鎌倉の梅 2006/3/13   円覚寺の梅と歴史.2

円覚寺を龍隠庵から

選仏場と居士林の間を入っていくと龍隠庵があります。立ち入り禁止の竹が横に渡してなかったので途中まで入らせてもらいました。ここの梅も綺麗でした。

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あの藁葺き屋根が選仏場です。

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そしてのそ右には三門が。このアングルから見たのは初めてです。

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さて、仏殿の方にもどって更に奥の方丈の方に。このあたりに昔は法堂があったのでしょうか? 法堂は鎌倉幕府の最後の頃、北条高時によって建てられています。

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円覚寺方丈の唐門

こちらが方丈の唐門です。これが何年の建造かは判りませんが、歴史的には将軍や執権、天皇やその勅使の為の門で、僧の為の門ではありません。そういう高貴な人達が来るような格式のあるお寺では小さいながらも(三門に比べればね)きちんと格式を整え、有る意味異様なほど立派です。

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立派なもので、この彫り物もなかなかと思うのですが、由来は判りません。案外新しいものなのかも。

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円覚寺方丈

百観音です。そんなに古いものではありません。古いもので江戸期、新しい33体は明治時代です。

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方丈とは本来は住職の居間ですが、本山ですから現在では各種法要、坐禅会、説教会、夏期講座等の講演会や寶物風入など、多目的に使われています。寶物風入のときに一度中に入れて頂きました。

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方丈の前庭も紅白の梅が綺麗でした。

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円覚寺の妙香池

方丈の左手には妙香池があります。

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臨在禅・黄檗禅公式サイト:円覚寺 にはこうありますが、

1335年(建武2年)の円覚寺境内絵図にみられるように創建当初よりある放生池で、平成12年江戸時代初期の絵図に基づき、方丈裏庭園と合致した自然の姿に復元しました。向こう岸の露出した岩盤を虎の頭に見たてて「虎頭岩」とよんでいます。

私は工事前の方が好きでしたね。前の方が「自然の姿」だったような。

円覚寺の正続院・舎利殿

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正続院は開山仏光国師無学祖元禅師の塔所です。無学祖元禅師は、北條時宗の招請で弘安5年に円覚寺を創建した後、北条時宗が死んだ1284年の12月に円覚寺を退いて建長寺に移り,その2年後の1286年(弘安9)9月3日に61歳で亡くなりました。寂後仏光禅師と勅諡され,円満常照国師と追諡されます。

北条氏が1333年に亡んだ直後のの建武中興の頃、1335年(建武2)に夢窓疎石は建長寺にあった円覚寺開山無学祖元仏光禅師の塔所(墓)を後醍醐天皇の勅使(天皇の命令)によって強引に円覚寺正続院に移してしまいます。このあたりから建長寺とちょいと焦臭くなるのですが、それ以来ここ正続院が円覚寺の開山塔頭となります。
江戸末期天明年間に円覚寺の復興に力を尽くし僧堂・山門等の伽藍を復興した大用国師(誠拙せいせつ 1745-1820))によって座禅の専門道場である僧堂が開かれ、上の写真にもあるように以来ここが臨済宗円覚寺派の専門道場となります。

そのためここは一般には公開されていません。が、「円覚寺宝物風入れ」のときだけ見せて頂けるのです。たまたま通りがかったらその日だったのでラッキーでした。


ところで、正続院は現在(2006年3月)工事中です。

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どうやら藁葺き屋根の葺き替えをやっている様子です。

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この正続院には舎利殿があり、「佛牙舎利」と言ってお釈迦様のお歯をおまつりしてあるそうです。

 その由来は将軍源実朝公が佛舎利の夢を見られ、宗の能仁寺に使者を遣わして請来され、鎌倉の大慈寺に安置されたことによります。その後、舎利信仰の篤い当山2世大休正念禅師が住持の時(1285年弘安8年)、北條貞時が一門の守護を願って円覚寺に遷祀されました。 ( 臨在禅・黄檗禅公式サイト:円覚寺 )

延慶2(1309)年に北条時宗の子、9代執権・北条貞時が円覚寺に移して祥勝院(舎利殿)を建立したのが始まりですが、その最初の舎利殿は永禄6(1563)年12月23日の大火で消失しています。

