寝殿造 5.1   寝殿造の論点          2016.1.18

寝殿造の論点

ここに上げたのは私が「こうなのだ」と思っているということではなく、今後ここに上がった論者の著書や論文を読まなければならないという、自分向けの備忘録である。


邸第論・寝殿造論

以下は『平安京の住まいの』冒頭(序章)西山良平の「平安京の住まいの論点」の内容をベースに、稲垣栄三の「寝殿造研究の展望」にあるものを追記した。書かれた時点は稲垣栄三の方がずっと古い。なにしろ2001年に亡くなっているのだから。

太田静六

「太田静六博士の研究の中核をなす部分は、文献と指図に基いて、邸宅を構成する殿舎群の配置、ならびに個々の平面図や建築的特色を復原することである。平安貴族は年中行事化した儀礼の模様をまことに詳細に日記に書きとどめている。儀式の一部始終を、主要な人物の移動、鋪設(しつらえ)の形式と設け方にいたるまで克明に記録し、ときには指図を付して文章を補った。おそらく先例を維持し、いま目前で行われている儀式が新しい先例として後世に伝えられることを期待して、あの厖大な日記群が書かれたのであろうが、こうして残された同時代の記録が邸宅の復原にとって最も有力な根拠を提供する。

したがって当時の記録に基づく復原は、おおむね儀式の主要な会場となる部分に限定されざるをえないが、しかしそれは寝殿・対を含む寝殿造の中心部分にほかならないから、こうして復原された個々の邸宅の状況は、寝殿造と呼ばれる住居の型を理解するのに十分な役割を果たした。実際、太田博士の浩識な研究によって、われわれは寝殿造について明確なイメージをもって描くことが可能となったのである。

戦後、寝殿造に関する研究はすべて太田静六博士の研究成果を出発点として開始されたといっても言い過ぎにはならないであろう。」(稲垣栄三「寝殿造研究の展望」 改行改変)

特に最後の部分は全く異存はない。加えてここに書かれている研究方法は太田静六に限らず、事実上寝殿造研究の方法であり、限界である。限界というのはやり方が悪いとかいう話ではなく史料的な限界である。ただし太田静六先生の復元図を見ていると、先入観が強すぎる気がする。

川本重雄・寝殿造の歴史的変遷と儀式

「戦後の研究は全体としてみると、儀式の際の使われ方を通して、寝殿造を構成するそれぞれの建物や空間が、どのような性格と役割をもっていたかを解明することに関心が集っていた。儀式の経過を詳しく記す日記は、単にその建物の復原にとっての根拠になるだけでなく、人と建物との関係についても限りない情報を提供する。視点を建物から、そこで行われている行事に移行させることで、寝殿造研究の新しい領域が拓けてきたといってよい。

こうした視点から寝殿造の用法を個別的に解析し、従来にない寝殿造像にまで到達したのは川本重雄氏の研究であった。川本氏は個々の邸宅における正月大饗・任大巨大饗・臨時客その他の儀式・饗宴の展開を空間的に追跡する。これによって人の動きと空間の性格との対応がまず導き出されるわけであるが、川本氏はさらに、儀式に参加する貴族の官職、位階、身分、血縁関係に着目して、儀式そのものが貴族社会の秩序の反映であり縮図であることを突きとめる。

川本氏の見解は次のように要約できよう。寝殿造における儀式が本格的に発展するのは摂関政治が始まる時期であって、正月大饗がその中心的儀礼であった。寝殿を中心に展開する正月大饗は、内裏紫宸殿で行われていた節会を祖形とし、また参加者の座の構成をみると律令時代の秩序をそのまま反映して、下級官人を含めて太政官に属する官僚がその主体であった。しかし十一世紀のはじめ、道長による摂関政治の確立期を境として、中心となるべき儀式は正月大饗から臨時客に移行する。それは同時に律令的秩序から摂関政治の価値感への移行でもあって、参加者もまた太政官人の枠を廃して、公卿・殿上人・諸大夫が主体となる。臨時客の場は対屋が中心であったから、上述の変化は寝殿造の中心となるべき建物が寝殿から対屋に移ったこと、したがって寝殿造に対する理念の基本的な転換に結びつく、というのである(川本重雄『住宅史の視点--寝殿造と儀式』 〔『季刊カラム』第99号掲載、東京、昭和59年〕 )。

