(鎌倉城資料)  吾妻鏡での城・館 1186-1189年

吾妻鏡1186年(文治2)

4月24日 奥の御館

陸奥の守秀衡入道の請文参着す。貢馬・貢金等、先ず鎌倉に沙汰し進すべし。京都に伝進せしむべき由これに載すと。これ去る比御書を下さる。御館は奥六郡の主、予は東海道の惣官なり。尤も魚水の思いを成すべきなり。但し行程を隔て、通信せんと欲するに所無し。また貢馬・貢金の如きは国土の貢たり。予爭か管領せざらんや。当年より、早く予伝進すべし。且つは勅定の趣を守る所なりてえり。上所奥の御館と。

「奥の御館」は奥六郡の支配者の意味

吾妻鏡1187年(文治3)

4月23日 城郭を構え

周防の国は、去年四月五日、東大寺造営の為寄付せらるるの間、材木の事、彼の国に於いて杣取り等有り。而るに御家人少々武威を輝かし、妨げを成す事有るに依って、勧進聖人重源在庁等の状を取り、公家に訴え申すの間、その解状を関東に下さる。子細を尋ね仰せらるる所なり。
・・・これらがおのヽヽ、かまくらより地頭になり候て、・・・かねては国人をかりあつめて、城郭をかまへて、わたくしのそまつくりをはじめて候あひだ、御材木引夫をめし候に、さらに承引せず候。あるひは山野の狩つかまつり候に、またく院宣にはヾかり候はず。此の如きの事により候て、諸事事ゆかず候へば、恐の為に急ぎ申し上げ候由、委しくは在庁解に申し上げ候よし、重源恐々謹言。

周防の国在庁官人等
言上の二箇條
一、得善末武の地頭として、筑前の太郎(家重)、都乃一郡に横行せしめ、官庫を打ち開き所納米を押し取る。狩猟を宗として、土民を駈け寄せ、城郭を掘り、自由に任せ勧農を押妨する事

右謹んで事情を案ずるに、当国本より狭少の上、庄々巨多の間、敢えて国衙に随うの地無し。而るに天下の騒動以後、いよいよ作田畠荒廃し、土民無きが如し。在庁官人已下夭亡の輩、勝計うべからず。然る間東大寺造寺料に寄進せらるるの後、跡に留む在庁窮民等、無二の忠を運らし、随分の奔走を励まし、未曾有の大物を引き営むの処、不輸の別納と云い、新立庄々の加納と云い、事を左右に寄せ、敢えて催促の役に随うの地無し。ややもすれば喧嘩を以て、訴訟の基と為す。一切結縁の思い無く、輙く国宣に随う者無し。就中、得善末武と謂うは、指せる庄号の地に非ず。
また国免別納の御下文無し。ただ地頭職として沙汰を致すべきの由、鎌倉殿の御下文ばかりを賜うと。而るに事を武勇に寄せ、彼の両保押領せしむるの上、御柱引きの食料に割り置かしむるの乃米四十余石、官庫を打ち開き押取りしむるの上、農業の最中、人民を駈け集めて城郭を堀り営ましむ。以て鹿狩り鷹狩りを業として、更に院宣を恐れず、此の如き公物を押し取り食物に宛てて、濫悪を張行す。何ぞ況や居住の在庁・書生・国侍等の家中を服仕せしめて、公役に勤仕せしめず。造寺の営、永く以て忘れをはんぬ。誠に天魔の障りの至り、何事かこれに過ぎんや。仍って国中の庄々便補国免の地頭沙汰人等これを聞き習い、いよいよ梟悪を施す。真実の勇無きの間、大物を採り置くと雖も、引き出すもの少なく、未だ引き出さざるは巨多なり。何所を以て希代の御造寺を相励むべきや。斟酌の処、爭か御裁報無からんか。
望み請う、且つは傍輩の向後の為、その身を召し禁められ、且つは別の御使を下され、自由の濫吹を停止せられんと欲す。

