寝殿造 7.1.4      足利義教の室町殿       2016.12.1

足利義教

六代将軍・足利義教は有名な将軍である。室町幕府で将軍らしい将軍は尊氏からこの義教までと云っても良い。

義教は応永元年(1394年)6月14日、足利義満の五男として生まれた。応永10年(1403年)6月、青蓮院に入室し、応永26年(1419年)11月には26歳で天台座主となる。前ページで述べたように義持も応永35年(1428)に後継を決めないまま死去。次ぎの将軍は籤で決まったが、その籤引き将軍が六代将軍・足利義教である。ただし将軍宣下は髪が伸びてからであった。

正長元年(4月27日に改元)7月6日、伏見宮貞成親王の皇子・彦仁王が跡継ぎを亡くした後小松上皇の猶子となり、20日に後花園天皇となった。これは義教の働きによるところが多い。正式に征夷大将軍となるのはその翌年の正長2年(1429)3月である。
儀礼の形式や訴訟手続きなどを義満時代のものを復活させ、評定衆・引付に代わって、自らが主宰して参加者を指名する御前沙汰を協議機関とし、管領の権限抑制を行うなど、一時期の北条貞時を思い出す。さらに義持が中断した日明貿易を再開させた。また社寺勢力への介入を積極的に行った。もともと天台座主であったにもかかわらず、比叡山一帯を軍勢で包囲して降伏させたり、延暦寺代表の山門使節4人をの首をはねたりしている。

大内氏などに九州征伐を命じ少弐氏大友氏を撃破する。永享の乱により鎌倉公方足利持氏を打つ。また、有力守護大名の家督継承に干渉し、意に反した守護大名、一色義貫を打ち、土岐持頼を誅殺する。

そこまでは父・義満の路線、将軍権力強化の踏襲にも見えるが、永享6年(1434年)6月、中山定親は日記『薩戒記』に義教に処罰された人間を、公卿59名、神官3名、僧侶11名、女房7名を挙げ、伏見宮貞成親王は『看聞日記』に「万人恐怖、言フ莫レ、言フ莫レ(永享7年2月8日条)」と書き残している。かなりの恐怖政治で廻りはビクビクしていたらしい。最後は、赤松教康の屋敷に招かれ、そこで殺された。嘉吉元年(1441)6月24日の嘉吉の乱である。この結果、将軍権力は弱体化し、守護大名の統率力を失う。

室町殿

義教は義持の三条坊門殿を受け継ぎ、永享2年(1430)7月25日にこの御所で右大臣拝賀を行なっが、その後、父義満の室町殿跡に新御所を造立する。『満済准后日記』永享3年(1431)8月3日条にこうある。

三日、晴、未明自山名禅門方書状到来。非殊儀、就室町殿御所御移住事、去廿八日於管領面面会合談合、用脚一萬計分先支配云々、三ヶ国四ヶ国守護千貫、一ヶ国守護二百貫云々、仍千貫衆七人、二百貫十五人云々。

造営費用は三ヶ国四ヶ国守護七人が各千貫、一ヶ国守護一五人が各二百貫の割当で徴収され、計一万貫の予算が見積られた。換算は難しいが、家康の関東入府時の相場を使えば四万石。ただし年貢はその1/3ぐらいだから、12万石の大名の1年分の総収入である。かなりな額だ。これで見ると三・四ヶ国守護七人が室町幕府の屋台骨なのだろう。しかしバラバラな柱で貫(ぬき)は用いられていないとみた。もしかしたら長押も使われていないかもしてない。もうすぐ倒れる。

ところでその「上御所御事始」が『満済准后日記』永享3年(1431)8月22日条にあってなかなか面白い。

番匠大工束帯、引頭衣冠、少々布衣在之、番匠二三百人参了、事始体此辺正月事始儀全同前、檜皮大工又同前、以檜皮笏致拝了、其興不少、将軍御笑、次壁大工致拝如常。

「番匠大工」というのは木工寮の大工(だいこう)だろう。今の大工さんとは違って、いわば建設省の技官のトップであり五位の位をもつ。貴族の正装「束帯」(今なら燕尾服?)を着している。 「引頭」はその下の現場監督か。貴族の略装「衣冠」(今ならタキシードか)で、多少「布衣」も居ると。ちなみに将軍足利義教はこのとき「萌黄御直垂」だった。檜皮大工も五位の位をもつことがあるが、この記述では「番匠大工」の下、「番匠引頭」の上の方ぐらいと同格か。笑ったのは檜皮の束を笏のように持って拝礼をしたと。将軍も笑ったらしい。ちなみに拝礼は将軍に対してではなくて、土地の神様、地主神にだと思う。