川本氏のこのような見解は、寝殿造という建築の一つの型を巨大で錯綜した貴族社会の枠組のなかで捉えようとする極めて意欲的な考察の結果であって、現在の時点における寝殿造理解の一つの到達点といってよいであろう。」(稲垣栄三「寝殿造研究の展望」 改行改変)

「川本重雄氏は、寝殿造の歴史的変遷と儀式には深い相関関係があり、寝殿造は儀式用の建物から成立すると強調する。平安時代の貴族住宅では、11世紀(藤原道長時代)以降、儀式の会場が寝殿から対に変化する。寝殿の座の序列は太政官の官職の秩序に従い、対では公卿・殿上人・諸大夫の秩序で決定される。対のあるべき姿が確立し、貴族住宅の中心が寝殿から対(の一方)へ移り変わり、その対称性が崩れていく。寝殿造の建物構成では、住まいの形が先にあり、それに合わせて居住を工夫する。平安貴族は儀式を行う寝殿造に居住する。寝殿造では、儀式用の空間を仮設的な装置で区画し、住空間を作り出す。さらに、寝殿造の定義から建物構成の問題を切り離し、建築の細部意匠や空間的特徴だけで定義する。寝殿造の内部空間は庭に開放され、庭と一体の儀式用内部空間から生まれる。寝殿造の起源は大陸から伝来した宮殿や官街など儀礼専用建築である。九世紀以降、貴族住宅に内部空間を庭に開放する形式が取り入れられる。」(西山良平の「平安京の住まいの論点」 p.7)

川本重雄は既に読んだが確かにそう云っている。もっとも最上級の摂関家東三条殿の儀式の指図がベースで、寝殿造一般とは言えないと思うが。それに東三条殿は少なくとも史料が沢山残る時期においてはそもそも住むため屋敷ではない。それが先に述べた「やり方が悪いとかいう話ではなく史料的な限界」である。

飯淵康一・儀式時における空間的性質

「川本氏とともに寝殿造の用法を広汎に考察している一人に飯淵康一氏がいる。飯淵氏は寝殿造の空間秩序を分析する方法として『礼』という概念を用いることを提唱する。平安貴族の日記のなかに、『晴』『褻』という領域性を表す語とともに、『礼』ということばが方向性を示唆する用語として用いられているのであるから、こうした概念が当時の空間の秩序を解明するキーワードであることは間違いないところであろう。
しかし今はむしろ、飯淵氏が里内裏における用法をしらべて、方一町の皇内裏の周辺に三町四方の陣中と呼ばれる領域があったことを指摘したことの方に注目したい(飯淵康一『平安期里内裏の空間秩序について - 陣口および門の用法からみた』〔『日本建築学会論文報告書』第340号掲載、東京、昭和59年〕)。
寝殿造のうちのいくつかの例が里内裏として用いられたという事実自体が、寝殿造のもつ性格を暗示するのであるが、さらにその際、一つの邸宅が里内裏に転換するだけでなく、その周辺が宮城に、そして邸より一町隔った辻に設けられた陣口が宮城門にそれぞれ擬せられたというのである。このことは、里内裏という特別な場合で、しかもかなり擬制的色彩の濃い空間認識という条件付きながら、寝殿造について考える場合、築地で固まれた邸宅がそれだけで完結した領域を構成していたのでなく、周辺部を含めて都市的文脈のなかで捉えることの必要性を示唆したものといえるのであろう。」(稲垣栄三「寝殿造研究の展望」 改行改変)

