奈良・平安期の鎌倉  古代中世・相模国の石高は?

律令時代の相模の国の人口・農業生産高は?

千年もたってたったの10%しか?

ところで当時の相模の国の生産力と人口がどれぐらいだったかと言うと今のところ見つかった資料はこれぐらいです。ここでは米の生産高だけで見ていきます。租税もそれだけでは無いし生活環境も違うのは解っていますが他に比較する方法が無いので。

「倭名類聚鈔」によると、9世紀頃の相模国の水田は11,236 町余で、郷数は59 戸(余戸と駅家は除く)。この交易帳にみえるのは、垂水郷・中村郷・岡本郷・高田郷・尺度郷・荏草郷・仲嶋郷・走水郷・土甘郷・・蛭郷・埼取郷・鎌倉郷の12 郷であるが、食封(律令制下の給与制度。皇族や貴族層に封戸をあてて、租の半分を給付した)にあてられた、総数1,300 戸は26 郷にあたり、倭名鈔郷数の約半分を占める。水田の4,162町余も、倭名鈔の田数の約半数近くを占める。相模国の半分は、特定の中央の有力者、とくに天皇家に多くあてられていることになる。これは相模国だけの特異現象か、あるいは全国的に普遍的な現象なのだろうか。(『県史付録「相模国封戸租交易帳」解説』参照)  (神奈川県立公文書館 平成16年度 第1回展示企画展示

  • 「郷数は59 戸」とあるのは校正漏れだと思います。「郷数は50 戸」でないとこの文章の中だけでもおかしくなります。何で50戸じゃなくて59 戸なんだ? としばらく悩みました。
  • 和名類聚抄』(ワミョウルイジュウショウ)、倭名鈔と略して言うことも多い。
  • 資料(3)のことでしょう。

戸数で言うと3500戸、水田は11,236 町、大化の改新(645年)の時に、米1石を生産する面積を1反と定めたと言う説もありますが違うみたいです。9世紀の弘仁元年(810年)1町(10反)で7.5石(備考)が基準と。9世紀頃の相模国の石高は8万4千石と言うことになりますが、ホントかな〜。天正〜慶長年間(1573-1614)で19.万石ですので9世紀に石高は8万4千石と言うのはにわかには信じられません。半分弱なんだからそんなもんだろうって? 19万1千石を田んぼの生産力を平均で中作(1町16石)とすると11,900町。千年経っても水田面積が変わらないことになるんですよ。そんなバカな!
あの当時田畑は毎年は使えず順繰りに使っていたはずなんでそれも含めた1万町なんじゃないでしょうか? 1年置きに使ったとして4万石。2年置きなら3万石、それを3500戸で割ると1戸当たり8石〜12石。1戸の家族人数がどれぐらいなのか解りませんが江戸時代と同じなら計算は合いますね。歴史学者名皆さんには常識かもしれませんが、私は素人ですのでトンデモハップンなことを書いているのかもしれませんけど。

別の計算。貫達人監修「図説・神奈川県の歴史(上)」96pによると「8〜9世紀の県下11郡の総人口は132,440人と推計」とありますので、武蔵の国3郡を除く8郡は比例計算では96,000人となります。おそらく総反数(町の10倍)を律令制のベースである平均1.7反で割って、田が与えられない9歳以下人口を補正して計算したものでしょう。この方法で計算してみると大体一致します。
律令制では1戸毎に6年ごとの国勢調査?の年に6歳以上の人数男に2反、女にその2/3反づつ口分田が割り当てられ、分け直し(班田)が行われます。でも実体はなかなか教科書通りではなかったらしいですが。

しかしこの人口もどうも鵜呑みには出来ません。と言うのは「図説・神奈川県の歴史(上)」98pにこんな記述があります。

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そんなバカな!千年もたってたったの10%しか水田が増えていないって? 
私だけの計算間違いではないらしいが絶対におかしい! 「倭名類聚鈔」は町と反を間違えて書いてるんじゃないの? 
とすら言いたくなります。何故かと言うと平安末期・鎌倉初期でも水田はいわいる谷戸田に集中していると思うからです。谷戸の谷合いは周囲の山から水が集まり沼地に近く、水田が造りやすいからです。そうした自然に条件の整った処以外はかなり大がかりな灌漑が必要になります。それが行われだしたのはもっとずっと後の時代だと思います。

