寝殿造 7.3.4    御所・二条高倉殿     2016.11.7 

概要

位置

二条高倉殿とは二条南、押小路北、高倉西、東洞院東のほぼ方一町の地を占める御所である。

ここには鎌倉時代初期に後鳥羽院の御所があった。そのときの敷地は南北行一町半あり、南限は三条坊門に達していた。しかし、建仁3年(1203)12月2日に焼失する。その後しばらくは史料が無い。

第一期

亀山天皇の代になって同院の外祖母今林准后の屋敷として再び姿を現す。『門葉記』「七仏薬師法」「弘長2年(1263)10月14日。於二条東洞院准后亭。為皇后宮御産御祈被修之」にみえる准后亭がこの御所と思われる。この准后とは四条隆衡娘で西園寺実氏の正室大宮院後嵯峨天皇中宮で後深草亀山両天皇の生母)、東二条院(後深草の中宮)の生母であるため准后の称号を与えられた。ただしそれがいつ建設されたのかは不明である。その屋敷はのちに亀山後宇多両天皇の内裏にも使用されたが、弘安元年(1278)閏10月13日に焼失する。本稿ではそれを第一期と呼ぶことにする。

『百練抄』正元元年(1259)10月21日条「上皇一品二条亭新造之後移徒之儀也」があるが、一品は院の第一皇女、内親王である。調べてはいないが年代からしてこの院は後嵯峨院だろう。この屋敷は『妙塊記』文応元年(1260)4月28日条に上皇は二条殿より石清水八幡宮への御幸が記され、経路に「出御高倉西北門南行き押小路西行、東洞院南行、五条西行」とあり、高倉小路に面した門を西北門と呼んでいることから、この二条殿は高倉小路の一町東へずれている。しかし「高倉西北門」を「高倉面北門」の誤記・誤写であればこの屋敷のことかもしれない。そしてその可能性は非常に大きい。

例えば後で出てくる「有快法印記云、広御所南北ハ東西三間也」。誰が考えても「東面三間也」だろう。古文書の「西」と「面」は非常に区別がつきにくい。「右」と「左」すら誤写されることがある。

第二期

5年後の弘安6年(1283)に二条高倉殿は新造完成し、同年10月10日移徒が行なわれた。第二期と呼ぶことにする。この御所は、後宇多天皇の内裏、伏見天皇の内裏そして譲位後の院御所、つづいて後二条天皇の内裏に用いられたが、天皇崩御ののちに大覚寺に施設の一部が移建されて消滅する。


寝殿の指図

第一期

『五大虚空蔵御修法記録』弘長元年(1261)7月6日の「二条高倉殿寝殿指図」

先に触れた通り、これがここで云う二条高倉殿かどうかは確証が無い。二条大路と高倉小路に面する坪(一町四方)は四つある。先の『妙塊記』にある「出御高倉西北門南行」の屋敷があるので史料上もほぼ同時期に二つの御所があることになる。ともかく弘長2年(1263)10月14日の『門葉記』「七仏薬師法」以前は二期の御所と同じという確証が無いのだ。ただし「出御高倉西北門南行」が「出御高倉北門南行」の誤写なら、弘長元年(1261)7月6日のこの指図はこの御所のものとなる。

門葉記』は伏見天皇の第6皇子、青蓮院門跡で天台座主にもなった尊円法親王(1298-1356年)が、それまでの記録をまとめたものである。その段階で書写であり、現存するものは更にその書写である。『吾妻鏡』など「右」と「左」が逆というものもあり、「面」と「西」の写し間違いは古文書ではさして珍しいことではない。

寝殿造院御所・二条高倉殿

道場はオレンジの部分である。御聴聞所の記載はないが、畳の敷きかたからも道場西側の黄色い部分二間×三間の間と思われる。


 『門葉記』文永2年(1265)7月21日の「二条高倉殿二棟御所指図」

二棟御所での七仏薬師法での皇后宮御産御所御祈修法の道場としてである。二棟御所とは二棟廊のことだろう。御聴聞所はやはり西である。二棟廊の南に弘庇を付けることはこの時代良くやるが、ここではその弘庇の外に外壁となる妻戸や格子(蔀)を付けている。そうなるともはや弘庇ではないが、弘庇の床面は庇よりも下長押一段、凡そ15cmほど低い。下の図では黄色の部分が弘庇状態のままであるようだ。更にオレンジの東面二間に「シトミ上之」との書き入れがある。まるで東西四間、南北二間の弘庇付き二棟廊の南側建具を一間南にずらしたような状態だ。おそらく本当に建具の手直しだけでこの状態を作ったのだと思う。この二棟御所の南には小庭を挟んで透渡廊があった。

寝殿造院御所・二条高倉殿

『門葉記』には「道場ノ傍殿上、廊北間為大阿閣梨宿所。其傍又給五間屋為伴僧等宿所」また「以蔵人町為大阿闇梨宿所。以障子上為承仕宿。又御厩上為伴僧宿所云々」とあり、二棟御所に接して「殿上廊」があり、その北間を「蔵人町(蔵人所)」と呼んでいる。その近くに「御厩屋上」の五間屋が存在していた。解説すると、このサイトで「侍廊」と説明している建物は公卿の屋敷なら家司の詰め所だが、それが里内裏に使われると公卿や近臣者つまり蔵人の控室になる。「蔵人町(蔵人所)」とはそのことである。「障子上」はその侍廊の寝殿側で、身分に差のある来訪者は、中門廊からは上がらず、侍廊に入り、この「障子上」の間で呼ばれるのを待つ。「侍廊」と思えばその位置はだいたい解るだろう。対屋、または対代廊のある場合は例えば常磐井殿のように寝殿-二棟廊-対(代廊)-侍廊とほぼ横に並ぶが、対屋の無い場合は寝殿-二棟廊-侍廊がほぼ横に並ぶ。
「御厩上」はレイアウトは解らないが、まずもって「厩」は動物を飼っておく場所というよりも、高級車のショールームに近く、そこで馬を見ながら宴会を行ったりもする。「キリストは粗末な馬小屋で生まれました」というようなイメージとは全然違う。

