奈良・古建築の旅    薬師寺の金堂と西塔     2016.05.13

薬師寺伽藍に入ってすぐ、北側、大講堂脇の二棟廊から見た金堂です。

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こんどは南側の中門から見た金堂。

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薬師寺再建で最初に着手した建物。 色々な面で有名です。wikipedia にはこうあります。

ひとつには「鉄は持って数百年程度、木材(ヒノキ)は千年持つ。鉄を使うとその部分から腐食する。」と主張する宮大工の西岡常一と、「台風や地震、火災からの文化財保護の観点からも鉄筋コンクリート補強が望ましい」と主張する竹島卓一(元名古屋工業大学)の衝突・・・。

でもこれは本当でしょうか。竹島先生は法輪寺で西岡棟梁と対立しましたが、薬師寺の委員会に名が見えません。それはともかく、wikipedia には「鉄は持って数百年程度」とありますが、鉄だけじゃなく、鉄筋コンクリートもそんなに保ちません。数百年程度というのは300年ぐらいです。そのあたりは西岡常一・小原二郎共著、『法隆寺を支えた木』をご参照ください。

小原二郎先生、懐かしいですね。高校生の頃にこの先生の人間工学の本を読みました。その本はもう無いですが、『木の文化』は今もあります。人間工学をやってて千葉大建築科教授から工学部部長にまでなられた方。でも工学博士じゃなくて農学博士。変でしょ、建築史で工学博士ってよりもっと変。

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1976年に再建されたものですが、残念ながらこれは構造上鉄筋コンクリート造です。外側は木造なので「鉄筋コンクリート造、木造仕上」げということだそうです(内田祥哉 『日本の伝統建築の構法』)。その内田祥哉先生によると「太田博太郎先生は、あんな鉄筋コンクリートに木造を結わえつけたら、鉄筋コンクリートは収縮しなλ けれど、木造のほうは重みで収縮して、すき間だらけになって、みっともない格好になるに決まってるじゃないかと、不満を述べておられ」たそうです。太田博太郎先生は委員会の重要メンバーだったのに、何でそう主張しなかったんですかね。

誰が西岡棟梁の主張に反対したのでしょう。『宮大工棟梁・西岡常一 「口伝」の重み』の中での安田薬師寺管長(当時執事長)によると高田館長はオール木造にしたかった。でも復興委員会の学者さん達は国宝中の国宝、薬師三尊蔵のシェルターとしての金堂を考えていた。行政指導じゃなくてそっちだったようです。西岡棟梁はその委員会に出席していなかったので、棟梁の意見は委員会のメンバー、例えばそう話す安田管長(当時執事長)の耳にも入ってこなかったと。国からの指導は無く、復興委員会の学者さん達の意見が採用されたと。

なんか残念ですね。結果的にはとっても中途半端なものを建ててしまった。西岡棟梁は500年、1000年のスパンで考えますが、鉄筋コシクリートの歴史ってまだ100年ぐらいしか無いのでは? もちろん500年も経たないうちに火災で消滅した寺院は沢山あるのですが。

高田管長はオール木造にしたかった。太田博太郎先生も鉄筋コンクリートに木造を結わえつけることに不満を持っていた。そこに西岡棟梁も出席していて持論を主張すれば、あんな中途半端なものにはならなかったと思うのですが。安田管長(当時執事長)も悔やんでおられました。

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もうひとつは、これを立てるための良質なヒノキがもう日本国内にはなくて、台湾の原生林に買い付けに行ったこと。

芯去り

金堂初重の独立丸柱は樹心を含まず、かっ辺材を取り去った全面無節のもの22本が必要でした。これに必要とする用材の丸太は、長さ6.5m、末口直径1.75m以上の大材でそろえなければなりません。直径1.75m以上というのは計算上でしょう。実際には直径2.5mの台湾のヒノキを四つ割りにして70cmの丸柱四本を取ったそうです。ヒノキの場合それがどれぐらいの樹齢かというと2500年とか3000年。法隆寺だって薬師寺だって、柱は確かに太いけど、でも1mも無かったぞ、とおっしゃるかもしれません。その理由は、あの柱は丸太ではなくて芯去りなんです。

