2013.05.19   東慶寺天秀尼展記念講演会 


天秀尼展講演会


記念講演会は2時から。そろそろ書院に入りましょうか。 前回で学習して、講演会開始のだいぶ前に会場に入り、最前列を確保しました。なのでスライドもバッチシ!

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なんてこれ、本当は休憩時間の写真なんですけどね。なのであのお姉さんストレッチ。

さて、その記念講演会は『豊臣家最後の姫―天秀尼の数奇な運命』を書かれた歴史研究家の三池純正先生。三池先生の云うには、歴史研究家は歴史家とは違うそうです。
へ? と思ったら歴史家(歴史学者?)とは大学の先生の様に史料にあることしか云わない人。
歴史作家は史料にどうあろうが物語を勝手に作ってしまう人。それに対して歴史研究家とは史料に基づきながらもその空白を想像で埋める人なんだそうです。うまいこと云うねぇ。

もう少し正確に云うなら、歴史学徒とは史料にあるだけでは是とせずに、その史料はどれぐらい信用できるものかという史料批判の視点を常に持ち、史料自体を検証しながら、合理的な推論を行う人のことです。本当に「史料にあることしか云わない」のでは歴史学徒ではありません。洞察力がなければ、どの分野だって学者とは云えません。でも思いっきり縮めて云うと・・・、三池先生のおっしゃるとおりですね。(笑)

何故「史料自体を検証しながら」なのかと云うと、史料のほとんどは後世の言い伝えを元に編纂されたものだからです。例えば史料価値が高いとされる『吾妻鏡』ですら、顕彰の為の曲筆やら、誤認やら、「切り貼りの誤謬」やら、中には疑文書に基づく記述があったりします。まあそれは後世の編纂故に入ったノイズとも云えますが。
更に残っているのは写本の写本だったりするので書写のときの書き間違いやら、一行飛ばして書いちゃったり。
鎌倉中世史では、こういうノイズを見分けながら推論を重ねないと、いつか馬鹿者扱いをされます。

『吾妻鏡』程度のノイズならまだ良いのですが、中には丸ごと偽書ってことも。『甲陽軍鑑』、『三河後風土記』、『徳川歴代記』などは江戸時代から偽書とされていましたが、宮本武蔵の『五輪書』に、お茶の世界では『南方録』も今では偽書とされています。最近知ってショックを受けたのですが世阿弥の『花伝書』も世阿弥が記したものではないようですね。まあ勝手に世阿弥だと思いこんでたら違ってってことで、偽書というのは可哀相な気はしますが。でも江戸時代は偽書が多いなぁ。

また、後世の編纂物の記述で誰もが疑わなかったことが、当時の公家の日記の翻刻を進めるうちにひっくり返されたなんてこともしばしば。なので史料の氏素性はとても大切です。史料にあるだけでは安心できません。
・・・閑話休題

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東慶寺以前の天秀尼


三池先生は、国松も天秀尼も大坂城落城の頃までは徳川方に全く知られてはおらず、おそらくは正妻千姫をはばかって、妊娠と同時に城外に出されたのではないかとおっしゃっていました。
その根拠は徳川側の同時代資料『駿府記』に大坂の陣以前には全く出てこないと。
これは不思議ではありません。平安時代から良くある話です。そのまま表に現れなかった子供は当時たくさんいたでしょう。

ほぼ同時代の例では、第2代将軍徳川秀忠の庶子(千姫の異母弟)で、加藤明成改易の後に会津の藩主となった保科正之も同じ境遇です。『新訂増補国史大系徳川実紀 第三編』 「大猷院殿御実紀巻32」 寛永13年7月21日条に保科正之が信州高遠3万石から出羽山形藩20万石に加増移封された記事がありますが、その中に「世に伝うるところには・・・」と、家光が鷹狩の途中に身分を隠して立ち寄った小さな寺で、僧から正之が弟であることを聞かされ、初めて知ったと書かれています。まあその部分は「世に伝うるところには・・・」 に始まり、最後は「まことにしや」 で終わっていますが。
ただ保科正之の子孫は三代目から松平を名乗り、親藩の名門として幕末まで存続しますからまだ判っている方です。wikipediaにその母(静)のことが簡潔にこうまとめてあります。
「慶長年間に秀忠の乳母・大姥局に仕える。その際、秀忠に見初められる。その後に懐妊したが側室に迎えられることなく、見性院(武田信玄次女、穴山梅雪未亡人)の元に預けられる。そこで慶長16年(1611年)に幸松(後の正之)を生む。元和3年(1617年)、幸松が名目上保科正光の子とされたため、静もそれに伴って信濃の高遠城に住むようになる」 と。ところがこれも諸説あって、『柳営婦女伝系』では武蔵国板橋郷竹村の大工の娘とか、『会津松平家譜』では静の姉婿に当たる江戸神田白銀の竹村次俊宅で出生したとあるそうです。

