年(延喜2)の『七条例解』(平安遺文 207号)に出てくる正六位上大海当氏の櫛筒小路の屋敷は4戸主であり、その敷地に母屋三間に四面庇、更に叉庇、小庇を持つ床張りの建物と、2宇(軒)の五間板屋、つまり板葺きの土間床の建物を持っている(藤田勝也2005 p.49,p.67)。五位が大量生産された平安時代末期から鎌倉時代初期の五位クラスの都市部での宅地感覚はこれぐらいではなかろうか。

8戸主の屋敷は鎌倉でも発掘されている。最上級ではないが上級の屋敷である(今小路西遺跡)。文献上で北条氏の屋敷を戸主で表したものは嘉元の乱直後の1305(嘉元3)年5月30日の「駿河守(宗方)跡小笠原谷地八戸主事、可為醍醐座主僧正坊管領・・・」(鎌倉遺文22226:前田家所蔵文書)がある。これとも関係するがやはり前田家所蔵文書(鎌倉遺文24063:1310(延慶3)年9月15日)に「名越善光寺入地〔陸戸主〕事、任越後守実時後家代成覚今年六月四日相伝状・・・」がある。(『鎌倉市史・総説編』p233)。

「如法一町家」は屋地の広さという点では確かに「法」である。ただしそれは公卿以上は一町の屋敷を持ってはならないという「法」だが。その法が守られていなかったことは1096年の従四位下大江公仲の坊城第をみても明らかであり、従四位下大江公仲は一町の屋地を三つも所有していた。冒頭の『中右記』1104年(長治1)11月28日条の分脈には全くそぐわない。そこでの「如法一町家」はいったい何を指しているのだろうか。『中右記』長治1年(1104)11月28日条にある「如法一町家」の内容は元永2年(1119)3月21日条に藤原宗忠が書く「東西対東西中門如法一町家」の意味だろう。冒頭の長治1年(1104)11月28日条はその姿を屋敷の理想的な姿として賞賛する文章である。冒頭の記事より2年数ヶ月前、康和4年(1102年)1月5日には既に弁ので参議、正三位に達していた藤原宗忠が、諸大夫ふぜいが「違法」に所有することもある「一町家」を院御所として賞賛する訳がない。

寝殿造りは左右対称なのか

太田博太郎

藤原宗忠の『中右記』「東西対東西中門如法一町家」を最初に取り上げた太田博太郎は、寝殿の東西に対を有する左右対称で典型的な寝殿造を指すものと解釈した。賞賛しているのだからそれを理想型、典型を思うのは当然だろう。

1972年に太田博太郎はこう書く。

沢田名垂の寝殿造の定義は、

 定式の寝殿造なれば、対屋・東西廊・中門・池・島・釣殿などいふもの具足せざれば、旧制にかなはず。

といって、左右対称の図を示している。この考え方の中には、一つの基木形あるいは理想形が、寝殿造の定義として入つでいる。そして、諸氏の寝殿造の定義はこれをそのまま受けついでいた。したがって書院造の定義の仕方と、寝殿造の定義の仕方には、その方法に矛盾があった。堀口はこれに反対して、平安時代の公家住宅がほとんど左右対称それは、形でないことを述べ、

『家屋雑考』の中に寝殿造古図として載せている平面図や、「九条家本塊門」として伝えられる図は、いずれも理想的な絵として観念的に描き出された素描であろうと思われるものである。このような形を寝殿造の定式として定義付けたために、この時代に現実に行なわれた建築のほとんどすべてのものが、当て嵌められなくなってしまったのである。

とする。
たしかに一般的に、ある様式の定義をするとすれば、ここにいわれるように、その様式に属すると思われる一群の建物のなかから、共通的な特色を抜き出して列挙するよりしかたがない。しかし、もし当時の住宅の理想形なり、基本形が、かなり広くの人に認められていたとしたらどうだろう。その基本形をあげて説明するのが、一番分りやすくはないだろうか。「寝殿造は左右対称の配置を持つ」と定義してしまえば、対称形でないものは、寝殿造でなくなる。しかし、 「対称形を基本にする」というのだったら少しも差しっかえない。また、千変万化の現象をとらえるには、やはり多少の矛盾はあっても、図式化し、単一化して 考えるほうが理解しやすい。
これは、一つには考え方の遠いだから、どちらがいいと一概にはいえないかもしれない。しかし、こういった考え方をした方が、少なくとも私にはずっと分りやすい。ある基本を考えて、他はその変化とみた方が理解しやすいのである。
しかし、その基本形というものが、ある個人だけの考えではだめである。当時かなり広く認められていたことでなければならない。幸いにして、寝殿造の場合には、中御門宗忠が、その日記『中右記』のうちに、

