寝殿造 2.2.2   寝殿造の内郭・中門廊    2016.11.22 

中門と中門廊

『年中行事絵巻』巻三「闘鶏」(下)に描かれているのは当時最上級の屋敷であり、外郭と内郭を区切る中門と中門廊がが見える。そして、中門廊の妻戸から中の闘鶏を覗く者。闘鶏を見ようと中庭に潜り込んでいたのか追われて必死の形相で逃げる男の姿などが描かれている。中門の外側と内側は別世界である。

寝殿造の歴史

上中門

中門を持つこと自体が高い格式を示すが、更にその中でも格式が分かれる。上の絵に描かれた中門は上中門と云い、南北の中門廊よりも屋根が高い。これが最上級である。上げ中門の構造は四脚門。四脚門を建てて良いのは親王・大臣以上である。


格下の中門

それよりも若干格が下がるのは下の『松崎天神縁起』にあるような前後の廊と屋根が繋がっているものである。左側の開口部が中門である。

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『松崎天神縁起』。内側が床張りの部分(右)では連子窓(れんしまど)が横連子、土間の部分(中央と左)では縦連子である。これが連子窓の普通の形である。ただし、中門の扉が内開きになっているように見える。これは住房だからか、四脚門の上げ中門でない為なのかは良く解らない。中門の扉の向きはあとで触れるが、これは例外である。

さらに格下、というより簡略化された法然の板葺の住房の中門廊。廊はあるが中門は無い。鎌倉時代以降こういう形が目立つようになる。例えば藤原定家の一条京極亭には後付けの中門廊代はあっても中門は無かった。

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『法然上人絵伝』巻五、法然の住房。ただし連子窓(れんしまど)が横連子でなく、縦連子で描かれている。


表門と中門

『年中行事絵巻』の別の屋敷ではあるがこちらは本格的に格が高い。内郭の話からは外れるが、まず左の正門が四足門である。これは親王・大臣以上の格式である。実はこの シーンは天皇が父後白河上皇の住む法住寺殿に年始の挨拶にやってきたところである。朝覲行幸(ちょうきんぎょうこう)という。お供は摂政に近衛左右の大 將中将。正門と中門廊の間で出迎えに並んでいるのは公卿達というそうそうたる面々。中門が上中門であるのは「闘鶏」の中門と同じである。そして表門の正面に中門がある。

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中門廊の内側

上げ中門の最上級の例だが、中門廊の中庭側には壁も蔀も御簾もなく吹きさらしである。中門の北側には床と簀子縁があるが、南側にはそれはなく土間になっている。絵巻では細い回廊のように見えるが、実際の幅は四畳半から八畳の幅ぐらいはあったろう。「寝殿造の外壁」で述べたように、この中門南側の土間部分が土間でなくなり、壁も付いて部屋になることもある。

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『法然上人絵伝』巻9-「十種供養」。場所は後白河法皇の押小路御所。御所の中庭に人が大勢いるのは寝殿で法事(十種供養)があるためである。

表門と中門の扉の向き

門には裏表がある。絵画資料でその裏表をどう判断するかというと、扉の表面である。扉は木枠を作り、それに板を打ち付けるが、片面にしか貼らない。 従って木枠が見えず、板とそれを打ち付けた釘(釘隠)が見える方が表である。建物の妻戸(つまど)などは外側に開くが、門の扉は内側に開く。内側というと 語弊があるか。正確には、表の反対側、裏側に開く。開いた時には、扉の表面が通路に面することになる。それをベースに寝殿造の表門と中門の向きを調べた人 が居る。平井聖先生である。

すると、表門では外、路側が表、中庭に面する中門では中庭側が表となっている。表門では路側が表であることは誰でも当然と思うだろう。門はその屋敷の格式を示す。それを見るのは道行く人々である。

ところが、内郭に通じる中門ではこれが逆になっているのである。上の『法然上人絵伝』の中門の内側の描写でそれが良く解る。このあと出てくる『春日権現験記絵』にある関白忠実の屋敷でもそうなっている。冒頭の画像『年中行事絵巻』絵でもそうである。これはどういう ことか。結論から言うと、寝殿造前の中庭が「ハレ」。中門の外側は「ケ」なのである。冒頭の『年中行事絵巻』巻三「闘鶏」をもう一度見て欲しい。中門の シーンの右がこちらである。

中庭の幄舎(あくしゃ)