それにしても上田1町の石高1.5石で12,920町歩の生産高が129,200石と言うのはどういう計算なのでしょうか? この部分をどなたが担当されたのかは存じ上げませんが、高名な貫達人先生が監修されているのですから決して算数の間違いなどではなく、きちんとした計算根拠があるのだろうと推察致しますが、その根拠も書いてもらわないと私ら素人、おまけに数学なんてトポロジー以外は小学生レベルの私には とても理解できません。

  • まさかとは思うがこれって「段租穀1石5斗」を2重に間違えているんじゃなかろうか? まず単純に段と町を間違えた。これはうっかりミス。12,920町歩=129,200石とちゃんと桁だけは上がっているのだから計算は1桁上でやっているように見える。
  • 次に1.5石=1石5斗は本当は反(段)とすれば「段租穀1石5斗」と一致するが、ここで言う「穀」は籾殻付きのものなので玄米(黒米)だったか白米だったか、ともかく食べられる米はその半分の7斗5升になる。私が1町(10段=10反)0.75石で計算したのはこの換算です。とすればこれを書かれた方は「穀」がなんだか知らなかった?
  • それにしても12,920町歩で129,200石なら、町歩10石(1反1石)で計算していることになるのだがこれはいったい何なんだろう? 電卓の叩き間違い? しかしこんな短い6行しかない文章で3つも間違いをするだろうか? なんか深い訳があるのかもしれませんが素人の私にはまったく思いつきません。

 

これはやはりおかしいです。おかしいですが、「図説・神奈川県の歴史(上)」だけがおかしい訳ではなく、そういう見解に立っている学者さんがかなり多かったようです。戸田芳実の『日本領主制成立史の研究』(1967年 p168)によると、古島敏雄は1952年の『日本農業史』において、「倭名類聚鈔」にある全国86万2千余町と、室町時代初期の「捨芥抄」にある94万6千余町との総田数を対比させて、400年間に1割程度の増加に過ぎないとされていて、それに対して戸田芳実は「『倭名類聚鈔』の示す田数は、そのまま実際に経営されていた耕地だろうか、あるいは耕地であったとしても、それが我々の知る農業のように恒常的に耕作されていたであろうか。」と疑問を投げかけ、詳細な検証を行って、「平安時代の耕地には、大別して、断続的に耕作される不安定耕地と、連年耕作される安定耕地の二種類があり、そのうち不安定耕地の占める比重はかなり大きい。」(p187)とされています。2009.8.27追記

  律令制以降の開拓(1)平安時代−荘園と武士団

関東で盛んに小規模開拓が行われたと思われるのは平将門の時代以降、律令制が崩れ出す頃の平家各流、藤原秀郷からの各一族が原動力なんではないでしょうか? 新たに田畑を開墾すれば自分のものになった。それを続けて力を付けなければ、先に力をつけたものに圧迫され、領地を取られて追いやられるか、屈服して敵の郎党になるしかない。(ちょっと短絡的で反省)

  • ただし、注意しなければいけないのは教科書的な整然とした口分田的律令制が本当にあったのかどうかは疑問です。地方の豪族(例えば国造)が突然消えてしまったなどということは無いし、現在のイメージの農民が新たに田畑を開墾して豪族になったり荘園を作ったりとは思わない方が良いです。

鎌倉の郡衙ですが発掘調査によれば10世紀のある時点で消滅しているそうです。
10世紀と言えば平安時代、関東では平将門の時代です源氏物語安部清明も将門より後ですね。ちょうど初期の律令制が崩れだし、国−郡−里から、国−郷−名、が実質的な行政単位になっていったんだと思います。あるいは新興勢力による郡司の入れ替えが起こったとか。あるいは国衙の行政改革がその頃だったのか。後者が有力でしょうかね。

 平安時代の東国は開拓の時代である。相武地方でも原野の開発により、新しい郡・郷・保と呼ばれる公領が編成され、その一方で天皇家・摂関家・大寺社への開発地の寄進などにより、荘園が設立された。開発の中心となったのは相武の武士団であり、荘園・公領の名称は武士団の名字と共通している。(神奈川県立公文書館 平成16年度 第1回展示企画展示

「荘園を開拓し貴族や伊勢神宮などの神社に寄進して国司からの租税を逃れようとした豪族が武装を」と言う言い回しは私がここで使っていたものですが、この言い方は正確ではない、と言うか誤解を招くかもしれません。が、それはともかくこの当時から「自力救済」つまり自分の身は自分で守ると言うことが特に東国において顕著になってきます。何故武装したかと言うと平将門が良い例ですがうかうかしてるとやっとこさ開墾した土地を取られてしまうからです。ただし、それを「武士の発生」と短絡することには注意した方が良いでしょう。がそれはまた後で。

