法隆寺07西院伽藍   聖霊院の馬道と蔀戸      2016.05.12 

聖霊院(しょうりょういん:国宝、鎌倉時代1284年)と東室(ひがしむろ:重文、飛鳥時代)は廻廊のすぐ脇です。これは廻廊の蓮子窓の隙間から撮ったものです。屋根に段がありますが、その左が東室、右が聖霊院。 

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馬道(めどう)

段差があるとはいえ屋根はつながっているようです。その重なった屋根の下には壁はなく向こうの妻室(つまむろ)が見えます。この吹き抜けは馬道(めどう)でしょうか。画像を拡大すると東室の向こう側の柱の下に礎石が見えますので床は無いようです。馬道(めどう)ですね。本当に馬を通したのかどうかは別にして。これも初めて現物を見ました。

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さきほどの三経院と西室も当初はこれぐらい近くにあったらしいのですが、火事のあとの再建で現在の位置に。

廻廊を出て三経院へ行こうとしたら手水舎が。檜皮葺の手水舎だなんて、なんて贅沢なんでしょう。

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屋根が低い位置にあるのでじっくり観察。う〜ん、檜皮葺も年数が経つと表面はこうなるのか。

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聖霊院の正面

さて、聖霊院(しょうりょういん)の正面です。 三経院(さんぎょういん)と見分けがつかないでしょ。セットで作ったんだと思います。あれ、三経院は1231年と50年ぐらい早いんですね。 

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 屋根の下が真っ黒になったので若干補正しましたが。

こちらの方が感じがつかめる? 実は廻廊の西側の三経院もほぼ同じ造りなのですが、蔀(しとみ)を上げて御簾(みす)も見えるので寝殿造の東西の対(つい)にそっくりに見えます。

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どうにも不思議なのはこの部分ですね。わざわざこんなことをやらなくとも、切妻の瓦屋根の下に檜皮葺の庇を差し込めばいいじゃないかと思うんですが、それだと正面から見たときの美観を損ねるということでしょうか。なにしろこの聖霊院(しょうりょういん)は聖徳太子信仰の殿堂ですから、建物そもものが拝む対象。美観は権威付けの重要な要素です。

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親王の屋敷と考えれば並の貴族なら正面の庭から拝礼でしょう。私のように脇にまわって屋根のつながりを観察なんて想定外。それこそ「頭が高い!」と。あっ、平安貴族は穢れを極度に嫌うので「手打ちにしてくれる!」はありませんが、検非違使に引き渡されて百叩きとか流罪ぐらいにはなるかもしれません。

下から見上げる庇の屋根裏は化粧天井ですね。勾配はかなり緩いです。化粧天井だから檜皮葺の縁があんなに厚く出来るんですが。桔木も入っているんでしょうか。

聖霊院の弘庇 

それにしてもこの光景は、まるで寝殿造の対(つい)ではないですか。は〜、感激。もう死んでもいい♪ とまでは云いませんが(笑) 

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では正面の階(きざはし)から殿上に上がりましょう。平安時代ならそんなことが出来るのは大饗に招かれた尊者(主賓)ぐらいのものですが。

蔀(しとみ)

正面中央三間(さんま)の蔀(しとみ)の上部が跳ね上げられています。蔀の下部はここでは脇に置いてあります。平安時代末の『年中行事絵巻』は儀式の光景が中心ですからきちんと片づけてこういう光景は描かれてはいませんが、鎌倉時代の絵巻の日常を描いた場面には出てきます。例えば鎌倉時代末の『春日権現験記』のこれなど。この光景を実物を見るのは初めて。 このあとあちこちで見ることになります。

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ところで後で知ったのですが、ここ聖霊院にはかなり古い蔀(しとみ)が残っています。このあと写真が出てきますが西面の二間目と三間目がお蔀(しとみ)ですが、二間目の下を除 いた三枚が聖霊院鎌倉時代改築時(1284年)の蔀(しとみ)なんだそうです。東面は二間目の下が南北朝初期の建武 年間(1334-1337)で、それ以外は室町時代のもの、正面は江戸時代元禄4年(1691)だそうです。

私には見分けは付きませんでしたが。というか、まさか鎌倉時代の建具が残っているとは夢にも思わなかったというのが実情ですが。

御簾(みす)

