鎌倉七口切通し     化粧坂切通し

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鎌倉の紅葉 2005/切通編 化粧坂切通から銭洗い

化粧坂の名の由来

名の由来は様々。平家の大将の首を化粧して首実検したからという説、この辺に遊女がいたからという説、険しい坂が変じたという説、坂の上が商取引が盛んで「気和飛坂」、木が多いので「木生え坂」など。「吾妻鏡」と言っても「国史大系」「島津家本」には「気和飛坂」ですが、北条本では「乗和飛坂」なんだそうです。元はひとつなんですが、現存する吾妻鏡はすべて写本か、写本の写本なんで。
ちなみに吾妻鏡に気和飛坂(仮粧坂)の名が見えたのは建長三年(1251)十二月三日の条です。

 12月3日 戊午
鎌倉中の在々処々、小町屋及び売買設の事、禁制を加うべきの由、日来その沙汰有り。今日彼の所々に置かれ、この外は一向停止せらるべきの旨、厳密の触れ仰せらるるの処なり。佐渡大夫判官基政・小野澤左近大夫入道光蓮等これを奉行すと。
  鎌倉中小町屋の事定め置かるる処々
   大町 小町 米町 亀谷辻 和賀江 大倉辻 気和飛坂山上
  牛を小路に繋ぐべからざる事
  小路は掃除を致すべき事
     建長三年十二月三日

化粧坂と書かれている文献は江戸時代以降が多いようで、しかし「太平記」にも「粧坂」と書かれています。
遊女が居たと言うのは「曽我物語」の虎御前のことでしょう、頼朝の時代です。でも曽我物語自体がいつ作成されたのかは残念ながら私には解りません。史実と「物語」の記述は違いますからね。坂井孝一『曽我物語の史実と虚構』(吉川弘文館)なんて本を読めば書いてあるのかもしれませんが。

建長3年(1251)に既に気和飛坂山上が市として賑わっていたとすれば、かつ、ここが路として整備されたとの記事が無いことを積極的に評価すれば、3つの切通しの中でここが最も古く、頼朝の鎌倉入り以前の奈良時代から鎌倉郡北部の租税(稲)を鎌倉郡衛に運んだ道筋と想像することもできます。であれば当時は上道も中道も下道も、すべてこの坂から出たのかもしれません。

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雪の化粧坂切通し

気和飛坂口の先

鎌倉古道によると、この坂を越えるのが「上つ道」とか。化粧坂を越えて梶原・深沢・村岡・柄沢・俣野で旧東海道を横切り下飯田・上飯田・瀬谷・町田へ。しかしこれは時代によって異なるのではと思います。

具体的には仁治元年(1240)建長2年(1250)に山内路(巨福呂坂切通し(こぶくろ)なのか亀ヶ谷坂切通し(かめがやつ)なのかは不明)整備される前と後では。更に本当に「梶原・深沢」ルートだったのか。実はこれはどうも疑問に思うのです。

土木工事の進んだ現在ならともかく、あの当時は尾根の上を道にした方が合理的だからです。山中の古道は谷の川沿いを通ることは比較的少ないです。これは山歩きをする人なら解るでしょうがハイキングコースを考えてみてください。案外尾根道が多いのです。谷の下の方の道は大雨や台風、そうでなくとも日常的な落石で道が道で無くなってしまうのです。

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こんな具合に。鋼鉄製の塀が無ければ完全に塞がっていたでしょう。( 鎌倉の台風22号

山間に畑や田圃のある、例えば信州などでも旧道や古い集落は山並みの麓、田畑より山側にあります。これはそれより平地の中央、川の近くは川の氾濫、湿地であるためにこれまた道を作るには相当の労力を必要とすること、そして川の氾濫ではまた道普請が必要です。人口密度が高ければ利便性の為にはその都度の道普請も必死に行うでしょうが、そうでなければ使用不能になります。

そういう目で地形図を見ると例えば北条政村の常磐邸は大仏坂口鎌倉時代の根拠に使われることもあるようですが、あそこから尾根に上がればそれは佐助稲荷、銭洗い弁天裏の尾根で化粧坂につながります。化粧坂から大仏ハイキングコースに入り、佐助稲荷の手前で右に曲がる山道です。その道筋は別にハイキングコースとして作られた訳ではなく、明治15年の地図にも載っています。(下参照)
常盤亭から鎌倉中へのルートは私はここではないかと思うのですが。名越と同じように源氏山公園あたりが今で言う十字路の様になっていて四方へ道が通じていたと考えるのもそれほど不自然なことではありません。

