武士の発生と成立             相馬御厨

 

相馬御厨の成立

1124年(天治元)6月、常重は叔父・相馬五郎常晴の養子とされ、相馬郡を譲られ、10月には相馬郡司となった。六年後の1130年(大治5)6月11日、所領の「相馬郡布施郷」を伊勢神宮に寄進し、その下司職となります。その内容は、以下のようなものです。

  • 「地利の上分」(田1段(反)につき1斗5升、畠1段につき5升、これは他に例を見ない高率なんだそうです)と、「土産のもの」(雉100羽、塩曳き鮭100尺)を、伊勢神宮に納める。
  • その半分を口入りの神主(領家に相当)・荒木田延明がとり、半分を供祭料の名目で一の禰宜(本家に相当)元親が取る。在地において仲介の役を果たした散位源友定を「預所」とする。
  • 常重は下司職となると同時に、「地主」として「田畠の加地子」を取る権利を認められ、常重の下司職と権利は子孫に相伝される。

そして、これは同年8月に、下総守(藤原親通)の庁宣によって寄進が正式に認められます。これで、「相馬郡布施郷」(大雑把に茨城県北相馬郡)の千葉氏の領有権は確実なものに・・・、と思いきや。

下総守藤原親通の横槍

1136年(保延2)7月15日。下総守藤原親通は、相馬郡の公田からの官物が国庫に納入されなかったという理由で常重を逮捕・監禁します。それが何年分の未進というのかは解りません。

おそらくは、過去に遡っての難癖に近いものであったかもしれません。相馬郡の公田からの官物というのは、単に相馬郡全部が荘園(御厨)ではなかったからということですが、これは単純に、現在の行政区分のように、囲われたエリアをイメージすれば済む問題ではなく、当時の荘園は、出作など、土地と人とが複雑に絡み合っていてなかなか一筋縄にはいきません。そこがよく紛争の種になります。

そして下総守藤原親通は、常重から相馬郷・立花郷の両郷を官物に代わりに親通に進呈するという内容の新券(証文)を責め取って、自らの私領としてしまう。

訳がわかりませんね。官物未納の弁済なら、それは国庫へ入るはずのもので、何で両郷を私物化してしまうのでしょうか。まあ、それが国司請負制の実態なのですが。

源義朝の介入と千葉常胤の反撃

更に1143年(康治2)に介入してきたのが源義朝(源頼朝の父)であった。義朝はこのころ上総国の上総権介常澄の処に居た。義朝は上総権介常澄の「浮言」を利用して、常重から相馬郡(または郷)の避状(さがりじょう:譲状)を責め取ったといいます。

ただ、このときの源義朝と、常重から相馬郷の新券(証文)を責め取った下総守藤原親通の利害関係はよく判りません。元木泰雄氏は下総守藤原親通が摂関家に従属する位置にあったので、大殿・藤原忠実の権威を利用して押さえたと想定しているようです。

そして、「大庭御厨の濫妨」の翌年の1145年(天養2)3月、義朝は、その相馬郷を伊勢内宮外宮に寄進します。その領域は1130年(大治5)の常重の寄進のときとほぼ同じと見られます。

常重の子常胤はそうした事態に必死で立ち向かいます。といっても、武力による解決ではなく、あくまで合法的手段による解決です。
1146年(久安2)4月に、常胤はまず下総国衙から官物未進とされた分について「上品八丈絹参拾疋、下品七拾疋、縫衣拾弐領、砂金参拾弐両、藍摺布上品参拾段、中品五拾段、上馬弐疋、鞍置駄参拾疋」を納め、「其時国司以常胤可令知行郡務」と相馬郡司職を回復し、また相馬郷については「且被裁免畢」と千葉氏のもとへの返却を実現します。ただし立花郷は戻っていません。

立花郷は相馬郷や千葉荘から東に遠く離れた太平洋側、鹿島神宮の近くにあります。

相馬郡司の地位と相馬郷を回復した常胤は、8月10日、改めて相馬郡(郷?)を伊勢神宮に寄進します。その寄進状が残っており、そこからその間の事情が今に知られています。