ついでに云うと、正妻じゃなければ側室というものではありません。側室って結構格式があるんです。豊臣・徳川の特殊な関係が無くとも、妊娠が明らかになったと同時に城を出されていたでしょう。そもそも城内の女性とは限りませんし。先の保科正之なんか、秀忠が鷹狩りにでかけたときの落とし種じゃないかなんて思われてるぐらいです。そうであれば一夜限りの夜伽です。そういう例は平安時代の『今昔物語集』にも、鎌倉時代の『吾妻鏡』にもあります。
『今昔物語集』では第26巻第17話 「利仁将軍若時、従京敦賀将行五位語」に「汗水にて臥したるに、傍らに人の人気色有り。 "誰ぞ" と問えば女音にて、 "御足参れと候へば、参り候ひつる" と云気ひ、にくからねば、掻き寄せて、風の入所に臥せたり」 とあります。つまりその家の娘か使用人なのかは判りませんが、客人の接待の為に、女を夜伽に差し出したと。
『吾妻鏡』では治承4年11月10日条です。「武蔵の国丸子庄を以て葛西三郎清重に賜う。今夜かの宅に御止宿あり。清重、妻女をして御膳を備へしむ。ただしその実を申さず。入御結構の為に他所より青女を招くの由言上すと云々」つまり葛西清重は近隣の娘と偽って自分の妻を頼朝の夜伽に差し出したと。

後に出てくる会津四十万石加藤明成の子、明友もそういう境遇で、家臣に預けられていたけど結局正妻に子が生まれなかったので加藤家を継いだとか。

なので三池先生の「千姫側近も知らない秀頼の子の存在」は別に不思議ではなく、「豊臣家はなぜ完全な秘密主義を取ったのか」(講演会レジュメ)などと何かしら特別な理由を考える必要は無いのではないでしょうか。

母親の名も、天秀尼の俗名も判ってはいません。三池先生は、天秀尼の俗名は判らないんだけどそれでは不便なので「天秀法泰尼」から「泰」の字を採って、仮の名を「泰姫」としたとおっしゃっていました。

「泰姫」かどうかはともかく、4文字目を使ったのはさすがだと思います。というのは、禅宗では例えば蘭渓道隆とか、無学祖元というように4文字なんですが、最初の二文字は号で、次の二文字が諱(いみな)です。織田信長というときの信長も諱(いみな)です。実名とも云いますが。その一文字目はそのお寺の系字で、東慶寺の場合、江戸時代にはずっと「法」の字が使われます。なので、俗名が埋まっているとすれば、あるいは俗名に代用したいと思えば4文字目しかない訳です。
ちなみにNHKの大河ドラマで於江が「信長様」なんて言っていたそうですが、信長を「信長」と呼べるのは父親の織田信秀か、信長より位の高い足利将軍とか公卿ぐらいでしょう。鎌倉時代の文書でも文中に誰かの実名(諱)が書いてあったら、その文書を書いた者は目上の者ということになります。

千姫が天秀尼を養女にしたのは夏の陣での落城後のことのようです。東慶寺の由来書にも「大坂一乱の後天樹院様の養女になされ権現様上意に依り当山に入り、薙染し瓊山尼の弟子となる。時に八歳」とあるそうです(前述『駈入寺』 p.48)。

「薙染(ちせん)し」とは「仏門に入る」「出家する」という意味。瓊山(けいざん)尼は東慶寺十九世の瓊山法清尼です。

天秀尼の母は成田吾兵衛助直の娘で、大坂場内から千姫の養女との説もあります。東慶寺の前住職、井上禅定師の昭和30年の著書『駈入寺』には「台徳院殿御実紀にそうある(pp.48-49)と。「台徳院殿御実紀」とは徳川幕府が19世紀前半に編纂した『徳川実記』の中の徳川秀忠の記録のことです。そこで当たってみました。『新訂増補国史大系-徳川実紀 第二編』、「台徳院殿御実紀」の巻37、元和元年5月12日条にこうあります。

