法隆寺04西院伽藍    西院伽藍の廻廊         2016.05.12

さて、いよいよ観光客的なメインエリアへ突入です。
でも私はへそ曲がりなので皆さんが見るのとは逆の方向を向いてまわります。

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ところでここまで見てきた建物はどれも鎌倉時代以降のもの。法隆寺は白鳳、天平時代の建造物と巷では云われますが、それはここから先です。

「白鳳、天平時代」と云っても、正式な時代区分は古墳時代、飛鳥時代、奈良時代、平安時代、鎌倉時代です。飛鳥時代とは645年(大化元年)の大化の改新から和銅3年(710)の平城京遷都までで、それ以降が奈良時代。

ところが文化面では飛鳥文化、白鳳文化、天平文化という区分が一般的であり、wikipediaでは飛鳥文化は一般に仏教渡来から大化の改新までを指すとか。飛鳥文化飛鳥時代の文化のことではないと。ややこしい。その飛鳥時代の文化が白鳳文化
天平時代という項は『日本史広辞典』に無く、『広辞苑』では「天平」の項に「--時代:奈良時代後期、則ち平城(奈良)に都のあった710-794年を指す、文化史、特に美術史上の時代呼称」と。「奈良時代」の項には「美術史では聖武天皇の天平年間(729-749)を最盛期と見て天平時代とも云う」とあり、同じ辞典内で微妙に表現が変わります。「天平」の項では藤原京の時代もまとめて奈良時代と見ているのだろうか? 時代区分の整理をしようとするといよいよ混乱してきますね。美術史の時代区分はファジーですから。

話を単純にしましよう。今残る金堂や五重塔、そしてこのページで見る廻廊はいったい飛鳥時代のものなのか、それとも奈良時代のものなのか。ところがそれでも話は単純にならない。『日本書記』には670年に落雷で堂塔総てを焼失と記述されているのに再建のことは何も記されていない。法隆寺関係文書に 火災の記載がない。再建ならその頃には進んだ唐の建築技法が伝来しているのにこの法隆寺は飛鳥時代の建築技法で再建されている・・・なんじゃかんじゃ。
それで長いこと論争が続いてきました。

具体的な例をひとつあげ れば、法隆寺では一尺を35.15cmとする高麗尺が使われている。これは唐から直輸入で最新建築技術が伝わる前の、もっと古い段階の建築技術が朝鮮半島 の高麗を経由して伝わったときのもの。天武天皇9年(680)創建の薬師寺は天平尺とも云われる一尺が29.6cmの唐尺が使われている。でもこれは高麗系と唐系の大工集団があり、和銅6年(713)の格(法令集)までは大工集団毎に二つの丈尺が並立していたということでしょう。

議論になっているのは100年ぐらいの間のどこかで、現在の法隆寺西院伽藍は和銅4年(711)までには完成していたと見る説が有力です。藤原京の時代も飛鳥時代に区分すれば奈良時代は1年だけ。おおよそ飛鳥時代と考えて良いでしょう。

いずれにせよ1300年以上前であることには変わりはありません。ということで例えその建物の建築時期がもしかしたら奈良時代であっても、高麗系大工集団の手による飛鳥時代と同じ建築物です。それをこれから見ていきましょう。修理はされていても、新築部分があっても、基本的に築1300年以上の建物です。

飛鳥時代の梁(はり)・虹梁(こうりょう)

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この円弧状に反った梁(はり)とその上に三角に組まれた扠首(さす) がこの時代の特徴です。良く見てください。梁は直線の様でいてかすかに反っています。虹のような円弧を描いた梁(はり)ということから虹梁(こうりょう)と呼ばれます。ただしこのように虹のような円弧を描くのはここ法隆寺を代表とする飛鳥時代の建築だけで、後の時代には同じ虹梁(こうりょう)と云っても形が変わってきます。例えば平安時代の虹梁はこうです。

扠首(さす)

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三角に組まれた扠首(さす) は字の「人」の形に似ていることから人形束とか人の字束とも呼ばれます。法隆寺では飛鳥時代建造の部分にこの扠首(さす) が使われます。と云っても後で見る奈良時代の食堂(じきどう)でも内部は同じような扠首らしいですが。でもこの廻廊でも室町時代に増築された部分では形が変わります。
その扠首(さす)の頂点に大斗(だいと)が乗り、そして肘木(ひじき)、その上の三つの斗(ます)が棟木、つまり屋根の頂点の桁を支えています。その中央の斗(ます)のあたりで前後2本の棟木をつなぐ。三角に組まれた扠首(さす)は、棟木にかかる屋根の重さを梁の中央に梁を折るような方向にではなく、梁全体に伝えようとしています。

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組物・斗拱(ときょう)