ここでの話題はむしろ「やっとこさ開墾」と言う方です。一所懸命がそれですね。この一所懸命による、そして先の引用にもある「平安時代の東国は開拓の時代である」と言われた先の9世紀から12世紀までの300年間での田畑の開拓をどれぐらいに見積もるか。私は少なくとも1.5倍にはなっているのではと想像します。あくまでカンでしかありませんが。
1反あたりの生産力だって3割ぐらいは改善されたでしょう。江戸初期までに2倍近い差があります。主に鋤き鍬などの農具の変化で。どこで農業革命が起こったのかは想像の範囲にすぎませんが。

  律令制以降の開拓(2)鎌倉時代−新補地頭

次が鎌倉時代の地頭でしょう。相模の国でも頼朝時代の御家人は北条氏に追いやられ、新しい地頭に変わります。また南関東の御家人は全国各地の郷、荘園に地頭として赴任しますが、租税の徴収権や警察権はもっても土地そのものはそれ以前の豪族や領主の一族が相変わらず持っており、地頭は地頭で領民を動員してせっせと自分の私有地となる田畑を開拓することで力をつけて行きます。例えば薩摩国の『入来院文書』ですがネット上にもこんな記述が。

渋谷家は渋谷層から被官、所従だけでなく農民たちを連れて薩摩国へ下向している。下向した農民たちは渋谷家の経済基盤を支えるとともに、軍事力を担ったと考えられる。また従来の領主たちが谷戸田を拠点としているのに対し、低湿地を開発して田を設定し、河川沿いに地頭、給人館を構え、河川交通や市場流通の統制を意図した。
また遠隔地所領間に交通網を有していて列島規模で移動している。このような事例は、千葉家などほかの東国武士に共通する。
渋谷家も一定の得分収取権しかない惣地頭だったので、鮫島家同様下地支配権を獲得するため、吉枝名主伴氏ら下地支配権をもつ先住の小地頭と所務相論をおこした。渋谷家の場合、幕府の庇護を受け、しだいに下地支配権を獲得していった。

渋谷一族はのなかで入来院地頭に補任され入来院家を名乗った系統は『入来院文書』((いりきいん)と呼ばれる多くの家文書を残し、鎌倉時代の荘園研究の重要な手がかりになっています。 
このあたりは石井進著「鎌倉武士の実像」 で書き下ろされた「地頭の開発」に薩摩国島津荘入来院以外にも、備中国新見荘、肥後国(熊本県)人吉盆地の相良氏、安芸国(広島県)沼田荘についての研究の中に詳しく書かれていますが、同様のことは相模国でもあり得ただろうと思います。

ただ、肝心の相模国の農村に関する文献資料は極めて少ないらしく正確なところは解りませんが、前述の石井進著『鎌倉武士の実像』「相武の農村」によると厚木市中津川東岸の台地にある金田の集落(国道246で相模川と中津川のあいだの台地)は鎌倉時代の本間氏の館跡で、その地にある牛久保用水は鎌倉時代に本間重連が作ったもの、中津川から水を引き、本間館やその集落、いわいる堀之内?を守る役割をしつつ周辺部の水田への灌漑用水となっています。
これもまた一所懸命に御家人がその領地を開拓していった跡でもあると思います。ここは谷戸田ではありません。こうした御家人(その地にあっては名主)の経営努力によって鎌倉時代にも相当田畑は広がっているはずです。この鎌倉時代だけだって田んぼの拡大が10%に止まるとは私にはとても思えません。

その段階、鎌倉時代末期までの150年で田畑は更に1.3倍ぐらい。1反あたりの生産力も更に1.2倍と見積もってみましょう。 

   律令制以降の開拓(3)室町から戦国時代

その中で勝ち残ったものが南北朝から室町時代を経て戦国大名になっていきます。その室町時代・戦国時代にも必死に開墾を行っていたでしょう。織田信長の軍を例外として当時の武士は土着で、後の名主みたいなもんですから。
この間、鎌倉時代から、室町時代・戦国時代を経て江戸初期までに更に田畑は1.3倍、通しで2.5倍。1反あたり生産力も更に1.2倍の通しで2倍は有ります。こては田んぼのランクが江戸時代で中作(1町16石)になったとの想定です。すると9世紀は3〜4万石前後と言うことになりますが。先の私の試算とも一致します。