これを合成してみよう。こうかどうかは解らないが、うまく当てはまる。しかし南面両端の妻戸の意味はわかるが、右から2番目の妻戸は何の為のものだろう。この壷(小庭)で蹴鞠でもやるのだろうか。それなら意味はわかるが。

寝殿造院御所・二条高倉殿

二期では高倉小路、つまり御所の東側南に四足門があり、この御所は東礼であるので、御聴聞所がいずれも道場の西側であるのも、二棟御所が寝殿の北東であるのも納得出来る。


第二期

先に述べたように二期は一期御所焼失から5年後の再建である。『勘仲記』弘安6年10月10日条に御所施設の内容とその分担がある。分担のトップは四条前中納言とある。四条隆綱かとは思うがまだ調べていない。通常、史料に残るのは行事の記事と指図で、寝殿造のハレ面しか登場しないが、これは雑舎も含めたほぼ全容が記されている。

  • 寝殿、透渡殿、二棟御所、常御所、黒戸、東西公卿座、御念講堂、
  • 東西中門(中門廊も含むのだろう)、殿上(侍廊)、車宿、随身所、
  • 一対、二対、十間対、釜殿、
  • 門・高倉面、南四足門、檜皮葺棟門。二条面、上土門、小門。東洞院面、唐門。押小路面、唐門、小土門。
  • 四面築垣、裏築地、

残念ながら方一町の御所内での配置は門以外は解らない。

常御所

ところでこの中に建物として常御所が出てくる。常御所(つねのごしょ)はその屋敷の主人が常に居る処(御所)で、建物というよりスペースを指す場合が多い。寝殿の母屋の塗籠の外とか、平安時代末からは寝殿の北庇中央などである。二棟廊であったこともある。ところがここでは寝殿や二棟廊(二棟御所)と並列に記述されているおろらく最初の事例かと思われる。鎌倉時代の最高級寝殿造は院御所だが、普通は寝殿北庇が用いられている。
第二期の二条高倉殿は、皇居に使用することを予め前提としていたらしく、寝殿を紫震殿(南殿)、この常御所は清涼殿(中殿)にあてたようであるそれであれば用法としては特に新しくはなく、平安時代の里内裏でも、大型の対があるときには、それを清涼殿(中殿)、寝殿を紫震殿(南殿)になぞらえている。

ただし、「対」にしろ「小御所」にしろ「常御所」にしろ、同じ建物が様々な呼ばれ方をして、はっきり定義出来るようなものではない。例えば常盤井殿の指図右上に「御所在之」と記されているものも、正体は不明ながら、ここで云う「常御所」と同じものであった可能性が高い。

南四足門

門に「高倉面、南四足門(四脚門)、檜皮葺棟門」とある。こちらの地図で確認して頂きたいが、この御所は東が高倉小路で、そちらに四脚門(正門)を開いている。「南四足門、檜皮葺棟門」とは御所の東面の南に四脚門、北に棟門という意味である。この記述は先に「高倉面」とあるのでそれがはっきりするが、単に「南門」と書かれることも多い。書いた者も他の者も、その時代の人間なら何処に門があるかを知っているから二条高倉殿の南門と云えばそれで通じる。特に正門が東西どちらかに決まった鎌倉時代の南門には注意が必要である。

例えば鎌倉の若宮大路御所への移徙に南門が出てくるが、あれを寝殿正面、南面の門と解すると動線がおかしくなる。


『門葉記』弘安6年(1283)12月20日の「二条高倉殿寝殿指図」

このときの道場は寝殿の西南二間×二間を使っており、指図には青の位置にも柱の点があるが、南庇の北側は御簾に几帳等で塞がれているはずであり、ここに詰めている訳では無い記者の僧には見えないはずである。図には寝殿西に柱の記入があり、「以公卿座為承仕部屋」の書き入れがある。西弘庇があったともみえるが、西に公卿座があったと。すると先の弘長元年(1261)7月6日の指図の通りではないことになるが、間に22年の月日があり、弘長元年(1261)はここだとしても第一期、この指図の弘安6年(1283)は第二期である。

寝殿造院御所・二条高倉殿 


『勘仲記』弘安7年(1284) 4月8日の「二条高倉殿清涼殿潅仏会指図」

この指図は省略する。二条高倉殿に清涼殿と呼ばれる建物があり、灌仏会(かんぶつえ)が行われたのは荒海障子の記載から北東の北から五間、東から二間ということしか解らない。川上貢はp.90(旧版ならp.58)で、南端に殿上一間を想定し、桁行六間の東西棟ではないかと推測する。ここで云う清涼殿とは先の常御所である可能性が高いと思うが、東西棟であり平安内裏の清涼殿とは90度向きが異なる。その位置は何処だったんだろうか。東礼の寝殿造なので、平安末からの例を参考にすると、寝殿の北西である可能性が高いように思えるが、物証は無い。


初稿 2016.10.16