兵の家各流    秀郷流藤原氏2 千常・兼光系

藤原千常・兼光系

千常流では、秀郷から数えて5代に渡って鎮守府将軍に任じられ(「結城系図」によればですが)関東北部から奥州にかけて勢力を広げます。

秀郷から4代目の兼光については、あまり史料は残っていないようですが、その子、孫、甥に受領任官が多く、京武者・軍事貴族としてそれなりの評価と地位はもっていたと見ても良いでしょう。
しかし、「平忠常の乱」で疑われたためか、京武者・軍事貴族として秀郷流藤原氏を代表するのは兼光の甥にして娘婿、相模守公光の方に受け継がれた様に見えます。
その後、この兼光系の子孫達は受領の選考に登ることはなく、国衙の在庁官人を兼ねながら北関東の各地に土着していったと見て良いと思います。頼朝挙兵時に北関東で大きな勢力を持っていた小山、藤性足利、下河辺(常陸)はこの兼光の子孫です。

秀郷の子・千常

  • 従四位下・鎮守府将軍・美作守・大夫尉下野守護(結城系図)
  • 千晴が係争で調べられた同じ年の安和元年(968)末、信濃国から千晴の弟の千常の乱が奏上されている。
  • さらに、約十年後、下野国が前武蔵介藤原千常と源肥が合戦におよんだという解文を奏上しているそうです。 坂東千年王国、「伝説の将軍藤原秀郷」(野口実 p52)
  • 子:文脩

藤原文脩

  • 父:千常 
  • 従五位上・鎮守府将軍・舎人頭・陸奥守(結城系図)
  • 「小右記」988年10月3日条「今日、直物、少叙目あり・・・・、鎮守府将軍藤文脩。選か、くだんの文脩は摂政の賀料、皇太后宮に任料を納めらるると云々」 「伝説の将軍藤原秀郷」(野口実 p68)
    「選か」とあることで、文脩は中央に出仕してそれなりの評価を得、実績をあげていたことが判る。
  • 子:文行、兼光

藤原文行

  • 父:文脩、千常の孫
  • 左衛門尉 従五位下
  • 「御堂関白記」1006年6月16日条に平正輔と口論喧嘩から検非違使に追われ道長宅に逃げ込む。

藤原兼光

  • 父:文脩、千常の孫、
  • 従五位下・鎮守府将軍・阿波守(結城系図)
  • 従五位下左馬允・鎮守府将軍(小山系図)
  • 1012年から鎮守府将軍を二度務る。
    同じ名前の太政大臣が居ますがもちろん別人です。時代も違うし。
  • 平忠常の乱のとき、忠常は下野の藤原兼光を通じて追討使に講和への意志を伝え兼光はそれを京へ伝える。京では後一条天皇から、兼光に忠常の所在を問い質してはどうかという意見が下される。(小右記) 
  • 乱の後、藤原兼光は忠常の乱への同与の風聞があり出家。(小右記)
  • 子:正頼、頼行、行範、貞光

 

藤原正頼

  • 父:兼光
  • 従五位下・左馬允・鎮守府将軍(小山系図)
  • 従五位下・下野権守(結城系図)

藤原頼行

  • 父:兼光、 
  • 右近衛将監、「小右記」1014年12月25日条 近江国に住み、悪事を働くので道長の子に召還され、その従者と合戦に及ぶ。
  • 1022年の叙目で鎮守府将軍
  • 従五位下・下野守・鎮守府将軍(小山系図)
  • 鎮守府将軍・従五位下・左近将監・安房守・下野守(結城系図)
  • 子:兼行、武行

藤原行範

  • 父:兼光、
  • 左馬充? 壱岐守  (結城系図)
  • 1024年の叙目で壱岐守、道長に臣従 「小右記」
  • 子:行高

  行高

  • 父:行範、
  • 武蔵守(結城系図)これは疑問、尊卑分脈では大田権守

行善(ゆきよし)

  • 尊卑分脈では父:行範だがおそらく誤記
  • 「春記」に「前将軍頼行の子行善」、文章生を採用する式部省の試験を受けている。

貞光

  • 父:兼光
  • 従五位下・対馬守(結城系図)

兼行

  • 父:頼行
  • 散位従五位下・安房守・下野守(結城系図)
  • 藤性足利氏の祖

武行

  • 父:頼行
  • 従五位下・壱岐守(結城系図)

行隆(尊) 

  • 父:武行
  • 太田大夫(従五位下)、下野介(小山系図)
  • 別当大夫宗行(結城系図)

行政(快實) 

  • 父:行隆(尊)
  • 太田大夫(従五位下?) (小山系図)
  • 二郎(結城系図)

行光 

  • 父:行政
  • 太田四郎(小山系図)
  • 四郎(結城系図)
  • 子:小山政光、下河辺行義

小山政光

  • 父:行政
  • 下野大掾

歴史学研究773(2003.3)での 松本 一夫著『東国守護の歴史的特質』 の紹介ですが。

 ・・・・相伝の職とされる権大介職と押領使を分析し、両者は同一のもの(兼帯)として認識されていたことを指摘し、・・・・国衙守護人制を鎌倉期守護の前提として把握する説を批判している。また、下野における支配権を相対化し、宇都宮氏や藤姓足利氏などをその下部に包摂するものでなく、野木の宮合戦の動員も小山一族に限定され、それを超える部分は源頼朝の指令によって成されたと指摘しており、小山氏の権力の強大さを一義的に説く論者に対して批判を加えている。

つまり、従来は『吾妻鑑』の記事をほぼ無批判に受け入れて、小山氏は既に平安末期段階で下野国内に圧倒的な支配を及ぼしうる実力を有していたととらえられてきたが、これは過大評価じゃないかと。そうなのかもしれません。

下野国の小山氏は頼朝挙兵以前から源義朝・頼朝親子と深い関係にあります。源義朝は保元の乱の前に下野守であり、乱後も下野守を重任しています。小山氏はその下野の国衙で世襲の権大介だった関係からか、小山政光の妻寒河尼は嫡男頼朝の乳母夫になっています。乳母は何人も居るのですが。 この小山政光の妻寒川尼は嫡男朝政三男朝光を連れ、武蔵隅田宿の頼朝の陣営に参向したことが『吾妻鏡』にあります。(参考: 源氏神話の創出

下河辺行義

  • 父:行政