寝殿造 7.3.6   院御所・持明院殿       2016.11.24 

持明院殿の概観

持明院は元々は藤原基家の屋敷である。『吉記』寿永2年(1183)12月13日条にこうある。

今日上西門院皇后宮等自五辻御所遷御基家卿持明院亭.皇后宮権大夫、被候御車寄.難為密儀、重服人尤可被憚歟。(割書等略)

藤原基家は藤原道長の子孫だが、源高明の娘、源明子を母に持つ二男・頼宗に発している。その頼宗(右大臣)から俊家(右大臣)、基頼(陸奥守・鎮守府将軍)、通基(大蔵卿)、基家(正二位・権中納言)とつづく。持明院に屋敷を構えたのは基頼で、持明院とはその持仏堂である。その子通基が父の持仏堂である持明院を改築・拡張して、安楽光院と改名。鳥羽上皇を招いて盛大な供養を行った。これ以降「持明院」の名称はその邸宅の名となり、通基は持明院通基と呼ばれ持明院家の祖となる。持明院家は羽林家として明治維新まで続く。通基の妻は待賢門院官女で上西門院の乳母である。

通基の長男は早世し、次男・通重が嫡男となったがこれも早世、その子が一条能保で、能保が頼朝の妹を娶ったのはおそらく義朝も上西門院に近侍していたからだと思う。持明院邸は三男の基家が継ぐ。基頼から基家までの三代は院政期の受領を経験し、それなりの財を築いたと思われる。そして冒頭の記事となる。基家は平頼盛の娘を妻とし、守貞親王の乳母人となってその養育に当たっていたが、平家の都落ちには同行せず、寿永3年(1184年)の木曾義仲によるクーデターにより解官、舅の平頼盛や甥の一条能保の後を追って関東に亡命したらしい。

その後基家は高倉天皇の子・守貞親王に娘を娶らせ、持明院邸に住まわせた。高倉天皇の中宮は建礼門院(平徳子)だが、他に坊門信隆の娘・七条院との間に後鳥羽守貞親王をもうけている。その七条院は基家の妹で、その縁を強めようとしたのだろう。

承久の乱のあと、後鳥羽上皇の一統が流配となり、守貞親王の皇子が後堀河天皇となり、守貞親王は太上天皇として後高倉院、妃の基家娘は貞応元年(1222)院号宣下により北白河院となる。その後高倉院は持明院邸で亡くなった。

北白河院は父持明院基家以来の持明院殿を御所としていたが、『明月記』によると、嘉禄元年(1225)正月、御所の造営日時が沙汰されて、翌2年の8月に移徒した。先の持明院基家の私宅時代に比べて、その面白を一新したと思われる。『民経記』『百練抄』『明月記』の天福元年(1233)6月20日条に、式乾門院が持明院殿で天皇准母として立后の事が行なわれたと記す。後堀河天皇の皇女鴫子内親王は『平戸記』に延応2年(1240)4月21日に親王宣旨、『百練抄』では寛元元年(1243) 12月14日院号宣下(室町院)が行なわれているが、何れも持明院姫宮と記されていて、持明院殿が室町院の本所にあてられている。

承久の乱後、幕府に一時没収された後鳥羽院の私領が、幕府から改めて後高倉院に寄進されていたが、後高倉院の孫・四条天皇が12歳で早世したことにより、後高倉院の男系は途絶え、その私領は、後高倉院の娘で室町院の叔母にあたる式乾門院安嘉門院を通じて室町院が相続するが、室町院の死後、その相続を繞って持明院統と大覚寺統が争うことになる。結果、室町院領は幕府の裁定により持明院統と大覚寺統に二分されたが、持明院分はその目録によると、本所の持明院とその荘園、御厨等の御領地75ヶ所、地頭職8ヶ所であった。伏見天皇は方違のため室町院御所(持明院殿)に行幸し女院と対面したり、後深草院と共に持明院に女院の病気を見舞ったりで、室町院と近い間柄であったようである。そして室町院崩御の後、正安4年(1302)に伏見院が持明院殿に移徒し、以降この御所を院御所とした。後深草、亀山に始まる両統の一方、後深草系を持明院統と呼ぶのはそこからである。