一、所衆高信、久賀・日前・由良等の地頭として、官庫を打ち開き所納米を押し取り、保司の如く雑事に張行し、国衙に随わざる事

副え進す證文等
右件の所々は、指せる庄号の地に非ず。有限の国保、勿論の公領なり。而るに天下の騒動以後、領主と云い地頭と云い牢籠せしむに依って、落居の程、改補せらるる所なり。而るに事を左右に寄せ、恣に地頭の威を施すの間、既に造寺の妨げを為す。何ぞ況や僅かに国庫の納米は、これ指せる運上料に非ず。私の相料に非ず。当国他国を勧進せしむるの上、適々当国狭少の所当米なり。而るに僅かに割り置く米、或いは国中の斗代高微を以て、或いは浮言の愚案を以て、法に背き押領せしむる所なり。而るに官庫納米の習い、納所使書生を以て検納せしめ、また検封せしむるの事、諸国一同の流例なり。而るに自由に任せ、恣に国衙に触れず押取りしむの條、未曾有の事なり。ただ一を以て万を察し、尤も推察を仰ぐべきなり。子細を本所に尋ねられ、傍輩の向後の為、且つは狼藉を停止せられ、且つは件の納米等を糺返せられんと欲す。
以前の二箇條、言上件の如し。以て解す。
文治三年二月日
散位賀陽宿祢弘方
散位土師宿祢安利
散位土師宿祢弘安
散位管乃朝臣成房
散位土師宿祢助遠
散位土師宿祢国房
散位賀陽宿祢重俊
散位土師宿祢弘正
散位大原宿祢清廣
散位中原朝臣(在京)
散位日置宿祢高元
権の介大江朝臣
権の介多々良宿祢(在京)

これは単に「城」だけではなく、国衙と地頭の対立、そして国衙の構成で石井進氏が注目する有名な文章です。「在庁・書生・国侍等」の。「在庁・書生」は当然国衙に勤務する者で、その中に「国侍」が含まれています。国衙軍制の担い手としての「国侍」です。

吾妻鏡1188年(文治4)

12月12日 城を構え

周防の国嶋末庄地主職の事
右件の庄は、彼の国大嶋の最中なり。大嶋は、平氏謀叛の時、新中納言城を構え、居住旬月に及ぶの間、嶋人皆以て同意す。爾より以降、二品家の御下知として、件の嶋に地主職を置かるるの許なり。・・・・

これについて1192年(建久3)6月3日の政所下文が残っています。

「正閏史料外・編1」 前の右大将家政所下文

前の右大将家政所下す周防の国大島三箇庄並びに公領住人
早く前の因幡の守中原朝臣廣元地頭職たるべき事

右、去る文治二年十月八日の御下文に云く、件の島は平氏知盛卿謀反の時、城郭を構え居住する所なり。その間住人字屋代源三・小田三郎等同意せしめ、始終彼の城を結構せしめをはんぬ。所行の旨旁々奇怪なり。早く廣元を以て地頭職と為し、先例に任せ、本家の所役に勤仕せしむべきてえり。而して今政所下文を成すべきの旨、仰せに依って改むる所件の如し。
建久三年六月三日案主藤井判
令民部少丞藤原判知家事中原
別当前の因幡の守中原朝臣判
前の下総の守源朝臣
散位中原朝臣

「前の因幡の守中原朝臣廣元」とあるのは大江広元のこと。因幡守となってすぐに辞任しています。赴任はしていませんが受領経験者「前因幡守」と言う肩書きは十分な格式になるので最初からその筋書きでしょう。このときは中原性ですね。

吾妻鏡1189年(文治5)

