平安期の鎌倉          山内荘

平安時代末期の山内荘は現在の北鎌倉山内に止まらず、そこから現在の横浜市栄区、戸塚区を含む広大な荘園であったようです。先の新説にも関わるところなので、その山内荘と、そこを治めた山内首藤氏についてちょっと丹念に見ていくことにします。

大橋俊雄氏による山内荘の謂われ・「那須系図」

山内は元々地名でそこにやってきた首藤氏が山内首藤を名乗ったと見るのが普通は自然な流れだと思います。こちらのサイトにある記述はその意味では常識的です。

平安時代末期、源頼義の郎党藤原資通は首藤大夫と称しその曽孫俊通は相模山内庄に本拠を置き山内首藤と称した (山内氏

しかし異説もあります。こちらのサイト栄区の歴史9 栄区の荘園・山内荘です。さすがに地元自治体、ネット上の情報としては一番詳しいのですが・・・・。

山内荘の成り立ちについて『那須系図』通家(みちいえ)の条によれば、藤原秀郷(ふじわらひでさと=平将門の乱を討伐)の子孫の通家が1038年より以前に開発したようです。荘の名称は通家の山内という姓に由来したものです。ただし、通家の子・資清(すけきよ)が主馬首(しゅめのかみ・注)に任官してから、山内首藤(すどう)を姓としました。首藤は、秀郷流藤原氏の「藤」と主馬首の「首」をとったと伝えています。(栄区の歴史9 栄区の荘園・山内荘

なんでこのサイトだけこういうことになるのでしょうか。

そこでそのページの原本となっていた大橋俊雄氏の『戸塚区の歴史』を探したのですが、ところが戸塚区図書館にはなくて、あちこち問い合わせたところ、なんと戸塚区役所が貸してくれました。 

ちなみに大橋俊雄氏は仏教史学者で、「戦後の学界で時宗研究の先鞭をつけたのは大橋」といわれたそうで、その後、浄土宗本山蓮華寺の貫主を務めています。

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『戸塚区の歴史』は戸塚観光協会が大橋俊雄氏に依頼して刊行したもの。それが絶版になったあと旧戸塚区もが現戸塚区、栄区、泉区に分かれたようです。だから「栄区の歴史」に「戸塚区の歴史」を見よ」とあったんですね。
で、若干書き加えて再刊したのが『戸塚の歴史』だそうです。両方有ったのですが新しい方を借りてきました。ついでに明治初期の「神奈川県皇国地誌・相模国鎌倉郡村史」も。(感謝)

問題の「荘の名称は通家の山内という姓に由来」ですが、この本によると、「那須系図」が根拠であるようで、そこに藤原通家についてこう書かれていることが山内荘は通家が長暦2年(1038年)以前に開拓した荘園であると思う根拠だそうです。

秀郷将軍5世相模守公光の婿となる、相模鎌倉郡山内荘の領主也、長暦2年4月8日卒

しかしそれはどうでしょうか? 通家の代から「山内」と関連づけているのはこの「那須系図」だけです。この「那須系図」、どこまでの証拠能力が有るんだろうか? というより詳細に見ていくと関連する系図の中で最も信用ならない部類ではと思います。
「那須系図」は「続群書類従」に含まれているものですが、その「続群書類従」には「山内首藤系図」「結城系図」があり、「結城系図」は藤原秀郷流の系図の中で最も詳しく、妙な矛盾もないように見えます。「那須系図」は「続群書類従」の中だけでも複数あるのですが、通家どころではありません、その数代後まで相違があります。かろうじて読み取れるのは、どうも山内首藤氏と繋がりがあるらしいと言うことだけです。通家云々は後の山内首藤氏の系図からもってきたものではないでしょうか。

「那須系図」に通家が「相模鎌倉郡山内荘の領主也」とあるのは後世に書かれたもので証拠としての価値は全く無いといっても良いと思います。那須氏は江戸中期までは小藩ながらも大名、その後降格はされましたが江戸末期まで続いています。「続群書類従」江戸末期から明治後半にかけて編纂されたもの。「那須系図」が一体どの時点で書かれたものなのかは全く解りませんが、「寛政重修諸家譜」あたりがヒントになるかもしれません。それを書いた人は首藤氏がいつから山内を名乗ったのかまでは知らなかったとしか思えません。