永享3年(1431)12月に義教の室町殿への移徒が行なわれた。永享9年(1437)4月頃の施設内容は以下のものが知られる。

  • 寝殿、小御所、新造小御所、北向会所(泉殿)、南向会所、新会所、
  • 観音殿、持仏堂、月次壇所
  • 厩、対屋三宇、台所
  • 車宿、随身所、諸大名出仕在所、御雑掌所
  • 四足門、唐門、上土門、小門三、扉中門
  • 鴨川の支流(今出川か)より水をひき入れ、園池や築山など庭園にも工夫が凝らされていた。

敷地は次ぎの義政の頃に「室町殿は東西行四十丈、南北行六十丈之御地也」といわれているので、南北行は一町半と考えられる。西面室町を晴面とした。

礼向きの殿舎

正門から寝殿までは図が残っているので出しておく。「室町時代の足利将軍御所」で既に見せているが、「室町殿御亭大饗指図」から起こした「室町殿寝殿図」である。

室町時代の寝殿造

室町時代の足利将軍御所」でも述べたが、正応元年(1288)10月27日の近衛殿大饗指図とほとんど同じパターンである。殿舎の大きさは異なるが、位置関係は全く変わらない。。実はこれが鎌倉時代はおろか平安時代から変わらない大臣家以上での寝殿造の礼向きワンセットである。公家社会の儀式はその範囲の中で行われる。室町将軍も大臣として公家社会の上位の一員である。

もちろんこの範囲が室町殿ではなく、この東に小御所・新造小御所・北向会所(泉殿)・南向会所・新会所、更に観音殿・持仏堂・月次壇所などがある。特に会所が三つも出てくる。 その配置は判らない。

その用法を知る手がかりに『康富記』嘉吉2年(1442)11月8日条、義勝の元服参賀がある。

予束帯〔丸鞆〕乗輿也、入四足参昇殿上末侍所〔入妻戸〕、此処雲客少々被交居之、(中略)、御出座之刻限、殿上ヲ通テ公卿座ヲ経テ寝殿之南欄之上ヲ経テ、御殿二三ヲ過テ、御会所ノ南向ニ参テ、?ノ内ニ御太万ヲ置テ、後二御座ノ方ヲ拝見シテ退出了

「丸鞆」は束帯装束のときに用いる黒皮製の帯の飾り石。円形のものは円鞆(まるとも)と呼んで日常用で儀式にも使うらしい。「?」は敷居だろう。

昇殿の作法に公卿と殿上人の区別がみられる。公卿は中門廊より入り、公卿座を控室とするが、中原康富のような公卿より下の殿上人は中門廊か らは上がらず、殿上末の侍所に入り、そこを控室にして待機している。そこから同じ棟の殿上を通り、公卿座(おそらく二棟廊)や寝殿の中を通るとは思えないので、公卿座の前の簀子縁か弘庇、そして寝殿の簀子縁を通って会所に行っている。それらは順に西より東へつながっていたようである。会所までの間に「御殿」が二三とは観音殿とか他の会所だろうか。

寝殿

寝殿についは『門葉記』に永享12年(1440)10月23日の北斗法仏事の記事がある。

一道場事、南向御寝殿七箇間之内、以中間五箇間為内陣引幕、東端一箇間者御聴聞所也、則懸御簾上幕、西端一箇間者承仕休所歟、以上以廂七箇間為外陣、即於西端三箇間敷伴僧座四帖矣。

道場指図もあり、それをもとに川上貢が作成したのがこの平面図である。 

 足利将軍御所の寝殿造

棟分戸以南は母屋二間×五間の東西南の三方に庇がめぐらされている。言い方は妙だがこの寝殿の寝殿造部分である。永享4年7月25日にここで義教の任内大臣大饗が行なわれた。南庇東方に主人座(親王座)、その北、南庇の母屋側に南面して公卿座、西庇に東面して弁少納言座が儲けられた。そして対代(とあるが公卿座のこと)に外記・史の座である。装束ならびに作法次第は鎌倉時代の鷹司兼忠の近衛殿における任内大臣大饗のそれとほとんど同じである。

