法隆寺06西院伽藍    金堂と五重塔           2016.05.12

さて、いよいよ飛鳥時代の中心的建造物、金堂と五重塔です。でも私はあまり関心が無いんですよね。人間の住む処じゃ無い。建築というよりモニュメントだからです。なのでサラッと。

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五重塔もこうやって見ると良い感じですが。

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でもそれだとここを見ているお客さんがなっとくしないので、全景。
一見屋根が六段あるから六重の塔間違いじゃないかと思われる方もなかにはいらっしゃるかもしれません。一番下は裳階(もこし)です。まあ母屋を取り巻く庇のようなものと思っていただければ。あれで重厚壮大さを演出、という訳ではありません。創建当時には無かったそうです。

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なのに何で付いたのかというと、この金堂の壁には絵を描くつもりだった。実際に書かれたのは少しあとになってらしいですが。ところが日本は雨が多いので、中国朝鮮に比べたら結構軒の出を長くしているんですが、それでも壁に雨が当たる。そうすると内側に絵を描いた壁がしめってしまって絵に良くない。
なので外側に裳階(もこし)を付けて、絵を描く、あるいは描いた壁を保護しようということらしいです。五重塔の方はバランス上の問題で右へならえしたのだろうと。裳階(もこし)を付ける前の、創建時の姿を再現した1/10の模型がありますが、すっきりした良い形です。

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でも私が金堂と五重塔で唯一関心があるのがその裳階(もこし)の屋根材なんです。

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これ、この写真が欲しかったんです。厚板の板屋寝なんですよ。

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裳階(もこし)ですからこの庇はそんなに長くはないのですが、正倉院文書には梁間二間、桁行三間、桁長3丈5尺の建物について、長1丈8尺(5m強)、広5寸(15cm)の葺板を312枚との記載があります。

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仏教寺院は先進中国文化の象徴ですから最新ハイテクな瓦に固執しますが、この法隆寺が建てられた頃やその後の奈良時代まで上級貴族の屋敷でも板葺が使われていました。

寝殿造の時代、平安時代後期から鎌倉時には上級貴族の屋敷は檜皮葺で、板葺はそれよりランクが落ちる建物でしたが。 

五重塔の方の裳階(もこし)も板葺です。

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これ、凄いでしょ。あんな時代によくこんな加工をしたもんだと一瞬思いますが、でもこの板は天平の屋根板では御座いません。

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この形になったのは鎌倉時代だったかな? 雨に打たれる屋根材は建物の中で一番痛むところなんです。 

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こんなふうに建築史の本の表紙を飾るほど有名な国宝・法隆寺金堂ですが、私は好きじゃありません。

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嫌いな最大のものは以下の2つの画像に写っています。
一階の軒の支えはちょっと見気づかないんですが、二階の屋根下の龍が巻き付いている柱は誰でも気づきますよね。これを見て「わ〜凄い〜♪」と思う人居ます? だったら日光東照宮にでも行けって云いたくなりますね。出来ることならこの龍も連れてって欲しい。私にはこれは品位を落としているとしか思えないです。とボロクソ云いますが、この異物がここに巻き付いているのは創建時からではなくて江戸時代からのようです。元禄時代か、やりそうですね。

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創建時にはあの柱自体が無かったようですが、あそこに柱が追加された事には意味があるんです。何度も言うようですが瓦屋根は重いんですよ。現在の住宅にある桟瓦でも重いですが本瓦はもっと重い。この当時の行基瓦だと更に重いんです。

仏教瓦建築の源流である中国・朝鮮の軒の深さなら問題は無かったんでしょうが、雨の多い日本では軒を深くする必要があったんです。建てたときにはちゃんと持ちこたえていたんでしょうが、深い軒にかかる瓦の重さ耐えかねて、じょじょに垂れ下がってきたんでしょう。ここだったかどうか忘れましたが、解体修理で瓦を降ろしたら、軒先が一尺跳ね上がったとか。日本の高級古建築の屋根の反りは見た目の美しさもありますが、より切実だったのは軒先が重さで垂れ下がることへの対策です。