芯去り」で検索すると記事が沢山出てきますが、ここでは普通の建材の話ではなく、市場には出回らないヒノキの巨木を相手にした古代の製材の話です。70cmの円を四つ引っ付けると、中心に28.7cmの円が入ります。つまり30cmぐらいの芯は自然に省かれることに。現在の製材機で40cmぐらいののヒノキから10cmの角材5本を取って、どこがいい? と言われたら、迷わず芯の部分をもらいますね。

木の芯を真ん中に残した丸太は割れやすい、狂いやすい。試しにホームセンターへ行って、園芸用の丸木の杭を見て下さい。必ず割れてます。下は鎌倉の寺院の大正5年に建てられた鐘楼の柱です。芯去りなどという贅沢なものではありません。だから四本の柱は全て一カ所割れていました。

他の細かいひび割れと比べると真っ直ぐなので、割れる位置を誘導するために予め切れ込みを入れてあるんでしょう。そして建てるときにはそれを一番目立たない方に向ける。しかし奈良時代のノコではこういうことは出来ません。

なので必要な柱の直径の倍以上の大木を割って、芯の部分を外し、柔らかい辺材の部分も取り去って、削って丸い柱を作ります。

要は乾燥による収縮率の違いです。中心部分はもう2000年も経ってますから含水率が低い。もうこれ以上あまり縮まない。そんなものがまだまだ縮む柱の真ん中にデンと居座っていたら、乾燥とともに割れてしまいます。ただし常にこういう贅沢な方法がとられた訳ではありません。平安時代の法隆寺の大講堂では芯持ち材も使われているとか。

wikipedia には「日本では木曾に樹齢450年のものが生息しているのが最高」とありますが、奥白髪山の樹齢800年のヒノキは伐採されてしまったのでしょうか。それとも人工林での話? ともかくその木が薬師寺金堂の柱になれるまで、あと2千年は必要です。

ヒノキの性質 

太い木ならなんでも良いという訳ではありません。太古の昔から現在にいたるまで、建築用の木材にはヒノキがもてはやされますが、これには理由があります。昔は大鋸(縦引きの鋸)などない。その状態で柱や板を得るのにどうしたかというと、ノミを叩き込んで割った。つまり縦に綺麗に割れる木でなければ、柱や板は得ら れません。すると、スギやヒノキのような針葉樹林になります。

次ぎに、昔は礎石建築ではなくて堀立柱建築だった。ヒノキは土に埋めた部分もそんなに腐らない。専門的な説明は荷が重いので単純な例を。木を輪切り にすると、中心が赤っぽくて堅く、周囲が白い。その白い部分が腐りやすくて弱い。赤っぽくて堅いと云った部分が心材。白い部分と書いたものを辺材と云いま す。ヒノキはその心材の割合が多く、60年以上のもので80%にも及ぶとか(p211)。   

下の図を見てください。この図はあくまで説明のための概念図ですが、直径約1mの丸太から取れる丸柱の直径は約40cmです。辺材は5cmと想定しています。

この図は直径1mの大木ですから、樹齢は60年どころか何百年でしょう。計算すると心材は90%もあることになりますね。

ちなみに、上の図を載せたレポートには「長野県の木曽地域で調査した約 300 年生のヒノキ天然木のサンプル64本に関しては地上高15mの直径が平均40.3cm,最大 60.1cm,また地上高 18mの直径が平均35.2cm,最大55.0cmであった。したがって今回調査した台湾檜のサイズを確保するのは困難」とあります。太さが1mを超えるヒノキは樹齢千年までは行かなくともそれに近い古木ということになるんでしょうか。

樹齢2000年とか3000年とかの大木なら辺材の率など薄皮饅頭の皮のようなものでしょう。ヒノキは餡子びっしりということに。スギはどうなんでしょう。手元にデータは無いのですが、餡子びっしりではなくて、芯は芯、というぐらいではないでしょうか。

その心材の強度は伐採してから急激に増し、200年後ぐらいにピークに達して緩やかに弱くなえりますが、伐採時点の強度まで下がるには1400年ぐらいかかります。他の木、例えばケヤキの曲げ強度はなかなかのものですが、伐採してから直線的に弱くなっていきます。木材の細胞はセルロースの細長い袋と、その接着剤であるリグニンだそうです。時間とともに壊れていくのはセルロースの袋。リグニンがセルロースの袋を保護している(p150)。針葉樹は落葉樹に比べ、そのリグニンの含有量が多いそうです。セルロースは水に溶けるから土に埋められた柱は空気中のものより崩壊が早い(p152)。ヒノキは土に埋めた部分もそんなに腐らないのもそのためです。

