寝殿造 6.3.2    里内裏・冷泉富小路殿      2016.10.15 

概要

この御所は元は西園寺実氏の所有であったが、実氏の娘が後嵯峨天皇の中宮(大宮院)となり、その御所にあてられ、子が生まれると東宮御所ともなった。寛元4年(1246)、東宮はこの御所で即位する。後深草天皇である。天皇は閑院皇居に居たが、宝治3年(1249)2月1目、関院焼失により、再建までの間ここ富小路殿に移る。そして正元元年(1259)、再度の閑院焼失によりここに移る。同年11月に弟の亀山天皇に譲位したが、ひきつづきここを院御所として用いた。『とはずがたり』の主な舞台はこの御所である。

なお、後深草院の中宮公子(東二条院)は母と同じ西園寺実氏の娘で、天皇在位の折にはこの御所は中宮御所となっていた。つまり実氏の所有する富小路殿がその女系を通じて後深草院系後の本所となった。しかし徳治元年(1306)又も消失し、後深草の子伏見院は持明院殿を本所とし富小路殿を再建しなかった。その後、後深草の系統を持明院統と呼ぶようになる。

先の大炊御門万里小路殿は後嵯峨院から亀山院の系統(大覚寺統)に相伝され、その内裏、或いは院御所にのみ用いられ、他方富小路殿は後深草院の生涯を通じて院御所にあてられる。基本的にはどちらも院御所であることを本質とするが、初期或いは末期において鎌倉方より造進された閑院や、後には二条富小路内裏があったときには、それを両統の天皇が交互に使用していた。しかし閑院が焼失して二条富小路殿が造立されるまでの期間は、本所の院御所を里内裏にするとでもいうような形になっていた。

この御所の位置は冷泉小路の南、二条大路の北、京極大路の西、富小路の東にあり、方一町の地を占めて、富小路に面して、正門を開くところの所謂西礼御所であった。

なお、正和元年(1312)に鎌倉幕府より造営料が寄進されて新内裏を造営されることになり、この富小路殿跡地がその敷地に定められた。新内裏は文保元年(1317)に完成したが、これは旧閑院を模して内裏として整備した御所で、造営料が関東方負担であったため、両統何れかに所属するものではなく、共用の内裏専用施設であった。この内裏は屋地は同じであっても別物である。

寝殿

寝殿については、指図からは南庇が桁行き七間であることしか解らない。

角御所(小御所)

『門葉記』に角御所が仏事道場に使用されたときの指図が三つある。まず、正応2年3月9日「仏眼法道場指図」。これは角御所が道場であることが明記されている。「道場」の下に「二条京極角御所西面為道場。東寄為御壇所」とある。これでこの角御所が富小路殿の北西であることも解る。二つ目の正応6年3月33日「熾盛光法道場指図」である。角御所との明記は無いが、このとき同時に寝殿で御加持が行なわれており、道場への経路などから川上貢は角御所と見なして良いとする。もうひとつは永仁5年3月24目、「彗星御祈五壇法仏事」の指図であり、「道場号角御所」とある。それらの指図から川上貢は『新訂・日本中世住宅の研究』 p.62 においてこの角御所を七間×四間とみなし次のように書く。

そこで、角御所は桁行七間、梁行四間の大きさをもち、その西南すみに二間の突出した廊が附属していたと見倣される。

それらの指図から川上貢は『新訂・日本中世住宅の研究』 p.65 においてこの角御所をこのように書く。

御所郭内の東北に位置し、西面をもってハレとする子午屋で二間に五間の母屋に四周一間の庇がついたいわゆる五間四面屋であって、西南すみに中門廊が附属した建物であったと見倣される。

「五間四面屋」だけなら孫庇は含まないので正しいと思うが、しかし川上貢はその前にこの角御所を七間×四間とみなしている。本当にそうなのだろうか。ひとつ腑に落ちない点が残る。それを川上貢が紹介した三つの指図から説明する。

都合3回の仏事は「仏眼法(ぶつ げんほう)」「熾盛光法(しじょうこうほう)」「彗星御祈五壇法」と、行う修法がことなるので、使用されたスペースも異なる。下の図はその三つの指図の情報を合わせて基本となる平面図をつくり、それに3回の法事の道場に色を付けたものである。メインとなるスペースをオレンジで、従となるスペースを黄色で表した。

寝殿造・角御所

問題は御聴聞所である。上左の正応2年3月9日「仏眼法道場指図」では北1〜2間、メインの壇所の北に御聴聞所がある。そこが母屋でなく庇であってもこれは不自然ではない。納得出来る。しかし他の二つはどうだろう。右上正応6年3月33日「熾盛光法道場指図」も、左下永仁5年3月24目、「彗星御祈五壇法仏事」でも御聴聞所は簀子縁になってしまう。そんなことがあるのだろうか。御所の仏事での御聴聞所とは、院や天皇が修法の真言や祈祷を聞く処なのだ。院や天皇を簀子縁に座らせるなどということがあるのだろうか。あるのかもしれないが、その例が見つかるか、誰かが教えてくれるまではもっと納得出来る理由を考えておく。道場の北側にもう一間北庇、あるいは孫廂があったのではないかと。

寝殿造・角御所

もう一間北庇、あるいは孫廂があったとすると、この角御所の小寝殿は桁行八間、梁行四間の子午屋、つまり南北棟の建物ということになり、仏事の指図からうかがえる柱の位置から、おおよそ右上のようなエリア分けになる。初期の寝殿造とはだいぶ違う。加えて、ここに分けたエリアは鳥居障子などで更に細かく仕切られていたかもしれない。鳥居障子だって建具に過ぎず、仏事などの必要に応じて取り外しもしただろう。

初稿 2016.10.14