8月7日〜8月22日 奥州攻め

8月7日

二品陸奥の国伊達郡阿津賀志山の辺国見の駅に着御す。而るに半更に及び雷鳴す。御旅館霹靂有り。上下恐怖の思いを成すと。
泰衡日来二品発向し給う事を聞き、阿津賀志山に於いて城壁を築き要害を固む。国見の宿と彼の山との中間に、俄に口五丈の堀を構え、逢隈河の流れを堰入れ柵す
異母兄西木戸の太郎国衡を以て大将軍と為し、金剛別当秀綱・その子下須房太郎秀方已下二万騎の軍兵を差し副ゆ。凡そ山内三里の間、健士充満す。
しかのみならず 苅田郡に於いてまた城郭を構え、名取・廣瀬両河に大縄を引き柵す。泰衡は国分原・鞭楯に陣す。
また栗原・三迫・黒岩口・一野辺は、若九郎大夫・余平六已下の郎従を以て大将軍と為し、数千の勇士を差し置く。また田河の太郎行文・秋田の三郎致文を遣わし、出羽の国を警固すと。
夜に入り、明暁泰衡の先陣を攻撃すべきの由、二品内々老軍等に仰せ合わさる。仍って重忠相具する所の疋夫八十人を召し、用意の鋤鍬を以て土石を運ばしめ、件の堀を塞ぐ。敢えて人馬の煩い有るべからず。思慮すでに神に通ずか。小山の七郎朝光御寝所の辺(近習たるに依って祇候す)を退き、兄朝政の郎従等を相具し、阿津賀志山に到る。意を先登に懸けるに依ってなり。

 

8月8日

金剛別当秀綱数千騎を卒い、阿津賀志山の前に陣す。
卯の刻、二品先ず試みに畠山の次郎重忠・小山の七郎朝光・加藤次景廉・工藤の小次郎行光・同三郎祐光等を遣わし箭合わせを始む。秀綱等これを相防ぐと雖も、大軍襲い重なり攻め責むるの間、巳の刻に及び賊徒退散す。
秀綱大木戸に馳せ帰り、合戦敗北の由を大将軍国衡に告ぐ。仍っていよいよ計略を廻らすと。また泰衡郎従信夫の佐藤庄司(また湯庄司と号す。これ継信・忠信等の父なり)、叔父河邊の太郎高綱・伊賀良目の七郎高重等を相具し、石那坂の上に陣す
隍を堀り逢隈河の水をその中に懸け入れ、柵を引き石弓を張り、討手を相待つ。爰に常陸入道念西の子息常陸の冠者為宗・同次郎為重・同三郎資綱・同四郎為家等、潛かに甲冑を秣の中に相具し、伊達郡澤原の辺に進出し、先登の矢石を発つ。
佐藤庄司等死を争い挑戦す。為重・資綱・為家等疵を被る。然れども為宗殊に命を忘れ攻戦するの間、庄司已下宗たる者十八人の首、為宗兄弟これを獲て、阿津賀志山の上経岡に梟すなりと。・・・

 

8月9日

夜に入り、明旦阿津賀志山を越え、合戦を遂ぐべきの由これを定めらる。
爰に三浦の平六義村・葛西の三郎清重・工藤の小次郎行光・同三郎祐光・狩野の五郎親光・藤澤の次郎清近、河村千鶴丸(年十三歳)以上七騎、潛かに畠山の次郎の陣を馳せ過ぎ、この山を越え先登に進まんと欲す。
これ天曙の後、大軍と同時に険阻を凌ぎ難きが故なり。時に重忠郎従成清この事を伺い得て、主人に諫めて云く、今度の合戦に先陣を奉ること、抜群の眉目なり。而るに傍輩の争う所を見るに、温座し難からんか。早く彼の前途を塞ぐべし。然らずんば事の由を訴え申し、濫吹を停止し、この山を越えらるべしと。
重忠云く、その事然るべからず。縦え他人の力を以て敵を退けると雖も、すでに先陣を奉るの上は、重忠の向かわざる以前に合戦するは、皆重忠一身の勲功たるべし。且つは先登に進まんと欲するの輩の事妨げ申すの條、武略の本意に非ず。且つは独り抽賞を願うに似たり。ただ惘然を作すこと、神妙の儀なりと。七騎終夜峰嶺を越え、遂に木戸口に馳せ着く
各々名謁るの処、泰衡郎従部伴の籐八已下の強兵攻戦す。この間工藤の小次郎行光先登す。狩野の五郎命を殞す。部伴の籐八は六郡第一の強力者なり。行光相戦う。両人轡を並べ取り合い、暫く死生を争うと雖も、遂に行光の為誅せらる。
行光彼の頸を取り鳥付に付け、木戸を差し登るの処、勇士二騎馬に離れ取り合う。行光これを見て、轡を廻らしその名字を問う。藤澤の次郎清近敵を取らんと欲するの由これを称す。
仍って落ち合い、相共に件の敵を誅滅するの後、両人駕を安じ休息するの間、清近行光の合力に感ずるの余り、彼の息男を以て聟と為すべきの由、楚忽の契約を成すと。次いで清重並びに千鶴丸等、数輩の敵を撃ち獲る。
・・・