「飯淵康一氏は、平安時代貴族住宅の儀式時における空間的性質について、「礼」向きの不確定性・「晴」の場の不特定性、そして配置構成・平面規模の成立・変遷過程に対する儀式時の用法の不関与性を強調する。すなわち、「礼」向きは東西の一方に固定されず、また「晴」の場は寝殿や特定の対に限定されない。儀式時の用法は住宅の左右非対称化、特に対の平面規模成立に直接的に影響しない。しかし、平安末期には東西対の一方が失われ、寝殿と残された対での儀式的秩序の向きは同一方向に固定する。門の用法も東西の一方が正門として用いられる。貴族住宅の左右非対称化と東西対の平面規模の拡大・縮小化の要因については、儀式的影響以外の住宅としての用法の検討が不可欠である。」(西山良平の「平安京の住まいの論点」 pp.7-8)

 非常に興味深い。

吉田早苗・純嫡取婚期の対

「貴族の邸宅をその周辺をも含めて捉えようとした例として、吉田早苗氏が藤原実資の小野宮第について加えた考察を忘れることはできない(吉田早苗『藤原実資と小野宮 第寝殿造に関する一考察』〔『日本歴史』第350号掲載、東京、昭和52年〕)。吉田氏は実資の家族やその生活を通して、住居の建設過程とその構成に説き及ぶのであるが、そのなかで、一町四方の小野宮第に接する『東町』や『南町』に実資の『小人宅』があり、『西殿』と『北宅』には実資の近親者が住んでいたことを指摘している。
またこれより早く村井康彦氏は、東三条殿の東町に御倉町があり、その御倉町に朱器台盤が納められるとともに、そこが同時に厨町であり、寝所の機能ももち、細工所でもあったことに触れている(村井康彦『平安貴族の世界』〔東京、昭和43年〕…同『古代国家解体過程の研究』〔東京、昭和40年〕)。
摂関家の邸宅はすでに住居の枠をはるかに越えた公的儀礼の場であり、堂上公家を筆頭として多くの階層によって運営される施設であったから、邸宅の周辺に家政機関が付属していたことはあたかも内裏の周囲に諸官街が配置されていたごとくであったであろう。さきの飯淵論文でも里内裏の陣中に内膳屋が必ず設置されたことに触れているし、吉田論文における小野宮第の周辺町も同じ性格のものとみなすこともできよう。

日記や絵巻物に描かれた儀礼は、壮大な時間と空間を費し多くの都市人口を動員して展開する行事のいわば中心部分にすぎない。史料に現われないところで、それを支える人々の活動がありその空間があった。一般的にいって、復原された多くの邸宅にしても、明らかにされた部分は、儀式の中心的場であった寝殿南庭を取り巻く一群の建築であって、その北方にどれだけの建物がどのように建っていたか、推定する手がかりすら得られていないのである。

寝殿造理解が儀式を中心として進められてきたのは史料的制約からいって当然のことであった。そして寝殿造を発展させる契機が儀式にあったことも、川本論文の指摘する通りであったとおもう。しかし前述の吉田論文は小野宮第を考察しつつ、それとは違った見方を提出している。すなわち摂関家の邸宅においては儀式のもつ意味が大きいかもしれないが、一般の貴族の住宅では相対的にみて私的要素が強いはずであって、通常考えられているよりもケ(褻)の生活が住居に与える影響が大きいのではないかというのである。小野宮第では儀式の場として西対が用意されており、寝殿・東対は実資とその娘の日常的居所であった。吉田氏は高群逸枝氏の『招婿婚の研究』を引用しつつ、娘を育て、婿を取り、娘夫婦の居所とすべきケの空間としての対の重要性に注目する。二組以上の夫婦がある程度の関係を保ちつつ独立して生活するためには、対や寝殿に家政機関としての廊が付属して独立した単位を構成し、それらが渡殿で結ばれるという形態が独立性と共同性を両立させるのにふさわしいあり方だったというのである。

この吉田氏の見解は必ずしも十分な史料的裏付けをもつものとはいいがたいが、しかし寝殿造の公的側面を重視するあまり見落とされていた私的性格について注意を喚起したものということができる。吉田氏の方法が寝殿造の類型化や類型の発展を追う太田博士以来の方法を踏襲するのでなく、一つの邸宅についての推移を克明に辿ることによって空間の意味を探っている点も見落とすことができない。