永附属進先祖相伝領地壹處事
 在下総国管相馬郡者
四至 限東逆川口笠貫江
    限南小野上大路  
    限西下川辺境并木崎廻谷 
    限北衣川常陸国堺

右当郡者、是元平良文朝臣所領、其男経明、其男忠経、其男経政、其男経長、其男経兼、其男常重、而経兼五郎弟常晴、相承之当初為国役不輸之地、令進退掌之時、立常重於養子、天治元年六月所譲与彼郡也、随即可令知行郡務之由、同年十月賜国判之後、常重依内心祈念、大治年中之比、貢進太神宮御領之日、相副調度文書等、永令附属仮名荒木田正富先畢、於地主職者、常重男常胤、保延元年二月伝領、其後国司藤原朝臣親通在任之時、号有公田官物未進、同二年七月十五日、召籠常重身経旬月之後、勘負准白布七百弐拾陸段弐丈伍尺五寸、以庁目代散位紀朝臣季経、同年十一月十三日、押書相馬立花両郷之新券恣責取署判、妄企牢籠之刻、源義朝朝臣就于件常時男常澄之浮言、自常重之手、康治二年雖責取圧状之文、恐神威永可為太神宮御厨之由、天養二年令進避文之上、常胤以上品八丈絹参拾疋、下品七拾疋、縫衣拾弐領、砂金参拾弐両、藍摺布上品参拾段、中品五拾段、上馬弐疋、鞍置駄参拾疋、依進済於国庫、以常胤為相馬郡司、可令知行郡務之旨、去四月之比国判早畢、其中一紙先券之内、被拘留立花郷壹處許之故所不被返与件新券也、雖然至于相馬地者、且被裁免畢、然則任親父常重契状、於田畠当官物者、致供祭上分之勤令進退、当時領主正富給、至加地子并下司職者令相伝常胤子孫、預所職者可被令相承本宮御返牒使清尚子孫、矣仍後代重新立券文、謹解

 久安二年八月十日 御厨下司正六位上平朝臣常胤 (花押)

すでに天養2年(1145)3月、義朝による寄進があったが、常胤は「親父常重契状」の通り、領主・荒木田神主正富(伊勢内宮神官)に供祭料を納め、加地子・下司職を常胤の子孫に相伝されることの新券を伊勢神宮へ奉じました。

義朝の行為は紛争の調停か

ところで、このときの「四至」は、それまでの「四至」よりも南に大きく広がっていた形跡があると考えたのは福田豊彦です。つまり「限南小野上大路」と。これは、かつての寄進地が茨城県北相馬郡近辺((正確には利根川より南の手賀沼より北)であったものから、千葉県南相馬郡(正確には手賀沼の南)に広がり、東西7km、南北20kmに及ぶ広大な地域となっていると。

このことから、義朝の行為は紛争の調停であったとする見方もあるようですが、どうでしょうか。
私は、野口実編『千葉氏の研究』に収録されている「古代末期の東国における開発領主の位置」で、黒田紘一郎が、源義朝はその段階では棟梁などではなく、同じレベルで領地を奪おうとした形跡があると論じられてることの方を重視したいと思います。

また、この福田豊彦の説については、鈴木哲雄が『中世関東の内海世界』の中で、綿密な検証を行い、否定しています。(水野白楓氏の御教示による)

千葉常胤はそのあと、鎌倉幕府成立の立役者のひとりとなり、かつ、有力御家人が、北条氏との権力闘争の中で姿を消していくなかで、最後まで相当の勢力を保ちます。

が、それは先の問題で、ここまでの開発領主千葉氏の戦いをまとめてみましょう。

開発領主の位置

『千葉氏の研究』収録の「古代末期の東国における開発領主の位置」で、黒田紘一郎述べておられるように(p19)、この事件は、当時における在庁官人=在地領主の変貌と、国司=目代との対立の激しさ、とくに在地領主層の弱体と限界を如実に示しています。

