2015.03.31       東慶寺の枝垂桜開花 

これ、もう1週間も前なんですが、忙しくてUP出来ませんでした。何やってたんだって?
学術研究に決まってるじゃないですか。毎日刷りだした原稿をもってドトールに行って、数時間かけて赤字を入れ、家に帰ってまた数時間かけて修正するという毎日。AVを見る暇もありません。(泣)

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今はチョコッと現実逃避で御座います。
先週は満開だった枝垂桜はほとんど散って、僅かに名残をとどめるるだけ。

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替わりに隣の枝垂桜が満開です。

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お約束の鐘楼。梅はもう終わって若葉です。

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桜は今が盛りですね。

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本堂の枝垂桜は? おお♪

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すばらしい!

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こういうシーン好き♪

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振り返ってもまたよい。

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中門から外を覗くと。

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お茶室の前の枝垂桜も今まさに満開になろうと。

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 もうちょっと寄ってみましょう。
えっ? 去年のカレンダーで見たって? 
定点観測学術研究カメラマンで御座いますから。フキフキ ""A^^;

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上を見上げると。

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で、宝蔵の前では。なんだっけこれ。ああ、大葉紅柏か。まだ幼稚園児ですが。

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水仙も。

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お向かいの白蓮舎では 白蓮と山桜の競演。あっ、今どきはコラボって云うんですか?

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しかし、よくよく考えてみると、十月桜って季節感が無いんですね。 明日はもう4月ですよ。(^_^;)

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ところで冒頭の赤字入れですが。
もう1ヶ月以上やってるのに一向に赤字が減りません。これはどう考えたら良いのか。
文章力がまるで無い? それとも日々文章力が向上しているから赤字がどんどん入れられる? 
その答えは申すまでもありません。日々日々文章能力が向上しているに決まっているではないですか! この調子で向上し続けたら芥川賞だって取れるかも! 俺ってスゲー♪ (*^_^*)
でも鶴岡八幡宮の御神籤に「国語の勉強をしなさい」と。
あれはどういう意味なんだろう? 今世紀最大の謎で御座います。

あっ、そこの貴方、今「そんなの明々白々」ってつぶやきましたね。獄門打首じゃ!(怒)

そうそう、AVも、前から気になっている二階堂ふみの新作映画のDVDも見る時間はないので、替わりにCDを借りてきました。音楽なら聞きながら原稿が直せるんで。映画やドラマの主題歌で気になっていた一青窈と平原彩香を二枚づつ。5枚で千円になるのでついでに柴咲コウも。
「一青窈と柴咲コウはええわ〜♪」と云ったら娘が「柴咲コウって女優でしょ?」と。
女優の柴咲コウはあんまし好きじゃないんだけど、歌わせるとよいわ〜♪ 平原彩香は娘も一時期はまっていたそうですが、私はドラマ「優しい時間」のエンディング「明日」からです。
あの曲は当時まだ十代だった長澤まさみを思い出して涙が出てきますね。

こっからは4/9の現実逃避メモです。ちょっとぐらい脱線したって良いじゃないですか。

「定点観測学術研究カメラマン」たる我が輩が、「学術研究」の裏取り調査をしていたら大変なことに気がつきました。といっても論文にするほどのことではないのですが。

  • 北条宗方の屋敷は『鎌倉遺文』巻25 p.149 文書番号22226:に「駿河守(宗方)跡小笠原谷地八戸主事、可為醍醐座主僧正坊管領」とあります。

『鎌倉市史』を読み返していたら、この小笠原谷地とは西御門の北の谷戸のひとつ、現在の来迎寺のあたりと。じゃぁ尼五山第一位太平寺があった谷戸ではないか! 
あそこが宗方の屋敷だったのか!
おまけにそのあと金沢北条氏女系ネットワークのものになったのか!