摂関家の大邸宅でどれほど頻繁に華麗な儀式が繰り広げられたとしても、そうした大邸宅を含めて、寝殿造はいずれも住居としての側面をもつのである。儀式の場と住居、非日常的儀礼と日常性、この両者を兼ね備えている事実に注目することこそ寝殿造の実態に迫る有力な鍵であると考える。われわれはこれまでそれを理解するのに、両者を対立的に捉えすぎていたのではあるまいか。たとえば晴と褻を、空間的にせよ時間的にせよ、相反する性格と内容をもっと考えることによって、理解を遅らせてきたのではなかろうか。さまざまのルールと伝統と慣習を伴う儀礼の世界に対するに、そうした拘束を一切もたない自由な日常の生活を想定することは、たぶん貴族の生活の実態とは合致しないはずである。儀礼的側面を伴わない日常性という概念は、近代になって始めて獲得されたのであって、それを基準にして古い時代の生活を推し測ることは、方法的にみても成り立たないのである。

平安貴族の日常生活は、その住居の建築的性格、多くの調度、家司以下家政を支える機関や多くの従者の存在などを念頭におくだけでも、伝統的規範や象徴体系に満ちたものだったと考えた方がよいであろう。定められた年中行事でない、日常的な生活がどのような空間で展開したのか、それを示す一つの例が『類衆雑要抄』に引く永久三年(1115)七月二十一日、関白藤原忠実が東三条殿に移徒したときの装束なのであろう。『類聚雑要抄』は、この時の各殿舎における調度の配置のみならず、各調度についても詳しく説明するのであるが、記載される殿舎が、忠通の居所となる寝殿、出居として使用された二棟廊のほか、侍廊、随身所廊、車宿に及ぶ点が甚だ暗示的である。この時の寝殿の装束とおなじ内容が『満佐須計装束抄』にも述べられている点もまた注目されるのであって、貴族の日常的すまいの規範はこのような形で、すなわち通常の儀礼の経緯を後世に残すのとは違う仕方で伝えられたのであったろう。

より情緒的な側面に注目するならば、復原された多くの寝殿造が南庭に池をもち、遣水が流れ、池に臨んで釣殿が建つなど、建物の内部と外の自然との関係が極めて緊密に保たれている点も軽視すべきでない。花鳥風月に対する愛着は、どの時代をとっても、日本の住宅を導く指導原理であったといっても過言にならない。実際、物語や絵巻物に描かれた貴族の生活の断面に、しばしば貴族たちの人間的な素顔や繊細な感性が顔をのぞかせる。

それは厳粛な儀式の場においてすらそうである。身近に咲く花、鳥の嚇り、水のせせらぎに対する敏感さは、衣服や調度の取合せに対する鋭い感覚とともに、生活の場のありょうを決定する不可欠の要因であった。つねに自然との接触を保つことへの強い願望を前提とすることなしに、寝殿造のもつ建築的特色、その配置、平面、開放性などを理解することはできない。儀式の場としての理想からいうならば、祖形となった内裏紫震殿周辺と同様に、南門をもち、寝殿と南門を通る南北の中心軸が明確であるべきはずであるが、南庭の池の存在によって南門をつくることができず、東西に通る軸線の採用を余儀なくされたということ自体、儀礼とその施設の国風化というふうに捉えてよいであろう。」(稲垣栄三「寝殿造研究の展望」 改行改変)

えらく長くなったが稲垣栄三の意見に同感である。ならば吉田早苗氏のようなアプローチをとれば良いではないかと思うんだが、でもそれは藤原実資が克明な『中右記』を残しているだけでなく、屋敷にこだわりを持ち、何十年にもわたって改修を行っているからである。なお、似たようなケースは『明月記』を残した藤原定家の晩年の屋敷があり、太田静六と藤田盟児がそこから復元図を起こしている。ちなみに吉田早苗は建築史の世界の住人ではなく、東大史料編纂所の人間である。建築史家も『日本歴史』に投稿するのか!と思ったら、そもそもこちらの世界の学者だった。

