2019.08.31     もやいのやぐらから国宝館へ        

ということでたどりついたもやいです。前回は時間が無くて熱中症対策の水分補給に立ち寄っただけで、もやい奥様とろくに話も出来なかったので。今回は二時まで暇、なのであれこれ雑談をしている最中に「そう云えば叔母さんはお元気ですか?」と云ったら「えっ、云ってませんでしたっけ、久野が亡くなって2年後ぐらいに亡くなって」と。え〜、またかよ。お葬式ぐらい呼んでよ。

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昔、久野氏がもやい奥様と結婚するだいぶ前に泊まりに行ったとき、夕飯にお酒と揚げたての天ぷらだの豪勢なおかずは出てくるのにいつまでもご飯が出て来ない。「すいません、ご飯もらえますか?」と云ったら「えっ、もう召し上がるんですか?」と。我が家では親父が下戸だったもんで酒宴パターンは無かったんですよね。お母さんは我々の食事の間、給仕に徹していて一緒には食べない。

で、食事の後にお抹茶を出されて「すいません、おかわり頂けますか?」と云ったら楽しそうに笑い転げて「お抹茶のおかわりなんて始めてですよ」と。いや叔母さんは華道のお師匠さん、それも千家古流だったので。我が家では自分で立てたので、2杯ぐらい普通に飲んでた。
お師匠さんをやりながら女手ひとつで一人息子を育てた気丈な叔母さんでしたね。一度夏休みに久野氏の仕入れ旅行に同行したときに叔母さんの実家に立ち寄ったこともありました。

と奥の板の間ギャラリーコーナーでそんなことを思いだしながらふと裏庭に目をやったら・・・。
あれ? あれはやぐらじゃない? 前を切り崩してあるけど。そのときは気づかなかったんだけど、家でこの画像を画面に映し出してみたら、なな、なんと、手前にあるのは五輪塔の先端、空輪じゃない! どっかに地輪も転がっていて日付が掘ってあったりして♪

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でもやぐらだと云うとみんな嫌がるんですよね。東慶寺の先代奥様もそう。「仏殿の裏にあるのはやぐらですよねぇ」と云ったら「やぐら? やぐらってお墓でしょ。戦時中に空襲に備えて仏像を避難させる為に掘ったんだろうと聞いてますけど」「やぐらですよ、それも鎌倉時代後期の!今度見せて下さいよ♪」 「でもそれには中を片付けなきゃなんないし」と。結局見せてもらえないまま代替わりしてしまいました。

なので「やぐらってお墓でしょ?」には「やぐらはお墓じゃない(現代の意味では)。お堂を簡略にしたもの。ただお堂に納骨もしただけ」という云い方をしています。そっちの方が正確だと私は思うんですが。


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そのもやい工芸を出て再びトンネルへ。

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帰りがけの駄賃に、芸文館の参道(?)にあるやぐらを。

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う〜ん、近寄れないから判らない。かなり倒壊してるし。

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そのあと市役所の前で久しぶりにお蕎麦を食べ、ロンディーノでタバコを吸いながら竹御所を待ちます。

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で、ほぼ時間通りに竹御所から電話が。なので東口に行くからと云ったら、小町通りが凄い人そうだから西口に行くと。ならは徹底的に小町通りを避けて、小川沿いに川喜多記念館の前へ。

竹御所はこんな道は始めてと。ならば帰りも腕によりをかけましょう。と内心。

で、鶴岡八幡宮へ。「咲いてないと思うけど確認」と平家池に行ったら咲いてる。いや、時間がもう2時過ぎなのでもう閉じてはいますが、今朝は開いていて、明日の朝もまた開くでしょう、これは。

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源氏池にも紅蓮の蕾みが。明日の朝は見事に咲くんでしょうね。

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う〜、あの枝邪魔!