  律令制以降の開拓(4)江戸時代

相模の国が19万石とあるのは天正〜慶長年間(1573-1614)でまだ大阪城に豊臣家が居たころですが、徳川幕府が完全支配を成し遂げたあと、更に各藩は国力強化のために灌漑とか開拓に力を注ぎます。例えば今検索した範囲でも高田藩の新田開発・中江用水などもそうですです。高田藩はそれで表高26万石が内高で40万石近い裕福な大藩になったとか。
それが相模の国だけ19世紀じゃなくて、千年以上も前の9世紀に開拓が終わっていたなどとは冗談じゃねいやい! と思うのですが農業史の通説はどうなんでしょうか?

ちなみにこのおおざっぱな試算だと、平安末期、鎌倉初期には相模国の石高は6万石ぐらいとなります。確か大庭御厨の石高が4〜5千石ぐらいだったと思いますから当たらずとも遠からずでは?

  余談:武士、農家一般家庭の平均収入は?

余談ですが江戸時代の感覚で米1石とは1人が1年で食べる量ぐらい。侍の俸給の単位の1人持夫が1.7石です。江戸城本丸の中之門、西之丸の中仕切門、二之丸の銅門等の警護に当たった与力(下士官、馬に乗った武士ぐらい?)が80石、同心(兵隊、足軽ぐらい)が30俵3人扶持(にんぶち)。(江戸遺跡研究会会報 No.83) 
実収入は与力80石×農民の税率40%=32石、同心30俵/2.5+3人扶持×1.8=17石。

平均的農民で実収入家で10石ぐらいでしょうか。税引き前(江戸時代平均4割税金)で17石ぐらい。律令時代は生産力が低いので4割も上前をはねたら農民が死に絶えてしまうので税金はずっと低いです。 (続きはこちらで)

 備考・資料

(1)

令集解」度地法及び田法に関する諸説

凡田、長30歩、廣12歩、為段。10段為町。
(令義解)謂。段地穫稲50束。束稲搗得米5升也。即於町者、須得500束也。
釈云。穫段得稲50束。搗束得米5升。然則穫10段地、得稲500束、成米25石。

  • 段(反)当たり稲50束、稲1束で米5升、1町で稲500束、成米25石。
    なんじゃこれ?江戸時代の上作田と同じ(若干多い)なんですけど。そんなバカな!

是名為町。蒼 篇。町、田区也。音他丁反。
穴云。1町廣120歩、長30歩、是也。與今異也。但田積無相違也。歩法如雑令也。
朱云。問。田長廣相違今行事、意何。答。違耳。不見由者。
古記云。問。田、長30歩廣12歩為段。即段積360歩。
更改段積為250歩。重復改為360歩。
又雑令云。度地以5尺為歩。又和銅6年2月19日格。其度地、以6尺為歩者。未知、令格之赴、段積歩改易之義。請具分釈。無使疑惑也。 答。幡云。『令以5尺為歩者、是高麗法、以250歩為段者、亦是高麗術。』云之。即以高麗5尺、准今尺、大6尺相当。故、格云以6尺為歩者。則之、令5尺内積歩改名6尺積歩耳。其於地、無所損益也。然則、時人念『令云5尺。格云6尺。即、依格文、可加1尺者。』此不然。唯、令云
5尺者此令大6尺同、覚示耳。此云未詳。

(雑令第1条)凡度10分為寸。10寸為尺。1尺2寸為大尺1尺。10尺為丈。
       量。10合為升。3升為大升1升。10升為斗。10斗為斛。

  • 穴云 :『穴記』は、弘仁(810〜823年)天長(824〜833年)年間に成立したと云われる。

田令1集解古記に

慶雲3年(706年)9月10日格云、准令、田租1段、租稲2束2把。〈以方5尺為歩。歩之内得米1升〉。
1町租22束。令前租法、熟田100代、租稲3束。〈以方6尺為歩。歩之内得米1升〉。
1町租稲15束。
右件2種租法。束数雖多少。輸実猶不異。而令前方6尺升、漸差地実。遂其差升亦差束実。是以、取令前束、擬令内把。令条段租其実猶益。今斗升既平。望請。輸租之式、折衷聴勅者。
朕念。百姓有食萬条即成。民之豊饒猶同充倉。宜(収)段租1束5把、町租15束。主者施行。

