奈良平安期の寺社     杉本寺

奈良平安期の鎌倉の寺社(4) 杉本寺

大蔵山 杉本寺( だいぞうざん すぎもとでら )・・・でも(さんぼんじ)とも。

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霊験譚には

当山もとは二階堂観音院と号す。行基、慈覚、恵心の作なる十一面の像三躯まして其応験あらたなるをもて頼朝卿ことに信じ玉ひて香花料(かうげれう)のため田畠を御寄附なし給。昔近火の節御三躰庭の大杉の本に飛で光明かゞやかせ給ふふしぎあるをもてすなわち大蔵山(たいざうさん)杉本寺(さんぼんじ)と改めらる。行基の作の尊躰は門前通行の者を落馬さするふしぎを時頼をもつて上意ありけるに依て大覚禅師袈裟を御首(みぐし)に覆ひければ其後は落馬するものなきに依てふくめん観音と尊(とうと)びける

まあその解説はおいおい。

杉本寺は下から眺めるだけでも

ここはお客さんを案内するときの私の定番です。
もっとも下から眺めるだけで上に上がることは少ないのですが。m-kojimaさんの鎌倉遠征のときも時間の都合で下から眺めるだけ。それだけでも御利益のあるお寺です。無視して通り過ぎてはいけません。落馬しますよ、あっ自転車だと落車か。(笑)


くずてつさんの時は料金所(オイ!)を通過しました。


杉本寺の山門(仁王門)

これは去年。 「よっこらしょ」っと。言っているのはうちの隠し子です。ったくもう、何ですかその「よっこらしょ」は、色気のない、お年頃なんだから少しは考えなさい! えっ?
 「とうちゃんが勝手に台詞を入れたんじゃないか!」って? 
そ、そうだったかな〜。フキフキ "A^^;

この山門は享保十年(1725)の建立だそうです。江戸時代中期ですね。本堂(観音堂)よりは少し新しいですがなかなか雰囲気があります。

ところでこの山門の仁王像は鎌倉時代の仏師運慶の作だそうです、少なくとも伝承では。

  

実はそうだと言う確証は無いですが、と言うか他の運慶の像を見ていると違うかもしれないと私も思いだしました。よその仁王さんと比べるとなかなか力強いと思うんですがね。で鎌倉市の文化財の目録を調べてみると・・・、それはまた後ほど。

貴女のお父様、以外と若かったよ。でも参ったな〜運慶だって言っちゃった。 "A^^; 俺もちゃんとインターネットで調べたんだけど・・・。インターネットって嘘ばっかだね!
って、人のせいににするな!(,_'☆\ ベキバキ


その山門の奧には苔むした石段が、でもここは登れません。危ないからか、あるいは苔むした状態を大切にしたいのか。後者であっても私は文句は言いませんね。

杉本寺開山は奈良時代?

1560(永禄3)年書写の『杉本寺縁起』には、「天平六年(734年)僧行基が自刻の十一面観音を安置して開創」とあるそうです。「天平の甍」で知られる奈良時代の最盛期ですね。その最盛期の中心人物聖武(しょうむ)天皇の奥さん、光明皇后が兄で藤原北家の祖、房前(ふささき)に命じ、行基に開かせた鎌倉最古の寺と言うことになっています。もっとも逗子久木の岩殿寺(がんでんじ)の方が古いのですが。

天平三年(731),関東地方を歩いていた行基菩薩が,鎌倉の大蔵山から町を眺め「ここに観音様を置こう」と思い、自ら彫刻した十一面観音像を安置した。その後、光明皇后の恩召により、行基が本堂を開創した。

なんて話もありますが、それでも岩殿寺より後だよな〜。

1560(永禄3)年(戦国時代信長が今川義元を桶狭間で打った頃ですね)に書写したその元の『杉本寺縁起』がいつのものだかは解りません。開山からその書写まで800年もありますが、まず鎌倉時代以降でしょう。と言うのは行基のあと

のちに慈寛大師が同じく十一面観音を内陣の中尊として納め、天台の法流に属せしめた。さらに寛和二年(九八六)恵心僧都が花山法皇の命をうけて十一面観音を奉安したと伝える。これが三尊同殿の由来である。 (「杉本寺へ御来山歓迎」より引用)