もっとも、実朝の時代に鎌倉に仏舎利がもたらされたという記録はここ、円覚寺の言い伝えにしかなく、疑問視、というか、嘘だろう〜、という雰囲気もあったのですが、最近、称名寺光明院から発見された大威徳明王像の像内納入品のひとつに蓮の実があり、これもX線撮影の結果、中に1〜2mmの舎利が埋め込まれていることが確認されました。その大威徳明王像は納入文書から、「源氏大弐殿」が、実朝の為に運慶に依頼して作成したものだとか。本当に釈迦の骨かどうかは別にして、すくなくとも仏舎利と信じられていたのもが、実朝の時代に、鎌倉にもたらされていたことは確かなようです。ただし今ここにある舎利殿がその頃鎌倉にもたらされたものかどうかは別の話ですが。

現在のこの舎利殿は国宝で、 もとは鎌倉にあった太平寺(尼寺)の佛殿(鎌倉時代末〜室町初期に再建)を移築したものだそうです。
 その経緯ですが、戦国時代の1556年(弘治2)、安房の里見義弘が鎌倉に攻め入り、鎌倉尼五山第一位太平寺住職で青岳尼を奪って夫人にしたことに発しています。
太平寺住職青岳尼が妖艶な美人だったのかどうかは知りません。軍勢を率いて攻め入ったのですから色に狂ってではなく、青岳尼が小弓公方足利義明の娘だったからです。足利義明は古河公方2代政氏の子で、3代高基の弟です。初め出家して鶴岡八幡宮若宮別当となっていましたが、古河公方の内紛絡みで1510年に突然還俗して義明と名乗り、父政氏に対して反旗を翻し小弓公方と呼ばれました。足利義明が討死にしたのは1538年で、安房の里見義弘が青岳尼を奪って夫人にしたのはその18年後ですね。

青岳尼は尼寺太平寺の住職と言う名目で事実上幽閉されていたのかもしれません。と言うかそうだったんでしょう。お寺はそういう風にも使われます。しかし青岳尼っていくつだったんですかね。尼で住職と言われるとおばさんかお婆さんの印象でそれを奪ってなんて危ないんじゃないかなんて思いがちですが、そういう事情ですから18歳だってあり得る話しです。現に父足利義明は23歳以前に鶴岡八幡宮若宮別当ですから。お姫様は座っているだけで実際には年寄りの尼がお目付役、監視人だったのでしょう。
でも青岳尼を妻に迎えたことで小弓公方足利義明の旧臣の多くが里見義弘に仕える事になったそうです。これが目的ですね。でも青岳尼は「奪われちゃったわ」と言うより「やっと解放されたわ♪」と嬉々として安房へ向かったのかもしれません。

で、ともかくその当時鎌倉を治めていた北條氏康(戦国時代北条早雲の孫はこの事態に激怒し、太平寺を廃絶にしたとか。

 このころ円覚寺は、たび重なる火災で開山堂や昭堂(開山像を礼拜するお堂)を失っていましたので北條氏康は太平寺の佛殿を昭堂としてこの正続院に移築したのです。(このことは円覚寺古文書・北條氏康書状に記されてある)。この昭堂に仏牙舎利を泰安したので舎利殿と呼ぶようになりました。
臨在禅・黄檗禅公式サイト:円覚寺 )

尚太平寺の本尊、鎌倉後期の土紋をもつ木造・聖観音菩薩立像は、現在東慶寺の松ヶ岡宝蔵にあります。撮影禁止なのでお見せできませんが、凛々しいお姿でした。


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これはは今年の写真ではないですが、年に2回の「宝物風入れ」のときだけ入れて貰えるのですが、それでもあの唐門の中は写真撮影禁止です。
関東大震災に倒壊しましたが、昭和4年に昔のまま復元されました。舎利殿の裏には開山堂がありますが、公開されていません。私も見たことはありません。

舎利殿の門の中は写真撮影は禁止なのですが、許可を頂いて撮らせて頂いたことがあります。舎利殿は自分で楽しむだけとの約束なのでお見せできませんが。
印象だけお伝えすれば「鎌倉時代からの建物では!」と思わせるような質素でいて荘厳なな佇まいのお堂でした。実際に鎌倉時代の建物なんですけど。

その門の中ですがこれなら良いでしょう。舎利殿の門の内側から右の建物、雲水の修行道場となっている正法眼堂(禅堂)の、何て言うんだろう、板を撮したものです。

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あの板。まあ、修行僧のチャイムみたいなもんですかね? それにしてももうちょっとで穴が開いちゃうんじゃないか、と言うぐらいえぐれていて。ここで行われている昔ながらの厳しい修行を感じさせてくれます。;