大倉亭現地説明会(4)  大御堂ヶ谷から二階堂大路   2019.08.16  

この先を地図で示しておきましょう。予告段階から少し変わりましたが。


これが東御門川の六浦道の南側。この先で滑川に落ちています。奥の端がそうでしょう。
しかししょぼい。でも大雨の時には水量がグッと増して、それでも大丈夫なようにこの幅と深さを取っているのでしょう。六浦道の北側はまた後で。

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ちょっと寄り道がしたいんです。何処に寄り道するのかというと大御堂ヶ谷です。

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これが大御堂橋。ここからは現地説明会ではなく、ことのついでな私の現地調査なんです。

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 その橋を渡ると、また文覚上人屋敷跡の史跡碑が。私は信じていませんが。ちなみにここに寄り道をしたのは松尾剛次氏の宇津宮辻子御所論の基点がこの史跡碑と橋の間なんです。でもそこは鎌倉時代には河原でしょう。もしかしたら川の中かもしれません。『吾妻鏡』嘉禄元年(1225)11月20日条に書かれた「東西二百五十六丈五尺。南北六十一丈也」の基点は「伊賀四郎左衛門尉朝行大御堂前家 」の「当時御所御寝所」です。河原や川の中に「御寝所」があるはずがありません。左大臣道家のご子息で河原者じゃぁないんだから。

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もうひとつはその「御寝所」は「大御堂前家 」です。ここは大御堂。それにこの大御堂ヶ谷にその直後に四代将軍となる、左大臣道家の子息の仮御所に出来るような屋敷が想定出来るのかです。

そのカギがこの川。名前を確認していないので大御堂川と呼んでおきましょう。この橋のところでは両岸は同じ高さですが・・・

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しかし川沿いに上流へ20mも歩いたら東側はどんどん高くなります。

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40mも歩いたらこんなに。

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つまりこの現在の大御堂川は鎌倉時代初期にはそうであっただろう自然な流れではありません。宅地造成のために東の斜面に押しつけられたものです。あるいは それ以前に田畠の開発で押しつけたのかもしれませんが。何れにしても鎌倉時代初期にはこの川はさっきの橋と文覚上人の史跡碑の中間あたりを流れ、コンク リートの護岸工事などありませんから、両岸逢わせて15mから20mの河原、あるいは湿地であったのではないでしょうか、その両岸のどちらであろうと、若君を迎えられる屋敷など想定できません。

現地調査に一人で納得して大倉亭現地説明会に戻ります。

この右側が貫達人先生の云う「関取橋の付近」の貫説大倉亭です。どれが関取橋かというと、私がこの写真を撮ってるあたりです。左側の白いコンクリートの下が川で、殆ど暗渠。橋らしいものはありません。関取とは何かというと私は関心がないのでこちらでも御覧下さい。そしてこの真ん中の道があの有名な二階堂大路。

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暗渠に入る前の東御門川の北側です。やっぱりしょぼい。

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では二階堂大路を東へ。
「しかしねぇ、どこが大路なの?」と云ったら某学芸員さんが「でも発掘調査では幅が20mぐらいあったかもしれないって」と。「えー!」で御座いますよ。ただし対面する場所では無いらしい。ひとつはこれのことでしょうか? 「大倉幕府周辺遺跡群(二階堂12 番8 地点)」もうひとつはもしかして関取橋の西側の発掘?

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もうひとつ聞いたのはこれはとても重要な情報です。

所謂大倉御所推定地は今は真っ平らですが、一部は、あるいは一部を除き湿地帯だったんじゃないかと。というのは荏柄天神の南側 の何処かの発掘で、上の面が削られていると。どの地点の発掘なのかは歩きながらの雑談だったので判らないのですが、でもそれはあり得ますね。というか絶対 そうですよ。何でそう思うのかは後で図を書いてみましょう(時間かかりますが)。ポイントは川です。今は西御門と呼ばれる谷戸、つまり西御門川の源流、そこに水が流れる稜線は 東御門川に水が流れる稜線の範囲よりも大きいので湿地も西側の方が大きかったのではないかと。

