鎌倉七口切通し  旧巨福呂坂切通しの痕跡

現在のトンネルが出来る前の巨福呂坂切通しがどのようであったのか、それについての現地調査とまいりましょう。まずは現在の地図です。

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国土地理院 平成6年1/25000地形図「かまくら」

明治15年6月フランス式測量図では

やっと日本地図センターから地図が届きました。「明治初期測量 2万分1フランス式彩色地図」測量明治15年6月の「神奈川県相模国鎌倉郡山之内村及上野村」です。と書いておけばWebサイトの中で、内容補足のため地図等の一部を挿絵的に使用するのはかまわないんだそうです。
なんと「軍事機密第十四号」なんだそうです、大変なものですね(笑)。抹消線は引いてありましたが。日本で近代的な測量に基づく最初の地図ですね。ちなみに測量はフランス式からこの後にドイツ式に変わり、それが現在の国土地理院1/25000とか1/50000の地形図です。

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「明治15年陸軍参謀本部 2万分1フランス式彩色地図」

この地図と現在の地図、そして現場を注意深く見ていけば、少なくとも江戸時代に道はどういう状態で何処を通っていたのかが浮かび上がってきます。この地図の状態が1851年に鶴岡八幡宮寺の岩瀬一学が建長寺の了解も得て峰の高さを約3m掘り下げた後の状態と考えてよいでしょう。
そのあとにも1872年(明治5年)に道普請が有ったようですが付近の寺院からも寄付を募っているのでローカルな整備ではなかろうかと。すくなくとも道の位置を変えてしまうほどの大がかりなものとは思えません。

薄いオレンジが現在の新道の位置です。明治40年の地図には現在の新道のルートに道が出来ているのが下の「歴史地理大観・かまくら」付録「鎌倉沿革図」で見ることができます。ただし、その高さは丁度峠(現在の洞門)の辺りで分岐していることからちょうど電信柱の高さ以上の位置であったことが判ります。

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明治40年「歴史地理大観・かまくら」付録「鎌倉沿革図」

上の明治15年の地図には左上から右下に細い赤い線を入れましたが、これが大正時代に真っ直線に作られた横須賀水道で尾根にトンネル(巨福呂坂送水管路ずい道)を掘っています。マークした位置はそのトンネルの両端で、現在の道の高さです。当時の道の高さではありません。

もうひとつ、淨光明寺のある泉ヶ谷から峠の建長寺側と鶴岡八幡宮寺側に2本の道があります。その西側の道は明治15年地図に「淨光明寺道」と仮称で入れておいたものです。そのうち建長寺側の尾根沿いの道は、現在では使われていないので藪に覆われていますが、地形的には素直でさしたる道普請もいらない自然な道筋です。尚、この道は明治15年地図で見る限り、現在の巨福呂坂送水管路ずい道の入口の上あたりで旧巨福呂坂切通の巨福呂坂側につながっています。

もう一本は明治15年地図にも黒い線で書かれていますが、明治40年「鎌倉沿革図」の方が判りやすいでしょう。泉ヶ谷の奥から聖天坂につながっています。

さて、地図を頭に入れて、今度は実際に現場を見てみましょう。

現在の巨福呂坂トンネルから

現在の巨福呂坂トンネルの位置に道が出来たのは明治19年(1886)5月だそうです。上の「鎌倉沿革図」はその後の明治40年ですから、旧道も描かれていますが、現在の道も書かれています。しかし旧道と新道が下の写真のトンネル入り口あたりでつながっていることは地図で確認した通りです。と言うことは明治19年の新道は現在のトンネルよりずっと高い位置を通って、円応寺(写真の右側階段の上)あたりでは新道も旧道も一緒になっていた様です。

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それがこの高さまで掘り下げられたのはおそらく明治45年から10年の間、「横須賀水道」がこの峠に横須賀水道トンネル、正式には「巨福呂坂送水管路ずい道」を通したときからでしょう。その時は左側はまだ掘り下げられておらず、この斜面の上を道が通っていたと思われます。

「横須賀水道」と言うのは明治45(1912)年から10年かけ、旧海軍によって愛川町から横須賀まで水を引くための送水管が埋設した道筋です。 「昔この愛川からの水は「軍艦に積んで赤道を越えても腐らない。」と言われたほどの良水だったようです。」言われるぐらいですから帝国海軍にとってはインフラ生命線。大袈裟に言うと国家の存亡をかけて予算をつぎ込み、工事を行ったのでしょうね。

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そのトンネルは作られたときからこの位置、この高さです。と言うことは、この位置がトンネルとしての最短距離、つまりそれ以前の旧道も明治時代の2つの地図にある通りこの上を通っていたと考えてよいでしょう。下の写真に電柱がありますが、その右側にちょうど電柱の天辺ぐらいの高さで平場があります。あとで登ってみます。

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その後、道んも方は1923(大正12)年の 関東大震災 で壁面が崩落し、その改修に際になだらかな坂にして、自動車通行を可能にし(それまでは車は通れなかったと)、さらに1956(昭和31)年拡幅工事を行っています。

さらに1993年5月に落石防護施設として現在の吹き抜けトンネルのような巨福呂坂洞門が作られました。「切通しを歩いている実感を損なわれないようにアーチ状の梁とし、天井開口部を大きな六角形にし、石積みの壁を造るなど雰囲気を改善」とのことですが、「雰囲気なんか無いよねぇ。」と思うのは贅沢と言うものでしょうか。まあ、トンネルよりは開放感があって良いですね。

トンネル上の尾根

問題はそれによって削り取られる前はどうだったかです。この位置は下が谷になっていた訳ではなくて、対岸と繋がっていたはずです。

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私が歩いた尾根道は1240年に北条泰時に「これ嶮難の間、往還の煩い有る」と言われた道筋なのかもしれません。
現在はこうして片側を削りとられてしまったためにとても危険な道筋ですが、それがなければ普通に通れる道筋です。あっ、現代人ではなくて山屋と鎌倉時代の人間ならですが、坂東武者なら馬でも通ったかも。

右上の平場

さて、ここがトンネル手前、3番目の写真の右上の平場です。降りてみましょう。

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伽羅陀山心平寺地蔵堂の跡?

