武士の発生と成立  竹内理三氏の「武士の登場」

武士の登場

さて、平将門は武士なのか? まあ戦乱に明け暮れた有名な人ですから世間一般には「武士」と見てもかまわなそうな雰囲気がありますが、かつての歴史学界では「武士」は前九年、後三年の役の源頼義・義家とその率いる郎党達からを言うとの雰囲気があったとか。 
私は歴史学界に身を置いたことは無いので「まあ雰囲気的にそうかもしれないな〜」と思う程度にしか思わなかったのですが、今日、たまたま立ち寄った古本屋で中央公論社『日本の歴史』全26巻の内の第6巻、竹内理三教授の『武士の登場』を見つけました。

もう目はウルウルでしたね。なんせこのシリーズが刊行された昭和40年頃に親が申し込んでくれて、毎月送られてくるのを読んでいたもんですから。この装丁、この色はまさにあのときのものです。私にとっての「日本史」の出発点ですね。

竹内理三氏は単に東大教授と言う以上に多大な功績を残した方ですからまあ40年前の歴史学界の重鎮と見ても良いかもしれません個人的には重鎮と言う語感は高柳光寿にこそふさわしいと言う気はするのですが、また学説史?としては竹内理三氏の集めた資料(東大寺黒田荘)をベースに石母田正氏が著した「中世的世界の形成」がとても重要な転換点であったようです。

そこで早速竹内理三氏の『武士の登場』を読みかえしてしてみました。

竹内理三氏の「兵(つわもの)not=武士」

う〜ん、「兵(つわもの)の家」「在地領主」あたりに確かに力点を置いていますね。

前に兵(つわもの)は私営田領主であると述べたが、だからといって兵はすべて実遠(伊賀国の私営田領主藤原実遠 注1)と同じ道をたどった訳ではない。それどころか彼らは次の時代の担い手として成長するものが多かった。つまり兵は武士に転身したのである。
兵と武士の相違を今一度述べれば、兵は所従(従者)を持つが、兵の上に兵は居ない。つまり重層的な階級制が無い。彼らはそれぞれ一個の独立した力量で従者を従えたもので、支配の組織をもっていない。ところが武士となると、その下に郎党があり、さらにその下に郎党があると言う具合に支配関係は重層的であった。(中央公論社『日本の歴史』6巻 『武士の登場』p137-138)

下向井龍彦氏の反論はやはり竹内理三氏らに向けられていたようです。

学界においては将門は武士とは言われず「兵(つわもの)」と呼ばれている。そして11世紀中葉以降の源頼義・義家やその郎党達あたりからようやく「武士」と呼ばれる。・・・・前者を「兵」と呼び後者を「武士」と呼ぶのは、武士は在地領主であるという公式に縛られているからに過ぎない。(下向井龍彦 『日本の歴史 (7) 武士の成長と院政』の冒頭)

しかし竹内理三氏のそれは、それで良いのでは無いでしょうか? 
確かに武士がひとつの社会的勢力として認知されるのはちょうどその頃だと思います。要するに全体の流れとその実体が押さえられていれば。 ただ、「武士は在地領主であるという公式」からは元木泰雄氏言うところの京武者の側面が抜けおちるかもしれません。

           

そして竹内理三氏がそうだと言うのではないですが、平安時代は「荘園制による律令制の崩壊」と言う単純化した図式からは抜け落ちていた「国衙軍制論」を、竹内理三氏が『武士の登場』を書いた数年後に石井進氏らが研究・提唱されました。

ついでに言うなら摂関時代は藤原道長らがまつりごとを私し、朝廷でなく自分の家の政所ですべてを指図していたなんて誤解も坂本省三氏らによって訂正されています。当時に貴族社会を『源氏物語』のイメージで理解するのもとんでもない間違いです。貴族の中心は実務官僚で、トップの大臣達も例えば平将門、藤原純友の乱では朝廷は実に断固とした態度をとっています。

竹内理三氏はまた『武士の登場』の中で武士以前の兵(つわもの)の時代、そして同時期の荘園の実体を多くの具体例の中から紹介してくださいっていますが、かつてはそうした初期の寄進系荘園の延長線上に語られてきた院政期の大規模荘園が決して単純な延長線上にあるものではないことは今では語りつくされた常識でしょう。

そして元木泰雄氏らによって源義家が板東武者の「武士の統領」であってそれが源氏嫡流によって頼朝まで引き継がれ鎌倉幕府となったと言う鎌倉時代以来の通説もまた考え直さなければならないことが現在提唱されています。

しかしそうした研究の進展、それによる細かい軌道修正はこれからもあるものの、官製の歴史感とは区別された竹内理三氏らの実証主義的な研究成果は今も根幹で生きている、更に言うならそれを更に発展させて研究を進めて行ったのがここに上げたような歴史学者の皆さんであるように思います。要するに大きな流れが押さえられていれば良いのではないかと。 

ここではその「全体の流れとその実体」にスポットを当ててみます。

 


(注1)余談ですが藤原実遠は関白でもないのに実に有名な人で、というのは戦後の中世史研究の出発点とも言える石母田正氏の『中世的世界の形成』がこの藤原実遠から始まっているのです。

11世紀中葉の人で、父は『今昔物語集』巻第28巻31話 「大蔵大夫藤原清廉怖猫語」似出てくる藤原清廉(きよかど)です。『今昔物語集』の話はこういうもの。
清廉は前世がネズミであったのか猫を極端に怖れ、猫恐(ねこおじ)の大夫と渾名されていた。彼は山城、大和、伊賀三国に広大な土地を持っていたが納めるべき官物を納めようとしない。大和守藤原輔公(すけきみ)はこれを徴収しようと思うものの、清廉も五位の貴族であるので検非違使庁に突き出すこともできない。困り果てた輔公は一計を案じ、清廉を猫で脅して見事に税金を完納させる。大和守藤原輔公も藤原清廉も実在の人物です。

ちなみに、父親の藤原清廉は大蔵丞長年勤めたのか五位に叙爵し大蔵大夫よ呼ばれています。その子藤原実遠は左馬允で武官です。(戸田芳実 p160)

 

それにしてもこの中央公論版『日本の歴史』、確かに15〜16歳頃に読んだはずなのですが、1/10も理解していなかったみたいですね。私が最近、「へ〜、初めて知った」とか思いながら読んでいた事柄の大半がここに書いてあるではないですか。 "A^^;