 

8月10日

卯の刻、二品すでに阿津賀志山を越え給う。
大軍木戸口に攻め近づき、戈を建て箭を伝う。然れども国衡輙く敗傾し難し。
重忠・朝政・朝光・義盛・行平・成廣・義澄・義連・景廉・清重等、武威を振るい身命を棄つ。その闘戦の声山野を響かせ郷村を動かす。爰に去る夜小山の七郎朝光並びに宇都宮左衛門の尉朝綱郎従紀権の守・波賀の次郎大夫已下七人、安籐次を以て山の案内者と為し、面々に甲を疋馬に負わせ、密々に御旅館を出て、伊達郡藤田の宿より会津の方に向かう。
土湯の嵩・鳥取越等を越え、大木戸の上国衡後陣の山に攀じ登り、時の声を発し箭を飛ばす。
この間城中太だ騒動し、搦手に襲来する由を称す。国衡已下の辺将、構え塞ぐに益無く、謀りを廻らすに力を失い、忽ちに以て逃亡す。・・・・その後退散の歩兵等、泰衡の陣に馳せ向かう。阿津賀志山の陣大敗するの由これを告ぐ。
泰衡周章度を失い、逃亡し奥方に赴く。国衡また逐電す。
二品その後を追わしめ給う。扈従軍士の中、和田の小太郎義盛先陣を馳せ抜け、昏黒に及び、芝田郡大高宮の辺に到る。西木戸の太郎国衡は、出羽道を経て大関山を越えんと欲す。
・・・・
また泰衡郎従等、金十郎・勾當八・赤田の次郎を以て大将軍と為し、根無藤の辺に城郭を構うの間、三澤安藤の四郎・飯富の源太已下猶追奔し攻戦す。凶徒更に雌伏の気無し。いよいよ烏合の群を結ぶ。根無藤と四方坂の中間に於いて、両方の進退七箇度に及ぶ。・・・

 

8月20日

卯の刻、二品玉造郡に赴かしめ給う。則ち泰衡の多加波々城を圍み給うの処、泰衡兼ねてを去り逃亡す。自から残留の郎従等手を束ねて帰降す。この上は、葛岡郡に出て平泉に赴き給う。

 

戌の刻、御書を先陣の軍士等の中に遣わさる。・・・その趣、各々敵を追い津久毛橋の辺に到るの時、凶徒等のその所を避け、平泉に入るに於いては、泰衡城を構え勢を屯し相待つか。然れば僅か一二千騎を率い馳せ向かうべからず。二万騎の軍兵を相調え競い至るべし。すでに敗績の敵なり。侍一人と雖も無害の様、用意を致すべしてえり。

 