以上から私は大橋俊雄氏の『戸塚の歴史』、そして栄区の歴史9にある「荘の名称は通家の山内という姓に由来」は違うと思います。そもそも、「那須系図」においてすら「山内」は「名(地名)」です。

また、通家を山内荘と結びつける根拠が「那須系図」だけなら、それは全く論拠にはなりません。次ぎにその点について見ていきます。

山内首藤氏の系譜は

「続群書類従」にある「那須系図」や「山内首藤系図」には「通家」とありますが、「尊卑分脈」では藤原(佐藤)公清です。そちらの方が一般的かと。公清は従五位下左衛門尉検非違使で京武者です。伊豆守にはなったらしいことがその嫡子佐藤季清(「結城系図」では秀清)が大江匡房に依頼した願文が「江都督願文集」に残っており、そこから知られます( 野口実『伝説の将軍藤原秀郷』 p90)。

その佐藤季清は鳥羽院に使えた北面の武士で従五位下左衛門尉。その孫がやはり鳥羽院に使えた北面の武士・従五位下佐藤兵衛尉義清、後の西行です。京においては藤原秀郷の嫡流とみなされていたようです。

ところで、山内首藤氏は佐藤公清の子の資清(助清)の流れですが、「続群書類従」の「結城系図」には歌人西行に至る季清(秀清と誤記)の他数名の子は書かれていても資清(助清)は書かれていません。逆に同じ「続群書類従」の「山内首藤系図」では、歌人西行に至る季清は書かれずに、子には資清と、那須大夫の養子となった資房しか書かれていません。

そして「続群書類従」の「山内首藤系図」では、資清(助清)は通家(公清)が板東赴任中に出来た子で、父の任期満了で一緒に京都に戻る途中、美濃国席田郡司大和介守部資信の養子となり、所領を譲られ、守部資信が源頼義の郎党であった為か、資清も伊予殿(源頼義)の郎党となったと。なんか言い訳っぽいですね。「通家(公清)が板東赴任中」というのは公清が基本的には京を本籍地としていたことを覗わせます。そしてそのときに出来た子というのは「だから他の子は資清のことを知らないんだよ。でもそうなんだ!」って強弁のようにも。

しかし一般には美濃国の守部資信の子資清が佐藤公清の猶子・養子となって藤原を名乗ったかのだろうと見なされています。もちろん守部資信が養子をとったということも否定はできませんが、しかし守部資信の子の資清が官位を得る為には守部では困難。猶子となって藤原氏に連なるのが一番です。また、秀郷流藤原氏の「結城系図」で無視されている、というか互いに無視しあっていることからもその可能性は高いかと。

佐藤公清にとっても自分の縁者=勢力が広がることは決して損でないし、当時そういうことは娘を娶らせてての縁組みでなくとも一般的に行われていました。「猶子」という言葉の存在自体がそれを物語っています。何れにせよ嫡流とは見なせません。

その守藤大夫・主馬首資清の子、守藤権守こと首藤資通は源義家の側近として知られ、少年の頃から「奥州後三年記」にも登場します。

藤原の資道は将軍のことに身したしき郎等なり。年わづかに十三にして将ぐんの陣中にあり。よるひる身をはなるゝ事な。(奥州後三年記)

その後も義家の側近として仕え、京の義家の屋敷の隣に家を持っていました。1098年には豊後権守とあります。

その子には平治の乱で義朝の側近として登場する蒲田正清の父鎌田通清で、生没は不明ですが1119年の除目で河内権守となったようです。証拠はありませんが、おそらく首藤資通も首藤(鎌田)通清も従五位下には叙爵して権守の肩書きをもらったのかと。