組物は斗拱(ときょう)とも云い斗は大斗(だいと)も含みます。拱はひじきと読み肘木(ひじき)のこととか。ややこしい。とこかくそうしたパーツを組み合わせて屋根の加重を上手に柱に伝える仕組みなんですが、寺院と住宅では相当にレベルが違います。吹けば飛ぶような庶民の家など論外として、豪邸や大豪邸に相当する寝殿造でも、御殿に相当する内裏でも住居であるかぎり寺院建築とはそうとうに違うことは先に 大斗肘木(だいとひじき)舟肘木(ふなひじき)でも触れた通りです。

その理由はとりあえず二つ考えられます。

  1. 寺院建築は信仰の対象としてのモニュメントであること。
  2. 屋根が瓦だということです。それも本瓦で、昔のものは相当に重い。瓦の重さだけでなく、昔は瓦の下に土を盛っていましたので、現在の瓦屋根とは比較になりません。

とそれだけ念押しした上でパーツを上から順に簡単にご説明します。

ただしここではこの先良く出てくる用語だけの簡単な説明です。詳しくお知りになりたい方には近藤豊 『古建築の細部意匠』(大河出版、1973)をお勧めします。私もこの本を参考にしました。このサイトでは「三ツ斗」と表記せずに「三斗(みつど)」と書いていますが。

斗(ます)・巻斗(まきと)

屋根を支える桁の加重を直接受けているの組物の一番上の斗(ます)です。中心に溝を掘って桁を落とし込み、ガッチリと支えています。ただし僧房や寝殿造などでは省略されることも多いのですが、寺院のメインの建築物では必ず使います。先々出てくる二手先、三手先などのときには高さを稼ぐパーツということもあるんですが、それは先の話。

巻斗(まきと)と書かれることもありますが、普通の斗(ます)のことと思っておいて大過ないかと。普通じゃ無い斗には方斗などがありまが、説明省略。

肘木(ひじき) 

既にこの言葉は使っていますが、斗(ます)の下が肘木です。寝殿造や寺院でも僧房などの下位の建物では直接桁を支えていますが、上記の画像では上に斗(ます)を三つ乗せ、それで桁や棟木の加重を引き受けています。この肘木の長さ、あるいは上に乗る斗(ます)の端から端までの長さに意味があって、それで少しでも桁のたわみを防ごうとしています。桁が鉄骨のH形綱ならばその必要は無いかもしれませんが、先に述べたように材木は横からの加重には弱くてたわんでしまいますので。それをこの肘木の長さでできる限り楽にさせてやろうということです。もっともこの廻廊の場合は、廻廊故に屋根の重さはそれほどではないのか、カバーする範囲は少なくなっていますが。

大斗(だいと) 

肘木にかかる屋根の加重を柱に伝えるのがこの大斗(だいと)です。桁だけではなく梁にかかる棟木(棟桁)の加重も引き受けます。上の写真を見てください。梁の両脇は直に柱ではなくて、柱の上の四角い大きな斗(ます)の上に乗っています。梁と桁、つまり屋根の重さの全てを柱に伝える役目を果たしています。先ほど説明した扠首(さす)の上にも大斗があって、こちらは屋根の棟木(棟桁)の加重を下に伝える役目です。法隆寺では大斗の下に皿斗(さらと)がついて、その皿が下の柱の断面を全てカバーし、柱の断面の全体に屋根の加重を伝えるのが本来、というか、飛鳥時代の姿です。まあ西岡常一棟梁の受け売りなんですが。 

平三斗(ひらみつど)

上記の三種類のパーツのもっとも単純な組み合わせが平三斗(ひらみつど)です。大斗 (だいと) の上に肘木 (ひじき) をのせ、その上に三つの斗 (ます) を並べたものをそう呼びますが、大斗で梁の加重を受けるときでもそう呼びます。三斗(みつど)にはあと出三斗(でみつど)というのもあって、これは肘木が十字に交差し、上に斗(ます)が五つ乗るタイプです。

平三斗(ひらみつど)の実物を見ると本当に骨太で機能的に屋根加重を分散しながら綺麗に柱に伝えているのが実感出来ます。見た目も美しいのですが、その美しさは機能美ですね。これらの形は決してカッコ付けではないのです。当時の瓦屋根はとても重いのです。

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これが釘? 見えるのは釘の頭で芯はもっと細いにしても、今の建築用のボルトぐらいはあります。もう少し時代の下った釘はこのあと「夢殿の廻廊と礼堂」でも見ました。これです。その当時の釘を復元したものを法隆寺を出たあとに見ました。これです

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柱が継いでありますが、これは後世(多分昭和)の補修のあとでしょう。柱は根の部分が腐りやすく、かつ国宝は極力元の素材を生かすということからです。

