流鏑馬総集編 2006  例大祭小笠原流の流鏑馬.2 09.16

嗚呼、もっと早くに来ていれば良かった。これでも2時間以上前位置に着いたのですが、実は来たのはもうちょっと前、でも県道側から混み具合を見たときは結構空いていたので油断して店に入ってうどんを食べたり蓮の花の写真を撮ったりしていたら、実は空いていたのは招待席だったんですね。ガーン! いつも見ている武田流のときは招待席なんてもっと少なかったので知りませんでした。トホホホホ

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僅かに残った一般席では2時間以上前でも取れた場所はこれこのとおり。


そのうち空くだろうと、人の反対方向を撮っていたら、最後まで全く空かないし。

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春の武田流のときとは全く勝手が違いました。

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まあ、走っているところが撮れたから良しとするか。しかし真横だと距離を決め打ちのマニュアルにしても一眼レフのミラーが跳ね上がるタイムロスを見込んでシャッターを切っているつもりでもドンピシャは数枚に1枚ぐらい・・・・

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こちらは騎射挟物。
騎射挟物は江戸時代、一時衰退していた流鏑馬を八代将軍徳川吉宗が復興したときの呼び名で、鎌倉時代の流鏑馬装束とは違い江戸時代の軽装の流鏑馬です。矢は箙(えびら)は使わず腰帯に挟んでいます。
私は弐の的のちょっと先に居たのですが射手は「ウオー!」と雄叫びのような声を上げながら目の前を駆け抜けて行ったのですが、調べてみたら騎射挟物では「ウオー!」ではなくて「ヤーオー!」。流鏑馬では一の的までに「インヨウ(陰陽)」、二の的までに「インヨウ・インヨウ」、三の的までに「インヨウ・インヨウ・インヨウ」なんだそうです。「陰陽」をオンミョウと読むのは「陰陽師」だけ?


しょうがないから諸役や観客の方もパチリ。奉行席の脇には交代で巫女さん達が。この子達は最初遠慮して後ろの方に居たのですが、上役みたいな人に「そんなとこじゃ見えないからもっと前に行きなさい」と言われて諸役や童子の処へ。

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巫女さんならそれぐらい良いですよね。そういう役目みたいに見えて雰囲気壊さないし。


この子は8歳だそうです。

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何をやっているのかというと、布引きと言ったかな? これも神事です。
武士(御家人)の子供を馬に慣れさせる為に背中に付けた布(帯?)が地面だか馬だかに着かないぐらいのスピードで走らせたとか。そしてここの神事の中でも、子供の乗馬技術を披露したんだそうです。

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さて、流鏑馬神事もそのあとの、江戸時代の軽装での16人の騎射・挟物も終わって総奉行、記録役の退陣です。

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でも、この星兜に対応する大鎧は出てこなかったけどなぁ。奉行の鎧は軽装の腹当(はらあて)だったし。


行列式次第には弓袋差は、大鎧、大鎧、胴丸と書いてありましたが、順番を変えたんでしょうか。
一番大鎧らしい雰囲気のこの方は三の弓袋差ですが、この方を初め3人とも草摺から胴丸に大袖・栴檀板・鳩尾板を付けた胴丸鎧に見えるんですけど。違うかなぁ、近寄って見た訳ではないので・・・。
もしかして時代の下がった大鎧? しかし雑色が大鎧なんか着るだろうか? なんか釈然としません。

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でも本当に本物の鎧を着て歩いている姿は初めて見ました。


社務所の前では観光客と記念撮影。

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後記

信濃守源遠光は「吾妻鏡」に初めて流鏑馬が出てくる文治3年(1187年)8月15日の条に

鶴岡の放生会なり。二品御出で。参河の守範頼・武蔵の守義信・信濃の守遠光・遠江の守義定・駿河の守廣綱・小山兵衛の尉朝政・千葉の介常胤・三浦の介義澄・八田右衛門の尉知家・足立右馬の允遠元等扈従す。

と出てきますね。流鏑馬の射手ではありませんが。その子小笠原長清は馬術・弓術に優れた才能を発揮し、武田信光(石和信光:武田流はここから)、海野幸氏、望月重隆らと共に弓馬四天王と称されたそうです。小笠原流はここから始まります。

頼朝は関東の武士団(御家人)に担がれて鎌倉幕府を築きますが、それら御家人層と自分の家柄(貴種)を強調するために、源氏の一門を御家人とは別格とし位階も五位以上の「守」に任じ(推挙し)、一方御家人はどんなに力があろうとも(と言うかそれを抑えるために)一族の長のみ左衛門少尉とします。
しかしその一方で自分に代わりうる源氏の一門を非常に警戒し、甲斐源氏の武田宗家は抹殺され、一族の遠江守安田義定も謀反の疑いで自害。駿河守源廣綱(源三位頼政子)は突然蒸発。参河守源範頼(頼朝弟)は殺されます。武蔵守義信は信濃源氏の平賀義信ですが、北条氏と姻戚関係を結び、頼朝時代は見事に生き延びます。

「吾妻鏡」に見る流鏑馬はこちらに。

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