本日のお散歩2007.06.03 称名寺・金沢文庫の歴史  

金沢文庫は昔は六浦の内。六浦は鎌倉ではありませんが、しかし鎌倉時代には鎌倉の東の口として経済・流通面で重要な役割を担っていました。朝比奈切通しはまさにその六浦と鎌倉を結ぶために作られた道です。
どう重要だったのかと言うと、対岸の上総・下総からの物流と言う地理的なものと、鎌倉が港としてあまり条件が良くないのに対し、こちらは東京湾の中、それも6つの連なった浦と言う名の通り、船を着けるには最適な地形だったからでしょう。おっと、今の地図で考えてはいけません。昔は金沢文庫駅も六浦駅も海の中でした。

赤門と仁王門 浄土式庭園  北条実時と称名寺  北条顕時  北条貞顕(崇顕)  北条貞将
金沢文庫・運慶作大威徳明王坐像

赤門と仁王門

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2〜3年金沢文庫に住んでいたことがあるのですが、その名の由来であるここ称名寺・金沢文庫に来たのは初めてのこと。上が惣門(総門)、赤く塗られていることから赤門とも呼ばれます。


そしてこちらが仁王門、禅宗なら三門(三解脱門)に相当します。建物自体は1818年に再建された禅様式なので余計三門に見えてしまうんですね。でも禅宗では仁王様は居ません。

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浄土式庭園

その仁王門からあちらを覗くと、ん? 赤い橋が。
ここ称名寺は鎌倉幕府が滅ぶ10年前の1323年2月24日に結界作法の為に描かれた絵図(重文)が残されていて七堂伽藍を備えた壮大な寺院だったことが伺えます。そのそれを元に昭和53年から発掘調査を行い、昭和60年〜62年に池とこの反橋、そして私が行ったときには無くなっていましたが、その先の平橋を復元したそうです。

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この赤橋と両脇の池を中心とした庭園様式は浄土式庭園と呼ばれますが、鎌倉に居るとすぐに思いつくのは鶴ヶ岡八幡ですね。鶴ヶ岡八幡宮の反橋(太鼓橋)は今は石造りのものが残っていますが、鎌倉時代にはあの橋は赤橋と呼ばれて吾妻鏡にもよく登場します。ちょうどこのように木造で朱色に塗られていたのでしょう。そして源氏池と平家池。

  • あっちは神社、こっちはお寺じゃないかって? 明治になるまで鶴ヶ岡八幡宮は鶴岡八幡宮寺で、鎌倉時代から神主は確かに居ましたが(一人だけ)、坊(のちには院)を持つお坊さんは24人も居たんでっせ。25人だったかな?

浄土式庭園と言うのは金堂(本堂)に向かってこのような橋と池を配し、そこに蓮などを植えて極楽浄土を再現しようとしたもので、奈良時代からそのきざしはあったそうですが、とくに平安時代後期からの末法時代に流行ったそうです。一番有名なのは平等院。鎌倉では頼朝が建てた永福寺もそうですね。

そうそう、この称名寺は極楽寺と並ぶ東国での真言律宗の拠点として有名ですが、最初は浄土宗のお寺です。

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金沢流北条氏

北条実時と称名寺

称名寺を開いたのは北条実時(1224-1276年)です。この地が北条氏のものになったのは和田合戦の後に和田義盛一族の所領を没収して2代執権北条義時のものとなり(このとき山内荘も)、義時の死後、北条泰時の弟に当たる北条実泰(1208-1263年)がこの地を相続。北条実時はその実泰の子です。

  • もっとも「所領」と書いたのは便宜上で、江戸時代のように単一の領主であった訳ではありません。例えば荘園、ここだと六浦荘ですが、本所が名義上の所有者、その下の管理人である預所、そして現地の実質経営者である庄司、そして荘園と言えども国税が無い訳ではありません。一部が免除されているだけです。どの程度かは様々。そして租税集めの代行者として地頭です。幕府が任命出来るのはこの地頭。かなり大雑把ですが。

