武士の発生と成立  貴族と武士 「ハレ」と「ケガレ」 

「ハレ」と「ケガレ」

話は少し戻りますが、「ハレ」と「ケガレ」については検非違使は「ケガレ」から「ハレ」を守るものと言う性格が近年明らかになっているようです。

余談ですがその検非違使の元で京都の「清め」を担当していた職能集団も天皇に直結した存在でしたが、天皇の権威失墜、特に室町時代以降江戸時代を経て「士農工商エタ非人」の最後の部分の一部になってしまいました。差別意識などその程度の底の浅いものです。

もうひとつ、朝廷の「ケガレ」意識について。だいぶ時代は下がって12世紀初めですが、多田源氏の源明国が流配され、それを契機に多田源氏は衰退しました。
その発端は源明国が美濃国(岐阜県)で頼朝の祖父源為義の郎党などと闘乱になり三人を切ったことに始まるのですが、流配の罪状は三人を切ったことではなく、その足で新嘗祭や諸社の祭礼を控えた「ハレ」真っ最中の京に戻り、あちこちを訪問して穢をばらまいたとされたことでした。白河法皇は公卿を召集してこのことを詮議させています。
今でも親族の葬式を出した家では「喪中につき年賀をご遠慮させて頂きます」とか挨拶状を出してはいますが、佐渡に島流しです。やっと京に戻れたのは18年後。

貴族と武士の階級闘争?

藤原隆家や藤原保昌以外にも、例えば源義朝、頼朝の頃の宇都宮氏や、千葉氏を苦しめた下総藤原氏は「兵の家」の出ではありません。「武士階級」の成立の過程に着目すると前述のような過程を抑えて置く必要はありますが、しかし江戸時代の士農工商のような社会的に確立された「武士階級」の先入観をもってこの時代を眺めると、それはそれで歴史を正しく理解することから離れていきそうです。高橋昌明氏が特に力を込めて主張していることですが。

元木泰雄氏も「王朝の変容と武者」の中でこう書かれています。

その子孫達はたまたま武士の家として発展しなかったが、武勇に優れた貴族達が地方に拠点を築く機会さえあれば、武士団を形成する可能性もあったのではないだろうか。貴族と武士の差は極めて小さかったのである。p457

少なくとも「武」の専門職である「武士」が「貴族」から蔑まれていたなどという「階級闘争史観」は的はずれです。そもそもここで問題としている「武士」は「貴族」です。「諸大夫」「侍品」の下級貴族、または叙爵前の貴族予備軍ではありましたが。

平家物語で有名な、清盛の父忠盛が他の貴族に蔑まれたのは「武士」だったからではなく、自分たち「公卿」や「諸大夫」に仕える「侍」品の家柄だったからです。同様に「諸大夫」から「公卿」となり、またその家から天皇に嫁ぎ、その子が天皇となった皇后得子(美福門院)すら「諸大夫の女」と関白藤原忠通が蔑み、拝礼を行おうとはしなかったぐらいです。これが父権=イエの確立の一側面です。

初期の軍事貴族

先に挙げた「栄花物語」(巻五・浦々の別)の「陸奥国前守維叙、左衛門尉維時、備前前司頼光、周防前司頼親など云う人々、皆これ満仲、貞盛子孫也」 との下りに名が出てくる6名はいずれも四位にまで登っており、初期の軍事貴族と見なして良いでしょう。この世代の「兵(つわもの)の家」から四位に登ったのは以下の44名です。

  • 源氏    :正四位 6名 (頼光、頼親、国房、頼義、義家、光保)
            従四位 20名 合計 26名 源氏の系図
  • 平氏    :正四位 2名 (忠盛、清盛) 従四位 12名 合計 14名 平氏の系図
  • 藤原秀郷流:正四位 0名 従四位 3名 (秀郷、千晴、千常) 合計 3名
            藤原氏系「兵の家系」  

正四位だけを見ると圧倒的に源氏が占めまが、白河法皇の代までは完全に源氏だけ。
逆に、義家の代での河内源氏の斜陽以降はひとりもおらず、鳥羽上皇の代から伊勢平家が2代に渡って正四位に登っています。