大坂残党を搦取りて進らすべきよし。諸国の領主代官に令せらる。京極若狭守忠高は秀頼息女八歳なるを捕えて献ず。これは秀頼の妾成田氏(吾兵衛助直女)の腹に設けしを。北方養ひ給いしなり。助命せられ、後年比丘尼となり。鎌倉松岡東慶寺に住持して。天秀尼といえるはこれなり・・・(p.41)。 

しかし『徳川実記』は19世紀前半に編纂物です。しかし『吾妻鏡』よりずっと楽なのは、各記事に参考文献があげてあることです。この日の記事の出典は「駿府記」、「武徳編年集成」、「慶長日記」とか。「駿府記」は当時の家康側近の記録でリアルタイムな一等史料で、『史籍雑纂』第二巻に収録されています。その元和元年5月12日条には「今日秀頼御息女(七歳)、従京極若狭守尋出捕之註進、秀頼男子在之由内々依聞召、急可尋出之湯由所々費被触云々」 とあり、細川忠興の書状にも七つとなっているので『徳川実記』の書き間違いでしょう。『徳川実記』同様に京極若狭守尋出捕之註進」 (カッコ内は割書)とありますが、秀頼の妾成田氏(吾兵衛助直女)」 の記述はありません。後世の伝承からの補完でしょう。ちなみに、『徳川実記』には国松が捕まったときの経緯が、有る説ではこう、またある説では云々、と三種類も出ています。これも後世の伝承部分かと。「駿府記」にはそのような記述はありません。

『徳川実記』は東慶寺の由来書とも違いますね。「北方養ひ給いしなり」 という部分がです。「北の方」とは正室千姫を指します。『大坂陣山口休庵咄』(『続々群書類従』4収録)などによれば、国松は7歳まで乳母に育てられ、8歳のとき、淀君の妹の京極高次妻常高院が、和議の交渉で大坂城に入るとき、長持ちにいれて城内に運びこんだとあるそうです。つまり国松も天秀尼も、父秀頼に初めて会ったのは大坂の陣の和議の最中。『徳川実記』と『大坂陣山口休庵咄』+『東慶寺の由来書』のどっちを信じるかという問題はありますが。三池先生と同様に私も後者が正しいと思いますね。

ところで、東慶寺の由来書にある瓊山尼とは、小弓公方足利義明の孫で足利頼純の娘。大平寺最後の住持青岳尼は叔母。その当時の東慶寺住持旭山尼も瓊山尼の叔母です。代々公方家の姫がここ東慶寺の住持となっています。瓊山尼の妹月桂院は秀吉の側室だった方で、秀吉の死後江戸に移り、家康の娘・振姫(ふりひめ)に仕えています。振姫は夫蒲生秀行を失い、この頃浅野長晟と再婚することになって江戸城に居たはず。井上禅定師が、天秀尼の東慶寺入寺は「恐らく月桂院あたりの入知恵と推察される」(『駆入寺』 p.51)と書かれたのはこういう背景からでしょう。


東慶寺での天秀尼


三池先生のお話では天秀尼は17歳で出家と書いてある書もあるということですが、霊牌の裏には「正二位左大臣豊臣秀頼公息女 依 東照大神君之命入当山薙染干時八歳 正保二年乙酉二月七日示寂」 とあるそうです。「当山薙染干時八歳」とあり、先に述べたように「薙染(ちせん)」とは「仏門に入る」「出家する」という意味ですから八歳で出家となります。先の由来書の文面でも入山とほぼ同時と読めます。それにこういう立場の者はすぐに尼なり僧なりにするのが普通でしょう。天秀尼は1615年5月の大坂落城のときに7歳とありますから、翌年に東慶寺に入ったということでしょうか。

もしかしたら千姫と天秀尼は対面したことが無かったのかもしれません。三池先生は、その天秀尼が千姫の養女になるにはその仲介をした天秀尼の後見者が居たのではないかと、そして今も天秀尼の墓の脇にある宝篋印塔に台月院殿明玉宗鑑大姉とあるのがその仲介者ではないか。更にその仲介者は成田甲斐姫ではないかとおっしゃいます。