北条実時はここに別業(別邸、私邸)を設け、持仏堂もそこに造られたのでしょう。関靖 「金沢文庫の研究」 (昭和26年)から 「北条実時」を引用してみます。

実時の官歴は天福二年(1234)十一歳の時に、父実泰(1208〜1263)から小侍所別当の重職を譲り受けた時から始まる。暦仁元年(1238)二月僅か十五歳で、将軍頼経に扈従して上洛の途次、東海道橋本駅で高名を博し、掃部助並宣陽院蔵人を拝して下向、仁治二年(1241)十二月小侍所々員は手跡・弓馬・蹴鞠・管絃郢曲その他一芸に秀でて、常に将軍の御用に立つベき旨を奉行、建長二年(1250)十二月には、将軍近習番六番に加へられ、翌三年(1251)十二月小侍所別当の労によつて、下総国埴生庄を賜はり、翌四年(1252)四月三十日引付衆に、更にその翌五年(1253)二月に評定衆に挙げられた。実時が自領六浦庄内に金沢の勝地を選んで、そこに別業を設けた時期は、正確に指示することは出来ないが、「伝法灌頂雑要抄」によると、正嘉二年(1258)には既に金沢に邸宅が設けられてゐたことが知られる。
正嘉二年は建長五年から五年目の三十五歳の時であるから、それ以前に設けたものであらう。金沢といふ土地が風光明媚で気持のよい幽静な所であるから、或は病弱の父を養ふために特にこの僻遠の地を別業の地と定めたものであるかも知れない。生母を喪つたのが建長六年(1254)三月である。実時はその後この別業内に称名寺と称する念仏寺を創建してゐるが、多分亡母の七回忌に当る文応元年(1260)にその普提を弔うために建てたものと察せられる。建長六年(1254)閏五月には相撲奉行となつて、将軍の御前に於て若侍達の志気を鼓舞し、更に弓馬芸奉行となつて武芸の奨励をしてゐる。翌七年(1255)十二月廿三日越後守任官、従五位下に叙せられ、正元二年(1260)二月廂御所結番一番に加へられ、文永元年(1264)十二月越訴奉行となリ、翌二年(1265)六月従五位上に叙せられた。父を喪つたのは弘長三年(1263)九月廿六日彼が四十歳の時であつた。その七周忌に当る文永六年(1269)十月に梵鐘を鋳て称名寺に寄進して父母の冥福を祈つてゐる。

おそらくはその別業の持仏堂が発展して称名寺になって行きます。その時点では阿弥陀三尊を祀る浄土宗(「南無阿弥陀仏」の念仏仏教)の寺でした。

六浦の大道に宝樹院と言う寺院があり、平安時代に作られた阿弥陀三尊像が客仏として安置されていることで有名ですが、その阿弥陀三尊像は、宝樹院の近くに江戸時代の末まであった常福寺と言う称名寺の末寺の本尊だったものです。

その常福寺の阿弥陀三尊像の解体修理が1991年に行われたときに、その中から願文や舎利が発見されます。その願文は称名寺の初代長老審海が書いた修理願文で、この体内文書から常福寺は1147年に建てられ、その後実時の母の七回忌の前の年1259年に称名寺がつくられて、常福寺はその末寺となり、更に1277年の実時の1周期にあたって、常福寺の旧堂を称名寺に移し、弥勒堂とあわせて増築し、弥勒と阿弥陀両像を安置し、その後1282年(弘安5)にその阿弥陀三尊像の修理を行ったとあったそうです。 (参考:「図説かなざわの歴史」より)

関靖氏の昭和26年の推定はドンピシャではありませんでしたがたった1年の違い、これはイコールに近いですね。

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しかしこの時代、「念仏者」は鎌倉の社会問題になってきており、時の5代市執権北条時頼の意を受け、北条実時は西大寺の叡尊(真言律宗の祖)を鎌倉に呼びます。

そのときに称名寺も本尊を弥勒菩薩に替え、真言律宗の寺に変わり、極楽寺の忍性の推薦で叡尊の高弟・審海がここの長老となって、極楽寺、そして今は無き多宝寺 、そしてここ称名寺が鎌倉における律宗の拠点となります。

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さて、金沢文庫ですが。称名寺を開いた北条実時は和漢の読書の世界に通じたえらい秀才だったようで、4代執権北条経時、5代北条時頼の側近を勤め、8代執権の北条時宗の代まで幕政に関わる鎌倉史上の重要人物です。学問については実時は清原頼業の孫にあたる清原教隆について清家の儒学を学び、先の関靖氏もこう書いておられます。

実時はどんな書物について学習をしてゐたかといふことを、その跋文のあるものから察すると、孝経・春秋・群書治要・律令・類聚三代格・斉民要術・尉繚子、司馬法・本朝文粋・源氏物語を挙げることが出来る。少くともその範囲は政治・法制・農政・軍事・文学の広範囲に亙つてゐることを知ることが出来る。