吉田早苗は「寝殿の東西の対、北の対」 でも紹介したとおり、『平安京の邸第』に収録された「小野宮第」(初出は1977年)において以下のように述べる。

「日常生活が住宅に与える影響は大きいと主張する。9世紀末 から11世紀後半(純嫡取婚期)には、一般の貴族では娘を自第に置いてよい婿を迎えるが、それが住宅にも反映する。東西の対を娘夫婦の居所として確保し、 二組以上の夫婦が関係を保ちつつ独立して生活する。対は婿取と娘の本第伝領に不可欠である。(吉田早苗2000)」(西山良平の「平安京の住まいの論点」 p.7)

藤田勝也・複数家族の合同居住と新所居住

「藤田勝也氏は、居住形態から寝殿造を分析する研究視角は今後とも有効と主張する。摂関期における複数家族の合同居住は否定されず、院政期における初発からの新所居住とは相違する。これは東西対の消滅に伴う建築構成の変化に影響する。
寝殿造論では、儀式と婚姻の連関がまだ未解決である。儀式と寝殿造の関係がより詳細に分析されるのが期待され、新婚当初の妻方居住は過渡的以上の意義が想定される。また、寝殿造論の素材の邸第を、倶関家・公卿・殿上人・受領など階層構成の観点から明確にする必要がある。」(西山良平の「平安京の住まいの論点」)

稲垣栄三「寝殿造研究の展望」の締めくくり

「ところで寝殿造という名称は、もう一つの住宅史上の型である書院造の呼称とともに、沢田名垂の『家屋雑考』(天保十三年)の命名以来、依然として今日でも用いられている。名垂の推定した寝殿造の姿はすでに多くの点で修正されているにもかかわらず、総称としての寝殿造の名は依然として健在なのである。かつて、書院造の名称の可否、その建築的特色は何かという問題が学界で議論されたことがあった。

また寝殿造についても、左右対称の配置が理想形であったか否かという問題をめぐって、川本・飯淵両氏の間で討論されたことがあった。これらを通じて痛感されるのは、建築の型を決定する要因に対する分析概念が必ずしも明確にされないままに終っていることである。

前述のように寝殿造は(書院造もそうであるが)住居であると同時に儀式の場であり、複雑な内容をもっ複合的施設であったといってよい。その実態については、すでに個別例や用法が数多く復原され、発展、変形の過程もまた明らかにされつつある。寝殿造という総称によって括られるなかで、建築の構成、平面、意匠、用い方は徐々に変化していき、それは緩やかに次の書院造に移行していく。いまや、寝殿造・書院造という二分法では住居の歴史過程を説明し切れなくなったといえるであろう。

一般的にいうならば、共有された理念と生活様式が一つの安定した住居の型を生むのである。その構造を分析する概念を整理し明確にした上で、適切な時代区分と名称を施すべき時期がきていると考える。」(稲垣栄三「寝殿造研究の展望」 改行改変)

 

成立論

福山敏男著作集5・『住宅建築の研究』 より。

「京の貴族の寝殿造住宅の成立期は九世紀後半から十世紀前半までの間にあったと思われる」(p.220 )ととも書くが、また「平安京内の上流階級の住宅であった寝殿造は、十世紀の末ごろには完成していたことが『源氏物語』の描写からもわかる」(同 p.222)とも云う。
「寝殿造の祖形は中国古来の四合院の住宅と連絡するであろう、というのが私の言おうとする主旨である。
なお、中国の仏寺は「寺」即ち官衙建築、延いては住宅建築から発展したものであり、波及して朝鮮半島や日
本の古代寺院となった。大門・中門・金堂・講堂・回廊・僧房等からなる仏寺の建築配置は四合院の形を原型とするところが多い。そうしたことを考えると、四合院の流れは宮室・廟宇・官衙・仏寺となって建築の歴史の上に開花したといえるであろう。」(同 p.233-234)