と言うことですが、後でまた触れますがその二体は平安末期にはまだ作られてはいないようですから。

光明皇后は、悲田院・施薬院などを作った方でボランティアと言うか社会福祉の第一人者ですね。「非人」の歴史を追っていくとその悲田院・施薬院に行き着くのですが、あの頃(もっと後でも)決して今のような差別の対象にはなっていませんでした。
光明皇后は奈良の法華寺の十一面観音のモデルと言われているそうで、杉本寺の十一面観音にも光明皇后の名前が表示されているそうです。しかし日本仏教界の最大のパトロンはこの聖武天皇夫妻じゃないですかね。全国に国分寺、国分尼寺を建てさせたのもこの夫婦です。

  • でもこの人、光明皇后って藤原氏台頭の立役者なんだよね。聖武天皇もある意味それ以降400年に及ぶ奥州侵攻の引き金を引いた人でもあるわけで・・・、でもこれも深追いするとでてこれなくなっちゃうから・・・・・

杉本寺の観音堂

さて、これが観音堂ですが、この観音堂は1687年に再建されたものですがそれにしても十分古いですね。五間四面の中世密教本堂形式というそうです。中は撮影禁止です。
(て、売り物の絵文字の般若心経だけは撮らせてもらいましたが。)

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杉本寺のご本尊・三体の十一面観音像

ご本尊は3体。実は奧の奧、内陣の奥の防火設備の中にあって遠くからしか拝観できませんが、まあしょうがないでしょう。次の火事でもまたご自分で避難される保証は有りませんからね。おまけに撮影禁止なので変わりにこれを買いました。
即座に観音堂の敷石で撮影、その方が有り難みが有るでしょ?(笑)

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  1. 左から、行基自ら刻んだとされる十一面観音像で、覆面をしています。その訳は後ほど。
  2. 次に851年(仁寿元年)に慈覚大師円仁が参籠して刻み安置した十一面観音像
  3. 右は985年(寛和2)花山法皇の命により僧源信(恵心僧都)が十一面観音像を刻み安置

ところで3本尊の最後、花山法皇の命により恵心僧都が十一面観音像を安置したしたときに板東第一番の札所と定められたと言う説もありますが・・、伝承です。花山法皇は岩殿寺にも登場しますが、西国の霊場めぐりに出かけてなかなか帰ってこなかった方でそこから三十三番札所の由来には担ぎ出されるんだと思います。まあこちらの伝承では本人が来たとまでは言っていないですが。

残る行基作と言う覆面観音は、ホントに行基の作なんでしょうか? 私は医王山長善寺(現辻薬師堂)で行基作の薬師如来像を平安仏と言われて以来人間不信に陥ってしまったのです。 しかしこればっかりは国立博物館と言えども厳密に調査をするわけには行きません。
何でって? 貴方、そんなことしたら大変な事になりますよ! 馬が暴れるぐらいなら良いけと、車が暴れたらどうするんですか! それを封印した建長寺の大覚禅師ももはやこの世にはいらっしゃらないんですよ!フキフキ "A^^;

行基自ら刻んだとされる十一面観音像が少なくとも鎌倉時代よりは前であることは確かなようですね。それが平安時代なのか奈良時代にまで遡るのかは解りませんが、鎌倉国宝館の同名のパンフレットのp52にこう書かれています。

鎌倉時代以前の作例には杉本寺十一面観音像・証菩提寺阿弥陀三尊・白山神社毘沙門天像などがある。

あっちゃー!ここには平安時代末期と。一次情報がどこなのかは解りませんが、鎌倉市の文化財に指定されているようですからそちらにあるのかもしれません。こちらのサイトの参考文献は『鎌倉市史』社寺編と鶴岡静夫『関東古代寺院の研究』(弘文堂) だそうです。こうして明記して頂けるととても助かりますね。また鎌倉図書館に行かなくちゃ。