 そして又その勉強振りについては驚歎に値する事実がある。「令義解」第五の跋文によると、文応元年(1260)八月十六日の鶴岡八幡宮の放生会第二日のことであつたが、余興見物の桟敷の上でも見物を第二として、教隆から「令義解」の訓説を受けてゐたといふことである。又その根気のよかつたことについては、「群書治要」の如き長尺のものを二度も書写してゐることから察せられる。又実時は建治二年(1276)十月に死歿してゐるが、「群書治要」第十五巻の再度の書写は、この年八月廿五日に行はれたものであるから、実に死前ニケ月まで筆を擱かなかつたことが知られる。これが一面引付衆として、又許定衆として、更に又武将として、幕府の要職に勤務してゐたものの余暇の仕事であることを思ふとき、如何に偉大な人物であつたかを考ヘずには居られない。

その実時が文庫(ふみくら)を開きますが、個人の蔵書とか言うより半ば以上公的な立場・役割として書物を集め、記録を整理し始めたのではないでしょうか。

実時の時代は中国では南宋の最後の時代であり、蒙古(元)の侵略に苦しめられていましたが、文化面では爛熟期とも言え、禅宗の実質的な日本への伝搬、多数の日本僧の渡海、そして多くの工芸品や経典が唐船(宋船)によって日本にもたらされた時代です。実時が沢山の宋槧を蒐集し、蔵経を手に入れ、宋窯の花瓶や香爐を取寄せることが出来たのもこれらの唐船によってですが、その唐船は直接実時の領内、つまり六浦に寄航したものであるとも伝へられています。

もちろん幕府での実時の立場を考えればそうでなくとも入手可能ではあったでしょうし、それを確認出来る史料は無いのですが、この六浦には昔時の渡津地として伝へられてゐる附近に三艘と称する地名があります。そこが唐船寄航の場所であるとも。

鎌倉の和賀江港が唐船(宋船)の寄港地として有名ですが、太平洋に面して港としての条件はあまり良くはなく、それに対してこの六浦の津は海水が袋形に湾入た、東京湾の中のさらにすぼまった湾で、殆んど風波の難のないことから、和賀江への船付けが難しいときにはここ六浦に回ったことも十分に考えられます。

その北条実時の墓(と言われるもの)は称名寺の右手山麓の中腹にあります。

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北条顕時

実時の子北条顕時(あきとき:1248年-1301年)は、母は7代執権北条政村の娘。妻は安達泰盛の娘で千代野(能)。この妻が海蔵寺の「底抜けの井」の逸話に残る方ですね。

1285年、安達泰盛が北条得宗家の被官・内管領平頼綱に滅ぼされた霜月騒動で、安達泰盛の娘千代野を妻にしていた北条顕時もあおりを食らって下総国埴生庄に隠棲し出家します。このとき離縁された千代野が尼となって海蔵寺の近くに住み、井戸(水場)で水を汲もうとしたら桶の底が抜けて・・・、と言うときに読んだ歌が海蔵寺の「底抜けの井」の逸話です。

  • 臨済宗妙心寺派盛徳寺住職万元和尚が1702年(元禄15)年に著した本朝高僧伝76巻「延宝伝燈録」には、建長寺住持永興や、建仁寺住持妙在の撰文にある無学祖元に師事した如大と称する尼僧が千代野で、それによると、陸奥守平泰盛(安達泰盛)の娘で、越後守平某金沢氏に嫁し、所天を喪ひたる後に、無学祖元(1226〜1286)について祝髪、祖元の入寂後その骨髪を受け、これを正脈庵に安置して師の遺風を守り、1298年(永仁6)に76歳で世を去ったと。江戸期に書かれたものですから本当かどうかは判りませんが。

1293年4月に、やっと大人になった北条時宗の子執権北条貞時が平禅門の乱で頼綱を滅ぼしたあとに、顕時も復権して鎌倉に戻り、幕政に参加します。そして鶴岡八幡宮寺の現太鼓橋、当時の赤橋の近くの屋敷を与えられたことから赤橋殿とも呼ばれますが、赤橋流北条氏とはまた別です。(ややこしい)

  • 下総国に隠棲するときにその心情をつずった文章が残っていて北条時宗の代の頃から一門は暗闘に明け暮れ、1日として心休まる日は無かったがとうとう自分の番になってしまったと言うようなことが綴られていたと思います(でも偽文書との噂も)。5代北条時頼までは名君だったかもしれませんがその子時宗は本当はどうなんでしょう? 元寇を撥ね退けたと言うことで英雄にはなっていますが、北条一門の不和と疑心暗鬼はこの時代がピークでだったんじゃないでしょうか。
北条貞顕(崇顕)

