吾妻鏡に見る流鏑馬 

 

1186年 (文治2年) 8月15日 己丑

二品鶴岡宮に御参詣。而るに老僧一人鳥居の辺に徘徊す。これを怪しみ、景季を以て名字を問わしめ給うの処、佐藤兵衛の尉憲清法師なり。今西行と号すと。
仍って奉幣以後、心静かに謁見を遂げ、和歌の事を談るべきの由仰せ遣わさる。
西行承るの由を申せしめ、宮寺を廻り法施を奉る。二品彼の人を召さんが為早速還御す。
則ち営中に招引し御芳談に及ぶ。この間歌道並びに弓馬の事に就いて、條々尋ね仰せらるる事有り。
西行申して云く、弓馬の事は、在俗の当初、なまじいに家風を伝うと雖も、保延三年八月遁世の時、秀郷朝臣以来九代の嫡家相承の兵法を焼失す。罪業の因たるに依って、その事曽て以て心底に残り留めず。皆忘却しをはんぬ。
詠歌は、花月に対し動感の折節、僅かに三十一字ばかりを作るなり。全く奥旨を知らず。然らば是彼報じ申さんと欲する所無しと。
然れども恩問等閑ならざるの間、弓馬の事に於いては具に以てこれを申す。即ち俊兼をしてその詞を記し置かしめ給う。縡終夜に専らせらると。

同8月16日庚寅

午の刻西行上人退出す。頻りに抑留すと雖も、敢えてこれに拘らず。
二品銀作の猫を以て贈物に宛てらる。上人これを拝領しながら、門外に於いて放遊の嬰児に與うと。
これ重源上人の約諾を請け、東大寺料の砂金を勧進せんが為奥州に赴く。この便路を以て鶴岡に巡礼すと。陸奥の守秀衡入道は、上人の一族なり。

 

1187年(文治3年)8月1日 己巳

今日より来十五日に至るまで、放生会を専らすべきの旨、兼日関東の庄園等に触れ仰せらる。而るを鎌倉中並びに近々の海浜河溝の事、重ねて雑色等を廻さる。行政・俊兼これを奉行す。

同8月4日 壬申

今年鶴岡に於いて放生会を始行せらるべきに依って、流鏑馬の射手並びに的立等の役を宛て催さる。
その人数に、熊谷の二郎直實を以て上手の的を立つべきの由仰せらるるの処、直實鬱憤を含み申して云く、御家人は皆傍輩なり。而るに射手は騎馬、的立役人は歩行なり。すでに勝劣を分けるに似たり。此の如き事に於いては、直實厳命に従い難してえり。
重ねて仰せに云く、此の如き所役は、その身の器を守り仰せ付けらるる事なり。全く勝劣を分たず。就中、的立役は下職に非ず。且つは新日吉社祭御幸の時、本所の衆を召し流鏑馬の的を立てられをはんぬ。
その濫觴の説を思うに猶射手の所役に越えるなり。早く勤仕すべしてえり。直實遂に以て進奉するに能わざるの間、その科に依って所領を召し分けらるべきの旨仰せ下さると。

同8月9日 丁丑

鶴岡宮中殊に以て掃除す。今日馬場を造り埒を結う。仍って二品監臨し給う。若宮の別当法眼参会せらる。常胤・朝政・重忠・義澄以下御家人群参すと。

 

同8月15日癸未

鶴岡の放生会なり。二品御出で。参河の守範頼・武蔵の守義信・信濃の守遠光・遠江の守義定・駿河の守廣綱・小山兵衛の尉朝政・千葉の介常胤・三浦の介義澄・八田右衛門の尉知家・足立右馬の允遠元等扈従す。
流鏑馬有り。射手五騎、各々先ず馬場に渡り、次いで各々射をはんぬ。皆的に中たらずと云うこと無し。その後珍事有り。諏方大夫盛澄と云う者、流鏑馬の芸を窮む。秀郷朝臣の秘決を慣らい伝うに依ってなり。爰に平家に属き多年在京し、連々城南寺流鏑馬以下の射芸に交りをはんぬ。
仍って関東に参向する事頗る延引するの間、二品御気色有りて、日来囚人と為すなり。而るに断罪せられば、流鏑馬一流永く凌廃すべきの間、賢慮思し食し煩い、旬月を渉るの処、今日俄にこれを召し出され、流鏑馬を射るべきの由仰せらる。
盛澄領状を申し、御厩第一の悪馬を召し賜う。盛澄騎せしめんと欲するの刻、御厩舎人密々盛澄に告げて云く、この御馬、的の前に於いて必ず右方に馳すなりと。則ち一の的の前に出て、右方に寄る。盛澄生得の達者たれば、押し直してこれを射る。始終相違無し。
次いで小土器を以て五寸の串に挟み、三つこれを立てらる。盛澄また悉く射をはんぬ。
次いで件の三箇の串を射るべきの由、重ねて仰せ出さる。盛澄これを承り、すでに生涯の運を思い切ると雖も、心中諏方大明神を祈念し奉り、瑞籬の砌を拝送し、霊神に仕うべくんば、只今擁護を垂れ給へてえり。然る後鏃を平に捻り廻してこれを射る。五寸の串皆これを射切る。観る者感ぜずと云うこと無し。二品の御気色また快然たり。忽ち厚免を仰せらると。
今日の流鏑馬
一番射手 長江の太郎義景 的立 野三刑部の丞盛綱
二番射手 伊澤の五郎信光 的立 河匂の七郎政頼
三番射手 下河邊庄司行平 的立 勅使河原の三郎有直
四番射手 小山の千法師丸 的立 浅羽の小三郎行光
五番射手 三浦の平六義村 的立 横地の太郎長重