東西二町半、南北二町の御所って無駄に大きすぎるんですよね。頼朝の時代に何でそんなに大きいんだ、そんだけ大きけりゃ何で政所がその外なんだ、と常々疑問には思っていたんです。その話を聞いたら、政子の東御所は東御門川の東、頼家の子の小御所もそうなんじゃないかと思い始めました。

【8/30追記】 
それぞれの川の水源を地図上の分水嶺から求めるとこんな感じ。それが現在、ど云っても使ったのは明治15年の地図ですが、ともかくこんな感じ。東御門川の水量より西御門川の水量も方が2〜3倍。するとそれが土壌を浸食し、湿地を作り出す量も2〜3倍。となるとこんな感じに。西御門川は東西の地形を考えると湿地帯の中の西に押しつけられ二階堂川は逆に東に、滑川は南におしつけられたように見えます。自然にそうなったのか工事してそうしたのかは判りませんが。

山の中の川は普段はチョロチョロでも雨が降ると様変わりをするんですよ。直径20〜30cmの大木が根っこごと流されてきます。上流の分水嶺の内側面積が少なくてもです。あっ、二十五坊水域とかは説明上の造語です。「分水嶺の内側エリア」では図に入れるには長すぎるので。それとあくまで概念図です。大倉御所エリアはもっと湿地に浸食されていたかもしれません。

二階堂大路がちょっと広くなりました。20mは無いけど。でも先を見て下さい。この先でまた狭くなります。 某先生は例によってカメラなビデオで廻りを撮りながらここは何処とか録音してます。

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良い方法だけど、真似はしません。私にはフォトジャーナリスト(自称)というプライドがあるので、キャパな世界の住人なんです。たまにブレッソンにもなりますが。ビデオはこのときしか撮ったことがありません。このときは「由比ヶ浜限定専属カメラマン」の戒律の方を優先したんです。でないとあっちでやるから来て、こっちでやるから来てと大変なことになるので。

二階堂大路から10mちょっとの処に二階堂川があります。おっ、青鷺。

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いや、今日は風物詩を撮りに来た訳ではありません。二階堂川両岸の地形をお二人にお見せする為なんです。

まず、現在の二階堂川は三面工法、つまり両岸と川底をコンクリートで固めて直線にしています。勿論曲がるとこでは曲げますが。そしてここでもその人口河流は高台の方に押しつけています。 鎌倉時代前期にこんな姿な訳はないでしょう。現在でもこのあたりで二階堂大路からこの二階堂川までは15m〜30mぐらい。この状態から鎌倉時代前期の景観を復元すると、二階堂大路の東は二階堂川の河原なはずです。しかし秋山哲雄さんはこのちょうど左側あたりに大倉亭があったと云うんです。あり得ません。今の状態だって小笠掛や犬追物の馬場を作ったらあとは厩が建てられるかどうかぐらいでしょう。中門廊まで備えた屋敷がここに収まる訳がありません。鎌倉時代から三面工法があったとしてもです。

ちなみに右のほとんどお屋敷な旧家の側面がこれです。私のお勧めスポット。時間が押していてこの路地までは入りませんでしたが。

先ほどの写真で二階堂大路の南側を流れていた小川は、あそこで二階堂川の方に向きを変え、橋のところで二階堂川に落ちていますが、その川は覚園寺の谷から現鎌倉宮の前に流れてそもまま二階堂川に合流していたものを江戸時代に二階堂川の河原を水田にするために二階堂大路沿いになおしたものです。

『神奈川県皇国地誌 相模国鎌倉郡村史』に書いてありました。その本は全ページをコピーして持っていたのに10年の間のディスクの整理か何かで消してしまったようです。でもこのあとタクシーの中で話題になった斉藤直子氏の論文の中で上記タイトルを発見。これだこれ、と検索したら「日本の古本屋」でヒット。今注文をかけたところです。