頼朝以前の源氏と近隣豪族
ここでは頼朝以前の鎌倉、と言うか板東も含めた武士の成立から「武士の頭領」の下地について見ていくことにします。
まずはザッと全体感と言うことで関東での最初の武士として高望王に始まる平氏、そしてあとから関東、奥州まで含めた板東にやってきた源氏の関係について簡単に触れておきましょう。
平家の始祖高望王(平高望)が関東にやってきてその子らが常陸国(茨城県)、上総・下総国(千葉県)から武蔵(埼玉・東京)、そして相模国(神奈川県)の各地に根を下ろします。平高望の子で鎮守府将軍で相馬郡を中心に下総に広大な土地を持っていた?とされる平良将の子があの平将門です。 将門の叔父にして将門の土地を奪い後に将門に殺された国香、国香の子で最後に将門を破ったのが平貞盛で、その嫡子維将が相模介となって鎌倉に入った(990-995年頃)と言う説があります。これはかなり確からしい。その孫が平忠常の乱に登場する平直方です。 平貞盛の別の子、維衡から6代目が伊勢平氏の平清盛です。 別の将門の叔父平良文の孫が「平忠常の乱」の忠常、この子孫が頼朝旗揚げに初期に従った上総介、千葉介の系統です。
この中で頼朝につながる河内源氏と最初に関係が出てくるのが平忠常で、源頼信が常陸介の時に房総半島の平忠常は一度やられて降参して「あんたが親分」て書状(名簿:みょうぶ)を差し出しています。 その後の平忠常の乱(と言っても本当は関東平氏の内輪もめ)で最初に追討使になったのがあんまり偉くない平直方、実は国香流と良文流は互いに同じ平氏ながら「先祖伝来の敵」と言い合う間柄でした。しかし平直方の平忠常追討は旨くいかず、代わりにもっと格上で平忠常に対しては実績の有る河内源氏の源頼信に命が下ります。 源頼信は甲斐国(今の山梨県)まで行きましたが、親分に当たる源頼信が追討使になったと知った平忠常は自ら出頭して降伏します。平忠常はそもそも病気で京に連行される途中で病死します。その息子達は許されて上総介、千葉介につながります。(えらい単純化してますが) 一方、最初の追討使で鎌倉に館を持っていた平直方は目上の源頼信の子源頼義が相模守になったときに娘を娶らせ、八幡太郎義家が生まれた時に鎌倉の土地・農民付き館を頼義に譲ります。 後の戦国時代と違って、平安後期のこのころは官僚(中央からくるキャリア)と土地の豪族が入り交じって任期を終えた官僚(守や介)が在任中の横領やらで土地を手に入れてそのまま住み着いてしまったりしますし、農地は今の様に連続していなくて、点みたいなもんですからあっちこっちに飛び飛びに領地(農地)を持っています。ちとややこしい。 源頼信に始まる河内源氏の系統が頼義・義家・為義・義親・義朝・頼朝と続きますがそのうち鎌倉を本拠地にしたのが確実なのは頼朝の父義朝です。有名な奥州後三年の役の義家も、鎌倉で兵を集めたとの話とか義家ゆかりの甘縄神社とかありますが本拠地は和泉国です。 ちなみに後三年の役の源義家に従って戦ったのが上総介、千葉介、三浦為次、鎌倉権五郎景正などで、三浦半島、鎌倉、湘南の武士が大勢従っています。
関東に関係する源氏は前述の源頼信から頼朝まで7代。途中で佐竹、武田、新田、足利など、後の世にまで知られる源氏庶流が枝分かれしていきます。
まあ、ザッとここまで押さえておいて、次から少し詳しく見て行くことにします。
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