針葉樹の木材の双璧をなすのがスギとヒノキですが、含水率で見るとヒノキはスギの半分ぐらい。これは乾燥・吸湿時のたわみ、狂いに影響します。ヒノキでも狂いますが、他の木材よりはずっと少ない(p210)。そして耐久性にも。スギってもろいです。腐るのも早い。ヒノキは色合いや薫りなども人気のひとつですが、それ以前のもっと切実なところで無くてはならない建材なんです。

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大木の枯渇

次ぎに、ヒノキの名産地は日本ではなかったのか、日本のヒノキはどうなってしまったのかという問題です。簡単にいうと、奈良盆地のヒノキの大木は飛鳥時代に法隆寺になってしまい、とっくの昔に無くなっている。

正確に云うと今はなき飛鳥寺(元興寺とも)など、仏教伝来で始まった20もの大寺院建設と、中国風の都市建設によってですが。 その結果、飛鳥川もわずかの降雨で洪水をおこし、土砂を流出して、しばしば川瀬を変更するようになってしまったとか。『古今集』に「あすか川 淵は瀬となる世なりとも思いそめてむ人は忘れじ」とあるのは、この間の事情を物語るものであると小原先生が(p188)。

飛鳥時代の次の奈良時代には、奈良近辺に良質なヒノキは残っていなかったと見てもよいでしょう。下の図は2013年:科研成果報告会での「社寺建築に利用された木材からみる近世の森林資源利用」(能城修一 森林総合研究所)という発表資料にあった「奈良時代の都と杣」という図です。奈良時代なのに奈良に杣(そま)はありません。

ここでの話には関係ありませんが、伊賀国に黒田が見えますね。東大寺文書にここの資料が沢山残っており、それを元に石母田正が『中世的世界の形成』を書いたあの黒田の杣です。ここだったんだ。

東大寺創建や平城京遷都に大量のヒノキを必要としましたが、そのヒノキはどこから調達したのか。その痕跡が木津川という川の名前と木津という地名です。ついでに上の地図に書き入れておきましょう。

木津川は伊賀国から木津、そして長岡の方に流れる川です。むかしは泉川と呼ばれ、木津町もその古名は泉津と云いました。百人一首の中で「みかの原わきて流るる泉川」と詠まれているのは現在の木津川のことで、みかの原は木津の対岸にあたる地名だそうです(p190)。つまり伊賀国からヒノキを切り出し、泉川を使って泉津まで流し、泉津で陸揚げして、牛や人力で奈良坂(現在の、歌姫越)を越え、奈良に運んだと。そのことから泉津が木津に、泉川が木津川と呼ばれるようになります。しかしこの木津を経由して運ばれた木材は伊賀国からだけではありません。

  • 有名な大和の長谷寺の十一両観音像は、伝承によると近江国高島郡の白蓮華という渓谷に生えていた長さ十余丈の楠の古木だったそうです。
  • 『続日本紀』によれば、西大寺の西塔の材料は、近江国滋賀郡から運んだと。
  • また法華寺金堂の用材は伊賀地方と同時に、丹波や琵琶湖北岸からも運んだと正倉院文書の中に記されています。

これらも木津経由です。山城国の山崎あたりから木津川を遡上したということになります。そして淀川上流の莫大な木材の伐採は、やがて山林の荒廃を招き、土砂を絶え間なく流出させて、ついに今日の大阪の土地がつくられることになったとか。山林の荒廃による水害や、資源の枯渇は決して近代の乱伐や機械化によって始まった訳ではなく、遠く飛鳥時代の仏教伝来から始まっているということになりますね。

そりゃ大変だ、割り箸を使うのを止めよう。法律で禁止したらどうかって? 
間伐を止めたら山は死にますぜい。原生林なんて日本にはほとんど無いし。

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奈良の大寺院だけでも厖大なヒノキを消費しましたが更に平安時代を経て鎌倉時代初期の東大寺再建では、もはや機内に良質なヒノキの大木は無く、遠く周防国に材を求めることになります。江戸時代に再建した東大寺大仏殿では必要な柱が1本の木からは得られず、集合材で鉄の枠で締め上げています。