しかしこの寝殿の棟分戸以北は母屋・庇の別がなく引違障子で大小の諸間に仕切られている。この形式は鎌倉時代からあった。この今出川殿の平面図もそうだ。ただ北側は梁行二間ではなく三間に拡張されている。ここは義教の常御所ではなかったようで、『看聞日記』永享7年(1435)8月22日条によると伏見殿が訪問したとき、寝殿北面は休所にあてられていて、こう書かれる。

寝殿北面〔蚊帳、宿衣披置、男共候所まて三座敷ニ室礼、茶具足等披置〕、暫休息。

「蚊帳」は初めてお目にかかる。また『満済准后日記』永享4年(1432)正月8日条にこうあり、

寝殿北向間障子ヨリ西、東西四間、南北三間也、但此内南東寄二ケ間号御小袖間、被安置累代御鎧御剣等也。

同記永享4年(1432)5月8日条に「御小袖間」の詳細が記述される。

其様ハ寝殿北向傍南〔号御小袖間〕一間々半計在所在之、四方以厚板為垣、北面一方板戸、其腋ハタ板也、戸ク々ロ掟也、其上又板戸、同ク々ロ也、仍二重戸在之、(中略)御重代御太刀〔号サ作ト〕、丼御重代御鎧〔号小袖〕、戸入口ニ大文御座二畳並敷之

「ク々ロ」というのは簡単に言うと鍵である。塗籠なのだが、云ってみれば宝物金庫室としての厳重な納戸である。その隣室(四間?六間?)には金庫室のガードマンとして武士がつめていたらしい。川上貢はこの寝殿造平面についてこうコメントする。

この寝殿平面は南半面には寝殿造の伝統手法を温存し、北半面では書院造の手法への移行を示していて、保守と進歩の両手法が一つの平面のなかで共存していると言える。これは守護大名の連合政権である他方に、古代的権力との妥協の上に成立していたところの、室町幕府がもっ性格が、幕府の統率者であった将軍の邸宅にも、反映していることを示すものである。(p.368)

ところでこの寝殿、私の作図は丸のままだが、指図には柱が角柱になっているらしい。角柱を今まで通り丸柱に書いてしまうというのは室礼指図にはありそうな話だが、丸柱をわざわざ角柱に書くとは思えない。

平安時代感覚だと、角柱は丸柱より格が落ち、上級の寝殿では弘庇の外側の柱ぐらいにしか使われていなかった。先に引用した『看聞日記』永享7年(1435)8月22日条にも割書に「三座敷ニ室礼」とある。「座敷」というと畳敷き詰めに見えるが、15世紀中頃の最上級建築であるので、寝殿北側ならすでにそうなっていたのかもしれない。一般に角柱は畳みが敷き詰められるようになると丸柱では隅がうまくないので、と説明される。


ちなみに丸柱は皮を剥いだだけの丸太ではない。それでは割れてしまう。芯去りと云って、太い木を縦に四つ割りにしてその四つを丸く削ることによって芯を外す。そんな贅沢が出来ない場合には一カ所だけ鋸で縦に切っておく。すると木材の外周が乾燥して割れるときにはそこに集中し、そこ以外は割れない。


常御座所

次ぎに会所を見ていこう。まずは『満済准后日記』、氷享4年(1432)正月13日条に、

松奏以後御歌御会在之、当年初丼新造御所御会初也、・・・(参列交名等略)・・・、准公宴儀歟如何、披講悉一反、御詠計五反歟、先々予丼実相院詠三反議之キ、去年御会中絶、其後御再興以来悉一反也、御座及数刻故歟、披講了御一献、五献在之、将軍御沙汰云々。御前着座人数、予、実相院上壇九間、南将軍御座、令向北給、西予、実相院、向東着、次東四間〔一段下〕三条大納言、山名、細川右京大夫、畠山阿波守、赤松入道〔以上北〕飛鳥井中納言、三条中納言〔以上南〕、御陪膳一向武家輩、五献了各退出。