東西の対、東西の中門、法の如き一町の作りなり。

と書いている。「如法一町家」という言葉は数カ所に出ており、「如法」というのだから、当時、これが一般にこの認められていたことが分る。(史論集2、『書院造』、1972年、pp.96-97)

それも一理ある。しかしそれを「理想形」「イデア」としてではなく、太田静六のように寝殿を縦にしたような東西の対屋があった「本来の寝殿造の時代」の現実の形と考え、東三条殿や堀河殿をそれからの変質期ととらえるとなると、太田博太郎の意図からは外れる。

中御門宗忠が『中右記』に、「東西の対、東西の中門、法の如き一町の作りなり」と書いた「法の如き」は当時としてもなかなか無い賞賛すべきものへの賛辞であり、藤原道長頼通の 時代に「理想型」としたのは内裏である。藤原道長や頼通の摂関時代最盛期には焼亡した内裏の再建を放り出して自分の邸第、土御門殿や高陽殿の建設に夢中に なっており、もしかすると太田静六が「本来の姿」とする東西の対があったのかもしれないが、あったとしてもむしろその方が例外である。

堀口捨己の弁

ところで、その太田博太郎の発言が誰を向いていたのかというと、堀口捨己である。堀口捨己は昭和18年の「書院造について」でこう云う。

(家屋雑考は)寝殿造りの定義を左右相称に組み建てられた形で、いうところの「対屋造り」の完全な理想的絵をもってしているのである。これはしかし、平安時代においても鎌倉時代においても、このような形の整った大邸宅はほとんどこれに当るべき実例がないに近い結果を生んだ。
寝殿造りの最も盛んであった時代と考えられる平安時代後期に描かれた御物聖徳太子絵伝の中に現われる多くの宮殿は、飛鳥時代の様子を画いたとは思えないもので、ほとんどすベてが平安時代の宮殿の姿で表わされていると、考えられる。
そ の中には多くの寝殿造りに近い形の宮殿も、一つとして左右相称のものはなく、家屋雑考の定義のような寝殿造りは出て来ない。また宇治平等院鳳風堂の扉絵も 平安時代の住宅をいくつも描いているが、この中にも家屋雑考の定義に当てはまるものは出てこない。世に閑院内裏図、として大規模な左右相称の里内裏の図が伝えられているが、これが一つの理想的な宮殿の絵となって、寝殿造りの絵も出来てきたのではないかと思う。(『書院造と数寄屋造の研究』、 pp.29-31)

御物聖徳太子絵伝までは知らなかった。

『家屋雑考』の中に寝殿造古図として載せている平面図や、「九条家本槐門」(槐門:かいもんとは大臣家の意)として伝 えられる図は、いずれも理想的な絵として観念的に描き出された素描であろうと思われるものである。このような形を寝殿造の定式として定義付けたために、こ の時代に現実に行なわれた建築のほとんどすべてのものが、当て嵌められなくなってしまったのである。また寝殿造りをこのような形として考えることのため に、寝駁造りの中心である寝殿だけのものや、その規模の小さく略された住宅は特殊なものとなり、それに侍所とか遠侍等のついた鎌倉時代の武家の邸宅は寝殿造りの中に入らないことになって、そのために今日の住宅史において武家造りのような一つの様式を別に考え出さざるをえないような結果となったのである。こ れは家屋雑考の寝殿造りの定義が当を得てないために起ったのであって、今日では何もそれをそのまま踏み襲う必要はない。
建築の様式は、歴史的にか、地理的にか、何らかの関係を持つ建築の群の中から、まずその特徴が抽き出され、その共通するものが一つの体系に纏め上げられることによって、成り立つ のである。寝殿造りにおいても、様式としては、平安時代を中心にその前後の時代の住宅群の中から、まず共通な性質を抽き出さなければならないであろう。 (『書院造と数寄屋造の研究』、p.32)

家屋雑考の中に掲げた古図や、定式として掲げた条件は、寝殿造り様式の一種、特に高級な対屋造りの理想的な模型に過ぎないのであって、それは一般に寝殿造りの定義にはならない。(『書院造と数寄屋造の研究』、p.35)

全くその通りだと思う。そしてこれはもう73年も前に言われていることなのである。そして太田博太郎が先の様に書いてから既に半世紀近くが過 ぎようとしている。太田博太郎が意図したように寝殿造のイメージは正しく伝わったのだろうか?