山内首藤につながるのは首藤資通のもう一人の子親清で、『中右記』には1130年に北面下臈(北面の武士)同日条の『長秋記』にはそのとき馬允の官職にあったことが示されています。『本朝世紀』1149年4月20日条には左衛門少尉と現れるものの、首藤(鎌田)通清と比べれば格下に見えます。こちらが弟? いずれにせよ嫡流とは言えません(この時代、あまり嫡流という意識はそう強くはありませんが)。そしてその親清の子義通、孫俊通に初めて山内刑部丞と山内滝口が出てきます。仮に藤原通家こと佐藤公清が山内近辺に土地を持っていたとしても、それを山内首藤俊通まで代々受け継いだとするのは非常に無理があります。

「尊卑分脈」で義通が山内刑部丞と呼ばれるのは後付かもしれません。あるいは保元物語に「相模国の住人、山内の須藤刑部丞俊通の子、滝口俊綱が先陣」と出てくることから後の世に系図を編纂した者は『保元物語』は知っていても、伝わったそれ以前の家系はそれほど詳しくはなかったのかもしれません。

というか、山内刑部丞義通は本当に居たのでしょうか? 「尊卑分脈」以外には見えないようですし、義通を飛ばして首藤資通の孫が山内の須藤刑部丞俊通とした方が年齢的に矛盾が無いのです。もしかすると山内刑部丞俊通が山内刑部丞義通とどこかで誤記されて、編集時点でダブルブッキングされてしまった?

 

面白いのは「続群書類従」にある「山内首藤系図」は小一条大臣藤原原師尹から始まるにも関わらず、俊通の代に至ってその注記が「鎌足公執天智天皇政、白鳳年中賜藤原姓」から始まることです。おまけに「武家長者八幡太郎義家御室、資通依り為姉・・・」と。俊通のことではなくて、その祖首藤資通のことなのですが、そりゃ資通の注記に書けば良いじゃないですか。何で俊通の注記に? 察するに、元々の系図は俊通から始まっていたから鎌足公やら、後三年記に出てくる資通の記述が必要だったのでしょう。つまりこの系図の俊通より前は後付である可能性が非常に濃厚だと思えてきます。おそらくは江戸時代?

「保元物語」 上巻・第十三章…主上が三条殿に御幸される事、付・官軍勢揃いの事に義朝に従う武士が出ていますが「山内須藤〔首藤〕刑部丞俊通、その子滝口俊綱」は、他の武士の殆どが無官なのに対し抜きん出ています。上総介八郎弘経〔広常〕は上総権介平常澄の八男の広常という意味でしょう。千葉介経胤〔常胤〕も同じように国衙の役職を持っていますが、これは在庁官人の世襲の職(しき)で刑部丞のような中央政府の官位とは少し意味が違います。ちなみに「その子滝口俊綱」の滝口とは北面の武士と言う意味で親子ともども義朝に臣従しながら中央権力への奉仕とルート作りを怠らなかったことが伺えます。典型的な京武者ではないでしょうか。

保元物語は1240年よりも前に書かれたとされています。「尊卑分脈」よりも更に前です。先の寛政重修諸家譜」では俊通よりも下がって俊綱の代からとあるようです。

『尊卑分脈』によれば、首藤義通の子俊通がはじめて鎌倉郡の山内に住み、その土地の名をとって山内を名乗るようになったという。『寛政重修諸家譜』では、俊通の子経俊から山内氏を名乗るようになった。(戦国大名名家一覧・土佐山内氏

 

山内荘の成立

現在の北鎌倉から戸塚区、栄区まで含む山内荘のような大規模な荘園は、12世紀の鳥羽上皇時代に見られるもので1038年以前の藤原道家の時代に成立したと言うのは近年の中世荘園史の研究からは考えられません。東国における皇室領荘園の成立は12世紀前半の鳥羽上皇院政期に集中するので山内荘の成立もその頃だろうとみられます。

もうひとつ、山内首藤俊通の妻は頼朝の乳母であることなどから、頼朝の父義朝が義家以来の譜代の首藤氏に山内荘を与えたという説も根強い様です。 『中世都市鎌倉の実像と境界』(五味・馬淵編)P99で鎌倉考古学研究所の馬淵和雄氏もそのようなことを書いています。しかしその根拠についてまでは書かれてはいません。しかしそうだとしたら、頼朝の父義朝は何でここを持っていたのでしょうか? 与えたって、義朝は山内荘の本所か領家だったのでしょうか?