平安京の住まいの論点

以下は『平安京の住まいの』冒頭(序章)「平安京の住まいの論点」の内容である。

飯淵康一・対の規模変遷

飯淵康一は対の規模変遷を検討する。10世紀中期に東西の対の梁行規模は同程度で、四間程度である。東西対の梁行規模より見ると、寝殿造の祖型は内裏の仁寿殿に相当する一郭で、東対・西対の起源は綾綺殿・清涼殿相当建築と推定される。(西山良平の「平安京の住まいの論点」  p.8)

ただし藤田勝也は飯淵康一を批判しているらしく、

飯淵氏の見解で最も問題なのは、発生期の東西対論であるとする。文献史料が不足する以上、発生期の対の様態は発掘事例を中心に考える必要がある。住宅遺構では、東西脇の建物は梁行二〜三間が主流で、発生期から道長の時代まで、対は様々に変容すると想定される。(西山良平の「平安京の住まいの論点」 p.9)

それは一理ある。しかし飯淵康一の著書をまだ未読なため飯淵の見解が問題なのかどうかは判らない。

川本重雄・寝殿造は塀のなかに中国起源の中庭型都市住宅を建て成立

川本重雄は、寝殿造は塀のなかに中国起源の中庭型都市住宅を建て成立し、その際中国化がいち早く進行する内裏建築の影響を強く受けると主張する。寝殿の東北・西北の渡殿は梁行二間の複廊、東西の中門廊は梁行一間の単廊で、平城宮内裏回廊の北側複廊・東西単廊の構成が、寝殿造の渡殿・中門廊に受け継がれる。平安宮紫宸殿殿の東西軒廊と透渡殿は位置的に対応し、透渡殿も内裏建築を模倣する。(西山良平の「平安京の住まいの論点」 p.9)

そうだろうとは思うが、しかし中国起源は直にではなく、内裏経由なのではないだろうか。もちろん川本重雄もそう云ってはいるのだが、寝殿造を初めた上級貴族たちは果たしてどれぐらい中国(唐)を意識していただろうか。

藤田勝也・時代区分

藤田勝也氏は10世紀が寝殿造の成立期で、9世紀以前は準備期、11世紀後半以降は変質期と主張したことは「4.1寝殿造の時代区分」紹介する。ただしこの説は1999年のもので、後述するとおり、藤田氏自身が再考の余地在りとしている。
また、藤田氏は寝殿造と準備期の一町規模遺跡を比較検討する。平安京右京六条一坊五町遺跡(京都リサーチパーク遺跡:九世紀中期)の西対相当建物が成立期における対の成立・規模に示唆的である。主要建物を結ぶ廊・渡殿は九世紀中ごろの京都リサーチパーク遺跡に見え、10世紀に整備される。中門廊は、柵列がリサーチパーク遺跡の土間床の廊ヘ、9世紀後半から10世紀初頭に板床張りの中門廊へ整備される。東・西の出入口などは、事例Eを目安に、9世紀中ごろから10世紀に登場する。主要建物の礎石建てへの移行は、9世紀から10世紀に進行・定着する。(西山良平の「平安京の住まいの論点」 p.9)

ところが年代的にはそれより新しい、10世紀に入るか入らないかという斎王邸跡は全然寝殿造っぽく無いんですよね。なので藤田勝也先生は徐々に形が定まったというより、ある突然変異な屋敷から急に広まったんではないかと考えだしたみたいです。

さらに、飯淵氏は寝殿造住宅の発掘成果に触れる。平安京右京一条三坊九町(山城高校遺跡)は、経済的条件その他のために、東脇殿の梁行は西脇殿に対し小規模となると推定される。京都リサーチパーク遺跡は左右対称型ではないが、東西いずれの対も母屋の東西に庇を備える。

藤田勝也は飯淵康一を批判しているらしく、

藤田氏は飯淵氏の見解で最も問題なのは、発生期の東西対論であるとする。文献史料が不足する以上、発生期の対の様態は発掘事例を中 心に考える必要がある。住宅遺構では、東西脇の建物は梁行二〜三間が主流で、発生期から道長の時代まで、対は様々に変容すると想定される。