いや、今でも寝殿造のイメージは『家屋雑考』や『稿本日本帝国美術略史』とさして変わらない。今風に言い直せば『源氏物語』の六条院復元図や復元模型が中心となっている。『源氏物語』の六条院に北対は書かれていたか?

ネット上の個人サイトはもちろんのこと、京都府の公式サイトやら一級建築士の受験勉強までそのベースとなると話は変わってこよう。太田博太郎は正しい建築史知識を広く広めることに心血を注ぎ、記述も平易な説明を心がけているが、しかし今のこの現状は太田博太郎の望んでいたこととは違うだろう。

太田博太郎の対称形とは

太田博太郎は何故寝殿造を 「対称形を基本にする」と云いたかったのだろうか。おそらくこういうことではないだろうか。

  1. 日本に伝わった大陸式の建築は宮殿(内裏)においても、官衙においても、寺院においても左右対称を基本とした。
  2. 平安時代になり、大陸風を正式としながらも徐々に国風化も進む。高級邸宅の国風化は寝殿造として結実化するが、寝殿造の頂点(『日本建築史序説・初版』 1947、史論集1、p.64)とされる藤原道長の土御門殿や頼通の高陽院(かやいん)まではまだ左右対称を理想としていた。
  3. しかし「その後ようやくその左右対称の配置は破られ、対代・小寝殿などが出来るようになった。これは一面からいえば住宅の実用性の尊重を示すものであり、また左右均整の大陸的な表現から、対称を破った自由な日本的表現への移行とも見られよう。かくして平安時代の後半にはいろいろ変化の多いものも出来た・・・」(『日本建築史序説・初版』 1947、史論集1、p.64)
  4. 室町時代の義政の東山殿などは「寝殿造とは相当違って、次の書院造と同様な点を多く見いだすのである。その特徴の第一は左右対称性の放棄である。(中略)。建物の配置においても、左右の対の一方を略したというような、基本形として左右対称の形を考えていたものとは違って、実用を主として、自由な配置が考えられるようになる。」(『日本建築史序説・初版』 1947、史論集1、p.78)

この筋書きなら理解出来る。この論法で云えば、鷹司兼忠の中門廊が片方にしかない寝殿造も、『法然上人絵伝』の漆時国の館藤原定家の屋敷すらも「対称形を基本」として、その一方を省略しただけのものなのだ。そして寝殿造と書院造一番大きな違いが理解できる。

川本重雄の主張

川本重雄2012 によると「中右記」の中で「如法一町家」または「如法家」と記されている住宅は、(1)大炊御門北東洞院西殿、(2)三条北烏丸西殿、(3)六角東洞院殿、(4)土御門北高倉東殿、の四つであり、大炊殿と三条殿は東対・寝殿・西対代廊からなる構成。土御門高倉殿とおそらく新大炊殿もその反対に東対代廊・寝殿・西対という構成で、寝殿の東西両方に対、あるいは両方に対代廊が建つというような、きちんとした左右対称な寝殿造は一つもなく、一方に規模の大きな対を、他方に小規模な対代廊を建てる左右非対称なものばかりである。それがが「如法一町家」の一般的形態であった。
要するに『中右記』の「東西対東西中門如法一町之作也」や「如法一町家左右対中門等相備也」とは寝殿の東西に対であれ対代廊であれ、対と呼べる建物が両方に揃った屋敷を「法の如し」つまりあるべき典型像と云っているのである。
ところで太田静六は、院政期の寝殿造は東西の対のうち一方に対、他方に対代廊という明らかに規模の異なる対による左右非対称な寝殿造であるので、寝殿造の典型像というよりもそれが衰退していく過程に位置するとする。先に紹介した藤田勝也の4段階の3段階目、「変質期」である。
それに対して川本重雄は次のように主張する。

「如法一町家」が左右非対称な形態だからといって、それを左右対称な寝殿造の衰退したものであると片付けてしまうことは危険である。少なくとも十一世紀末頃の人には、それが「如法」と考えられたわけであるから、衰退像というよりは理想像とみなされていたことは明らかである。(川本重雄2012)