8月21日

泰衡を追って、岩井郡平泉に向かわしめ給う。而るに泰衡郎従、栗原・三迫等に於いて要害を築き鏃を研ぐと雖も、攻戦強盛たるの間、防ぎ奉るに利を失い、宗たるの者若次郎は、三浦の介の為誅せらる。同九郎大夫は、所の六郎朝光これを討ち獲る。この外の郎従悉く以て誅戮す。残る所の三十許輩これを生虜る。爰に二品松山道を経て津久毛橋に到り給う。
梶原の平二景高、一首の和歌を詠むの由これを申す。
みちのくのせいはみかたにつくもはし、わたしてかけんやすひらかくひ
祝言の由御感有りと。泰衡平泉の館を過ぎ猶逃亡す。縡急にして自宅の門前を融ると雖も、暫時逗留するに能わず。纔かに郎従ばかりを件の館内に遣わし、高屋・宝蔵等に放火す。杏梁桂柱の構え、三代の旧跡を失う。麗金昆玉の貯え、一時の新灰と為す。
倹は存え奢は失う。誠に以て慎むべきものかな。

 

8月22日

申の刻、泰衡の平泉の館に着御す。
主はすでに逐電し、家はまた烟と化す。数町の縁辺、寂寞として人無し。累跡の郭内、いよいよ滅して地のみ有り。ただ颯々たる秋風幕に入るの響きを送ると雖も、簫々たる夜雨窓を打つの声を聞かず。但し坤角に当たり、一宇の倉廩有り。余焔の難を遁る。葛西の三郎清重・小栗の十郎重成等を遣わしこれを見せしめ給う。沈紫檀以下唐木の厨子数脚これに在り。
その内に納める所は、牛玉・犀角・象牙の笛・水牛の角・紺瑠璃等の笏・金沓・玉幡・金華鬘(玉を以てこれを餝る)・蜀江錦の直垂・不縫帷・金造の鶴・銀造の猫・瑠璃の灯爐・南廷百(各々金の器に盛る)等なり。その外錦繍綾羅、愚筆余算に計え記すべからざるものか。

 

9月8日 京への報告

安達の新三郎飛脚として上洛す。これ合戦の次第を師中納言に付けらるるに依ってなり。
主計の允行政御消息を書く。その状に云く、
奥州の泰衡を攻めんが為、去る七月十九日鎌倉を打ち立つ。同二十九日白河関を越え打ち入る。八月八日厚加志楯前に於いて合戦し、敵を靡かせをはんぬ。同十日厚加志山を越え、山口に於いて、秀衡法師嫡男西城戸の太郎国衡大将軍として向かい逢い合戦す。即ち国衡を討ち取りをはんぬ。而るに泰衡多賀の国府より以北、玉造郡内高波々ト申す所に、城郭を構え相待つ。二十日押し寄せ候の処、相待たず件の城を落ちをはんぬ
この所より平泉の間五六箇日の道に候。即ち追い譴む。泰衡郎従等途中に於いて相禦ぐ。然れども宗たるの輩等を打ち取り、平泉に寄せるの処、泰衡二十一日に落ちをはんぬ。頼朝二十二日申の刻平泉に着す。泰衡は一日前に立ち逃げ行く。猶追い譴め、今月三日打ち取り候いをはんぬ。須くその首を進すべく候と雖も、遼遠の上、指せる貴人に非ず。且つは相伝の家人なり。仍って進すに能わず候。また出羽の国に於いて八月十三日合戦す。猶以て敵を討ち候いをはんぬ。
この旨を以て洩れ言上せしめ給うべし。頼朝恐々謹言。
九月八日  頼朝
進上師中納言殿

 

吾妻鏡1190年 (文治6年:建久1)

1月18日

由利の中八維平は、兼任襲い到るの時、城を棄て逐電すと。

 