関東の荘園についてその成立に関する史料はほとんどありません。唯一今に知られるのは『天養記(官宣旨案)』によって経緯が知られる大庭御厨、そして相馬御厨です。「唯一」ではなくて「唯二」ですね。1140年代に、頼朝の父義朝は、藤沢の大庭の御厨(みくりや)に侵入し、また1145年3月には上総権介常澄とともに千葉常重・常胤親子から下総国の相馬御厨の譲り状を責め取って、伊勢神宮内宮に寄進したり、かなり積極的、かつ強引に勢力拡大を図っていました。

大庭御厨は助清の子首藤資通とほぼ同世代、同年齢の鎌倉権五郎景正とその一族が、その地でこつこつと開拓を続け、同時に郡・郷司として国衙(国府=県庁)にルートを造り、国衙領をかすめ取りつつ国司からやっとの思いで伊勢神宮への寄進荘園(御厨)の認可を取り、しかしそれも不安定なので権五郎景正から数代あと(直系かどうかはともかく)、中央政府の認可による御厨として認可されたと思ったとたんに頼朝の父、源義朝と国衙の在庁官人、三浦介や中村一族に「それは無効だ!」と攻め込まれ苦労をしています。

下総国相馬御厨千葉介常胤も恐らくは平忠常の子孫、もっと遡れば平将門の頃より相馬の地に関わっています。鎌倉権五郎景正の子孫一族(直系かどうかはともかく)、そして千葉介常胤は確かに土着した武士にして開発領主です。この二例を見ると、在地領主が自分の所領を確実なものとするために荘園として寄進したという一般的な図式が浮かび上がってきます。石井進氏は『鎌倉武士の実像』(平凡社文庫本p128-129)「大庭御厨の実体」でこう書かれています。

寄進地系荘園の成立は現地の豪族が中央の実力者と共謀して国衙領を分割し、みずからの支配地としてしまうことだ。

しかし両方とも伊勢神宮の御厨(みくりや)としての立荘だったことは注意すべきでしょう。それに対して、どうもこの山内首藤氏は他の関東の豪族のように自ら土地を開墾し、それを荘園として寄進したと言うパターンとは違うように思います。

この時代にあったのは、本所・領家の現地代官を武士の棟梁(軍事貴族という意味で決して武士全体をまとめていた訳ではありません)が斡旋するぐらいのものです。そうして送り込まれた源為義の郎等が本所・領家のいうことを聞かないので解任された事件が確か北関東でありました。南関東では相模か武蔵で、牧を預かっていた源為義の郎等が殺されて、殺した方が源為義の郎等となることで罪を逃れたようなことも。これらの場合、源為義は預所であった訳ではなく、手配師、武士の派遣業者のようなものと見ておいた方が良いかと。

実は頼朝挙兵時の関東の豪族の中には、全てではありませんが、これまで思われていた「開発領主」とはどうも違うケースが多そうに思います。元々京または河内に居たはずの源義広が志田の義広として突然常陸国に姿を表したなどは象徴的な例です。彼もおそらく八条院領の荘官として下ったと見られています。

山内荘は立荘の記録は残ってはいないのですが、鎌倉時代初期には八条院領であったと吾妻鏡に書かれています。八条院ワ子内親王は鳥羽上皇の皇女であり、鳥羽上皇の所有する荘園の大半を相続しています。

総計約二百三十ヶ所といわれその当時では日本一の資産家であったかもしれません。後白河法王も個人資産と言う点でははっきりと負けていたようです。晩年後鳥羽天皇の皇女昇子内親王を養女とし、所領の大部分は昇子内親王に譲られましたが更に春華門院昇子内親王に伝えられ、しかしその直後の同年11月春華門院夭折により順徳天皇に伝えられて後鳥羽院が管領、承久の乱後、幕府がいったん没収した後、後高倉院にが相続し安嘉門院邦子内親王に受け継がれたました。その死後八条院の相続を「とわずがたり」に登場し、後の南北朝の発端となった亀山上皇がこの八条院領の相続を必死に鎌倉幕府に働きかけています。