本当に摂関期が「成立期」、あるいは全盛期で、院政期が「変質期」あるいは「衰退期」なのだろうか。

関野克の弁

その論争のはるか昔、『日本住宅小史』(1942)の中で関野克は次のように述べる。先に「住宅建築が生活圏内に包含される場合」を紹介したが、今度は「住建築の一部に生活圏が営まれる場合」である。

日常生活とは全く関係ない方面から何等かの方法で、住建築が与へられると、この現象が起る。
複雑化した文化層内にあって家を造る技術者が、生活する人と職能的に分離してしまふと、技術者はその時代の最高の技術、例へば宗教建築で修得した技術や外国から輸入して来た技術によって家を建てることなる。それは多くり場合或る時代の最高位の宮殿や邸第に於て見られる現象である。日本の中世公家の寝殿造はこの様な範囲に入れて考へると興味あることである。
上位の寝殿造はその基本形式に於て、南面する寝殿を中心として大陸的な左右対象の配置をとったのであって、実用上の必要から生じた殿廊配置でないことは明らかである。全く機械的な造形物の中に流体の如き生活が流れてゐたのである。或る部分では狭い所に多くの分量が流れ他の部分は全く流れる必要が無かったと思われる。
又寝殿造を構成する各建物を観察するに平面は矩形(長方形)で身舎の四方に庇を附し繞(めぐ)らすに簀子を以てした。身舎と庇とは夫々一つの部屋であるけれども,その間に歴然たる隔壁は殆ど存せず、一部に襖障子を立て、多くは簾を垂れる程度に過ぎない。且つ総板敷で神殿や仏殿に近い性質を有し、実際社寺大工により建築もされたのであった。そのー殿一室は恰も歌舞伎の舞台の如きもので、大道具・小道具によって生活圏を設定しなければならなかった。その事を舗設(しつらえ)と称し、季節に応じ叉年中行事に従ってその都度改装したのであった。
それには置畳・帳台を座具とし、几帳、軟障、帷帳、屏風、障子を遮蔽具又は間仕切とし、各種座右の道具も加へてその配置は有職の道に通じた人に委ねられてゐたのであった。則ち中世に於ける舗設は建築と生活との遊離を調和する為め生活の要求から生じた制度とされる。家と生活との遊離はかうした大住宅に関して常に起り得る問題であると同時に,外国様式の家屋が住宅として輿へられた時、生活が充分外国風に慣れ切れない場合にも起り得る問題である。

「大陸的なに左右対象の配置」は「実用上の必要から生じた殿廊配置でない」と。「全く機械的な造形物の中に流体の如き生活が流れてゐた」とは凄い表現だ。

東三条殿の殿廊配置は依然として標準寝殿造の配置に根幹を置くも、各殿はその用途に応じ平面緻密となり,主要殿宇である寝殿東対の平面は一層複雑となり、 東中内廊に附属する二棟廊・侍廊等に重点が置かれたのに反して、西対・西二ノ対に相当する部分は極度に簡略化され,西中門廊の如きは土廊に過ぎたにかった ことなどは誠に注目すべきことである。則ち大陸的配置のもつ超現実性に憧憶を懐き無批判的に取入れることに出発した平安時代公家の住宅も漸く形式主義から 離脱しつつあったことを知る。(p.73)

確かに「標準寝殿造の配置」という言葉は使うが、それは「大陸的配置のもつ超現実性に憧憶」「形式主義」であって、それが本来の寝殿造というようなニュアンスは無い。関野克の『日本住宅小史』での「公家住宅」は大化の改新以降鎌倉時代までの「公家住宅」の諸行無常であって、「本来の寝殿造」などあまり考えていない。

公家住宅は平城京以来その発展の途土に於て,各種の段階を示したであらうし,摂関家時代以後藤原氏によって代表される上位の公家住宅の実際は更に複雑なものであり、末期に至つては漸く変形も行ばれてゐるのである。寝殿造は一般に上述の如き家屋雑考の範囲に留まるけれども,此処では更に一歩進めて中世公家住宅建築の形式を指すものとする。