創建当時はこの裳階(もこし)は無かったと先に書きましたが、下の画像からそれが無い状態を想像してください。あるいは上の画像から龍の巻き付いた柱が無い状態でも良いです。軒先は凄い深いでしょ。何メートルだったかなぁ。それを支えるのに一本の木から削り出したデッカイ雲斗雲肘木を突き出して、力肘木、尾垂木を支えています。

ところが屋根の四隅では尾垂木、いや隅木の長さはルート2で1.4倍になるんですよね。加重はどれぐらいでしょう。屋根板が直接乗る垂木は普通なら母屋の処、この金堂なら二階部分の端で押さえつけられた立派な構造材ですが、この四隅だけは違います。全部隅木にかかってくる。

本瓦で軒を深くするのは大変なんです。そんなの軒先に柱を立てればいいだけじゃん、と私は思うのですが、最初からは絶対にしませんね。この金堂や五重塔みたいに一生懸命考えて作ったんだけど、それでも百年か何百年かの後には垂れ下がってきちゃってしかたなしに補強の柱を立てるぐらいです。それでもあんなところに柱があるのはカッコ悪いと龍を巻き付けたり、下の様に彫り物にしたりでごまかすぐらい。素直に柱でいいじゃないですか。ほんと、あの龍は嫌い。

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法隆寺の金堂、五重塔など飛鳥時代と云われる建物の垂木を見てください。軒先がストレートにそのままですよね。あの垂木を地垂木と云います。まあそれが本来の垂木なんで、地垂木と云う呼びかたは垂木が二重になってからなんですが。例えば前のページの大講堂の軒先のようにです。大講堂の二重の垂木は地垂木の上に野地板を打ち付けて、その上に根元を斜めにした飛檐垂木を打ち付けて軒先を反らせているんです。それも屋根の垂れ下がり対策と美観のためですね。いつ頃からかというと、この法隆寺のすぐ後、薬師寺の東塔や唐招提寺の金堂でもう始まっています。ここ法隆寺でも奈良時代の伝法堂は既にそうですね。

雲斗雲肘木も法隆寺、というか法隆寺群のオリジナルのようです。法隆寺以前の建築物は残っていないので判らないのですが。ちょっと時代の下がる薬師寺東塔や唐招提寺金堂では二手先とか三手先という手法が使われます。法隆寺にもありますよ。室町時代に再建された南大門のこれです。後藤治先生の『日本建築史』にある図を見ると本瓦屋根の四隅の加重に苦闘する様がよく判ります。


法隆寺が飛鳥時代。薬師寺東塔が奈良時代前期(天平年間)。唐招提寺金堂、當麻寺東塔が奈良時代末期。平等院は平安時代後期です。上記のように法隆寺金堂は新たな支えが必要になりました。それを知ったからかそのあと必死に改善を加えていますね。一見複雑で豪華絢爛を狙ったように見えますが、やはり深い軒先の加重を多重に負荷分散しながらなんとか支えようという苦肉の策です。雲斗雲肘木が削り出せるような太い木が無くなってきたということもあるのかもしれませんが。雲斗雲肘木から二手先とか三手先へ、そして飛檐垂木の発生、この2つの基点が判るだけでも、この金堂の建築史上の価値は大変なものです。

上記の画像の中で雲斗雲肘木がどれにあたるのかはこちらのサイトを参照されると判りやすいと思います。
今見つけた。結構詳しい。

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西岡棟梁は、この廻廊の中に木が生えるようになったのは法隆寺が衰退していた証拠とおっしゃってますが、でも写真としては木があった方が良いですね。

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そうそう、五重塔の一番上の屋根の下にも軒の途中を支える柱があるのが判ります? こっちの画像の方が判り易いかな? 一番上は屋根が一番小さいのに何故、と思われるかもしれませんが、一番上は上の階の重みで押さえつけるということが出来ないんです。五重塔の一番上の柱は高いのでただの柱に見えますが、ちゃんと彫り物になっています。まあ遠目には柱にしか見えないからいいですけど。

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サラッと済ませるつもりだったのですがあの龍の悪態に力が入ってしまいました。

update 2016.05.20