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そうそう、蓮の花は撮るつもりが無かったので、標準のショートズームで撮って倍ぐらいに拡大してるんです。 蓮の花は撮るときは35mm換算で300mmレンズを使うんですが。

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亀の甲羅干し。

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休憩所前は流石に無いだろうと思ったら・・・

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あった。明日の朝7時頃には見事に咲くでしょうね。

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8月に咲いてたことあったかなぁ、と探してみたらあった。2012.08.122013.08.182011.08.282009.08.182007.8.25-9.02。なな、なんと9月まで!2006.09.20。忘れてた。(;^_^A アセアセ

で、国宝館へ行こうとしたら、齋館にお抹茶の立て札が。何処の生菓子なのか気になったのですが、今は本日2回目の「忙しい忙しい」の真っ最中。国宝館見終わってまだやってたら入ろうと行って国宝館へ。竹御所は「その頃には閉まってるかもよ」と云ってたんですが、嗚呼、竹御所に従うべきでした。出てきたら閉まってた。

国宝館に入ったら女性の学芸員さんがギャラリートークの最中。竹御所談「ギャラリートークがあるなんて知らなかった」、わし「う〜、そうと知ってたら蓮なんかに時間を割かなかったのに〜」。「学芸員による列品解説を毎週土曜日14:00より行っています」とのこと。

で、見終わって出口で資料収集です。図録の「鎌倉の古絵図」のUとV、そして「鎌倉の絵巻」の三冊を入手。その中にとんでもないものを発見・・・、したのはまだ先の話なんですが。ともかく本日2回目の「忙しい忙しい」はこれで終わり。あとは横浜西口6時半まで「暇だ〜」をどう潰すか。

そこで竹御所の「こんな道は始めて」その2で御座います。前回の大倉亭現地説明会(2)「小町口から東勝寺橋へ」のあの小径を逆に辿って小町口へ。

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小町口の例の蛭子神社から見下ろした滑川を見ながら「ここが小町の北端のはず」と自説を説明したら、竹御所は「じゃ〜南端は?」というので夷堂橋へ。ついでに大町にも。

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そうしたら以前はこうして有った、皆でお昼を食べた「百苑」 が無い! テナント募集とか張り紙が。

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「おおくに」に行ったら親父さんが居なくて奥さんが。その奥さんに「百苑さんはいつ店を閉めたんですか?」と聞いたら去年だったかおと年と云ってたか。ガーンですね。毎年東慶寺カレンダーを持って行くぐらいお馴染みさんだったのに。(T.T)
しかしまあ、あのとき一揆な皆さんをご案内出来たのがせめてもの慰みと思うことに致しましょう。

そのあと下下馬交差点まで旧東海道を。ここで云う旧東海道とは一般に大町大路と云われているものです。『鎌倉市史・総説編』説ですが。『鎌倉市史・総説編』説ではその南に車大路があるんじゃないかと書かれていて、それが通説のようになっているんですが、私は大町大路と車大路は同じもの、でなければ大町大路は小町大路の続きの南北の道で、大町四つ角から下下馬交差点まで東西の路が車大路なのではないかと。『吾妻鏡』に「大町大路」は一回しか出て来ないんですよ。あの文面で「大町大路」が東西の路か南北の道かなんて判別出来ないですよ。まあ、小ネタなので他と絡めなければ論文化は難しいんですが。その前にやることは有るし。

ともかく、海は入江となって下の図のように下下馬交差点あたりまで入り込んでいたと私は思います。という説明をしながら下下馬交差点を過ぎ、御成通りを北上してまたロンディーノへ。


しかし次ぎの予定は横浜6時半。ロンディーノで1時間ぐらい暇つぶしをしたのかなぁ。その暇つぶしに国宝館で購入した図録を見ていたら、強い味方を発見! 下の図です。

明治4年とは東京への首都機能の移転が行われた年です。解説はまだ読んでいないのですが、この図は新政府に対して鶴岡八幡宮の領域を主張したものでしょう。問題は河口です。この時点では滑川はほぼ現在の位置ですが、そうなったのは江戸時代後期。それまではもっと東でした。その位置がこの図から読みとれるのではないかと。そして、旧河川の位置までが伝統的に鶴岡八幡宮の敷地だと。

その旧河川から新河川までの間は鎌倉時代初期には入江、浦になっていたのではないかと。これは私の新説ではありません。四半世紀も前にそういう論文が出ています。
などと話ながら暇を潰し、そろそろ行こうかと横浜駅へ。

鎌倉一揆の飲み会で笑いを取った私のネタがこれです。この江戸時代の地図の左下を見て下さい。川がとぐろを巻いている。いや〜、これはウケましたねぇ。(爆笑)

この川は大倉亭現地説明会(1)「鎌倉歴文館から二の鳥居へ」のこの川です。