北条顕時の子、北条貞顕(さだあき:1278年-1333年)は、25歳で六波羅探題として上洛し京都以西の責任者になります。以降何度か六波羅探題となりながら、自身で文献の写本にはげみ金沢文庫の充実をはかっており、その書状も金沢文庫には多数残っています。

1315年に執権に次ぐ連署と就り、1326年に14代執権北条高時が病気で辞職して出家すると、貞顕は北条得宗家の被官・内管領長崎高資により北条高時の子邦時の成長までの中継ぎとして擁立されて15代執権に就任します。しかしわずか10日で辞任し出家(嘉暦の政変)。そのあと担ぎ出されたのが、鎌倉滅亡の時に須崎で戦って死んだ北条(赤橋)守時です。

1333年、新田義貞率いる軍が鎌倉を攻めた際には貞顕は化粧坂を守って新田軍を撃退とWikipedia には。(貞顕=貞通?)

陸奥守貞通は中の道の大将として葛原において相戦ひ、是も寄せ手の軍侶手しげく戦ける程に、本間山城左衛門以下数輩打死し・・・ 。(梅松論

攻めあぐねた新田軍は稲村ヶ崎に廻ってここを突破。「太平記」によれば貞顕は北条氏菩提寺の東勝寺に居た北条高時に合流してそこで自刃したと伝えられます。

 其外の人々には、金沢太夫入道崇顕・佐介近江前司宗直・・・(太平記

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北条貞顕の墓は本堂の左手にあります。

北条 貞将

その貞顕の長子で嫡子、北条貞将(さだまさ:1302−1333年)は1333年、新田軍が鎌倉攻めに際して、分陪・関戸を越えようとする新田軍に対する幕府軍の搦手の大将として武蔵国の海側に軍を進めますが、小山・千葉勢と鶴見で合戦となり敗退して鎌倉へ戻ります。

搦手の大将にて、下河辺へ被向たりし金沢武蔵守貞将は、小山判官・千葉介に打負て、下道より鎌倉へ引返し 給ければ、思の外なる珍事哉と、人皆周章しける処に、結句五月十八日の卯刻に、村岡・藤沢・片瀬・腰越・十間坂・五十余箇所に火を懸て、敵三方より寄懸たりしかば・・・(太平記

三つの道へ討手をぞ遣されける。下の道の大将は武蔵守貞将むかふ処に、下総国より千葉介貞胤、義貞に同心の義ありて責め上る間、武蔵の鶴見 の辺において相戦けるが、これも打負けて引き退く。(梅松論)

と言う状況で鎌倉の戦いになりますが、その後は山内の合戦(巨福呂坂口、あるいは化粧坂か)で戦い、その最期は「太平記」に壮烈に描かれています。

金沢武蔵守貞将も、山内の合戦に相従ふ兵八百余人被打散我身も七箇所まで疵を蒙て、相摸入道の御坐す東勝寺へ打帰り給たりければ、入道不斜感謝して、軈て両探題職に可被居御教書を被成、相摸守にぞ被移ける。貞将は一家の滅亡日の中を不過と被思けれ共「多年の所望、氏族の規摸とする職なれば今は冥途の思出にもなれかし。」と、彼御教書を請取て、又戦場へ打出給けるが、其御教書の裏に「棄我百年命報公一日恩」と大文字に書て是を鎧の引合に入て大勢の中へ懸入、終に討死し玉ければ、当家も他家も推双て感ぜぬ者も無りけり。(太平記

北条氏が滅んだあと称名寺は後ろ盾を無くしますが、南北朝時代から室町時代にかけてそれなりの規模を保っています。足利氏(鎌倉公方)の庇護があったのでしょう。

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金沢文庫・運慶作大威徳明王坐像

その称名寺の西、北条貞顕らの墓の西の小さい尾根に開いたトンネルを潜ると、その先が現在の県立金沢文庫になっています。元々の金沢文庫の正確な場所は判っていませんが、この場所であった可能性も高いとのこと。

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ところで、今回何で称名寺・金沢文庫に行ったのかと言うと、長谷寺に紫陽花を見に行ったときに、「特別公開 運慶作 大威徳明王坐像」というポスターを見つけたからです。 以前に運慶については色々と調べたことはあり顔の特徴だけは掴んだつもりですが、真作は直に見たことが無いのです。