甲斐姫まで飛躍するのはどうかと思いますが、「天秀和尚御局」と刻銘があるので天秀尼の付き人。付き人と云っても、墓は格式のある宝篋印塔で、「御局」とあるし、戒名が「院」ではなく「院殿」であることから、ただの付き人ではなく相当に身分の高い人であることは確かです。
没が正保 2年 9月23日。天秀尼が亡くなった数ヶ月後。つまり天秀尼の存命中、ずっと付き添っていた方のようです。豊臣家関係の人であった可能性も確かにあるでしょう。しかし天秀尼が大坂城に居たのは三池説でもほんの数か月です。

もうひとつの可能性も考えられます。天秀尼は千姫の養女としてここ東慶寺に入寺していること。千姫の再婚に際し、豊臣との縁切りのため上州得川の満徳寺(も う一つの縁切寺)に千姫の名代として刑部局を入寺させ、それをもって豊臣との縁は切れたとした事例。東慶寺とその縁切寺法に、江戸時代を通じて「権現様御 声懸かり」という幕府の後ろ盾があったことは、秀頼の娘が住持だったことではなくて、千姫の養女としての天秀尼の立場だったことなどを考え合わせると、義 母千姫が自分の名代に付けた側近、母代り、お目付け役にして千姫とのパイプ役だったのかもしれません。天秀尼を千姫の養女にして助けるとは、千姫が養育と 監視に責任を持つということですから。

幼少の千姫が豊臣に嫁いだとき、嫁入り道具だけではなく、養育係も含めた大勢の侍女を引き連れていっているはずです。それ らは徳川将軍家とのパイプ役でもあります。いくら家康の娘に仕える月桂院の姉の寺とはいえ、寺に入れたらそれで終わ りということは無いでしょう。それに、徳川とは縁の薄い豊臣家関係の人を母代りに付けておくほど危険なことはありません。豊臣家との俗縁は切らなければな らないんですから。

東慶寺と千姫との関係を示す物として、古文書以外に一枚の棟板が残っています。翌年の寛永11年 (1634年)、前の年に切腹した駿河大納言徳川忠長の屋敷の一部が解体されて東慶寺に寄進され、客殿、方丈、総門などになりましたが、棟板はその建立の ときのものだと思います。 客殿、方丈などは関東大震災で倒壊していますが、棟板はその旧客殿か方丈かに架かっていたものでしょう。そしてそこには千姫ばかりか三代将軍家光の乳母春日局の名前までが。
将軍家側でこの実務を取り仕切ったのは裏面にこの件の「御執持」とある「当大樹乳母春日局」。この棟板にも有るとおり、三代将軍家光の乳母です。家光と忠長、そして千姫は同じ母(信長の妹お市の方の娘・お江与の方)を母に持つ兄妹です。
仮にこの台月院が千姫の乳母(めのと)の一人で義母千姫の名代パイプ役だったのであれば、春日局とは同母兄妹の乳母同士となります。東慶寺の住持と天秀尼に対しては将軍家側の意向を伝え、将軍家側の春日局に対しては東慶寺側の窓口となっていたのなら、これだけの大きな話もスムーズに進めることが出来たで しょう。この時代、格が違うと手紙も書けませんので。

 

義母千姫の名代ならば「宝篋印塔」、「御局」、「院殿」、「住持の墓地の、天秀尼の墓の傍に尼でない女性の墓」は納得できます。また、井上正道住職の推測、「東慶寺にかなりの功績のあった人物、もしくは天秀尼が相当の恩義を感じていた、天秀尼にとっての功労者」「常に天秀尼のそばにいて、天秀尼を教育した人物」「天秀尼の心の拠り所であり、天秀尼の心の支えであったのではないか」ともピッタリと合致します。千姫、幕府とのパイプ役であれば、駿河大納言忠長の屋敷の移築による、客殿、方丈、総門などの再建では東慶寺内の中心人物で、「東慶寺にかなりの功績のあった人」と当然思われるでしょう。