また、頼朝以前の鎌倉にも書きましたが奈良時代以前の弥生時代中期〜後期には北鎌倉の台山一帯には集落があるようです。その幾つかは現在の北鎌倉女子高の周辺で発掘されています。078台山藤源治遺跡などです。山ノ内配水場から瓜が谷の上のほぼ尾根沿いに北鎌倉十王堂橋の方へ、そしてその北鎌倉女子高へ抜ける道、更に尾根伝いに山崎小学校に抜ける道があります。車道ではないですが。

そうした人間が住みやすい場所、田畑を開墾した場所はよほどの農耕技術の革新か、平野の開墾が進まない限り継承されるものです。後の鎌倉道ほどでは無いにせよ、周辺住民の通路としての道はあっただろうと考えるのも証拠は十分ではないにせよまあ自然なのでは? と思います。

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明治15年陸軍参謀本部 2万分1フランス式彩色地図(国土地理院)」

この地図は国土地理院の「明治15年陸軍参謀本部 2万分1フランス式彩色地図」4枚をPC上で張り合わせて道をなぞったものです。今から125年前、横須賀線はおろかまだ東海道線すら走ってはいません。首都東京はともかく、ここ鎌倉は江戸時代末期の状態と同一視しても良いでしょう。鎌倉の人口は鎌倉時代よりもずっと少ないはずです。鎌倉の外側旧山内荘は2〜3倍は多いかもしれませんが、現在と比べれば。たとえば山内荘の一部横浜市栄区は平成2年には12万人を越えていますが明治9年の人口はわずかに3,837人です。

その状態でもこれだけの道があり、その道の1/3はメインかどうかは別にして鎌倉時代から使われていたはずです。宅地開発によって消滅した場合を除き、多くの道は今も通れます。よく見て頂くとここでも尾根道が多いことに気がつかれるはずです。

それらを踏まえると、化粧坂から葛原岡、そして瓜が谷へ降りる途中から西へ山ノ内配水場の前を通り、鎌倉中央公園の上か中を抜け、洲埼・水道山方面に抜ける道を考えた方が理にかなっていると思います(洲埼方面に伸びる半透明のオレンジ:現在略車道)、これは地形からです。
またそう考えると1333年鎌倉滅亡のときの洲埼の戦いが理解できるのではないでしょうか。この道筋の洲埼手前の一部は江戸時代に江の島への道としても使われています。

  • 「鎌倉市史の総説編」で高柳先生からも「けれども中道が化粧坂から出る道としてもよい。それは深沢へ出る道ではなく、洲埼へ出る道と解釈すればそれはそれで良いと思う。p191」とお墨付きを頂いております。私は中道ではなくて上道兼中道でもあると言っているので、高柳先生に怒られることは無いと思います。(笑)
  • もっともこれは私は初めて言い出した訳ではなく、明治大正時代に日本史学者で「大日本史」などの著作を多数残し、特に源頼朝研究ではその第一人者として知られる大森金五郎氏が歴史地理大観「かまくら」の中で触れられているそうです。そうだと言い切った訳ではないようですが。と言うことで明治40年初版(吉川弘文館)を取り寄せましたが見つかりません。大正14年の日用書房版の方で書き加えたのでしょうか?

それはともかく1333年、この切通しはその洲埼の戦いの後(だと思う)新田義貞軍が主力を投入して攻めあぐねたところで天然の要害であることは確かです。時代は下って応永23年(1416年)年の上杉禅秀の乱でも主戦場となったとか。石碑にはこうあります。

氣生坂又ハ形勢坂ニ作ル 此名稱ハ往時平家ノ大将ヲ討取リ其首ヲ假粧シテ實檢ニ備ヘシニ據リ起ルト言ヒ 又一説ニハ古此坂ノ麓ニ遊里アリシニ據リ此名ヲ負フト相傳フルモ東鑑ニハ其名見エズ 此坂ハ所謂鎌倉七口ノ一ニシテ鎌倉攻防ノ要路ニ當リ 元弘三年五月新田義貞軍ノ鎌倉討入リ以来屡々戰場トナレル所ナリ
昭和十五年三月建 鎌倉町青年團   鎌倉史跡碑事典

「梅松論」の記述

「梅松論」は貞和五年(1349年)頃から源威集(嘉慶年間1387-1389)に至る過程で成立と推測され資料的価値は「太平記」よりも高いとされています。目的としては源威集と同様に足利幕府の正当性とその賛美のようです。