で、実物は・・・

この大威徳明王坐像、現存する部分は僅かに21.1pの小さな仏像です。このポスターの画像の方が顔立ちはハッキリとわかります。要するに「ちっちゃくて、黒くて、目に入れたガラス? 水晶? が光っているんだけどよく顔が判らない」、いや全然分からない訳ではないのですが、手に取って見る訳じゃないので。このポスターは顔立ちがはっきり判るように証明を工夫していますね。しかし確かに運慶の顔立ちと確認できたのが嬉しかったですね。

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この仏像は平成10年に、称名寺光明院から発見されたもので、江戸時代には弘法大師作とされ、画家狩野探幽もスケッチしたことが知られる霊宝だったそうです。がそれも平成10年に発見されるまでは忘れ去られていたとか。それにしても伝承で多いのは弘法大師と行基ですね。それがもう全国到るところに。

大威徳明王

大威徳明王とはバラモン教よりも古い時代の神で、バラモン教では敵に当たり、かつて天界を支配した強大な阿修羅の王だそうです。阿修羅って仏神も居るんですけど元は同じなのでしょうか?
仏教では文殊菩薩の化身ともされます。

日本の大威徳明王はその姿に特徴があり、六面六臂六脚で、神の使いである水牛にまたがっている姿で表現されるそうです。
六つの顔は六道(地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人間界、天上界)をくまなく見渡し、六つの腕は矛や長剣等の武器を把持して法を守護し、六本の足は六波羅蜜(布施、自戒、忍辱、精進、禅定、智慧)を怠らず歩み続ける決意を表していると言われます。

しかしこの運慶作の仏像は破損部分が多く、残る顔は2つだけ。しかし六面あったようには思えません。阿修羅と同じように三面六臂だったんじゃないでしょうか。腕は2本がかろうじて途中まで残っており、跨っていたはずの水牛はありません。が、跨っていたようなカッコではあります。

納入文書

平成10年に発見された後にX線撮影を行った結果、像内納入品の存在が確認されたそうなのですが予算の都合か手つかず。それが今年の2月末、修理の途中で納入品の開封に成功ししたそうです。
納入文書は、香料などとともに和紙に包まれ、像の胴部にはめ込まれており、文書末尾の奥書に建保4年(1216)11月23日に、「源氏大弐(だいに)殿」が発注者となり、運慶によって作られたことが明記されていました。その小さな巻紙も展示されていました。

「源氏大弐殿」は、『吾妻鏡』に登場する甲斐源氏で武田信義の弟、信濃守加賀美遠光(かがみとおみつ)の娘で、将軍御所に仕え、源頼朝の子息で将軍職を継いだ頼家・実朝の2人の養育係として重要な役目を果たした「大弐局」を示すものと考えられます。この女性、鎌倉幕府の中でもトップクラスの女房です。源頼朝の時代には源氏の一門は他の御家人とは別格の扱いを受けていましたし。加賀美遠光の次男小笠原長清は流鏑馬の小笠原流の祖ですね。

この像が作られた1216年とは和田義盛の乱の3年後、実朝の時代です。大弐局が難しい立場にある実朝の為を念じて、この大威徳明王像を運慶に造らせたのではないかと案内の方が言っていました。確かに女性が自分の為なら大威徳明王にはならないでしょう、尼将軍政子ならともかく。実朝に欠けていた、それゆえに求められたのは正にこの大威徳明王の性格です。

舎利

像内納入品のひとつに蓮の実があり、これもX線撮影の結果、中に1〜2mmの舎利が埋め込まれています。「実朝」「舎利」と言うと思いだすのは円覚寺の舎利殿ですね。

円覚寺の舎利は源実朝が中国から分けてもらったとの伝承がありますが、少なくとも「吾妻鏡」では確認できません。そこに実朝ゆかりでこの「舎利」の登場となると、おそらくは同じタイミングで鎌倉に伝わった、あるいはそれを削ってこの大威徳明王坐像に埋めたと考えられなくはありません。円覚寺舎利殿の仏舎利も少なくとも実朝の時代に鎌倉にもたらされたと言うことの傍証がひとつ現われたことにもなりますね。

もっとも本当に仏陀の骨(円覚寺にあるのは歯だったかな?)なのかどうかは確認のしようがありませんが。

海岸尼寺の本尊

展示物はもちろんこれだけではありませんが、他で良かったのは隣接していた海岸尼寺の本尊だったと言う十一面観音菩薩ですね。良いお顔でした。