本尊は十一面観音像三体で、最も古い木造十一面観音立像は行基作と伝えるが、平安時代末期の素朴な魅力を持つ彫刻である。

ちなみに証菩提寺は鎌倉初期のお寺で阿弥陀三尊はよそからもってきたものです。白山神社毘沙門天像と言うのは全然しりませんでした。白山神社ってどこだ? あっ、あそこか、鎌倉時代の山内荘です。この毘沙門天は、頼朝が鞍馬寺から請来したと伝えられています。しかし神社に毘沙門天? 白山権現はここ杉本寺にも出てきます。仏教と関わりが深そうですがまだ調べていません。

ともかく鎌倉市の文化財ってことで調べてみましょう。

851年に慈覚の十一面観音像

鎌倉時代はキープしました。
「おだやかな彫口による藤原時代の様式を備えるなど古様な部分も見られるが、顔は鎌倉時代らしい引き締まった頬をもち、それ以前に有った像を模した作であることが想像される。」
鎌倉時代らしいってのは鎌倉中期以降のことですからね。
残念ながらちょっとおまけして平安時代って訳にはいかないでしょう。フキフキ "A^^;

985年(寛和2)恵心の十一面観音像

鎌倉時代
まあここまでは心の準備は出来ています。
「洗練された彫技は、鎌倉地方彫刻の中では一際目立つ。」
う〜ん、間近に拝見出来ないのが残念ですね。

734年(天平6)行基の十一面観音像

問題はこれです! ありゃ、やっぱり平安時代。

「三体の中で最も素朴な像である。面相は浅い目鼻立ちのせいもあって、あまりはっきりしない。」

えっ! 覆面を取っちゃったんでしょうか?
ひえー! 夜中に交通遮断してやったのでしょうか? それとも馬だけで車は関係無かったのかな〜。自転車はどうなんだろう? 駆動力は生き物だからな〜。フキフキ "A^^;
もしかして、覆面をしたのは馬が暴れるからじゃなくてお顔がはっきりしない、ようするにのっぺらぼうだから?

しかし困ったな〜、頼朝以前は証明されたんですが、鎌倉の「天平の甍」が風前の灯火です。実はこの先1年ぐらいのこのサイトのあらすじは大体出来ていたんですが、証拠のひとつが。(^_^;)
宮本常一先生がおっしゃっていたのはこういう事だったんでしょうか。う〜ん、ちょっとだけ弟子としては自然体で「なるようになるさ♪」と思うことに致しましょう。

えっ、先生の教えはそうじゃないだろうって? そこが「ちょっとだけ」たる由縁で御座いますよ。
わっはっは (^o^)/   ・・・ (,_'☆\ ベキバキ

杉本寺に運慶は?

運慶の作と言われるものは先ほどの山門の仁王像の他にこちら観音堂の中にもあります。

  1. 前立ち十一面観音像
  2. 地蔵菩薩像
  3. 観音三十三身

 運慶の作と言う伝承の仏像は沢山有りますが、それは運慶の名が今ではこの時代で一番知られているからですね。でも教科書にだって運慶・快慶とセットで出てたのに伝承は運慶ばっかりですね。変なの! 
「運慶だったら良いな・・、もしかすると運慶かもしれない・・・、運慶だったりして・・・、運慶だと聞いた・・・、」。伝承と言うのはこの最後の部分です。その前がどうだったのかは解りません。伝承で運慶とされるものはこのように割と沢山あるんですが。

それで逆に運慶の側から調べてみると、こうです。相模国で確実とされているのは逗子からバスで大楠山の方に行く途中の浄楽寺の三体だけですね。当時は今ほどスーパーヒーローじゃありませんし、仏師は当時同じぐらい名のしれた仏師は沢山居たでしょう。どっちかと言うと非主流派です。それに慶派は運慶だけじゃありませんし。・・・それ以前に、そもそも鎌倉時代なんだろうか? 