 同日山口の庄の山野に陣を取りて、翌日十五日分配・関戸河原にて終日戦けるに命を落とし疵を蒙る者幾千万といふ数を知らず。
 中にも親衛禅門(=北条泰家)の宗徒の者ども、安保左衛門入道道潭・粟田・横溝ばら最前討死しける間、鎌倉勢ことごとく引退く処、則ち大勢攻めのぼる間、鎌倉中の騒ぎ、只今敵の乱入たらんもかくやとぞおぼえし。
 三つの道へ討手をぞ遣されける。下の道の大将は武蔵守(金沢)貞将むかふ処に、下総国より千葉介貞胤、義貞に同心の義ありて責め上る間、武蔵の鶴見 の辺において相戦けるが、これも打負けて引き退く。
 武蔵路は相摸守守時(=赤橋氏)、すさき(洲埼)千代塚 において合戦を致しけるが、是もうち負けて一足も退かず自害す。南條左衛門尉并びに安久井入道一所にて命を落とす。
 陸奥守貞通は中の道の大将として葛原において相戦 ひ・・・

その次の章で極楽寺・稲村ケ崎となります。高柳先生は「下道は巨福呂坂道と諸家が一致している。そして中道も化粧坂道ということに諸家が一致している。それでは武蔵路はどこかと言うのである。(p191)」「・・・「梅松論」に中道と言っているものを従来の研究者は化粧坂口としているけれども、これはこの大仏坂道ではないかと思う。(p189)」と新説を出されています。新説と言っても昭和43年(1968年)のことですが。

その前提は三つの道を鎌倉から出発する際の出口と想定されています。確かにそうすると巨福呂坂と化粧坂の間の武蔵路は亀ヶ谷坂? これは確かに変ですね。出た途端に巨福呂坂と同じ山内路です。と言うか、巨福呂坂と言った場合、円覚寺の前あたりから坂の頂上までの長い間を指し、決して建長寺から先の巨福呂坂切通しひとつを指すものではないと思います。亀ヶ谷坂も含むと考えてよいでしょう。

武蔵路は武蔵大路の先、あるいは武蔵大路そのものと考えればそれは化粧坂を出なければならない。

しかしこれは違うと思います。その前提は三つの道を鎌倉から出発する際の出口と想定されていますがそれだから解決がつかなくなるのではないでしょうか。

それに、この「上道、中道、下道」は確定した固有名詞ではないでしょう。例えば吾妻鏡文治5年7月17日の条では通常「上道」と言われる道を「下道 」と書いています。

吾妻鏡 1189年 (文治5年)7月17日
 奥州に御下向有るべき事、終日沙汰を経らる。この間三手に相分けらるべし。てえれば、所謂東海道の大将軍は千葉の介常胤・八田右衛門の尉知家、各々一族等並びに常陸・下総両国の勇士等を相具し、宇多行方を経て岩城岩崎を廻り、逢隈河の湊を渡り参会すべきなり。北陸道の大将軍比企の籐四郎能員・宇佐美の平次實政は、下道を経て、上野の国高山・小林・大胡・佐貫等の住人を相催し、越後の国より出羽の国念種関に出て、合戦を遂ぐべし。二品は大手、中路より御下向有るべし。先陣は畠山の次郎重忠たるべきの由これを召し仰す。

これは向かう先が奥州だからでしょう。奥州攻めの3軍の中央が「大手中路」、武蔵国から下野国の宇都宮、そして白河の関を越えて攻め登ります。東海道が53次であるのは江戸時代のこと。古くは太平洋側の道(国)で相模から安房、上総・下総・常陸国です。北陸道は越後国から奥州を攻め、そこに行くのに「下道」を通っておそらく武蔵国府中から国分寺、そして上野国から越後国に抜けたと。一番遠回りだから「下道」なんでしょうか。

実は私も文治5年の「大手中路」を鎌倉からの出口として考えていたことはあるのですが、鎌倉の出口にばかり目を取られていると訳が分からなくなります。と言うと「大手中路」説が危うくなってしまってそれはそれで困るのですが、まあしょうがありません。

太平記の記述

「梅松論」の三つの道と戦った場所は時間的に同時では無いと思います。それは同時代に少なくとも前半は書かれていた「太平記」での鎌倉攻めを合わせて考える必要があります。

分陪・関戸に合戦の後

鎌倉中の人々は昨日・一昨日までも、分陪・関戸に合戦有て、御方打負ぬと聞へけれ共、猶物の数共不思、敵の分際さこそ有らめと慢て、強に周章たる気色も無りけるに、大手の大将にて向れたる四郎左近大夫入道僅に被討成て、昨日の晩景に山内へ引返されぬ。
搦手の大将にて、下河辺へ被向たりし金沢武蔵守貞将は、小山判官・千葉介に打負て、下道より鎌倉へ引返し 給ければ、思の外なる珍事哉と、人皆周章しける処に、結句五月十八日の卯刻に、村岡・藤沢・片瀬・腰越・十間坂・五十余箇所に火を懸て、敵三方より寄懸たりしかば・・・