次は同記同年正月19日条である。

月次御連歌在之、御人数如去年、当年新衆左府被参了、御座敷次第、将軍常御座所〔非常御所〕西向九間也、南頬北面将軍御座〔御小直垂〕、西頬東面摂政、左府、東頬北面予、次聖護院准后西面、次実相院僧正、北頬南面三条大納言、中央執筆蜷河周防入道〔直垂〕、執筆後向、未申山名、赤松、石橋、細河阿波入道、一色左京大夫、京極加賀入道、僧瑞善、赤松伊予、同播磨守、山名中務大輔、一色、吉原入道、三上近江入道、次四間〔一段〕承献、重阿、去阿、祖阿等祗候。

川上貢はこう書く。

同様に御歌御会の会場に「上壇九間」と「次東四間下段」の座敷が使われている。何れも会場が「上壇西向九間」と「次東四間下段」であるところから、両者は同じところで常御座所を指すものであることは明らかであろう。

ところで、当時この邸の会所はまだ完成していなかったらしい。するとこの御歌御会の会場は何処なのか。「将軍常御座所〔非常御所〕」とあるので常御所ではないし、小御所がそれに相当するならば小御所と割書しそうなものだ。それに小御所は将軍夫人の居所であったので適当とは思えない。常御所とは平安時代から鎌倉時代まで、建物ではなく、単にスペースを言い表していたのだが、この屋敷での常御所は寝殿の北庇とかいうものでなく、独立した一棟の建物である。というのは『満済准后日記』の翌氷享5年(1433)10月3日条にこうある。

住心院僧正相語云。去廿五日夜光物室町殿観音殿ノ上ニ飛廻云々。叉同廿六日歟。北築地腹ニ傍件光物在之云々。次廿八九日歟之間。常御座所棟ヨリ北軒辺へコロヒ落体ニテ失了。如此三ケ度云々。

要するに数日間雷がゴロピカなって、先日は「常御座所棟ヨリ北軒辺」に落ちたと。だから寝殿の一部とかではなくて独立した棟であるはずだ。
悩んだあげくか、川上貢はこの次ぎの義政の室町殿で「常御所〔夜御座所〕」と書かれていることがあるので、割書の常御所を夜御座所と解すれば御歌御会の行われた御座所は昼御座所。つまり、建物としての常御所は常御座所(昼、居間)と常御所(夜、寝所)の両者で二分される室構成を持ち、 当時はそれぞれ別の呼び方をしていたのではないかと云う。ありそうな話だ。そう考えないと辻褄が合わない。

ところで、その和歌会の記事に「上段」と「下段」が出てきた。13日条には「上壇九間、・・・次東四間〔一段下〕」、19日条には「九間也、・・・次四間〔一段〕」と。「次四間〔一段〕」とは一段下ということだろう。なにやら書院造のにおいがプンプン。なにしろこの屋敷は寝殿造のほぼ最後の段階。もうすぐ応仁の乱で寝殿造は滅亡し、書院造の助走に入るのだから。

ただしこの上段・下段は、例えば聚楽第などでの上段・下段とはだいぶ雰囲気が違う。聚楽第以降の書院造において、上段は太閤秀吉とか将軍で、下段はそれに臣従を誓う戦国大名だったが、この義教室町殿の会所(ではないのだがその代用の将軍常御座所)では13日条では上段に居るのは将軍と満済准后本人、あとは実相院僧正だけで、三条大納言以下諸大名は下段の四間に居るが、19日条では、大名クラスはみな上段に居て、一段下は「承献、重阿、去阿、祖阿等祗候」と、かなり下位の者の祗候する場となっている。僧名だが僧正とか僧都とかの役職の付かない、それこそ観阿弥、世阿弥とかいうほとんど地下のクラスに見える。貴族社会なら公卿と六位蔵人ぐらいか。これはどういうことだろう。13日は「当年初丼新造御所御会初」のかしこまった席ということか。13日に「准公宴儀歎如何」とある。それに詩を詠んでいるのは上段の三人だけのように読める。下座の三条大納言以下諸大名は列席の観客ということか。


会所

会所は三棟あり、まず南向会所、次に会所泉殿(北向会所とも)が、そして新会所がつくられた。何れも美麗・荘厳で、満済は「北山殿以来多御会所一見処。超過先々了」と賞賛している。