「院殿」は今ではあまりなじみの無い戒名ですが、徳川家光の「大猷院殿」をはじめ、歴代将軍はみな「院殿」です。千姫の戒名も「天樹院殿栄譽源法松山禅定 尼」と「院殿」。千姫の伯母に当たる常高院の夫、若狭8万石の大名・京極高次の戒名も「泰雲院殿前三品相公徹叟道闡蜍庶m」と「院殿」です。三池先生は徳 川家では将軍の妾クラスも「院殿」だとおっしゃっていました。もともとは「院」の方が「院殿」より上だったそうですけどね。平安時代から南北朝の頃まで は。「院」の相場が下落して、逆に「院殿」が偉いまま残ったというのが江戸時代なんだとか。室町後期はどうなんだって? そこまでは知りません。

さらに東慶寺の縁切り寺法は「権現様(家康)お声懸り」と考え合わせて、千姫再婚が直接の発端ではないかとすら考えられます。開山と伝える覚山尼が「不法の夫に身を任せた女性を不憫に思い、この寺に駆け込む ことによって女性を救う縁切寺法を始めた」というのは後世の創作ではないでしょうか。こういう後世の創作は大平寺にもあります。池禅尼の姪が頼朝に願って許されたとか。

直接でない発端は、高木先生のおっしゃるような寺院のもつアジール(避難所)な性格でしょう。
これは「古来」と云えます。そのベースは黒田俊雄の言う権問体制、つまり鎌倉時代には「公家権門(執政)、宗教権門(護持)、武家権門(守護)はそれぞれ荘園を経済的基盤とし、対立点を抱えながらも相互補完的関係があり、一種の分業に近い形で権力を行使したのが中世国家である」 ということにあると私は思います。その中の公家権門を倒したのが足利尊氏から足利義満にかけての南北朝時代。宗教権門を最終的に崩したのが織田信長の比叡山焼き討ち、そして長島一向一揆の制圧、高野山包囲、石山本願寺との戦いだろうと。ついでに言えば、北条時頼以降、関東(通称鎌倉幕府)が南宋渡来の禅宗や、新興の律宗に肩入れしたのは、宗教権門(顕密)の精神支配から逃れるため、あるいは多少中和するためだったのではないかと。

二時間の講演会の間に一度休憩が。書院のお玄関を出て何気なく左を向くと、あれ? 
セッコクだ! セッコクの咲く季節だったんだ! 最近身辺多忙で忘れてました。

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いつもは塀の隙間から 撮っているんですが、今日は逆方向からパチリ。今が一番の盛りですね。

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会津四十万石改易事件


講演会の最後に、天秀法泰尼と会津四十万石改易事件との関係を最初に記した史料はいつ頃のものかと質問をさせて頂いたのですが、同時代の史料は無く、江戸時代中期の『武将感状記』が初出だとか。あらまあですね。

「感状」というのは、武士が本当に戦をしていた時代に論功行賞の中で、これこれこうこうで大いに功があったと主君からの今風に云えば賞状、感謝状です。もちろん戦に勝って主君の領地が広がれば恩賞は領地ですが、負けたときにでも「感状」をもらい、別の主君に仕えるときにその「感状」を見せて自分の武勲を売り込みます。
ただしこの『武将感状記』は、そうした「感状」を集めた一等史料ではなく、戦国時代から徳川時代初期にかけての武将・武士についての逸話集です。インターネット上でも国会図書館の「近代デジタルライブラリー読むことが出来ます。

『武将感状記』は1716年(正徳6年)に刊行された有名なものですが、著者の熊沢淡庵の素性は解りません。江戸時代中期の武士の価値観を知る材料としては評価はされていますが、書かれた内容についての信憑性は???です。

でも目次を見ているだけでも面白いですよ。
巻之八には「妖蛇女子を慕ふ事」なんてのもあります。今読んでいるところですが、なんと曹洞宗の開祖・道元が出てきました。中国(南宋)に渡る為に博多に来たときの話だそうですから1223年? あらら、道元和尚ったら蛇を殺しちゃった。いけませんねぇ殺生をしては。でもこれ、『今昔物語集』のパクリじゃないでしょうか。「成田治左衛門亡妻と契る事」なんてまるで『雨月物語』です。
豊臣秀吉と石田三成の出会いとして有名な「三献茶」の逸話もこの本が初出らしいですね。巻之八の「秀吉石田三成を召し出さるる事」です。最後の「渡辺数馬弟の敵を討つ事」は、有名な荒木又右衛門が助太刀した敵討ち話「鍵屋の辻の決闘」です。これは実話らしいです。トンデモと実話が混在するのが逸話集です。なので一話一話を他の史料と照合しないと。