寝殿造の祖型を梁行などから対照するが、発掘事例では建物配置で分類し、比較の基準が一義的でない。また、10世紀以前は文献史料が圧倒的に希少で、発掘事例の詳細な検討が不可欠である。(西山良平の 「平安京の住まいの論点」 p.9)

飯淵康一の著書をまだ未読なため飯淵の見解が問題なのかどうかは判らない。

町屋との関係(序4 本書の課題と構成より)

寝殿造と町屋は貴族住宅と庶民住宅の差異があるが、反面では共通する側面がある。(西山良平の 「平安京の住まいの論点」 p.20)

川本重雄・寝殿造は最初の都市住宅

川本重雄氏は、寝殿造を最初の都市住宅の様式と強調する。寝殿造の最大の特色は、敷地の周りの高い塀と中門廊の第二の囲い、すなわち囲いの二重構造である。平安京では都市住宅が追求され、平安貴族は敷地の周りをめぐる塀のなかに、もう一つ別の間いを持つ中国の三合院を建てる。(西山良平の 「平安京の住まいの論点」 p.21)

玉井哲雄・町屋は平安時代末期から出現

一方、玉井哲雄は、町屋は平安時代末期から鎌倉時代に「都市の庶民住居」として出現し、中世末に「都市建築」として典型が成立すると指摘する。(西山良平の 「平安京の住まいの論点」 p.21)

玉井哲雄って誰? やっと判りました。『絵巻物の建築を読む』の編者の方ですね。この本欲しいなぁ。しかしamazonだと中古でも高いし、と日本の古本屋サイトで探したら安いのがあった♪ 「遊び紙鉛筆書込」だって。かまうこっちゃねえ、と今注文を完了しました。わくわくものですね♪

寝殿造と町屋は、条坊制の方形街区と縦横の街路に規定される敷地を前提とし、いずれも都市住宅の性格が濃厚である。寝殿造と町屋はともに都市住宅で、平安京の都市化を前提に成立する。

10世紀中ごろから11世紀初頭ごろに寝殿造が成立し、10世紀後半に町屋が出現する。10世紀中ごろから
11世紀初頭は、平安京の都市化の画期と想定される。寝殿造と町屋の成立は、平安京の都市構造の変化を基底に理解される。(西山良平の 「平安京の住まいの論点」 p.21)


藤田勝也・寝殿造と町屋は都市平安京における住宅の二大類型

藤田勝也氏は、寝殿造と町屋は都市立地による共通点に都市住宅の普遍性が顕示されるとし、板床張と屋根葺材に注目する。
貴族住宅では、9世紀中ごろから 10世紀後半に主要部が総板敷化する。町屋では全面床とせず内部に土間を有するが、町屋の土間は路と戸内あるいは路と裏庭を直結する。「門と塀と小屋の複 合建築」に起因し、土間は路から建物内への動線を担う。寝殿造と町屋はともに床張の内部空間を有するが、町屋では土間こそ都市的である。
また、上級貴族邸 は槍皮葺、中下級貴族邸や町屋は板葺で、草葺はいずれも採用しない。地方では板葺に加え草葺が一般的で、ここに都市住宅の特徴がある。(西山良平の 「平安京の住まいの論点」 p.21)

西山良平は「土から離れる」に都市的な生活への深化・転換

10世紀中ごろから11世紀初頭ごろに寝殿造が成立し、10世紀後半に町屋が出現する。
10世紀中ごろから11世紀初頭は、平安京の都市化の画期と想定される。
寝殿造と町屋の成立は、平安京の都市構造の変化を基底に理解される。
西山良平は町屋や貴族住宅では板敷の割合が増加し、「土から離れる」に都市的な生活への深化・転換があると強調する。寝殿造では、正殿や脇殿など主要殿舎が一体として板敷となる。都市住人の住宅では、町屋が板敷を一般化する。(西山良平の 「平安京の住まいの論点」 p.21)

寝殿造や町屋の成立は平安京の社会構造と連関

詳細は今後の課題であるが、寝殿造や町屋の成立は平安京の社会構造と連関すると想定されると。

その課題、早く答えを出してくれないですかねぇ。お願いしますよ。