という。

以下私の意見だが、『家屋雑考』が描く寝殿造など「そりゃ誰の屋敷だ!」と云いたくなるほどのもので、忘れてしまった方が良い。平安時代の貴族の屋敷を「寝殿造」と呼ぶことだけ頂いておこう。そもそも『家屋雑考』が描く寝殿造は、間違っているところを訂正しても最盛期の摂関家の屋敷しか意味しない。それも里内裏としての利用を意識した邸宅である。大臣まで含めて、摂関家以外の公卿がそんな屋敷に住んでいたという痕跡は何処にも無い。諸大夫に至ってはなおさらである。もしも寝殿造を最盛期の摂関家の屋敷に限定するのなら、それ以外の、あるいは貴族の住宅全般を表す類型名称を提示しなければならない。関野克の「中世公家住宅建築の形式を指すもの」という踏み込みは実に的を射ていると思う。「中世」に引っかかる人がいるかもしれないが、ここでは平安時代の少なくとも後半は含めている。

宗忠の中御門亭は是等に比し小さいが、同系統で当時隆盛の極に達した大寝殿の縮図に外ならない。前記大江公仲の住宅を下よりの寝殿造とすれば、藤原宗忠の住宅は上よりの寝殿造と称するととが出来ると思ふ。p.66

「件御所如法一町之家也」と『中右記』1104年(長治1)11月28日条に書いた右大臣・藤原宗忠の屋敷は「件御所如法一町之家也」ではない。中御門亭は寝殿、北対、二間子午廊、侍廊、中門廊、車宿、西門、北門など寝殿以外十棟である。その中御門宗忠の屋敷を寝殿造の上の方と関野克はみなしている。


稲垣栄三の弁

稲垣栄三はどちらかというと神社建築史の方で有名な方だが、稲垣栄三著作集(全7巻)の内に寝殿造についての論考を3巻の冒頭に38ページ残している。稲垣栄三は11世紀初頭、藤原氏が全盛期をむかえたころの寝殿造の標準形は左右対称の配置であったろうとする。

今まで明らかにされた平安末期の邸宅のプランのなかには、このように厳密な対称性を備えたものは一つもなく、東西対のうちのどちらかを欠いた例しか知られていない。それにもかかわらず、前には東西対の両者を備えて、それ故に左右対称の配置がとられていたであろうと推定されるのは、末期の諸例の形式が、本来完全な配置形式を保っていたはずのものが崩れてそのようになったことを示唆しているからである。

そうでないと東三条殿のようなプランが生まれる理由が理解できないと。東三条殿のようなプランというのは、西対がなく、その位置に西中門廊がくるという変則な配置でありながら、なお寝殿の西には透渡殿(すきわたどの)を設け、東中門廊と対置する位置に西透廊を延ばして南庭を囲んでいる」ということである。東三条殿でも寝殿中央を通る中心軸がまだ意義を失っていないと、そしてこういう。

「寝殿造における左右対称というのは、東西対の存在のみをいうのでなく、東西にある中門廊・透廊が南庭をとり囲むことではじめて完結するのである。」 (pp.27-28)

なんか似たような意見を聞いたことがあるような。といってもこの稲垣栄三の主張の初出は1965年。似たような意見とはその半世紀後の藤田勝也のことなのだが。

稲垣栄三は寝殿造の標準形は左右対称の配置であったろうとするが、しかし東西共に塗籠を持った対(つい)によるきちんとした左右対称な寝殿造とまでは云ってはいない。そして、

一般的にいって、寝殿造の配置形式は儀式と無関係ではないが、儀式的要求から生じたという考えはおそらくなりたたない。(p.30)

という。では何が左右対称の配置だというのだろうか。少し長いが引用してみる。

寝殿造が左右対称を標準形とし、末期においてもその形をある程度止めていたとしても、その原則を固守する契機は当時の生活のなかには認められないのである。むしろ十二世紀の諸例や記録が伝えている意図は、庭の左右に廊を延ばして視線を遮り、完結した空間を造ることこそが必要だったので、 東西対を完備するという形で厳密な対称形を維持しなければならない理由はなかった。儀式の場合も、閉鎖的な南庭と、その周囲の南庭に向かって開いた床上の 部分とを必要とはしたが、特殊な場合のほかは軸線をそこに設けようとはしなかった。だから対の一方を欠くとしても、透渡殿や中門廊が庭の周囲を閉してい れば、標準形のもっていた意図を貫くことができたわけである。居住空間ではない中門廊や透廊が、当時どれほど重視されていたかは次のような文からもうかがうことができる。

透廊なし、毎事言ふに足らず、はなはだ見苦し(玉業)
末代適透渡殿を作るの家すでに断絶か、これ京中の運尽くるの故か(明月記)

