鎌倉七口切通し 泉ヶ谷多宝寺跡・やぐら群

1日目はここは何処

さて、また1日目の話に戻ります。あの巨大五輪塔の処からほんのちょっと下ると右手に寺院の屋根と墓地がみえました。目をこらしてその墓地をジーっと見ると、一番奥に一際大きな石塔が二基。その瞬間私は亀ヶ谷切通し下の薬王寺かと思ってしまったんですね。

あれは見覚えがあるぞ(降りてから見に行ったら、全然違いましたが)、これが薬王寺とするとこの尾根の反対側は? あの車が走っていった道が亀ヶ谷切通しの道か! ん? まてよ、亀ヶ谷切通しってトンネルだったかい? 切通しをエイッと飛び越えた記憶もないぞ!するとここは泉ヶ谷の谷戸? しかし浄光明寺の後ろはあんな墓地は無いし。一体ここは何処なんだい?

そこからの下りは無茶苦茶に急。しかし降りられないこともない、と降りてきたのがこの真ん中の処です。昔、尾根道を探検していて降りてきたら大きな鐘楼の処に出て「どこだこりゃ、こんな方向にお寺なんか有ったかなぁ」と思ったら円覚寺の鐘楼だったと言うことがありましたが、今度は本当に来たことがありません。で、そのお寺は・・・・

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多宝寺跡妙伝寺

しかしこのお寺、本堂に山号は書いてあっても門にもどこにもお寺の名前がありませんでした。だもんで家に帰って調べるまで、なんてお寺かわからなかったです。

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調べてみると、日蓮宗妙伝寺と言うお寺。昭和49年2月にここに引っ越してきたんだそうです。

旧本尊は妙見北辰菩薩とか。ん? 妙見北辰菩薩? 平安時代ごろから信仰されているあれですか。平将門が信仰し、その霊験によって勝利を納めたが将門の新皇宣言に嫌気をさした妙見北辰菩薩が将門を離れたので将門は滅び、その後妙見北辰菩薩は平良文一門について・・・・、と言うあれですね。
平良文一門の中でも千葉氏の妙見信仰は有名です。その御本尊、拝観させて戴こうかと思いきや、戦災で旧本尊は焼失なんだそうです。残念。

その日蓮宗妙伝寺と言うお寺が引っ越してくるずっと昔はここは極楽寺と同じ律宗の多宝寺と言うお寺があったんだそうです。それであの巨大五輪塔の中には「多宝寺覚賢長老遺骨也」があったんですね。
その多宝寺については正確なところは判りません。確実ではないですが山号は扇谷山。開基は鎌倉幕府連署・北条重時の子業時とされます。開山は忍性で1262年(弘長2年)、忍性はその5年後に極楽寺に移っています。覚賢はその後の住職だったのかもしれません。学堂のある学山、要するにお寺大学院。当時極楽寺・称名寺と並ぶ、西大寺系律宗の拠点寺院であったそうです。

あと判っているのは1302年と1310年に火災で延焼。その後は「享徳日記」に記載があり、1452年にはまだ存続していたらしいと言うだけでその後の記録はありません。

  • ちなみに淨光明寺は1宗派の経典ではなく色々な宗派の学説?を教える総合大学院だったみたいですね。宝戒寺も最初はそうです。

ところで調べているうちに、「寺址最奥部には覚賢長老の墓塔である大五輪塔(重文)が建ち、その周囲ににはやぐらも多い。」と。

大五輪塔(覚賢塔)の回りにやぐらなんかあったかなぁ、気が付きませんでした。そこで翌日、また調査に出かけたと言う訳です。今度はちゃんとGPSには感度のよい外部アンテナを付けてポイントをマークしながら、斜面を降りるためにロープも持って。完璧ですね。

多宝寺やぐら群・東面

と言うことで2日目です。あの巨大五輪塔、覚賢塔の平場からあたりを見渡します。上の方にはそれらしきものは有りません。下を見ると・・・・、あった! さてどうやって降りるかと言うところでロープの出番。

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有りました。しかしこれは「その周囲には」じゃないでしょう。その眼下ですよ。正確には「その下の平場には」ですね。