で鎌倉市の文化財の目録を調べてみると、ありゃ。(^_^;)

  • 前立ち十一面観音像
    室町時代の丁寧な作と。つまり運慶ではありません。頼朝が寄進したと言われるものですが、寄進したとしてもこれでは無いですね。この観音様にはあまり感動しなかったんですが・・・。
  • 地蔵菩薩像
    あれ? 二体も有ったんですね。1体しか記憶に無いけど。私がお参りしたのは運慶かどうかは置いても良いお顔でした。
    一体は室町時代。玉眼、肉身漆箔、衣黒漆塗り。像高158.5。こちらが鎌倉市指定文化財なんでしょうか? 私が見た目録には全部書いてあるんで両方とも?
    もう一体は鎌倉時代から南北朝時代。玉眼、彩色で像高150.0 「鎌倉地方彫刻らしい像」とあります。
  • 観音三十三応現身像
    江戸時代だが初期から中期? 1843年(江戸時代末期、天保14)に高橋善之亮忠衛が修復と。長谷寺の宝物館にも良いものがありまが「ともに貴重」とあります。あちらよりは小ぶりですが。
  • 観音三十三応現身像の前立像二体
    1662年(江戸時代初期)。 「相州鎌倉扇ヶ谷之住大仏師加賀作之」と胎内に銘があるそうです。大仏師加賀ってなんか名の知られた人らしいです。
  • ところで仁王像は?
    「法量計測せず。江戸時代。詳細な調査は後日に期したい。」
    専門家が見ると一目瞭然で市の文化財対象外、採寸も後回しって感じでしょうか? でもよその仁王像より力強い作だと思います。おっ、鎌倉市文部科学省からメールが届きました。
    なになに? 「いそがしから後の調査はやっといて」って? しょうがない、では新説を発表致します。この仁王像は享保十年にこの仁王門と一緒に作られました。真面目な話、そんなとこではないかと。

要するに全滅。まあ一体は「鎌倉時代かも」ってのが有りますから1%ぐらいは可能性を残しているんですが。(;^_^A アセアセ…

杉本寺の運慶は持っていかれた?

ところでこんなものを見つけました。
佐野邦一翁  古老が語る 宍塚の歴史(三十八)第三十七章 
鎌倉切っての名古刹杉本寺と般若寺の接触について

(千葉介)常胤は生前、頼朝の異腹母の弟・義経の兄に当たる全成とは長い親交で結ばれ入魂の仲であった。頼朝の教養の師である良辨僧正が杉本寺の住職高弁僧都と同郷出身から息の会う間柄であった。
 全成は幼少の砌、今牛若丸と称し、平治の乱で・・・京都を逃避し、母・常盤の実家である大和国宇陀郡、竜門の牧の方に落ち延びる時、世話になった関係で入魂の関係となった。高弁僧都が延暦寺の僧であった時分である。又、杉本寺では全成は、生前、相良三朗藤原の長頼は、頼朝の側近として仕え、正治元(1199)年一月、頼朝が富士川の橋供養の時、参列した際、頼朝の頓死を目のあたりに遭遇、人間の一生の儚(はかな)さを感じ、武門の道を離れ、出家、行慈僧正の基で僧と成り蓮仏と号し、杉本寺に居住し、全成が没して二ヶ月余り過ぎた建仁三(1203)年九月に起こった頼家(二代将軍)の妻・若狭局(比企能員の娘)の子・一幡を擁して交戦する比企一族の乱の時、杉本寺が戦火による廃墟と化す直前、本堂の隅にあった釈迦堂に安置されて居た運慶作の釈迦如来立像を政子の命によって駆けつけた下総国相馬郡守屋領主相馬小次郎師常が郎党と共に救出し、師常に依って三浦半島の三崎より船によって霞ヶ浦を渡り筑波川(桜川)を経て、志々塚般若寺に安置されたと伝えられて居る。・・・・

いや、比企の乱と言うか、北条時政が急襲したときは双方そんなに大軍ではなく比企一族は何の用意もなく武者も確か十数名であっと言う間にやられています。そんな杉本寺に火の粉が飛ぶような距離でもないし。政子は父時政に自分の孫が殺されようとしているんだからそれどころでは無いでしょう。その後頼家が時政に殺されたときもえらい嘆き悲しんだそうですし。

