私営田の納所
清廉は前世がネズミであったのか猫を極端に怖れ、猫恐(ねこおじ)の大夫と渾名されていた。彼は山城、大和、伊賀三国に広大な土地を持っていたが納めるべき官物をまったく納めようとしない。大和守はこれを徴収しようと思うものの、清廉も五位の貴族であるので検非違使庁に突き出すこともできない。困り果てた輔公は一計を案じ、清廉を猫で脅して見事に税金を完納させるというお話。藤原清廉の内心は・・・
何を抜かすかこの貧乏国司め。屁でも放りかけてやろうかい。帰ってすぐに伊賀国の東大寺の荘園の中に入り込んでしまえば、いくら国司でも手出しはできんわい。・・・これまでの国司に対してだって、天の分、地の分と理屈をつけてうやむやにしてやったんだ。それをこの国司め、したり顔で税金を取り立てようなどとは馬鹿もいいところじゃい。大和守になっているところを見ても、お上のお覚えのほどは知れたものだ。まったく笑止の沙汰よ。誰が納めるものか。(適当に意訳)
しかし、猫を五匹も部屋には放たれて、清廉は大粒の涙をこぼし、「仰せのままに従います。命あってのもの種、生きていてこそ・・・」云々。あたりは誠にもって愉快痛快。しかしここでの問題はその次。大和守藤原輔公はその場に硯を持ってこさせて・・・、また適当に意訳すると。
この場で領地の部下に五百石を引き渡せと下文(指示書)を書け。ただし伊賀国の納所にあてたのではダメだ。偽の下文を書くかもしれないからな。この大和国の宇陀(うだめ)郡の家に対して、稲や米を引き渡すように書け!
原文は「・・・伊賀ノ国ノ納所ニ可成キニ非ズ・・・家ニ有ル稲・米ヲ可下スキ也」
問題はこの「納所」と「家」。大和守藤原輔公は即座に配下にその下文を持たせて取り立てる為に大和国の宇陀郡の家あてにさせたのだろうが、家とは別の「納所」に対しても下文ひとつで収穫物や貯蔵物の移動指図が出来たことを物語っている。「納所」はおそらく分散した所領に於かれた現地管理事務所の稲倉、兼農耕の拠点。「郡衙」の消滅の理由がこれ。農民の年貢は「郡衙」に集積されることなく、私営田経営者の「納所」に納められ、あるいは本宅にも集められて、そこから官物として国衙か、あるいはその受領の京宅に直接運ばれるようになる。
郡司に変わる地元有力者・田堵負名
三の君(右衛門尉の三番目の娘)の夫は、出羽権介田中豊益なり。偏に耕農を業と為し、更に他の計なし。数町の戸主(へぬし:土地所有者)、大名の田堵なり。兼ねて水旱(すいかん:水害や日照りの害)の年を想ひて鋤・鍬を調へ、暗(ひそか)に腴え迫せたる地を度りて馬杷(うまくわ:田をならす道具)・犁(からすき:水田を耕起する農具)を繕ふ。或は堰塞(いせき:川の堰)・堤防・〔土冓〕渠(小さなみぞ)・畔畷の忙に於て、田夫農人を育み、或は種蒔・苗代・耕作・播殖の営に於て、五月男女を労(いたわ)るの上手なり。作るところの稙・粳糯(うるち米やもち米)、苅穎(収穫)他人に勝れ、舂法(玄米にする)年毎に増す。…春は一粒をもて地面に散すといへども、秋は万倍をもて蔵の内に納む。
書かれた時代は11世紀半頃でしょうか。後期王朝国家に切り替わる頃ですね。
失敗例:
『更級日記』の最初の方で、作者がまだ少女時代に受領だった父親とともに京へ帰る途中の記述。1020年(寛仁4)、平忠常の乱の少し前のこと。
十七日のつとめて立つ。昔、下総の国に、まののてうといふ人住みけり。疋布を千むら万むら織らせ、晒させけるが家の跡とて、深き川を舟にて渡る。昔の門の柱のまだ残りたるとて、大きなる柱、川の中に四つ立てり。
このことに触れて竹内理三がこう書いている。
「下総国まののてう」は「下総国真野の長者」の意であろうという。昔の橋柱の残るを見て長者の邸趾といい伝えられたことを信じた人々が、十世紀頃あったことが知られる。その河は、今日のいずれに当たるかさだかでないが、下総国にはそうした没落した長者伝説が古くに存在したわけである。そしてこの長者は、さきに述べた私営田領主が、農民の抵抗によって田地の経営に失敗し、没落したものだといわれる。(『市川市史』 第二巻古代中世編p.150 )
国司の失敗例:『続日本後紀』
承和九(842)年八月条
庚寅、大宰府言すらく。豊後国言すらく。前の介中井王、私宅日田郡に在り。私営田は諸郡に在り。意に任せて郡司百姓を打ち損ず。これによりて吏民騒動し、いまだ心を安んずるに遑あらず。また本より筑後・肥後等の国に浮宕し、百姓を威陵し、農を妨げ業を奪う。蠢たること良に深し。中井、なお入部して旧年の未進を徴し、兼ねて私物を徴せんと欲す。しかるに調庸未進の代、便に私物を上り、その利を倍取す。望み請うらくは、延暦十六年四月廿九日の格の旨に准拠し、本土に還さしめん、と。太政官処分すらく。罪は去ぬる七月十四日の恩赦に会えり。よろしく身は本郷に還すべし、と
この事件は前任国司の活動を典型的に示すものであると同時に、当時の国司の追い詰められた状況を見ることが出来る。戸田芳実『日本領主制成立史の研究』にはこうある。
彼は日田郡に定住しその一円を支配する土着豪族化したのではなく、豊後国内からさらに隣国の筑後・肥後まで「浮宕」して、「百姓を威陵し農を妨げ業を奪う」といわれているように、各地を移動しつつ百姓の収奪によって自己の経営の拠点を設け、また経営を展開してまわっているのである。(p140) 国司級官人が田家や営田を設け交替を契機としてそこに留住することを、たんに彼らの私欲や不正、あるいは土着の志向からだけ説明するのは表面的であるといわざるをえない。彼らがそのような行動をとるには、それだけの前提条件が存在している。彼らの不正を問題の根源と見るのは、律令国家の国司観の踏襲にすぎない。問題の根源は、在地諸勢力の国務対捍や抵抗によって律令制の国務遂行が困難になり、正税調庸の未進が累積していた事実にあり、その上に国司の「不正」や「留住」が発生するのであって、このような状況のもとでは、たとえ国務の実績によって官途の昇進を求める五位の徒においても、その道はしばしば塞がれざるをえないのである。(p142)
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