中央の切り落としから私は降りてきました。あの切り落としが先の明治15年地図に淨光明寺道と書いたあの尾根沿い道筋になります。この下はかなり広い平場ですが、これはもしかしたら北条時頼が1253年に建長寺を作る前には建長寺の位置にあり、建長寺建立にあたり、1249年(建長元年)にその場所を巨福呂坂上に移されたと言う。伽羅陀山心平寺の跡地でしょうか?

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延宝6年(1679)水戸光圀が寄進したと袖書きのある「建長寺境内絵図」にも「東海法窟」の額を掲げる東外門の南側に「伽羅陀山心平寺地蔵堂」と記載されているそうです。そしてその地蔵堂(と言っても鎌倉時代のままではないでしょうが)は大正5年に三渓園に移されたそうです。
大正5年? う〜ん、「巨福呂坂送水管路ずい道」(トンネル)の為の掘り下げの時期と符合しますねぇ。

しかしその心平寺地蔵堂がこちら側にあったのか、それとも対岸なのか、水戸光圀が1678年(延宝6年)に建長寺復興のために作らせた「建長寺境内絵図」には対岸に2つ、こちら側に3つ書き込みがあります。拡大しても字が読めないのですが。閻魔堂(円応寺) がこちらへ引越してきたのは宝永元年(1704)頃、従ってこの地図には載っていません。

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  • あっ、亀ヶ谷坂切通しも書いてありますね。これを見ると亀ヶ谷坂は昔から一直線に峠に向かったようですね。私は回りの地形を見て、峠を越えるのに曲がりくねっていたのではないかと思っていたのですが、あの平場はかつて有った49院の塔頭の一部の建設の為にできた平場のようです。

もしかして、建物00の書いてあるものが1678年当時現存していたもの、白い四角に文字だけあるものが廃亡した塔頭の場所でしょうか。この当時、かつては49院あった塔頭の大半が廃亡していたと言いますから。となると「伽羅陀山心平寺地蔵堂」は現在の円応寺(閻魔堂)の向かい側の平場と言うことになります。建物が書いてあるので。
おっ、やはりそのようです。江戸時代の「鎌倉名勝図」に建長寺総門の東に伽羅陀山心平寺・伽羅地蔵と書いてあります。

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下の写真の左側の2階屋のあたりが伽羅陀山心平寺の跡地でしょうか。そしてその右側の民家もかつて49有ったと言う塔頭の跡地の平場だったのでしょう。ああした平場の高さはそれほど変わらないので、少なくとも江戸初期の道はあの少し下ぐらいの高さと想像されます。そうすると現在の円応寺山門ぐらいの高さで符合しますね。その手前は現在の道路よりもほんのちょっと高い平場のようになっていますが、明治15年の地図によると、おそらくは傾斜を稼ぐためでしょう。ちょうどあのあたりを旧道が蛇行しています。

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その2階屋の前は現在の道路に近い高さですが、少なくとも明治15年にはあそこが旧道だったはずです。曲がることによって傾斜を緩やかにしていたのでしょう。

1249年の心平寺地蔵堂の移築以来、1851年の鶴岡八幡宮寺岩瀬一学による峰の高さを約3m掘り下げる普請。そして1872年(明治5年)に明月院が(も)金50円を出費したと言う道普請まで、あの背後の斜面を少しづつ切り下げていったのかもしれません。


話を戻して、その平場から現在の巨福呂坂トンネル(巨福呂坂洞門)を見降ろしたところです。あのトンネルの真上からこの平場の左側少し下あたりを旧道が通っていたと思われます。

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おそらくは旧巨福呂坂道か

その平場から道が円応寺の方へ伸びていました。これが旧巨福呂坂切通し道である可能性が高いと最初は思ったのですが、江戸初期の古地図からは、この道のように見える平場もかつての建長寺の塔頭の跡で、おそらくは大正時代の横須賀水道路の為に、直線に切り取られてしまったのだと思います。

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こちらはその道筋から振り返ったところ。おそらく奥の左側に、少なくとも江戸時代の旧道があり、それが下り坂で円応寺のあたりではあの高さまで下がっていったと。残る問題はここにあった塔頭が鎌倉時代なのか、それとも室町時代に建設されたのかですね。室町時代にそれほど建長寺が盛んだったかどうかはちょっと疑問なのでピークはやはり鎌倉時代後期と考えた方がよいかと思います。
発掘調査では円応寺の東側、隊道の脇に2段になった切岸があり、この下に15世紀頃までには岩盤を削平した平場と確認されているようです。

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そしてさらに進むと、円応寺が見えてきます。現在は途中に民家がありますが、その造成が無かったとしたら、直進するとちょうど円応寺の門、そしてその先が建長寺の前になります。

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2007.2.17追記


次はその3、尾根を西へ と言うことでこれは書きかけです。