 釈迦如来象は東大寺が頼朝の命によって僧・重源、西行法師、行勇僧都の三者が勧進となって、重源が主役になり諸国巡業し発願して十四年の歳月を費やして、建久六(1195)年二月完成した。頼朝は夫婦揃って参列し・・・・
 それから八年後、全成が没した。翌月七月に運慶、善慶によって奈良若草山の麓の東大寺の南僧門の仁王像製作の砌、政子と阿波局の要請により釈迦如来像が作られたと伝えられて居る。運慶はその後、二十一年を経た、貞応二(1223)年十二月十一日此の世を去ったのである。我が家の家伝によると運慶が十八歳の頃、奥州平泉の毛越寺の仏像製作に志々塚の地を通過の際、般若寺に一夜の宿を懇望したと伝えている。

えらい詳細なんですが、志々塚般若寺(どこだか知らないけど下総国?あっ下総国相馬郡 うちの田舎じゃない)と運慶の縁についての伝承でしょうか? いつの頃から言い伝えられた伝承かは解りませんが、運慶との縁に杉本寺を持ち出したところは注目されます。そのとき持って行っちゃったから鎌倉には運慶が無くなっちゃったのかも。返せー

杉本寺にあった絵文字の般若心経

面白かったのがこれ! 字の読めない農民に般若心経を憶えさせる為にお経が絵になっています。
ま か はんにゃは ら  み た しんぎょう
摩訶般若波羅蜜多心経

が釜の反対で「ま〜か〜」、般若はそのまんま。以下同文・・・でもないけど見比べてください。(笑)

杉本寺の五輪塔群と石仏地蔵菩薩

本堂右側、このページ最初の画像で手前に無縁の五輪塔群がありますが、その五輪塔群の隣、下の画像ではお地蔵さんの右端に風化の甚しい凝灰岩製の石仏地蔵菩薩像がありますが、これは平安末期・三浦義明の長男でこの地に館を構えた杉本太郎義宗の守本尊と伝えられます。伝承ですが。と言うか古いものがあったのでこんなに古いのは杉本太郎義宗のころか?って話だと思いますが。

これと同じようなものを私はここから岩殿寺への巡礼古道で見ました。これです。あれも本当に鎌倉時代なのかな〜? ちなみにあちらは去年書いたページなんであとでちょいと修正しないと。(;^_^A アセアセ…

  • 杉本太郎義宗は頼朝の少し前、平安末期の人で、鎌倉幕府初代侍所別当(長官)和田義盛の父で三浦一族の長、三浦義明の長男ですが房総の豪族との戦いで負傷し、若くして死にます。そのためか三浦宗家の家督は杉本義宗の弟、義澄が継ぎますがこれが和田義盛が三浦一族の一員でありながら三浦宗家に対してでかい顔をしていた背景です。

杉本寺にある熊野権現・白山権現

観音堂の右奧には熊野権現白山権現を祭ったお社があります。上の画像右の厨子は何だか知らないんですが。そしてそのお社の後ろ、の矢倉には・・・
下が白山権現、熊野権現は上の写真のお社の後ろに小さく写っているのがそうです。岩殿寺縁起にある大和長谷寺の開基徳道上人が、岩窟にて十一面観音を感得。また熊野権現の化身である老翁に逢い、仏教興隆の鎮守として熊野権現を祀った。」と言うのはこういうものだったのでしょうか?

ところで、岩殿寺にせよこの杉本寺にせよ、何で観音堂のすぐ傍にに熊野権現が祭られているのかと言うことはまた日を改めて。

杉本寺の奧、杉本城跡

お寺の左手と言うか後ろの山が杉本城ですがこれは鎌倉時代より後の南北朝時代のものです。杉本太郎義宗とは杉本に館を構える三浦の太郎(長男)義宗と言う意味ですがその館が杉本城と言う訳ではありません。例え山城にせよ我々が考える「城」のイメージはあの当時(平安末期)には無いと思います。秋田城(あきたのじょう)とか言葉は有りましたが意味が違います。