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中門の内側ではテントも張られ、年中行事のひとつである闘鶏が行われていて、この屋敷の主人一家(几帳の間から妻や娘も)がそれを楽しんでいる。ちなみにそのテントを幄(あく)、幄舎(あくしゃ)という。


それに対して中門の外側はいわば舞台裏で、出番を待つ鳥を持つもの。開いた表門からそこまでは誰でも入れるのだろう、中門廊の妻戸(つまど)越しに中を覗く 者。更には中門から中に忍び込んで見ようとしたのか、棒を持った係員に追いかけられ、烏帽子を手に必死に逃げようとする者まで描かれている。寝殿造の内郭 と外郭が別の世界であることがはっきりと描かれている。そして、表門が意識する視線は屋敷の外、「世間」であるに対し、中門の扉が意識する視線は、その内 側に居る主人や客人なのである。

ではその中門と表門に挟まれた空間は何なのか。はっきり言うと中門の内側の主人の生活のための舞台裏なのである。侍所や政所などの家政機関も、牛車を置く車宿も、厨房も蔵も舞台裏である。

平井聖の1995年8月日本建築学会大会・口頭発表をまとめた「絵巻に描かれた寝殿造の中門」による。ただし同論文中の)『西行物語絵巻』の読み方には異論がある。

ところで、格下の中門として紹介した『松崎天神縁起』の中門はこの説には該当せず、庭側に開いているようにも見える。これは格下の僧坊で寝殿造ではないからということにしておこう。

中門廊の連子窓

中門の両脇の中門廊は寝殿造には珍しく、白壁である。そして連子窓が付いている。実は連子窓は『年中行事絵巻』の「闘鶏」の中門廊にも描かれている。縦格子なのか横格子なのかは拡大鏡でも使わない限り判らないが、下の絵を見れば判るだろう。中門廊に連子窓をつけることは、門構え同様に屋敷の格式を示していた。そして中門の北側、寝殿に近い方は横格子で、南(池側)の土間部分は縦格子になっている。

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これは鎌倉時代末の『春日権現験記絵』にある関白忠実の屋敷である。おそらく東三条殿のつもりだろう。この絵巻が書かれた頃には消失していたが、『年中行事絵巻』巻三「闘鶏」を参考にしていると思われる。

中門廊の車寄戸は今でいう玄関である。いや昭和初期の屋敷の玄関である。そこを使える者は家族以外ではそんなに多くない。多くの者は勝手口にまわる。寝殿造での勝手口は「寝殿造の外郭・侍廊等」で触れる。

その内側はそこから床になっていることが見て取れる。そして連子窓は横格子になっている。この横格子の連子窓とその左の車寄戸は中門廊の重要な構成要素である。寝殿造の後期には中門が省略されることも多いが、それでも中門廊だけは残る。後の書院造につながる主殿造にも、中門廊は横格子の連子窓や車寄戸とセットで引き継がれる。


中門廊までが家来の世界

中門、または中門廊の内側、寝殿の南庭は主人の世界であるが、その主人への臣従を表す場でもある。例えていうなら寝殿南面殿上は閲兵式のひな壇。南庭は軍事パレードの場である。床の上と地下の身分の違いがある。平安時代後期に国司が赴任すると、在庁官人らが国司館の寝殿前の庭に並んでそれぞれ氏名と役職を名乗り、新任国司が「よし」と言うのが在庁官人の任命(再任)式であった。それと同様の光景は『吾妻鏡』にも執権・連署以下御家人が御所寝殿南庭に列座する姿などに見ることが出来る。

内郭の床の上はもちろん主人の世界だが、中門廊、広庇、縁まではある程度の身分の者の上がれる場所である。その身分によってそのどこまで入れるかが決まる。一番外側が中門廊である。中門が省略される場合でも中門廊の有無が屋敷の格式の境目となる。良い例が後に説明する藤原定家の屋敷である。

鎌倉時代14世紀の作とされる『法然上人絵伝』(下図)の押領使(武士)漆間時国の館には中門の無い中門廊がある。ここに中門廊が描かれているのは、地方の在地領主ながら押領使で、身分の高い武士ということを説明しようとしている。『西行物語絵巻』で、出家を決意した西行が鳥羽殿で院の近臣に暇乞 いする場は中門廊外側の簀子縁である。絵巻上の話とはいえ、兵衛尉に過ぎなかった西行は鳥羽院の中門廊には上がれなかった。