と言う状況で鎌倉の戦いになります。

去程に義貞の兵三方より寄と聞へければ、鎌倉にも・・・三手に分てぞ防ける。
其一方には金沢越後左近太夫将監を差副て・・・・・粧坂 を堅めたり。
一方には大仏陸奥守貞直を大将として・・・・・極楽寺の切通を堅めたり。
一方には赤橋前相摸守盛時を大将として・・・・・州崎 の敵に被向。

つまり「下の道の大将は武蔵守(金沢)貞将むかふ処に」と、「武蔵路は相摸守守時、すさき(洲埼)千代塚 において」は同時に発令されたものではなく、分倍河原のの敗退と、「下道」鶴見での金沢貞将の敗退を受けての布陣が赤橋盛時の武蔵路・洲埼、陸奥守貞通・金沢左近将監の中道・化粧坂、そして大仏陸奥守貞直が極楽寺、となるのではないでしょうか。

あるいは、主力北条軍が「上道」の分倍河原で迎え撃つと同時に「中道」に陸奥守貞通が、「下道」に金沢貞将が出撃したが、「上道」の主力軍、、「下道」軍金沢貞将が敗退したので「中道」軍は山内路、化粧坂まで後退して防衛に当たったのかもしれません。「太平記」は脚色が多そうだし軍勢の数なんか2桁ぐらい違うんじゃと思うんですが、でもこの時間差は納得できます。

また「下道」の大将は武蔵守金沢貞将。金沢北条氏は六浦・金沢文庫です。鎌倉の出口は六浦道・朝比奈切通しもありますよね。六浦は今でこそ神奈川県ですが当時は武蔵国、鶴見もそうです。出口にこだわるとそちらでも良さそうな気はしますがしかしいずれにせよ前日以前の話です。

また武蔵道は「武蔵路」で検索するとすぐに出てきますが「東山道武蔵路」の相模国側のこと、所謂「上道」と解釈すべきではないでしょうか(ピッタリと一致ではないでしょうが)。「上道=武蔵道」に対する堅めとして赤橋盛時が洲埼を固めた。北条貞通と福将金沢越後左近太夫将監は山内荘の北からの道「中道」に備えたが、「上道=武蔵道」から村岡・藤沢・片瀬の方に新田軍の主力が来たので洲埼の後詰の意味もあり化粧坂に引いて防衛線を引いた。そう解釈すれは何の問題も無いように思います。

そして「梅松論」と「太平記」を両方合わせても大仏切通しは出てこない。大仏近辺に屋敷を構えた大仏(北条)貞直は出てくるけど、大仏貞直は極楽寺と稲村路を守っている。この頃、鎌倉時代末期には長谷のあたりも民家が密集していたようですから、大仏切通しも地域の物流の為に多少は整備されていた可能性はありますが、鎌倉外からはさほど注目されるほどのものではなかったのだろうと思います。

もうひとつ、「梅松論」は鎌倉側から書いているのではありません。攻める側でおまけに寄せ集めで統制など期待出来ない新田勢が敵の動静を正確に把握できる訳は無いし、かつ七口議論で書いているのでもありません。これを陣を構え戦をした処までの道と解釈したらどうなるでしょうか。

  • 金沢貞将が進んだ先、武蔵国鶴見は下道です。
  • 赤橋守時は山内荘エリア(ここも武蔵路、下と中とはまだ別れていない)を守る為に出て境川沿いに遊行寺経由で降りてきた新田軍と洲埼で戦った。それを破った新田軍は山内道から巨福呂坂に進んだが突破できなかった。
  • 中道の出口化粧坂一帯を守っていた北条貞通は葛原(化粧坂の北、葛原岡神社がある)で洲埼から台山尾根沿い、瓜が谷の上を通って攻めてきた新田軍と戦って撃退した。

そんなにおかしくは無いような気がします。

梅松論」は脚色は少なそうだけど、細部の検証に耐えるほどではないでしょう。もちろんあれこれ考えられると言うひとつの例に過ぎません。大体「梅松論」の作者も「太平記」の作者も足利尊氏の近くのもので現地に居た者ではないはずです。足利氏周辺が伝え聞いた記録を何十年も後に戦記ものにしたものしか我々には考える材料が無いというだけです。
でも「太平記」全般は嘘八百が多くて信用されていないのですが、鎌倉攻めについては「伝え聞いた記録」を素直に転写したのか意外と正確なところもあるようです。どこかは高柳先生にお聞きください。(ページを探すのが面倒なだけだったり)