蔀の内側には御簾(みす)が巻き上げられています。 このように明るい外からは中は見えません。

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しかし中からは外が良く見えます。夜ですか? 室内には電灯も蛍光灯はありません。ろうそくや灯明の明るさなど今なら暗闇の部類。それに蔀を閉じています。

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南側の聖霊院(しょうりょういん)と東室(ひがしむろ)の床の高さも建物の梁間(はりま)、つまり幅も同じのようです。違うところは東室の西側には簀子縁が無い。それと屋根の高さが違うことでしょうか。東室は僧房ですから屋根の高さを変えて聖霊院の格を上げたのでしょう。

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ところで上の聖霊院西面ですが、二間目と三間目がお蔀(しとみ)になっています。後で知ったのですが、実はこの西面の蔀(しとみ)は二間目の下を除いた三枚が聖霊院鎌倉時代改築時(1284年)の蔀(しとみ)なんだそうです。正面は江戸時代元禄4年(1691)、東面は二間目の下が南北朝初期の建武年間(1334-1337)で、それ以外は室町時代のものとか。

私には見分けは付きませんでしたが。というか、まさか鎌倉時代の建具が残っているとは夢にも思わなかったというのが実情ですが。

おっ、あの庇部分の脇の板戸の上は!
もういちど殿上に上がって証拠写真を。これも寝殿造の頃の絵巻に良く登場しますね。板で塞いでいない例だと例えばこれここにもあります。

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蔀(しとみ)の内側には先ほどのように御簾(みす)というのが正式、というか平安時代の姿ですが、鎌倉時代からはこのように明障子(現在の障子) がセットで使われ始めます。そういえば蔀の格子に打ち付けた板を白く塗るのも鎌倉時代以降の絵巻だったように思います。聖霊院(しょうりょういん)は鎌倉時代の弘安7年(1284)の改造ですからその当時からの姿を今に残しているということになります。 

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ところで、この聖霊院(しょうりょういん)が何で寝殿造の匂いプンプンなのか、さっき判りましたよ。平安時代末、治承4年(1181)12月28日の平重衡の南都焼き討ちが重源の東大寺再建のきっかけになりますが、このとき興福寺も焼け落ちています。東大寺再建では中国(南宋)とも交流のある重源が大勧進となり、中国の技術者・陳和卿らの協力を得ていわいる大仏様という中国風の建築技術で再建をおこなったことは有名ですが、藤原氏の氏寺である興福寺は元々の興福寺大工と朝廷や藤原氏と関係の深い京の工匠が旧来の技法で再建をしています。

『建築学大系4-1』(日本建築史)によると、実は興福寺が藤原氏の氏寺であったために平安時代後期の、大工事は諸国の受領に割り当てる「所課国と造国」の時代に、大きな建設に際しては、内裏だけでなく摂関家など上流貴族の寝殿造も手がけていた木工寮や修理職の中でも腕の優れた技官が派遣されていて、京風、つまり寝殿造の技法は興福寺大工にも伝わっていたようです。後藤治先生の『日本建築史』によるとこの聖霊院(しょうりょういん)はその興福寺系列の大工によって建てられたものとか。なので天井を一面に張り、蔀戸を多用し、一番重要な全面庇を檜皮葺にするなどは寺院建築様式と寝殿造様式の折衷なのかもしれません。

平安時代後期官司請負制の 時代であり、内裏も含めて、大工事は諸国の受領に割り当てる方式になっていました。資材や人足調達の諸経費は諸国の受領が持ちます。それによって木工寮や修理職は 本来の機能を失いますがが、逆に大工(だいこう)などの技術者を中心に請負建築会社、あるいは建築設計事務所、施工管理事務所化してゆきます。そして受領層に雇われ て、内裏だけでなく、摂関家の寝殿の建設にあたるようになる。
興福寺の主要殿舎の新築・再建などでも、木工寮や修理職の中でも腕の優れた技官(大工)が派遣 されて担当しました。興福寺の日常の修理を行っていた興福寺大工は大工事の際には京の技官(大工)の配下となって作業をしたと思われます。そのため京風、つまり 寝殿造的な技法が南都大工、特に興福寺大工に流入していったのでしょう。南都焼討後の興福寺再建は従来の方式で翌年から始まります。一方東大寺はなかなか再建に着手出来ず、重源が大勧進となってからもまずは資金集めからでした。資金集めとは勧進帳の勧進です。鎌倉の頼朝の支援を受け大仏殿を再建するまでに10年以上かかっています。そのときに中国最新技術を導入し、 大仏様と云われますが、それは東大寺のみに止まっています。