この城は鎌倉幕府滅亡(1333)後の南北朝初期1337)に、足利一族の斯波家長が築いたものと思われますが(様々な説あり)斯波家長は奥州から南朝救援の為に鎌倉に攻め入った北畠顕家の大軍に攻め落とされています。その時の遺構だと思います。当時のことですから小さい山城で石垣などはありません。平場程度の小さな曲輪跡(くるわ)が本丸、二の丸、三の丸と言うように残っています。
無縁の五輪塔群はその時の犠牲者を弔ったものと、あるいはもっとはっきりとそのときの斯波一族の供養塔と言われています。新しいのも有るんですがね。

これらの五輪塔は、祀られていたこの付近の「やぐら」などが崩れたりして流されたり、埋まったりしていたものを集められました。

と書いてあるサイトもあります。これはそうかもしれませんね。

杉本寺の霊験譚と吾妻鏡

さて冒頭の霊験譚の

昔近火の節御三躰庭の大杉の本に飛で光明かゞやかせ給ふふしぎあるをもて・・・・

ですが、『吾妻鏡』文治五(1189)年にこういう記述があります。ここには三体とはとは書いてありませんね。

11月23日 己卯 冴陰、終日風烈し
夜に入り大倉観音堂回禄す。失火と。別当浄臺房煙火を見て涕泣し、堂の砌に到り悲歎す。則ち本尊を出し奉らんが為焔中に走り入る。彼の薬王菩薩は、師徳に報ぜんが為両臂を焼く。この浄臺聖人は、仏像を扶けんが為五躰を捨つ。衆人の思う所万死を疑わざるに、忽然これを出し奉る。衲衣纔に焦げると雖も、身躰敢えて恙無しと。偏にこれ火もこれを焼くこと能わざるを謂うか。

ところがそれが民間伝承では三体になったばかりか、三体の観音様は自分で歩いたのか、空を飛んだのかこういうことになってしまいます。フキフキ "A^^;

 文治五年(1189)のこと、隣家の失火のため、全山が炎に包まれた。時の住職浄台法師は、本尊を救い出すため、本堂に入ろうとしたところ、呼び止める声が背後から聞こえた。振り返ってみると、大杉の根元に三体の観音が光明を放って立っていた。歓喜した法師は、後に堂宇を再建。それ以降、杉本の観音と呼ばれるようになったという。 

こちらのサイトには

文治5年(1189)11月23日の夜、火災が起こったが本尊3体が大杉の下で火を避けられたので,それにより杉の本の観音と今日まで呼ばれたと「吾妻鏡」は伝えている。

と有りますが、それは1771年明和八年沙門亮盛師の『坂東三十三所観音霊場記』かなんかじゃないですか? 『吾妻鏡』には上に有る通りそんなことは書いてありません。
ん? お寺のパンフレットに書いてあるの?

『吾妻鏡』の建久二年(1191)の条に「累年風霜侵し、甍破れ軒傾けり、殊に御燐愍有って修理を為す」とあるそうで、頼朝は寺のの再興につくし修理料として准布二百端の奉加を行い、前立本尊も納めているそうです。そこに「運慶の」とでも書いてあれば有力な根拠になるのですが、そこに書いてなければ後世の創作と言う線が強くなります。せめて何月ぐらいまでは書いてくれないかな〜、私は見つけられませんでした。
建久四年(1193)には頼朝が、そして(建暦二年)1212年には三代将軍実朝も参詣しているとか。

杉本寺・下馬観音の言い伝え

さて冒頭の霊験譚のもうひとつのお話ですが。行基作と伝える最も古い木造十一面観音立像は別名覆面観音、あるいは下馬観音とよばれています。
門前の街道を馬上のまま通ろうとすると必ず馬から落ちてしまう。そこで北条時頼の命で建長寺開山の大覚禅師が赴き、袈裟で十一面観音立像のお顔をおおったら、それからは落馬する者はなかったとか。

おわり

ところでどうやらこの一行、杉本城跡の方にでも行ってたんでしょうか? 閉められてしまったみたい。

しかしこのノリのいいボケツコミ、漫才トリオはいったいどちら様なんでしょう? 手に持っているお土産が豊島屋の鳩サブレ? おお、境内レストランの石釜で焼いたパンてとこが通ですな〜。(笑)

他の季節は寺社index・杉本寺をご覧ください。