ただの廊下ではない中門廊 

漆間時国の館の中門廊に武具をまとった郎党が宿直し、寝殿には屏風の向こうに主人夫婦の寝姿が描かれる。この構図は寝殿に居る者と中門廊に居る者の身分的関係を完結に表している。中門廊(通常は中門の北側を指す)は只の廊下ではない。会社で言えば寝殿は社長室。二棟廊は役員応接室。それに対して中門廊は役員が社員を呼びつける小会議室のようなもので、陰陽師への諮問とか禄を与える場にもなる。

宴会場にもなる中門廊

中門廊は場合によっては宴会場にもなる。下の図26指図15は藤原頼長の内大臣昇格に勧学院学生(がくしょう)が参賀に訪れたときの指図である。将来のキャリア組とはいえ、内大臣からすればずっと下位の者であるので席は中門廊に設けられている。柱間三間を使い、相対する3枚2行の畳で20膳を用意している。先の『年中行事絵巻』では細くみえるが、当時最大級の東三条殿とはいえ中門廊なので、梁間は12尺は無いかもしれないが10尺はあるだろう。判りやすく云うと京間の四畳半を三部屋つなげたスペースで20人が食事と。これをもってもただの廊下ではないことが解る。

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川本重雄2012 『寝殿造の空間と儀式』より。)

格式の壁・諸大夫の座

鎌倉では元三椀飯に相当する公家社会の正月大饗(だいきょう)は太政官である大臣が開くが、東三条殿の場合、寝殿母屋に尊者(主賓)と公卿、西庇の間の少納言外記が西北渡廊 (ここまでが太政官)で、太政官でない殿上人が北西渡廊であるに対し、殿上人でない諸大夫は西中門廊である。

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頼長任大将饗(任官祝賀会)のときは、近衛府の大將・中将・少将と公卿は寝殿の南庇である。通常主人や尊者(主賓)と同席するのは公卿だけだが、この場合は任近衛大将饗なので近衛府の少将は例え五位であっても直属の部下で重要なゲストになる。近衛府官人でない殿上人は西庇。それに対して殿上人でない諸大夫は、寝殿の西弘庇も、西北渡廊(二棟廊)も北西渡廊も空いているのに、ずっと離れた西中門廊である。殿上人の座は近衛府でない殿上人。諸大夫座は殿上人でない四位・五位の意味である。

この両指図を比較すると、単にランク順に場所を割り当てたのではないことが解る。中門廊と西北渡廊(二棟廊)の間には簡単には超えられない壁がある。殿上人は勿論、中将・少将も位階では四位、五位で諸大夫のはずだが、位階だけではないランクというものがある。

『平家物語』には侍階級の家の出である平忠盛が殿上人となったときに公卿たちによる闇討ちが企てられるという「殿上闇討」が書かれているが、それが事実かどうかはともかく、ある意味位階以上の格式が貴族の意識にあったことを示している。

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(両図とも川本重雄2012 『寝殿造の空間と儀式』より。)

この廷臣の階級で云えば、鎌倉の親王将軍の御所は執権でさえ中門廊止まりである。『吾妻鏡』に執権が椀飯で御所に上がっている記事はあるが、あれは給仕役で一緒に会食をしている訳ではない。東三条殿の大饗でも給仕役は家人の家司が行っている。

中門廊は玄関

飯淵康一の研究

平井聖は、中門をくぐり寝殿南面の中央階より昇るのが主人の経路であり、普段訪れた人は中門廊の中門付近から昇ったとし(平井聖『日本住宅の歴史』 pp.89-90)、大河直腸も南階の使用は主人に限られ、中門廊の先端が訪問者の出入り口としては一番格が高く、一般的には中門廊側面にある戸口が多く使われたとする(大河直射『住まいの人類学』)。建築史の研究者でもなければその理解でも良いが、しかし現時点ではランクにより時代により一概には言えないことが判っている。

飯淵康一は『平安時代貴族住宅の研究』の5章においてその問題を時代別に分析した。といってもそうした史料が残るのは平安時代末以降であり、藤原道長やその子頼通の時代は判らない。比較したのは平安時代末の東三条殿での事例と、その東三条殿が消失して以降、ほぼ鎌倉時代初期の九条兼実の日記『玉葉』、そして鎌倉時代末から南北朝時代の代表的貴族、洞院公賢の日記『園太暦』等からその屋敷・中園殿である。かつ公式の外出である。