国立歴史民族博物館の高橋一樹氏は、石井進氏らの従来の見解が「現地の豪族が中央の実力者と共謀して国衙領を分割し」、と「現地の豪族」をトリガーとしたのに対し、むしろ中央の実力者を中心においた国衙領の分割を主張されています。先ほど「両方とも伊勢神宮の御厨(みくりや)としての立荘だったことは注意すべき」と述べたのは、伊勢神宮領と八条院などの女院領、護願寺領とは同一視出来ないのではないかということです。前者の立荘は実にもたもたしている(そこに義朝は付け込んだ?)に対し、後者は実にスピーディです。まさしく国家権力(院政)の中枢において進められているからだと思います。義朝もそれが女院領や、護願寺領であったなら決して横槍など入れなかったでしょう。そんなことをしたら一発で身の破滅です。

高橋一樹氏などの研究で明らかになったパターン(例えば能登の国若山荘1143年、越後国小泉荘1153年、阿波国篠原荘1110年)を当てはめて考えてみるとこう考えるのが妥当ではないでしょうか。 

  • 1140年前後の頃に、藤原家成ら鳥羽院側近が、同じく鳥羽院近臣で摂関家藤原忠実とも結ぶ在京の相模守藤原頼憲、現地の源義朝を通じて国衙の在庁官人ら在地諸勢力と計らい、山内本荘(どこだか誰のものかは不明)を核に、同時に鎌倉群北部の数百町(農家数百戸、数千〜1万石ぐらい)を加納・余田としてまとめ、鳥羽上皇皇女八条院名義で立荘した。
  • 源義朝は現地で在庁官人や名主(みょうしゅ)らと利権を調整し、配下の首藤義通かその子俊通を荘司に推挙した。そのときに現地での連携強化の為に、相模国衙在庁官人中村荘司宗平の姉妹を首藤俊通が娶ったと。

山内首藤経俊が頼朝の鎌倉入り直後に捕らえられたとき、頼朝の乳母であった経俊の母が、頼朝を訪ね助命嘆願をしています。その経俊の母は土肥(とひ)実平の叔母に当たると思われる。その縁から経俊は土肥実平に預けられ、経俊の所領も土肥実平に渡されたようです。

その後の時代の流れ、「武士の世」の到来から、これまでは当時の「武士」を過大評価する傾向が強いですが、保元・平治の乱以前は、武士の役割は「傭兵」と、力による「現場監督」の意味合いで見た方が良いのではと思います。また、武士は流通の担い手であったかもしれません。

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山内首藤氏のその後

さて、山内首藤俊通、俊綱親子は「保元の乱」に続き「平治の乱」でも源義朝に従いで同族の蒲田正清と同じく討ち死にしています。山内首藤経俊はそのとき20歳ですが、病気で出陣出来なかったとか。そしてこの山内首藤経俊は本来源義朝の臣で頼朝の乳母の子にも関わらず、頼朝挙兵に際しては頼朝の使者を罵倒し平家側に付いてるんだそうです。

ところで山内首藤経俊は捕らえられもちろん領地は没収、首を切られることになりましたが、かつて頼朝の乳母だったその母摩々局が涙ながらに助命を訴え許された、というのが先にも触れた話しです。許された山内首藤経俊はその後頼朝に従い義経追討・奥州征伐などに功をたて、伊勢・伊賀の守護職のほかに相模の早河庄、備後の地毘庄などに地頭職を得、戦国時代に備後国の戦国武将山内氏を経て毛利家の重臣として幕末まで続いています。そちらは正真正銘でしょう。山内一豊から山内容堂に至る土佐藩の山内家もそうだと言われていますが、良く解りません。途中がちょっと怪しげだそうです。一方山内首藤の一族にはそのまま山内荘内に土着した家もあったようで、江戸時代の庄屋に首藤と言う家がありました。


2006.03.17追記 2007.01.21 追記 2008.07.09-17 追記