兼実や定家の嘆きは、十三世紀の邸宅に、すでにかつての寝殿造とは別の秩序が支配しはじめたことを示している。透廊や透渡殿は、二人の口吻から察すると、貴族の文化の象徴のようにさえ聞こえる。十三世紀の邸宅はすでに左右対称形を全く止めないが、それは相称への理念が崩れたのではなく、建物と庭とが一体となったところに展開した貴族の優雅な生活が崩壊したのである。(pp.32-33)

川本重雄や藤田勝也の見解と何処がどう違うのか良く解らなくなる。結局のところ東西共に塗籠を持った対(つい)によるきちんとした左右対称な寝殿造こそ本来の姿と拘ったのは太田静六だけではないのか?

何が左右対称なのか

現段階での私の意見をまとめてみよう。但し思いつきを防備録的に羅列しているだけだが。

初期の大寝殿造は大陸的な左右対象の配置だったろう。大陸、つまり中国は当時の日本にとって群を抜いた先進国である。それを模倣することがひとつの格式である。だいたい格式という言葉は中国伝来の律令制を堅持しようとする意図でまとめられた延喜格延喜式から生まれた言葉である。

ただし、当時の摂関家が中国の邸宅を直接知る訳がない。大陸的な左右対象の配置を最初に取り入れたのは飛鳥、奈良時代の大寺院と大極殿以下の朝堂、そして内裏である。摂関家がまねたのはその内裏である。内裏には池が無いって? 離宮の神泉苑がある。

ところで、左右対象とはどこが、という問題。

太田静六は『寝殿造の研究』において38もの邸宅の推定図を書いたが、その中で東西の対(対代と記されているもの及び小寝殿を除く)が揃っているのは以下の5件だけである。太田静六の推定図はどうも信用ならないのだがここではそれを前提としておく。

  1. 第一期土御門殿(道長時代、991頃-1016)
    「道長邸であると共にその前半に於ては東三条院詮子の御所として、後半には上東門院彰子の御所として、また後一条・後朱雀両天皇御生誕の場所として重要な役割を果したが、その最後を飾るものは後一条天皇が同邸に於て即位されたこと」(p.157)
  2. 第一期一条大宮院
    「長徳四年(998)十月に新装なった一条院を最初に用いられたのは無論、東三条院詮子(一条天皇母)」 (p.184)
  3. 第一期枇杷殿
    「この時の枇杷殿は道長自身は殆ど使うことなく、最初から道長の血縁関係にある天皇の里内裏とか、東宮御所として用いられた」 (p.194) 
  4. 宇治関白藤原頼通の邸宅・高陽院の一期
    里内裏にはなっていないが、駒競行幸や朝観行幸が行われる。 (p.242)
  5. 藤原教通の二条院
    「長暦四年(1040)十月二十二日に後朱雀天皇が東北院から教通の二条院に遷御あり、皇内裏とされた」 (p.282)

1/7〜1/8では両対がきちんとそろった左右対称の寝殿造があったとしても、それはほとんど例外と云っても良い程度ではないだろうか。例えば『古建築入門』の最後のページに、飛鳥時代から奈良時代の寺院伽藍の図がある。一見左右対称だが、良く見るとまちまちである。その中の薬師寺の伽藍配置を見て、これが古代寺院の伽藍配置だ。それから外れるものはみな変質なのだと云っても全く意味はないだろう。第一平安時代の内裏は本当に左右対称か? 清涼殿と綾綺殿は全く違うだろう。

もう少しアバウトに考えてみよう。寝殿の庇で宴会をやっている。その寝殿造の左右にそれなりの建物がある。更に両側に廊が突き出ている。催馬楽の「此殿」にある

この殿は むべも むべも富みけり 三枝の あはれ 三枝の はれ
三枝の 三つば四つばの中に 殿づくりせりや 殿づくりせりや

の光景はそれで十分だろう。そしてそれが立派な屋敷と思うのは当時最高の権威である内裏の紫宸殿からの光景に似ているからだろう。では何故その左右対称が崩れたのか。 

摂関時代には里内裏も用いられたが、内裏は焼亡してもすぐに再建され、最高の権威、晴れがましい宮殿として上級貴族の目にやきついていた。ところが院政期になると、院が内裏にいないばかりか、幼い天皇も内裏にはいない。1082.07.29 に内裏が焼亡したあと、再建されたのは約20年後である。紫宸殿からの光景が晴れがましい宮殿として上級貴族の目にやきつくことはなくなった、あるいは極度に減少したことが大きいのではないだろうか。

