寝殿造 6.2.4   西園寺家の北山殿      2016.11.27

北山殿

金閣寺、北山文化で有名なあの「北山」である。指北山殿は鎌倉時代の章では省略したが、西園寺公経が元仁元年(1224) 12月以降に開いた山荘であり、鎌倉後半期における有名な郊外別業である。場所は金閣寺のあたりという説明が一番判りやすい。

承久2年(1220)に公経は入道兵部卿の所有していた北山の家地、回畠、山林をその所有を尾張国の荘園と交換することで入手し、墓堂を造立して西園寺と名付ける。それが西園寺家と呼ばれるようになる発端である。

公経存命中の寛元2年(1244)2月に、ここ西園寺五大堂で七仏薬師法の修法がいとなまれたが、五大堂は七間四面東広庇付きの大堂であったらしい。

鎌倉時代の後期には、公経から五代目の当主公衡の日記『公衡公記』に北山殿の記事が多くみられる。寝殿は北屋と南屋のふたつあるところは今出川殿と同じである。弘安11年(1288)3月28日条に南屋寝殿において普賢延命法が修されたときの指図がある。寝殿は南面五間、奥行五間で母屋は棟分戸で南北に二分され、その奥の北庇は梁間二間である。なお、公卿座とその弘庇が東対代廊である。

北山殿の寝殿造

関東申次として朝廷と鎌倉幕府との中継として権勢を誇った西園寺氏も、鎌倉北条氏滅亡により力は衰え、最後の関東申次であった権大納言西園寺公宗が謀反の疑いで処刑さるなどし、北山殿の維持も困難となり荒廃してゆく。しかし、南北朝の戦乱で洛内の大規模な寝殿造がほとんど失われる中では、郊外にあった北山殿はかつての名残をまだ留めていたようである。足利義満は応永4年(1397)に 西園寺氏から北山殿を入手したらしい。室町時代の文化を北山文化、東山文化というが、その北山文化の北山とはこの北山殿からである。それについては足利義満の屋敷で見てゆく。


初稿 2016.11.27