その持明院殿は、南北朝時代のさなか文和2年( 1353)2月4日に随身所より火を発して大半を焼失して終った。

位置

先に九条家一条室町殿西園寺家今出川殿を見てきたが、それらは洛中の北限、一条大路の北面であったが、この持明院殿は更にその北にあたる。鎌倉時代においては、

  • 『明月記』寛喜2年(1230)12月25日条に、後堀河天皇が持明院殿に行幸されたときの路次が記され「一条町、北行、中宮御所(一条室町亭)北路、東行、室町北云々」とある。
  • 『民経記』寛喜3年(1231)9月6日条に持明院殿への方違行幸の路次があり「東洞院北行、一条西行、今出川末北行、武者小路西行、室町北行、入御持明院東門」とある。

これにより、御所はおよそ一条大路の北、武者小路より北方、そして町小路末の東、今出川より西に位置していたと判る。

また『明月記』天福2年(1234)8月11日条には、持明院殿にて崩御された後堀河院の御遺骸を葬所に移す経路として「今夕御路出北面、自当時門前之樹東路、自南惣門前、室町ヲ南行、北小路ヲ南行、土御門ヲ東行」と記され、御所北門を出て東の道を南下し、南惣門前より室町を南行したことが知られる。惣門の存在は『明月記』に北白河院御所が造立された当初の記事中にもみえる。

この南惣門は東面して設けられた門のなかで、より南寄に位置し、御所の主要出入門、または御所四壁の所謂惣門で、南面しており、そして惣門を入って東に東面門が存在したと二通りの解釈ができるが、どうやら後者らしい。西園寺家今出川殿でも総門が出てきたが、ここにもまたひとつあった。ただしその敷地は広く、方二町半、つまり6町強の敷地らしい。洛中なら考えられない広さだが、碁盤の目の外の、洛外なら可能だったのだろう。亀山殿と状況が似ている。


指図から判明する平面

残る指図は嘉禄2年(1226)以降のものである。それ以前の状況は判らない。

壇所の設けられたエリア

寝殿造・持明院殿



川上貢による復元図 

この復元図の黒い点の柱、そして建具はそれぞれの指図にあったもの、北側の緑の柱列と建物の範囲は川上貢の推定であるが、元となる複数の指図と見比べても、文句のつけようがない。重箱の隅にも米粒ひとつ残っていない。

寝殿造・持明院殿


  • 『花園天皇宸記』元亨2年(1322)8月8日条に「今日有御所渡事、西面中御所〔元予居住也〕、為院御方、寝殿北面〔元院御方也〕為朕居所、今日相替移也」。翌9日条「今日広儀門院渡御東面御所〔本永福女院御方也〕、以御車有渡御、今日院御方、於安楽光院御念誦、予同所幸也」。
  • 元亨3年(1323)8月22日条「自今日移住寝殿北面、如例皆相替也」。

とある。元応3年(1321)より正中2年(1325)の間の持明院殿の居住者は次ぎの通りである。

  1. 後伏見院(上皇)、
  2. 花園院(上皇)、
  3. 量仁親王(後伏見院皇子、後の光厳天皇)、
  4. 景仁親王(後伏見院皇子)、
  5. 永福門院(伏見院妃)、
  6. 広義門院(後伏見院妃、花園院准母)

3世代住宅である。ほほえましくはあるが、しかし平安時代ならそれぞれが洛中に方一町の御所を持っていてもおかしくないほどの面子である。そこが鎌倉時代末なのだろうか。その面子が、寝殿内の西面中御所、北面常御所、二棟東面、小御所そして寝殿東の西向御所がそれぞれの居所に宛て、かつ時折、その相互に居所の交換が行なわれたことが先の記事でわかる。
ところでその中に「小御所」と「寝殿東の西向御所」が出てくる。もちろんその正確な位置も間取りも判らない。また敷地内には北対屋、厩、安楽光院もある。しかし御所の広さは方二町半、つまり6町強の敷地という。それがどれぐらいの広さかというと・・・・・

寝殿造・持明院殿

鎌倉時代としては最大級の寝殿造の殿舎が野中の一軒家状態になってしまうほどの敷地である。


初稿 2016.10.19