それよりは評価のずっと高い通称『徳川実紀』の家光の章に会津四十万石改易のことは記されているそうですが、天秀尼は出てこないとか。確かにでてきません。

家光の章とは『新訂増補国史大系徳川実紀 第三編』に収録されている「大猷院殿御実紀」。その巻53、寛永20年5月2日条です。『徳川実紀』の成立は19世紀前半ですが、徳川将軍家の記録をベースにしており、史料価値はそこそこ評価されています。ただし、掘主水の一件は「世に伝うる処は」 に始まっており、幕府の記録(日記)に基づくものではないようです。まはその最後は「やがて其の身多病にして国務にたへず。封地ことごとく返し奉ると申して遁世したり。」 ですから、単純に外様だから改易されちゃったとか、天秀尼がつぶしたというのは後世の学者その他の後付解釈(想像)で、史料にそうある訳ではなさそうです。
ところでこの「世に伝うる処は」 という掘主水の一件の記述ですが、後で触れる作者不明の『古今武家盛衰記(巻第十六)』の記述とそっくりです。さらに『古今武家盛衰記』の方が若干詳しい。「世に伝うる処」 とは『古今武家盛衰記』を指しているんじゃないでしょうか。『徳川実紀』の編者と、『古今武家盛衰記』の編者が読んだ別の巷の記事があったのかもしれませんが。

『武将感状記』にはこの一件がどうかかれてるかって? 巻之十の「加藤左馬助深慮の事/付多賀主水が野心に依て明成の所領を召上げらるる事」にこうあります。

その身は高野に入り、妻子は鎌倉の比丘尼所に遣わしぬ。・・・鎌倉に逃れたる(掘)主水が妻子を、(加藤)明成人を遣わして之を縛りて引きよせんとす。比丘尼の住持大いに怒りて、頼朝より以来此の寺に来る者如何なる罪人も出すことなし。然るを理不尽の族(やから)無道至極せり。明成を滅却さすか、此の寺を退転せしむるか二つに一つぞと、此の儀を天樹院殿に訴へて事の勢解くべからざるに至る。此に於て明成迫って領地会津四十余万石差上げ、衣食の料一万石を賜りて石見の山田に蟄居せらるる。

「天樹院殿」(千姫)が出てくるので「比丘尼所」(尼寺)とは東慶寺のこと。「比丘尼の住持」とは天秀尼のこと、「天寿院」ではないので千姫没後に書かれたものと判ります。この事件は1639年から1643年までのことなんですが、1716年当時、将軍家所縁の鎌倉の尼寺が加藤明成の引き渡し要求に応じなかったことが広く知られていたということは云えそうです。

ただし細かいところは。だって「頼朝より以来」なんてありますよ。東慶寺が出来たのは寺伝でも頼朝が死んでから1世紀ぐらいあとだし。他の史料で確認出来るのは更に後だし。
「比丘尼の住持大いに怒りて」は「家臣だったくせに。裏切り者がなんて無礼な! ふざけんじゃ無いわよ!(怒)」だったのかもしれませんね。自分の記憶には無くとも、守り役(台月院?)から豊臣家と加藤家の因縁は聞かされたでしょう。加えて7歳のときの大坂落城に際し乳母に抱えられて命からがら逃げたときの恐怖、そしてやっと会えたと思った父秀頼が死んだことを知らされたときの悲しみがまざまざと蘇ったのかもしれません。この身に替えてもあんな思いはさせないぞと。・・・いや、史料的根拠の無い個人的想像ですが。
本音としてはそちらの方が私には理解しやすいです。

タイトルに「多賀主水」とあるのは、掘主水のことです。でも「野心」なんて云われてますね。何処が野心なのか良く判らないのですが、1716年当時の武士の道徳からすればそうなってしまうのでしょう。『武将感状記』の史料価値はそういうところです。