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しかし、見やすいのはここだけです。そうそう、間違っても冬場以外には行かないで下さい。冬場ならマムシも冬眠しています。要するに居てもおかしく無いような環境です。三浦半島では人の歩かないような場所にはよくいます。鎌倉はその三浦半島のお隣なので。

  • ちなみに私は万が一の為に毒の吸引器をもっています。実際に使ったのは蚊に刺されたときと、娘が電気クラゲ(カツオノエボシ)にやられたときだけですが。蚊や電気クラゲなどの場合には毒を吸い出すと言うより吸引によって血を沢山集めて白血球でやっつけてしまうんじゃないかと。毒蛇の場合、映画なんかではナイフで切って血を吸い出すシーンなんかありますが、真似しないで下さい。現在は総合的には逆効果と言われています。

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この平場、おそらく多宝寺が有ったころは端に水溝が掘ってあったのでしょうが現在は埋もれてほとんど湿地に近い状態。かつ草木が生い茂って対岸も良く見えません。西側の斜面に藪コキを始めようとしたら、これも倒れた石塔でしょうか。台座の蓮紋と、おそらくその上の石が。

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その近くにはほとんど風化したビニールに覆われた石と、やはりビニールに覆われた発掘調査跡の掘り下げた溝が。
実はこのやぐら群は昭和34年(ほぼ50年前ですね)に発見されて、判る限りで以来6次まで発掘調査がされている様です。しかし少なくとも昭和51年4月の「淨光明寺五輪塔修理工事報告書」執筆時点までは報告書は出ていないようです。それ以降は私の見落としかもしれませんが。
あの風化しかけたビニールは中断した発掘調査が再開されなかったと言うことでしょうか。

多宝寺やぐら群・西面

やっと辿り着いた西面です。私が見た限りではこちらの方が多いです。

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しかし、東面と比べて如何にも荒れ放題。

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こちらなど落ち葉が腐葉土になってほとんど埋もれかかっていました。

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五輪塔の数はこちらの方が多いのではないでしょうか。もっとも東面も全て見た訳ではありませんが。

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この写真を撮るのも結構大変でした。木にしがみついてやっと。

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宝篋印塔(ほうきょういんとう)、隅飾突起〈すみかざりとっき〉が直立しています。かなり古いものでしょう。鎌倉末期か南北朝時代ぐらいかもしれません。

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元の姿に戻して差し上げたいのですが、部外者が手を触れることはご法度。

浄光明寺への尾根道

その後はもう湿地のヤブコキはもう沢山と元へは戻らず、西面を尾根へ上がり、ぐるりと回って東面のロープを回収に。その登った尾根には淨光明寺の方に向けて道が整備されていました。と言ってもブロックの敷石がされていると言うぐらいですが。

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後で気がついたのですが、調査報告書によると、あのあの巨大五輪塔(覚賢塔)も、その下のやぐら群も現在は淨光明寺の管理(敷地)のようです。淨光明寺と言えば『鎌倉のやぐら』(かまくら春秋社)や『鎌倉の考古学』(ニューサイエンス社)で知られる考古学でもある大三輪龍彦先生が住職をなさっていたお寺ですね。つい先年亡くなりましたが。

多宝寺跡妙伝寺敷地のやぐら

ところで多宝寺跡妙伝寺敷地にも大きなやぐらがあります。これは多宝寺の頃からもののでしょう。

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中を整備されたのは現妙伝寺かもしれませんね。上のやぐら群に比べて、こちらはきちんと整備されています。

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それに、五輪塔が無いし。

再び泉ケ谷から巨福呂坂道へ

さて、その泉ケ谷の突き当たりから先には巨福呂坂道に抜ける道が明治40年「歴史地理大観・かまくら」付録「鎌倉沿革図」に載っています。

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泉ケ谷と聖天坂の間の尾根まではほんのちょっとです。登るとそこは尾根上の十字路になっています。

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その十字路の東南に僅かに切岸のようなものが。もっともこれは切り落としたものではなく、逆に鎌倉石を3段積み重ねたもので、要するに道の補強だと思います。また風化の状態からそんなに古いものとは思えません。でもこの先って・・・・、航空写真と調査報告書の両方で、この先が民家になっていることは確認しました。かつてそこへの道なのか、それともそこに民家が建つ前からの道なのかはよく判りません。

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2007.2.17追記