興福寺大工はいわば保守派の牙城とも云え、当時最新の中国風大仏様が東大寺とその地方の子院に僅かに残るだけなのは、その保守勢力がいかに強かったを物語ってい るとも云えるでしょう。

もちろん興福寺再建から何十年もあとなので同じ大工ではなく、その子か孫の世代ぐらいでしょうが。そもそも興福寺系列の大工なら興福寺春日大社大工といっても良いような存在だったかも。春日大社基本檜皮葺、寝殿造の匂いプンプンな建物満載です。大仏様が南宋系建築技術ならこちらは和様建築技術ということでしょう。
薬師寺の東院堂(1285)や霊山寺本堂(1283)も興福寺春日大社大工のようです。あっ興福寺春日大社大工というのは今思いついた私の造語ですが。あれ? 大仏様の影響は長弓寺本堂(1279)にもあるとか。う〜ん、大仏様はそのまま様式化せずに和様色に紛れていきましからねぇ。長弓寺本堂は今回は断念しましたが和様色が強いような。霊山寺本堂ですか、良く建築史の本に出てきますね。霊山寺と長弓寺はそのうち行かないといけないかも。


聖霊院(しょうりょういん)の東面の奥に見えるのが東室(ひがしむろ)です。 東室はなんと飛鳥時代、つまり法隆寺創建当時の建物とか。近くに行けないのがとても残念。
東室も東側には簀子縁があります。欄干は無いですが。欄干の有無は位を表します。確か大臣家か公卿以上だったか。その東室の簀子縁のこちらがわの端を見てください。途切れていますね。やはりあそこの吹き抜けは馬道(めどう)と見て良いと思います。

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その聖霊院と東室に軒を並べているこちら側の建物は・・・

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小子房(妻室)

平安時代後期の妻室(つまむろ)です。平安時代後期というのは建物の形式や技法からの推定だそうです。下々の僧の住まいなので記録がないようです。
下々の僧というのは妻室も僧房で本来の名称は東室小子房。つまり東室には大房と小子房が並立して、中庭を挟んで対面する部屋が一対をなし、大房(今の東室)がそこそこ偉い僧侶。小子房にはその従者である位の低いお坊さん(小僧さんも?)が住んでいたようです。ただし今ほどには離れていなかったようですが。

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それにしても下々の僧の宿舎が瓦葺きの礎石建築ですか? 平安時代には板葺だったんじゃないですかね。屋根は一番傷むところなので創建当時の姿のまま残っているものはあまりまりません。

柱間寸法

この僧坊について復元図がありますのでまた柱間(はしらま) 寸法を測ってみましょう。母屋は縦横とも10尺(講堂は15尺)、庇が8尺(講堂は13.7尺)です。

大講堂と比べれば小さい建物ですが、あれと比べたらどれだって小さいたてものになってしまいます。でも寝殿造だとこれぐらいが標準ですね。聖霊院(しょうりょういん)に改造された部分も柱間(はしらま) は同じに見えますのであの部分はサイズ的にも東西の対(たい)そのままです。良いものを見せて頂きました。

ただそれは大房(東室)の話で、小子房(妻室)の方は大体7尺マスで一房は21尺×13尺です。寝殿造とか上級の建物は1丈10尺基準。それに対して7尺基準というのは下級の建物で町屋とか地方の堀立柱住居、総柱建築の単位です。同じ僧でも階級の違いがこんな処にも現れているようです。10と7は面積にすれば100と49、ほぼ半分になります。

聖霊院(しょうりょういん)の前には池があるので更に離れた東大門と西大門を結ぶ道から。
肝心な所は木の葉で隠れてしまいましたが、やはりあの檜皮葺の庇の結合はああしないとカッコ悪かったかもしれませんね。

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update 2016.09.22