まず、開発領主の領地領有とは、郡司、郷司という、役職において保証されたものだということです。「これこれの土地からいくらの官物を納めます。」「ではその地はお前に任せる。」そして、基本的にはその地は世襲されると。しかし、それが、郡司、郷司という、役職において保証されたものである限り、国司側はその任を解く権限を持っているということです。そして、その周囲には、他の開発領主が居て、隙あらばと狙っている。

ここでは同族の上総権介常澄、そして源義朝です。源義朝が相馬御厨を寄進しえたということは、単なる書類上のことだけではなくて、そもそもその土地の領有が「これこれの土地からいくらの官物を納めます」という、現地での徴税の請負の意味ももっていた以上、事実上の在地支配を離れて可能であったはずはないでしょう。事実上の支配があって、その支配を法的に保証するのが土地証文と考えるべきです。

もうひとつ、その不安定な状態を、確実なものにしようと、荘園の寄進を行います。もちろん、その段階で、自分の直接支配地だけでなく、郷の単位ぐらいに、周辺の公領も切り取って規模を拡大して立荘しますが、それは郡司としての自分の支配、取り分を固定化しようとする行為と考えたら理解しやすいのではないでしょうか。

しかしその、荘園寄進も、それだけで確実なものではないことは、この相馬御厨、そして大庭御厨の事件の中からも見てとれると思います。もっとも、相馬御厨も大庭御厨も、本所の伊勢神宮は必ずしも下司となった寄進主(開発領主)を保護出来きれなかった、自分の取り分が確保され、更には増えるのなら、下司職が、源義朝でも、その後源義朝が平治の乱で滅んで後の佐竹義宗であろうと構わなかった、ということはあります。

それだけではなくて、これは関東の例ではないですが、本所が送り込んだ預所が、本来の領主、下司一家を押し込め、殺してしまうという例もあります。荘園寄進は脱税・節税、利益の増大では決してなく、国衙事務の請負、すなわち、有力在庁官人として国衙内でその権益を確実なものにすることが出来なかった開発領主が選んだ「掛け」、国衙の代わりに別の権威を頼んだという側面を忘れてはならないと思います。

平家政権下での更なる不安定さ

その不安定さは、平家のクーデター以降、いよいよ高まったというのが、その後の平家側佐竹義宗の相馬御厨寄進として現れる。1161([[永暦]]2)年正月日の佐竹義宗の寄進状には

:自国人平常晴今常澄父也、手譲平常重并嫡男常胤、依官物負累、譲国司藤原親通朝臣、彼朝臣譲二男親盛朝臣、而依匝瑳北条之由緒、以当御厨公験、所譲給義宗也、然者父常晴長譲渡他人畢所也、

とあります。

佐竹氏と、千葉介、上総介一族との対立はここに始まり、それが解消するのは、1180年の源頼朝の旗揚げに、千葉介、上総介一族が合流し、富士川の戦いで平家を破ったあと、転じて佐竹氏を攻めて敗走させたときです。

千葉介、上総介一族が、頼朝に加担したのは、『吾妻鏡』にいうような、両氏が累代の源氏の郎等であったからではなく、平家と結んだ下総の藤原氏、そして常陸の佐竹氏の侵攻に対して、頼朝を担ぐことによってそれを押し返し、奪い取られた自領を復活する為の起死回生の掛けでした。特に千葉常胤にとっては、源義朝は「御恩」を感じるような相手ではないことは相馬御厨での経緯を見れば明らかでしょう。

源義朝が暴力的に奪い取ろうとしたものを、源頼朝は「所領安堵」しました。それが頼朝の元への関東の武士の結束力となります。「武家の棟梁」は頼朝の前には居なかったのです。義家が「武士の長者」といわれたその「武士」とは、それは京武者です。

もちろん、関東の武士団が、みなこぞって頼朝の騎下に馳せ参じた訳ではありません。ちょうど、有力在庁官人となって国衙を取り仕切った開発領主と、その国衙勢から自分の領地を守る、と同時に拡大するために、荘園として寄進した開発領主が居たように、平家と結んで、周辺の開発領主を圧迫した勢力と、圧迫されてそれを打ち破るために頼朝を御輿に担いだ勢力が居たということです。

2009.09.05 相馬御厨四至 修正