連子窓(れんしまど)

連子窓。この当時のこうした角材はノコで切るのではなく、割って作っています。そのために太さは均一ではありません。

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こちらの画像の方が判りやすいか。触ってみると断面が正四角形でないばかりが角は直角でもない。菱形になっているものも。いかにも「割ったんだ」と実感出来ます。割材の確認しか頭になかったので同じ廻廊の室町時代の連子窓を撮り忘れました。もっと角材っぽかったです。

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築1300年の建物はこの突き当たりまでです。 折れた廻廊の向こうに見える二階屋は経蔵で奈良時代のものとか。その手前と、経蔵の向こう側から大講堂までは南北朝時代から室町時代ぐらいのもの。以降は南北朝時代も室町時代 に含めてしまいましょう。

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右端の柱が判りやすいですが、真ん中が太く、先は少し細くなっています。
有名なエンタシスですね。ただし「真ん中が太く」といっても本当に、真ん中ではなく、下から1/3。アバウトに1mぐらいのところが一番太く、上下の端は下よりも上端が細くなっています。

金堂の柱とか中門の柱はもっと膨らんでいるそうですが、金堂の柱は間近すぎて解りませんでした。撮影禁止だし。中門は只今修復工事中で見れませんでした。

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あっ、最初の修学旅行? いや小学生だがら遠足か。只今8時30分。このあとぞろぞろとやってきました。法隆寺は修学旅行と遠足のメッカですね。そういう私も中学の修学旅行でここに来ましたが。でもほとんど覚えていません。

大講堂が見えてきましたねぇ。でも大講堂も五重塔も金堂も後回し。このページでは廻廊だけ見ていきます。ちなみに昔はこの位置から大講堂は見えませんでした。廻廊は金堂と五重塔の廻廊だったのです。

この廻廊内は聖域で、儀式で大勢の僧が集まることはあっても、通常はこの郭内には入れなかったと思います。いわば結界? そのための廻廊です。平安京内裏の承明門の中、紫宸殿の前庭と同じですね。平安時代後期には公的な空間になりましたが元々内裏は天皇の私的な空間です。そしてここの郭内の主人は仏です。その関係は寝殿造の内郭の意味にも通じるのではないかと。それに対して大講堂は僧が長老の説法を聞き、勉強をするという比較的日常の場、従って当初は閣外でした。と云ってもその当時あの位置にあったのは講堂ではなく食堂(じきどう)だったようですが。

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この位置から大講堂が見えるようになったのは、つまり現在の形になったのは延長3年(925)の大講堂の火災以降の話です。

上の画像で子供達がしゃがんでバスガイドさんの説明を聞いているあたりの天井です。
左側と右側の小屋組(屋根組)の違いがわかるでしょうか。三角に組まれた扠首(さす)  の上に斗(ます)が乗り、そして肘木(ひじき)、その上の三つの斗(ます)が棟木を支え、というのは同じように見えますが、右側の三角に組まれた扠首を見てください。梁の中央の上に短い束柱が追加されています。

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梁(はり)も虹のような円弧を描いた虹梁ではなく、直線の梁に変わっています。上の画像では新旧両方の比較が出来ますが、右側の室町時代(アバウトに南北朝も含む)は左側よりも梁が太くなっています。束柱で眞下に加重をかけるので太くしないと持たないのでしょう。
虹梁のように上に円弧を描いた梁なら力は円弧を潰すように働きます。そのとき木の繊維は圧迫されて反発します。しかし直線の梁の中央に加重をかけると下にたわむように力が働きます。木の繊維は引っ張られてちぎれます。つまり簡単にたわみ、下手をすると折れる。

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もう一回曲がると向こうに見えるのは大講堂の入り口です。このあたりの柱はエンタシスではありません。このあたりは室町時代だそうです。

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大講堂をワープして東側の廻廊の新築部分です。
法隆寺で新築といっても築500年以上は経っていますが。

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一見同じように見えるのですが、大斗の下の皿斗が柱の断面を完全には覆っていません。

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皿斗の無いところでは柱断面の一部だけに加重がかかって場所によっては斗が2cmも柱を潰しているそうです。経蔵の柱? あった。これですね。

経蔵は奈良時代のはずですが、柱の下の方では貫(ぬき)を使っていますので、ここは鎌倉時代以降に手が加えられているようです。拡張された廻廊の工事のときでしょうか。

向こうに見えるのが初期の廻廊です。新旧どちらかは先ほど書いた束柱の有無で判ります。

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向こうが廻廊の出口。実はこの左側の連子窓から東室(ひがしむろ:重文)と聖霊院(しょうりょういん:国宝)。そしてそのつなぎ目の馬道(めどう)が見えます。東室が真横から見られるのはここだけ。

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update 2016.06.08