もちろん、受領などの人事権は摂関の手を離れて、大国の受領は院近臣が独占するようになり、道長や頼通の頃のように、受領の成功を受けられなくなり、忠実など女院の屋敷や荘園を自分の元に一本化し、摂関家領荘園を形成して経済基盤の建て直しを図るのが精一杯で、豪勢な邸宅を再建するような余裕はなくなる。唯一焼け残っていた東三条殿を儀式用施設として、摂関家の対面を保っていた。

更に孫の基実の死で、その財産の多くは妻の平盛子を通じて清盛の手に移ってしまう。そして承久の乱で、天皇家は形式的には最高の権威であっても、実質は関東(鎌倉幕府)の風下にあることは貴族の目にも明らかとなり、『十六夜日記』の阿仏尼やその子冷泉為相のように、貴族の財産相続の訴訟すら関東に頼む有様である。

最高の権威、晴れがましい宮殿としての内裏など、実態としても、また貴族社会の記憶からも消え去ってしまう。模範となるものが薄れ、消滅したことが、左右対称の消滅のもっとも大きい要因ではなかろうか。関野克の言葉を借りると、「大陸的な左右対象の配置」「日常生活とは全く関係ない」「住建築の一部に生活圏が営まれる場合」としても寝殿造は、こうして「実用上の必要から生じた殿廊配置」に近づいたと。そのときに残ったのが寝殿に二棟廊、中門廊に侍廊、車宿で、新たに常御所が日常生活の場として加わる。

上の5件は全て全盛期の摂関家の手によるものである。さらに、純粋に自分の住まいとして心血を注いだのは関白藤原頼通の邸宅・高陽院の一期二期だけである。頼通は邸宅や庭園に特別な関心を抱いていた。その高陽院も二度の被災のあとの第三期高陽院は専ら皇内裏として使われた。新たに加わった常御所は別として、寝殿に二棟廊、中門廊に侍廊、車宿という後期の構成は、摂関家全盛期でも、中流貴族の屋敷に見られたのではなかろうか。

寝殿造を摂関家最盛期の摂関家の邸宅とでも定義するのであれば、太田静六の弁は成立するのだが、そんな定義には何の意味もない。それに院政期の「件御所如法一町之家也」は寝殿造のことではないということになってしまう。

寝殿造とは何なのか

先のページで紹介した藤田勝也1999 の『日本建築史』は建築史の教科書として編集されたものであろうから、当時の学会で主流であった見解を無視する訳にはいかなかったのだろう。しかし2012年の『平安京と貴族の住まい』は教科書ではなく、タイトルには似合わない専門書であるので「第2章「寝殿造」とはなにか」の中では遠慮無く自説を 展開している。曰く、

 論者の開には見解の相違がむろんあるが、第一に、寝殿造の歴史には左右対称の時期があっ たという見方をする点、第二に、「如法一町家」は配置構成の左右対称性・非対称性に関わる言葉である、と解する点では共通している。いずれも配置構成の左右対称・非対称に拘り、それが大きな論点とされる。

 しかしながら第一の点に関して、文献からもこれまでの発掘事例からも確証はなく、根拠は脆弱である。にもかかわらずそのように評価した背景には『家屋雑考』の「寝殿造鳥服図」の影響が考えられる。これについては次節以降で検証する。

 第二の点につい て、まず『中右記』の記主中御門宗忠が記したのはたとえば「東西対東西中門加法一町家之作也」「加法一町家左右対中門等相備也」である。寝殿の東西(左 右)に対、中門等が備わっていることであると確かに記してはいる。しかし左右対称とは記していないし、非対称性をことさら強調しているわけでもむろんな い。

 留意されるのは、「如法家」の記述に「寝殿」がみえないことである。これは視点を寝殿内部におくことによるからではないか。当然のことながら視点=寝殿は記されない。つまり「如法家」として彼らがまず重視したのは、南庭から寝殿方向ではなく、寝殿から南方の外部空間を眺めたときの、寝殿の前方左右(東西)が、対や中門等の建物によって囲繞(いじょう)されるという視覚的印象と考えられる。 これが第一義であって、囲繞していれば対代でも対代廊で も構わない。東・西対の規模などは二義的である。(藤田勝也2012 pp.89-90 改行読み追加)