葛原岡大堀割

これが葛原岡大堀割です。右の切岸の風化の状態は名越の大切岸と同じ程度ですね。

梶原から一直線に仮粧坂に至る路は西方との交通路の一つとして重要であった。従ってこの路が尾根を越える部分である葛原岡が、防衛上重要地点の一つであったことは論ずるまでもない。然るに西方からの路に対する厳重な防衛状態の残存するものなく主として用いられた路が何れであるか充分わからぬが、葛原岡神社のある丘陵の北側に、ここから北側につずく尾根を大きく断ち切った大堀割が残存する。これは海蔵寺の背後と瓜ケ谷奥とを堀割って通じたもので、堀割った両側は切岸になっている。
現在ではその間に土を盛って狭い陸橋が形成されているので交通にさしつかえないからちょっと気がつかないが、陸橋上に立って左右を見ると、これが大堀割であることに気がつくであろう。即ち北方からの侵入者にたいし防衛する施設である。(「鎌倉市史の考古編」 赤星直忠)

しかし本当に防衛施設であったのかどうかは異論もあるところです。 
「中世都市鎌倉−遺跡が語る武士の都」の河野眞知郎氏 は私と違って異論は挟んでおられないのですが、「それがいつなされたか知ることは非常に困難」とおっしゃっています。

扇ヶ谷の海蔵寺の谷の奥には、尾根を切り下げた通称「大掘切」があり、これを通ると北鎌倉駅に近い瓜ヶ谷に抜けられる。また土地の古老らによれば、鎌倉を囲む山の尾根には、「昔から使っていた」小径が多くあったそうだ。 

現地を訪れてみると、たしかに峠部分を切り下げて坂をいくらかでもゆるやかにした「切通し」が造られている。またその最高地点の内外の山肌には、「防禦拠点にちょうど良い」と思えるような平場(曲輪が観察できる。荷を積んだ馬一頭がやっと通れるような山道と、周囲の防禦施設を、人為的に造りだしていることは間違いないのだが、それがいつなされたか知ることは非常に困難である。しかし、化粧坂では山上の土中より鎌倉時代後期の遺物が採集されているし、朝比奈口周辺の「やぐら」には鎌倉時代の年号をもつ石塔類があって、鎌倉時代中ごろ以降には人びとの往き交う場になっていたはずだ。(「中世都市鎌倉−遺跡が語る武士の都」 河野眞知郎

平成12年にこの右側で発掘調査が行われましたが少なくともここからは何も発見されていません。ちなみに鎌倉北条氏が滅んだのは1333年、14世紀前半です。ここの上に通路として土が盛られる前、ここはいわいる「地獄谷(埋葬地)」だったのでしょう。

ここに限らず「地獄谷(埋葬地)」と言うとすぐに刑場とイメージされますが、そんなところを人が通るかいと思われるかもしれませんが、当時の庶民感覚は今とは全く違います。吾妻鏡にもどこだったか忘れましたが「鎌倉中においては死体を道に捨ててはならない」と御触れが出ているほどです。つまりよく捨てられていたと。これは京においても同じでした。荼毘にふしたのはそれだけ余裕のあった人たちです。刑場であれ埋葬地であれそれはそこに道があり、「鎌倉中」の境界の外側だったからと言う方に注意をする必要があるでしょう。
それはともかく、少なくともここの発掘調査では 「鎌倉時代の防衛遺構」であることを証明するものは何も見つかってはいません。

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この大堀割の東側は海蔵寺です。また西側、瓜ケ谷には市指定遺跡の矢倉群があります。

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この大堀割は人を通さない防衛遺構どころか、河野眞知郎氏がおっしゃるように、底が海蔵寺側から瓜ケ谷経由鎌倉駅位置に抜ける道だったのかもしれません。

「鎌倉城史観」の学会的経緯はともかく、近年それにまつわる発掘調査に力が入っている背景には「古都鎌倉の世界遺産登録」と言うことがあります。そしてそれをアピールするキーワードに「城塞都市「鎌倉」の防御施設と見られる中世の土木遺産といわれ、国の指定史跡ともなっている「名越切通し」、「大切岸」のある逗子も鎌倉と一体となって、「世界遺産」に登録されるよう積極的に運動を推し進め・・・」と言うのがあるのですが、「古都鎌倉の世界遺産登録」には諸手をあげて賛成はしても、そのためにあるいは主観(ロマン)や願望で歴史をゆがめるのは如何なものか、と私は思います。

2007.02.24追記 まだまだ書きかけ