室町殿の会所についてはその座敷の構成については明らかにし難いが、室町殿とほぼ時期を等しくして造立された醍醐寺金剛輪院会所は、「西押板」「棚」「とこ」の三者をそなえた「とこの間」と、南向押板をもっ座敷で主座敷が構成されていた。おまけにそれが知られるのは醍醐寺文書の「御会所御飾注文〔自公方披進正文云々〕」によってである。なお『満済准后日記』の満済はこのとき醍醐寺第74代座主である。『満済准后日記』、氷享2年(1430)3月16日条にもlこうある。

十六日、雨、自室町殿会所置物、御絵七幅、小盆三枚、古銅三具足、同香合、花瓶一対、同卓二、草花瓶一、同卓、(以下略、割書も略)・・・以上色々以立阿弥被迭下之了、祝着眉目此事々々、立阿ニ二千疋賜之也、立阿令奉行置物共悉置之、飾之了罷帰也、

「御会所御飾注文」は、永享2年(1430)3月17日、将軍義教が花見のため醍醐寺で接待をうけるに際し、そのに前日将軍家より金剛輪院に進上され、将軍家同朋衆の立阿弥によって、新造会所に置き飾られたものの御飾注文である。そこに「御とこの間西おしいた」「たなの分」「とこの分」「御南むきのおしいた」に分けて満済が記した置物が列記されている。今の感覚なら「並べすぎ、ギャラリーかい!」と思うが、ギャラリーにすることが贅沢三昧だったようである。

一般に「能阿弥芸阿弥相阿弥の三代は、書院座敷飾りの様式を創案」とされるが、それ以前から始まっており、能阿弥らはそれを様式としてまとめた、あるいは能阿弥以降しか事績が知られていないとみた方が良いだろう。

義教室町殿の会所の指図や詳しい状況は伝わっていないが、北山殿以来多くの会所のなかでも、これを過ぎるものはないと評された室町殿会所は、この醍醐寺金剛輪院会所と同じ流れで、ここに現れた「西押板」「棚」「とこ」の三者をそなえた「とこの間」などを備えていたものと思われる。ただ、川上貢は「室町殿会所は、金剛輪院会所のモデルであったことはたしか」とするが、金剛輪院会所の記事は永享2年(1430)3月。少なくとも建物としての義教の「室町殿会所はまだ出来ていないはずで、同じ流れと云うに止めておいた方が良いだろう。ここで云われる「とこの間」は書院造が完成された時代の「とこの間」とは少し違うようであるが、書院造の下地は確実に見られるようである。

この義教の室町殿へ伏見殿(貞成親王) 夫妻がしばしば訪問している(『看聞日記』)。その訪問は正月の参賀、方違御所、或いは遊興・社交の会合参加など種々の場合がみられるが、まず室町殿四脚門より入って、中門・中門廊を経て公卿座内に着す。そこで室町殿側近者(申次)に将軍への取次を依頼する。次に会所へ通され、主客共に内に着座して対面儀礼が行なわれる。酒宴または遊興会合が行なわれるときは、そのまま同じ会所内で催されている。参賀のときは挨拶のみで退出し、次に将軍夫人への参賀にその居所へまわる。先に『康富記』嘉吉2年(1442)11月8日条にある中原康富の義勝の元服参賀を紹介したが、参賀は少し特別だろう。

室町将軍邸や醍醐寺のような立派な殿舎を備えない場合はどうかというと、伏見にあった伏見殿御所のような狭い御所では会所はなく、常御所と客殿の両室を臨時の会所にあてていた。しかし永享7年(1435)末に移住した洛中の伏見殿御所では、寝殿内東面に常御所とは別に会所が一室設けられたようである。それでも別棟では無かった。天皇の父親なのだが。

ただ、誰でも会所に通された訳ではなく、川上貢によると(p374)それまで公卿座で行なわれていた接客から、来客の身分や格の高下、というより重要度に応じて接客空間の分化が始まったところに、会所の成立があるようである。単なる面会から晩餐会が分化し、迎賓館が出来ておもいっきり趣向を凝らしたと。


義教室町殿の最後

この室町殿は嘉吉元年(1441)6月14日に義教が殺されたあと、子の義勝にひきつがれるが、義勝は2年後に死に、その弟・義政が将軍となる。義政は室町殿に移住しないで、養育された日野資任の烏丸殿を御所とし、室町殿は解体されて、一万貫も投じた豪邸の存続期間はわずか10有余年にすぎなかった。



初稿 2016.12.1