ん? 金沢氏? なんか臭うぞ。
ということで、あの有名な北道倶楽部サイトで調べてみたら、最初に太平寺を開いたのは妙法尼と云う方で千葉氏の細君だったとか。それ以上の情報はありません。
大休正念の「念大休禅師語録」に、この太平寺の仏堂供養の原稿が載っているそうです。
亡くなったのは1306年(徳治元年)11月頃。これは秋礀道泉(しゅうけんどうせん)や約翁徳倹(やくおうとっけん)の語録にあります。ただしそれほど豪勢なお寺だったとは思えません。かなり小さな仏堂+庵ぐらいだったはずです(北道倶楽部サイトによる)。

妙法尼が誰の奥さんだったのかは判りません。ともかく不幸なことがあったとしか。もしもですよ、元寇のとき異国警固番役として九州に渡り、負傷して後に死亡した千葉頼胤の妻なら下総国千田荘を領した千葉氏の一族で、そこそこ裕福な御家人千田泰胤の娘ということに。ならば金沢顕時の妻とも姉妹。繋がった!

金沢顕時なら鎌倉に小さな寺を建てるぐらいは出来たでしょう。大休正念が開山供養に駆けつけ、葬式には秋礀道泉や約翁徳倹が駆けつけることも納得できます(北道倶楽部サイトによる)。

  • その八戸内六戸主を延慶三年(1310)に醍醐僧正が金沢実時後家の土地六戸主と交換しています(『鎌倉遺文』巻31 p.297 文書番号24063、& 『鎌倉市史・総説編』p233)。
  • 金沢貞顕書状、宝7-1(197号)に「兼ねて又、西御門殿何事か閲こえ候らん。承り存ずベく候。恐懐謹言」の西御門殿は宗方の屋敷に住んでいたんですね。でも西御門殿って誰?
  • 金沢貞顕書状、127(宝9-14(204号)解説には「『続群書類従』巻一六二、遠藤系図によれば、宗方室と貞顕兄弟の実母とは姉妹の関係にある。この記述を生かすならば、宗方の旧跡を手に入れた金沢北条氏によって、その後室の「西御門殿」と称せられた可能性が想定できるであろう」と。

うおっ! と思ったんですが。年代が合わない。おちついて整理をするとこういうことになります。

  • 千葉頼胤の妻妙法尼が出家して姉妹の金沢顕時の妻が鎌倉の名越の屋地に小さな太平寺を建てて面倒を見た。
  • 妙法尼が死んで四年後。その土地を貞顕の伯母宗方室のために宗方旧跡と交換してそこに小さな太平寺を移し、宗方室の隠居所とした。「西御門殿」は宗方室。

嘉元の乱で死んだ宗方の奥さんは屋敷を取られたが、数年後に姉妹の尽力により、元の屋敷跡に戻れた訳です。
あれ? 金沢顕時の妻は二人居る?
それとも千葉頼胤の妻と金沢顕時の妻と北条宗方の妻は三姉妹?
まあどっちもありうる。今は『続群書類従』なんか調べる暇はない。なにしろAVも見られないぐらい忙しいんだから。と云いながらこんな現実逃避をしてるけど。(~_~;) 
あれ?
また大変なことに気がつきました。金沢顕時は安達泰盛の娘を妻にしていたじゃないか。
三人? うらやましい。俺なんて一緒に暮らしたのは二人しかいないぜ(泣)。
一夜限りの逆ナンなら三桁は下らないけど。
(と娘に言い張っているんですが、全然信用してくれません。どうしてだろう?)

  • 鎌倉滅亡後、初代鎌倉公方足利基氏の妻(畠山家国の娘)が基氏の死後に仏門に入り、清渓尼となってここ太平寺を中興。立派な太平寺となって当時はキンキラの土紋装飾聖観音菩薩像を本尊とした。
  • その後、その後太平寺は関東公方の娘が代々住持となり立派な仏殿も建てられる。
  • その仏殿は太平寺の廃寺の後に円覚寺に移され、現在の国宝舎利殿になり、土紋装飾聖観音菩薩像は東慶寺に移された。

私が東慶寺に行くたびに宝蔵で手を合わせていた聖観音菩薩像は嘉元の乱の北条宗方御旧跡にあったんですね。って、それだけかいって? 
真面目に言うと、太平寺を開いた妙法尼と云う千葉氏の細君はやっぱり千葉頼胤の細君ですよ。金沢氏を通じて太平寺跡地に繋がるから。証拠の古文書もあるし。それだけかいって? 
だから論文に出来るほどのことではないと云ったじゃないですか。フキフキ ""A^^;

あとでどっかに移します。

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