そしてとうとうヒノキを台湾に求めることになったと。その台湾のヒノキも今や全面伐採禁止で入手は困難だそうです。なのでこういう研究が。

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そういう状況を考えると、そんなに貴重なヒノキを使ってこんなものを作って本当に良かったんだろうかという気持ちもわいてきます。それだけの良質な材を手に入れられたのなら、本当に昔から残る国宝建築の補修材としてストックしておいた方が良かったんじゃないかと。シェルターならシェルターらしく、円覚寺仏殿のように全面鉄筋コンクリートでいいじゃないかと。

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本当に往時の姿が再現出来、それがこの先1000年もつならそれでも良いでしょう。2〜300年経てば収める薬師三尊蔵だけでなく、それを収める建物も立派な国宝になるでしょうし、1000年も経て ば現在の法隆寺あつかいでしょう。世界遺産にだってなるかもしれない(もうなってる?)。しかし「鉄筋コンクリート造、木造仕上げ」では保っても300年? 必ず建て替えが必要になる。そのときにはもう木材は手に入らない。少なくともここに使ったヒノキの大木の再生産には2000年以上かかるのですから。

まあ鉄筋コンクリート造の寿命が来るまで、他の国宝補修用のヒノキをこういう形でストックしていると考えれば良いのかもしれませんが。

ところで、樹齢2000年3000年の大木は無理としても、国内で必要な太さが得られるまであとどれぐらいかかるのでしょうか。2013年12月の研究成果報告に山本博一・東大教授の「木曽ヒノキ天然林の成長量評価」という発表がありました。その中に「東大寺南大門 柱 胸高直径162.8cm 今から350年後」とあります。贅沢さえ言わなければ、1000年も待たずに済みそうです。

東塔

東塔は薬師寺で唯一創建当時より現存している建物ですが、平成21年より解体修理に着手しており、現在は覆屋に覆われています。修理は瓦、木部、基壇などを全て解体して、地下の発掘調査。その解体の過程が、建築史にとっては大変な宝物になります。

もちろん西岡棟梁が金堂や西塔を作るときに、東塔をつぶさに調査してそのときの成果が、この金堂や西塔になっているのですが、でも建ったままの塔を調べるのと、解体してしらべるのとではその濃さが全く違います。

その後、既存の木部の傷んだ部分の修繕を行いながら再び組み上げるという行程ですので、完成は平成32年の6月頃とか。まだ4年も先。

というか着手したのが平成21年だから11年もかかることに。同じ図面で新築なら多分1/3以下の機関で済むでしょう。西塔の工事は正味2〜3年ですから。しかし1300年も経った建物を、調査をしながら更に何百年か保たせるための解体修理ですから時間がかかるのは当然でしょう。

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西塔

法隆寺と違って薬師寺では金堂の南の左右対称に東塔と西塔がありました。ただし西塔は享禄元年(1528年)の戦災で焼失ています。本来左右対称、同じ形であったはずの西塔ですが、解体修理前の東塔とは少し違うところがあります。その違うところは東塔も長い歴史の中で修理・補強されて形が変わっている部分です。西岡棟梁は、現在の東塔ではなく、修理の痕跡を調べながら元の状態をさぐりだし、その形に西塔を設計したと云います。高さも西塔の方が若干高いそうですが、西岡棟梁によれば、500年後には西塔も東塔と同じ高さに落ち着くとか。

でも今回の東塔修復の後ではどうなるんでしょうね。東塔もおそらく元の状態に戻されるでしょう。すると新材を使った西塔だけが少し縮むとか? まあ東塔修復でもそのあたりを計算しながらバランスを取るとは思いますが。それにしても500年後だなんて、スケールが違いますね。

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でも、個人的にはこの西塔は好きじゃないんですよね。前にも書きましたが、まずこの色。
次ぎに塔自体が私はあまり好きではない。

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この塔も「工作物」、つまり人が住まないモニュメントとして新築認可が下りたんでしょうが、 私は「人が住む」あるいはそれと共通する建物が関心の中心なので。

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update 2016.09.13