2月12日 件の山を以て城郭と為し

軍士並びに在国の御家人等、兼任を征せんが為発遣す。この間奥州に群集す。
各々昨日平泉を馳せ過ぎ、泉田に於いて凶徒の在所を尋ね問うの処、兼任一万騎を率い、すでに平泉を出るの由と。
仍って泉田を打ち立ち行き向かうの輩、足利上総の前司・小山の五郎・同七郎・葛西の三郎・同四郎・小野寺の太郎・中條の義勝法橋・同子息籐次以下雲霞の如し。縡昏黒に及び、一迫を越えるに能わず。途中の民居等に止宿す。
この間兼任早く過ぎをはんぬ。仍って今日千葉の新介等馳せ加わり襲い到り、栗原一迫に相逢い挑戦す。
賊徒分散するの間、追奔するの処、兼任猶五百余騎を率い、平泉衣河を前に当て陣を張る。栗原に差し向かい、衣河を越え合戦す。凶賊北上河を渡り逃亡しをはんぬ。返し合わすの輩に於いては悉くこれを討ち取り、次第に追跡す。而るに外浜と糠部との間に於いて、多宇末井の梯有り。
件の山を以て城郭と為し、兼任引き籠もるの由風聞す
上総の前司等またその所に馳せ付く。兼任一旦防戦せしむと雖も、終に以て敗北す。その身逐電し跡を晦ます。郎従等或いは梟首或いは帰降と。

 

吾妻鏡1191年(建久2)

4月5日 門戸を叩き、城壁を破り

大理(能保卿)並びに廣元朝臣等の飛脚参着す。各々書状を献らる。去る月の比、佐々木小太郎兵衛の尉定重、近江の国彼の庄に於いて、日吉社の宮仕法師等に刃傷す。
仍って山徒蜂起し、所司奏状を捧げ参洛す。定重の身を賜うべきの由これを申す。また延暦寺の所司等を関東に差し進すべきの由風聞す。朝家の大事忽然出来す。その濫觴は、近江の国佐々木庄は延暦寺千僧供領なり。去年水損の愁い有り、乃貢太だ闕乏するの間、定綱(定重父)と云い土民と云い、これを沙汰し送らんと欲するに所無し。
仍って衆徒等、去る月下旬、日吉社の宮仕等を差し遣わす。日吉の神鏡を捧げ、定綱の宅に乱入し門戸を叩き、城壁を破り、家中の男女を譴責し、頗る恥辱に及ぶ。時に定重一旦の忿怒に堪えず、郎従等をして宮仕一両人に刃傷せしむ。この間誤って神鏡を破損すと。

「定綱の宅に乱入し門戸を叩き、城壁を破り」 「宅」の一部として「門戸」「城壁」が語られている。

4月6日「玉葉」

午の刻、延暦寺所司三綱、日吉社宮司等参り来たる。
三綱申して云く、大衆云く、近江の国佐々木庄は、当時千僧供庄なり。而るに若干の未済に依って、宮仕法師等を遣わし頗る以て譴責す。
然る間、自ら火を宅に放ち、宮仕等これを打ち滅す。猶これに付き、遂に以て焼失しをはんぬ。宮仕等退帰せんと欲するの処、三方の橋を引き、人通りを得ず。一方に路有りて、僅かに逃げ去る。時に数十騎の軍兵出来し、刃傷殺害す。疵を蒙るの者太だ多し。終命の者両三。事の奇異、先代未だ聞かず。
・・・仍って定綱並びに子息等を衆徒の中に賜り、七社の宝前に於いて子細を問うべし。
先達尊下の御続、而るに天庁を驚かすべし。即ち三綱一人を差し、南山に進すべきなり。
兼ねてまた所司一人を差し、関東に達すべしと。

佐々木庄の「宅」は「三方の橋を引き、人通りを得ず。一方に路有りて」と。堀の上に可動式の橋があり、それを取り払って一方だけを開け、そこに日吉社の衆徒を誘導して数十騎の郎党で襲ったと読めます。

4月11日

定綱佐々木庄を逐電するの由その聞こえ有り。これに就いて群議を凝らさるる事有りと。定めて関東に参向するの由、幕下仰せらるると。

幕下は頼朝のこと。


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