逆に掘主水の一件は武士がまだ武士であった頃の主従関係を物語っています。武士がまだ武士であった頃とは江戸時代の前の戦国時代だけではなく、平安時代まで遡ります。今日思われている「忠君孝心」、「「武士道とは死ぬ事と見付けたり」と云った『葉隠』的「武士道」は、江戸時代、戦が無くなった以降の儒教の朱子学の影響でむしろ異質。例外。平安時代後期なんて、主従関係は一代限りとか、それどころか国守は4〜5年任期なので主従関係も4〜5年単位。同時に複数の主君に仕えたりもします。終身雇用ではなくて元請け下請けの関係です。鎌倉時代の「御恩と奉公」の「御恩」とは所領安堵と恩賞です。「いざ鎌倉!」なんて云いますが、実際には「こい!」ということよりも「その必要は無いからこなくてよい!」という方が多い。何故かというと、来られたら着到状に証判を書いて、後に恩賞を出さなければならないからです。

良い例がこの主君加藤明成の祖父は三河国で最初は今川家に仕え、後に松平家康(後の徳川家康)の家臣でしたが、三河一向一揆で主君家康に背き、流浪の身となります。
その頃、斎藤道三・義龍・龍興に仕えていた美濃衆が斎藤氏滅亡後に、敵・織田信長の家臣木下秀吉(後の豊臣秀吉)に仕えていました。加藤明成の父嘉明は、その美濃衆の一人加藤景泰の推挙を受けて秀吉に小姓として仕えるようになります。織田信長の死後、秀吉は織田家筆頭家老の柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで破りますが、加藤嘉明はその戦いで活躍し、加藤清正らとともに賤ヶ岳七本槍の一人に数えられました。
つまり、この加藤家は家康にとっては裏切り者。秀吉にとっては子飼いの郎党です。それが秀吉が勢力を増すに伴い大名となります。しかし秀吉死後の関ヶ原の戦いでは家康方につき、大坂夏の陣、冬の陣でももちろん家康に従って千姫や天秀尼の居た大坂城を攻めます。加藤明成はそのとき20代ですから当然攻め手に参加していたでしょう。あっ『古今武家盛衰記(巻第十六)』に「大坂陣に明成は父と共に出陣し、馬武者百九騎を討取り献ず」とあります。明成の手勢がでしょうが。

東慶寺の前住職、井上禅定師の著書『東慶寺と駆込女』によると、この『武将感状記』よりは身元のはっきりしている『松岡東慶寺考』(1808年に水戸の史館で編纂)という書物があるそうです。そこにもこの事件が書かれていてその一部が引用されていました。こうあります。

時の住持大いに怒り古来よりの寺に来る者いかなる罪人も出すことなし。しかるを理不尽の族無道至極せり。明成を滅却せしむるか、此の寺を退転せしむるか、二つに一つぞ

これは『武将感状記』を書き写したものでしょう。先の引用の下線部分と比較してください。流石に「頼朝より以来」は「古来」に修正されていますが、あとは漢字をひらがなに直したしたぐらいです。

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加藤明成は本当に暗君?


とことでこの天秀法泰尼と会津四十万石改易事件は、寛永16年(1639年)4月16日会津加藤家を出奔した掘主水が、結局は会津藩に引き渡されて処刑されますが、ここ東慶寺に匿われていた掘主水らの妻はどうなったのか。

天秀法泰尼が「明成を滅却せしむるか、此の寺を退転せしむるか、二つに一つぞ」と突っ張って、明成も会津四十万石と替えてもと息巻いて、結局会津加藤家は1643年(寛永20年)に改易された。と短絡する訳には行きません。
確かにこの掘主水の妻は生きて会津に帰り、事件より30数年も後の1679年(延宝7年)10月19日に亡くなったことが、前住職井上禅定師の頃に明らかになっています。ただしそちらに伝わる古文書の跋文にはこうあります。

(天秀尼は掘主水妻を)忝くも戒弟子となされ、剰え宝光院観誉樹林尼と法名を給わり、命を与え給ふ事強く頻なり。されば明成殿も御威光置きかたく宥(ゆる)して、先祖黒川喜三郎貞得(主水妻の兄)に扶助すべしと給わりたるより・・・(井上禅定 『駆込寺−離婚いまむかし』 p.33)