日記に残っているということは、自分の子孫の有職故実、例(礼)とするためである。なので散歩に出かけるとか、好きな女のところへ牛車で向かうときの昇降口などはそもそも書かない。公式行事ですらハイライトは記しても、いつもどうりな当たり前なことは「例の如し」とだけ書いて詳細を書いてくれず、おかげで千年近くも後の我々は「例」が判らず困ってしまうのだ。

平安時代後期

東三条殿で史料から拾える公式の外出のは東対南階が27回、中門廊が7回。南階を出入り口としたのは正月に諸卿以下の拝礼(摂関家拝礼)を受けた後、院御所に拝礼に向かう場合と「賀茂詣」、「春日詣」の三つの場合がかなりの部分を占めている。それ以外は「着陣」「着座」、「上表」の後の参院、「臨時客」の後の参院・参内・参東宮など様々であった。なお、東対南階をカウントするのはその時期において東三条殿の主は東対に住んでいるからである。
中門廊からの公式の外出7回は12世紀後半期の頼長の代に集中(5回)し、それ以外は忠実が2回であるが、1回は歩行が困難だったため、もう1回は「任大臣儀」の参内で、「任大臣儀」の参内は平安時代には常に中門廊からだったようである。従って「中門をくぐり寝殿南面の中央階より昇るのが主人の経路」というのは平安時代については正しいが、東三条殿焼亡後、平家が滅亡し鎌倉時代となるころから様相は変わる。

鎌倉時代初頭

東三条殿では以上のように南階を用いるのが原則であったが、九条兼実の時代には南階と中門廊の使い分けはほぼ半々であった。兼実の屋敷で南階が用いられたのは、「移徙」を除けば、「正月拝礼」を受けた後の参院と「賀茂詣」、「春日詣」で、摂関・氏長者としての重要な儀式時の外出である。

鎌倉時代末から南北朝時代

しかし「摂関家拝礼」は15世紀には廃絶し、「賀茂詣」、「春日詣」も13-14世紀中に行われなくなった。つまり南階を用いる最も大きな要因が消えた。鎌倉時代末から南北朝時代の洞院公賢の日記『園太暦』に記載のある公式な外出は7回。そのほとんどは中門廊からである。例外は貞和4年(1348)の「任太政大臣拝賀により参内」で、対代前階から出ている。平安時代には常に中門廊だったが、他が消滅したので「任大臣儀」の参内が一番の晴れの門出になったということか。

摂関家以外では

ところで、飯淵康一が比較したのは、その時代の公卿の中でも最上級の貴族である。「摂関家拝礼」や「賀茂詣」や「春日詣」など、扈従はしても主役になることはない普通の公卿だったらどうだろう。新築の寝殿に初めて入るときぐらいはカッコをつけて寝殿南階を使うかもしれないが、やったとしても全員ではなく一部であり、その一部の者にしたって新装花殿に入るなど一生の内何度あるかというぐらいだろう。ほとんど中門廊だったはずである。公卿より下の諸大夫だったら? 裕福な受領でもないかぎり中門廊すら無かったかもしれない。藤原定家でさえ、晩年の屋敷を家司に建てさせたら中門廊が無く、慌てて、といっても即座にではないが、中門廊代を増築したほどである。

裕福な受領ではなさそうな平安時代末の諸大夫、裕福な受領だが鎌倉時代末の諸大夫、同じ時代の地方の在地領主については改めて検討する。


寝殿南の池

寝殿造のイメージには必ず南に池がある。東三条殿にはそのイメージ通りの池があるが、しかし上級の寝殿造に必ず池があった訳ではない。南に門をもつ里内裏の一条院には南池はないし(太田静六、p.192)、主たる門が東 の12世紀初頭の三条北烏丸西殿、東西に門を有する11世紀末の藤原師実の大炊殿(大炊御門南・西洞院東)、西に主たる門を開く12世紀初頭の藤原顕季の 高松殿(三条坊門南・西洞院東)、更に土御門北高倉東殿のいずれにも南園池はない。すくなくともその存在を示す史料はない。藤田勝也は「南園池は必ずしも 普遍的ではなく、企図・造営は個々の邸の事情による、ということではないか」という。(藤田勝也2005、p.51)


 初稿 2015.10.20