1町租22束と町租15束ってなんじゃいと言うと、

「令の租法では、この方5尺=1歩の土地からの基準収穫量を米1升とし、それに応ずる束把の量を定めた。今足はこの場合の升を減大升と称している。また穎稲1束もこの場合1斤とはならないから、これを不成斤の束という。成斤1束に対する不成斤1束の比率は36:25である。令の租法は、こうした不成斤の束によって、段別2束2把、町別22束としたのであった。ちなみに不成斤22束は成斤の15・28束に、成斤15束は不成斤の22束にあたり、その実量はほとんど変らない。」(虎尾俊哉『慶雲3年の輸租折衷法について』)

最小単位は「把」で米1合が取れる稲、これは変わらないけど、升にも10合升と12合升がかつてあって、また耕地の広さの町、反(段)も併積360歩と250歩と変わっている。
だから昔の1町租稲15束と単位変更後の1町租22束は変わらないと言うことらしいです。
http://www3.synapse.ne.jp/kintaro/content212.htm

(2)

租の穀納制では「段租穀1石5斗」が前提で

弘仁元年(810年)10月26日下47束5把  主国下坐御波多古入白米5斗
「主国下坐御波多古入白米5斗」については、穎稲10束→(穀1石)→白米5升、と理解される。
つまり、1反の石高は0.75石、1町で7.5石
ところがこの段階でもまだ「班田における「町」「段」の規模は必ずしも天下一統ではない」と。
http://www3.synapse.ne.jp/kintaro/content7.htm

(3)

「相模国天平七年封戸交易帳」における口分田

相模国司解 申天平7年封戸租事
合8郡食封13処1300戸 田4162町2段209歩
 不輸租田1244町3段161歩
 見輸租田2917町9段048歩 租43768束7把

2917町の生産量は22,000石、それに対する租43768束は2,200石ぐらい。1/10ですね。

(4)

虎尾俊哉「班田収授法の研究」吉川弘文館 をちゃんと探して読めばいいんだろうけど、これ遭風損って何だ? 収穫出来なかったってこと?

戸主山部乎伎戸山部首木田1町 (6段、遭風損6分)
戸主山部羊田1町4段 (8段144歩、遭風損6分)
戸主日下部布彌戸日下部調麻呂田9段120歩 (4段244歩、遭風損6分)
戸主山部忍人戸山部若賣田5段120歩 (2段240歩、遭風損5分)
戸主山部得麻呂戸日下部眞鳥田8段 (4段、遭風損5分)
戸主神人小星田1町2段 (6段、遭風損5分)
戸主敢石部百麻呂戸敢石部乎知田9段120歩 (4段240歩、遭風損5分)
戸主日下部眞人田1町6段240歩 (8段120歩、遭風損5分)
戸主伊福部乎麻呂田1町5段120歩 (7段240歩、遭風損5分)
戸主伊福部古都彌田田1町2段 (6段、遭風損5分)
戸主山部羊戸三使部酒麻呂田9段120歩 (3段264歩、遭風損4分)

これを全国平均とするわけには行かないが、8戸54人で1戸6〜7人で、田1.1町、しかしその半分弱が遭風損?

 その他

升の歴史

640年唐制に基づき大升(現在の約0.65升)を定めました。
701年に大宝令で確定します。
律令制の崩壊後、各地で様々な枡が使われ混乱しましたが、
1586年、豊臣秀吉の太閤検地を機に、関西方面で京枡が広く使われ、
1669年(寛文9年)、江戸幕府が全国で使う公定枡を京枡(きょうます)に統一しほぼ現在の量になります。
1875年(明治8年)に公定枡の内径を縦横4寸9分,深さ2寸7分と規定します。
1891年「度量衡法」で寸の長さが1/33mに規定されたのに伴い、正式な数値が決定されました。 

大升(現在の約0.65升ってなんだ?

2007年12月23日中断 追記 2009年8月28日

 参考になるサイト    

  1. 中世の物価 1333年の備中国新見荘の年貢ってこれホントかな〜、まあ新見荘のことだからちゃんと根拠(古文書)が有るんだろうけど。
  2. 相良氏  人吉藩で思い出したがこの相良氏は人質代わりに妻子を江戸に住まわせた最初の外様大名じゃなかったか?人吉藩は表面上は2万石程度の小藩だが実際の収入は数倍だったような。40年前の記憶ですが。中世史じゃないけど。フキフキ "A^^;
  3. 沼田荘小早川氏 相模中村一族の出、後に有名な毛利元就の3本の矢、要するに家督を乗っ取られた。しかし沼田荘の経済状態、開拓の話はNet上には出ていませんね。