つまり明成が折れて、掘主水の妻は会津加藤家改易より前に会津の実家へ帰ったと。それも「明成殿」から「給わりたる」と。つまり掘主水妻の身柄は明成の元にあったということになります。
もっともこの古文書は『武将感状記』よりも更に後の、1781年(天明元年) 4月2日の跋文で、事件から百年以上後なんですが。しかし先の『武将感状記』と上記の跋文ではニュアンスが違いますねぇ。仮に跋文の方を信じると、『武将感状記』の先の引用の最後は短絡しすぎってことになります。

何に拘っているのかと云うと、加藤明成は本当にしょうもない殿様だったのかということです。
暗君だったと云っているのは作者不明の『古今武家盛衰記(巻第十六)』に江戸末期の『大日本野史』 などですが、両方とも良質の史料とは云えません。会津四十万石と替えてもと明成が息巻いたと書いているのは 『古今武家盛衰記』です。結果的にそうなってしまった事からの後付解釈でしょう。滅んだり、失脚した人間が後でボロクソに書かれるのは歴史の常で す。

藩をまとめきれなかったというのはそうなんでしょうが、しかし城に向かって鉄砲を撃ったり、橋を焼いたり、関所を強行突破した逆臣に泣き寝入りしてはそれこそ他の大名の物笑いの種です。明成も戦を経験した武将ですから。しかし掘主水さえ打ち取ればその面目は立っています。天秀尼の抗議を無視して、会津四十万石を捨ててもと妻まで打ち首にしたのなら、本当にプッツン暗君と言えるでしょうが。
ちなみに『古今武家盛衰記』に東慶寺は出てきません。

『武将感状記』が本当なら、会津藩の武士が力づくで東慶寺に入り、主水の妻達を連れ去ったということかもしれません。門前で引き渡しを要求したというだけなら「理不尽の族無道至極せり」にはならないでしょう。天秀尼が主水の妻らを渡さず、会津藩取り潰し後に主水の妻が会津に戻ったのなら「明成殿も御威光置きかたく宥(ゆる)して、先祖黒川喜三郎貞得に扶助すべしと給わりたる」にはなりません。

両方とも事実を伝えているとすれば、会津藩の武士が東慶寺から主水の妻達を連れ去ったが、天秀尼の猛烈な抗議に折れて以下跋文の通りということでしょうか。結構繋がる。とすると『武将感状記』も全部が全部ガセネタという訳ではないということになりますね。黒川家は元藩主に遠慮してそう伝えたのかもしれませんが、いずれにせよ後世の文書しかないので真相は藪の中です。

ところで、三池純正先生の『豊臣家最後の姫―天秀尼の数奇な運命』ですが、読んでみました。
冒頭に三池先生は御自身のことを「歴史研究家とは史料に基づきながらもその空白を想像で埋める人」とおっしゃっていることを紹介しましたが、まさにそういう内容でした。歴史学者の研究書とは趣きが違いますが、どういう史料になんとあるのか、どの部分が想像なのかもきちんと判る読みやすい素直な良い本だと思います。それにけっこう面白い。


東慶寺の講演会が終わって


東慶寺の講演会が終わって、さぁ、どこで夕飯を食べるかな? 久ぶりに山美にでも行こうかな♪
と思ったらお休み。日曜はやってないんだった。(;^_^A アセアセ…
そのまま大船まで歩いてこれまた久しぶりのとの山へ。「あれ? ○○がまだ居る!」
と云ったら「ガンちゃんうるさいねぇ」だって。(笑)

天秀尼展講演会_17.jpg

実はこの子は15の頃から知っているんです。まだ高校1年生でしたが、当時彼女の友達達が入れ替わりでこの店でバイトをしていました。そういえば、彼女達の成人式のスナップを撮ったことがあったなぁ。その写真をメールで送ったら別の常連さんがカレンダーにしてくれたそうです。

マスター:「もうセピア色になってんじゃねぇ?(笑)」
わし :「んじゃ〜、セピア色にして来年のカレンダー作ってあげようか。タイトルは「ALWAYS 三丁目の夕日」イメージでオールウエイズとか(笑)」と言って笑ったら・・・
この子、「ガンちゃん、オニギリを口にねじ込むよ!」だって。(;^_^A アセアセ…

高校生だの成人式だのって、そりゃ何年前の話だって? それを口にしたら私に戒名が付いてしまいます。まあ根はよい子なんですがね。(ヨイショ、ヨイショ)

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