武士の発生と成立    中関白家・藤原隆家

中関白家・藤原隆家

もうひとつは、京の貴族社会では「ハレ」と「ケガレ」の意識がとても強かったと思います。俗っぽく言えば内裏を中心とした京市内は「ハレ=聖域」、弓矢の携帯禁止のように「武=殺生=ケガレ」を出来ることなら遠ざけようとした、必要悪として認めてはいてもなるべく一部の「イエ」に封じ込めようとしたと言う側面もあるような気がします。そしてそれは高橋昌明氏が言うように貴族が軟弱であった為ではなく、貴族にもその側面があるので放っておけば暴力=武力が横行してしまう為でしょう。

それが証拠に先の中関白家の藤原伊周・隆家の失脚はなんと藤原隆家が女性を巡っての誤解から、こともあろうに花山法皇を弓で射て その矢が上皇の袖を貫通したとか。どういう誤解かと言うと、隆家(当時17歳)の兄藤原伊周がエッチしに通っていた故太政大臣為光の娘三の君と同じ屋敷の四の君の処に花山法皇(29歳)がやはりエッチしに通っていたのを自分の相手の三の君に通っているのだと誤解したんだそうです。それで兄弟で従者を連れて法皇の衣の袖を弓で射抜き、童子二人を殺して首を持って行ったと。 (元木泰雄編「王朝の変容と武者」内p336野口実)

ちなみにその前に藤原隆家の従者と藤原道長の従者が七条大路で乱闘(弓矢で)を起こし、更にその五日後には藤原隆家の従者が道長の従者を殺害しています。伊周・隆家兄弟は太宰府と出雲に流されますが、恩赦で復権後、隆家は太宰府権師のとき刀伊の来襲があり太宰府の武士を指揮してこれを撃退しています。また関東武士団の武蔵七党のひとつ児玉党が自ら藤原伊周の子孫を名乗るようにトップレベルの貴族も「武」を備えていたことが解ります。

花山天皇はこのサイトにも何度か登場しますが、色々と話題の多い人で、中でも痛ましい事件は花山院が亡くなったあと、花山院の皇女が1024年(万寿1)12月6日に夜中の路上で法師隆範により殺され、翌朝、野犬に食われた酷たらしい姿で発見されたと(小右記)。翌年の1025年(万寿2)7月25日に検非違使捕縛の法師隆範が「悪三位」とも称された藤原道雅の命で花山院の皇女を殺害したと自白。その藤原道雅は藤原伊周の子です。

この事件は結局はうやむやにされた様ですが、1026年(万寿3)に左近衛中将を罷免され右京権大夫(正五位上相当官)に落とされます。その後も出世できぬまま1054年(天喜2)七月、出家の直後に死にます。藤原道雅はその他にも色々と悪行が有ったようです。

京は決して無菌室では無かったし、平安貴族社会を「源氏物語」や、男もお歯黒をして「麿は・・・でおじゃる、おっほっほ・・・」などというイメージでとらえていたらとんでもない間違いです。その点では高橋昌明氏の主張は正しいと思います。