たしか藤田氏は2005年の「平安京の変容と寝殿造・町屋の成立」でも寝殿からの見え 方を云っていたと思う。ただしもっと控え目な表現だったと記憶する。13年の間に段々意見が固まったのか。なお上記引用中の論者とは太田静六と川本重雄の 論争を指している。『家屋雑考』とはこのシリーズの冒頭に書いた江戸時代のものである。

江戸時代の『家屋雑考』や前世紀中頃に太田静六が思い描いたような、あるいはかつて歴史の教科書(例えば『詳説日本史』 山川出版社, 1960年)に載っていたような左右対称の寝殿造など無かったとすると、いったい何が寝殿造なのだろうか。

それにしても京都府サイトのこの図は誰が監修したのだろう。車宿のとなりにあるのは侍所だって?そんなバカなこと!

その問題に一番ラジカルな発言をしているのは藤田勝也だと思う。2012年の前掲書にこう書いている。

十三世紀から十九世紀まで一貫して看取されるのは、
 一定の建物群とその構成、さらに内部空間のあり方である。まず寝殿を中心的な存在として、寝殿から公卿座、侍廊、中門廊、中門、門という建物群は定式化した組み立てをもちつつ、路から寝殿に至るアプローチの空間を形成していること。
  つぎに、それらと反対側に堺、柵列等をめぐらせて寝殿正面を囲焼し、広庭を形成すること。中門から内側、寝殿正面(すでに南面とは限らない)に展開する外 部空間は、寝殿内部の空間と連続的な領域を形成し、ここで内外一体となった空間には伝統的な諸儀式の展開が想定されている。
 そしていまひとつに、内部空間における母屋・庇からなる空間的序列へのこだわりが指摘できる。口絵5では一見したところ縦横の間仕切りによって各室を羅列したに過ぎないようにもみえるが、儀式時には、母屋・庇の区別が明確に意識されている。

時代を超えて存在する「型」、一貫して変化しない「型」。それが様式というなら、寝殿造という様式は上記の三点をその本質とするものと考えられるのである。(藤田勝也2012 pp.102-103 改行追加)

私は江戸時代の復古調まで含める気はないが、しかしこの三点には頷ける。公卿座が流動的だった、というかその名が無かった11〜12世紀でもこの三点はあてはまるだろう。

具体的な兆候でのフェーズ分

冒頭に紹介した『日本建築史』での、1.準備期、2 成立期、3 変質期、4 形骸期という分類は20世紀での一般的分類である。それを書いた本人すら今ではそうは思っていないようだ。ならばもっと具体的な兆候でフェーズ分けをしてみた方が実り多いのではないか。そういう点では寝殿造を行事・儀式の場ととらえて、寝殿中心の儀式から対中心の儀式への変化を指摘した川本重雄の研究は魅力的である。そして里内裏の及ぼす影響である。里内裏では寝殿を南殿(紫宸殿)にみたて、対のどちらかを中殿(清涼殿)に見立てた。そして研究対象になるような大寝殿造は里内裏になるときに手を加えられ、あるいは最初から里内裏として建設されるようになる。

そこから先は仮置きだが、小御所の出現。対の消滅(二棟廊の格上げ)、寝殿母屋の仕切り、弘御所の出現などがメルクマール、ターニングポイントになるのではなかろうか。「寝殿母屋の仕切り」も含めたが、主に藤田勝也の云う周辺部である。藤田勝也はこう云う。

画期となる空間の変容、新しい様式の萌芽は、中心ではなく周辺部にある。このことについて、たとえば中世の住宅を代表する足利将軍御所において、新たな施設である会所の建築は、寝殿一郭とは異なる領域から発生している。しかも会所内部をみると、主室ではなく周りの諸室に飾り付けのための装置が整備され、それらが時代を経て主室に揃うことによって書院造の座敷飾りが成立する、という指摘がある。遡って院政期の貴族住宅では、中心部ではなく周辺部にこそ次代へ繋がる多様な空間の変容があった。
このように胚胎し成長する空間的変容は中心ではなく周辺にあり、そこから新たな空間が生まれ、新たな様式が成立する。あるいは日本の住空間に広く見られる普遍的な歴史の原理ではないのだろうか。筆者はそのように考えているが、詳細は今後の課題である。(藤田勝也2012 改行追加)

「詳細は今後の課題」では私が困ってしまうのだ。早く仕上げて欲しい。

初稿 2015.11.05