武士の発生と成立  10世紀以降の「国ノ人・館ノ人」

京下りの側近・受領の郎党

さて、国司、この段階では受領(守)と言った方が良いでしょうが、何も知らない土地へ一人で単身赴任したところで何も出来ません。下級中級貴族にとって受領になることは巨額な富を手にする機会でもありますが、しかしそれは約束されていた訳ではありません。その地方行政に成功した場合にそうなると言うだけです。
任期満了時にはその勤務評定かあり、それに合格しないといつまでもその国の未納の国税を請求されて、次には受領のイスやら官職に就けなかったりと(例えば源義家)、これまた厳しい実力主義の世界です。

貴族は決して「麿は・・・、おほほほほ」とお歯黒を塗って何もしないで遊んで暮らしていた訳ではありません。彼らとて宮仕えのサラリーマンの側面がかなりあります。今のサラリーマン同様に昇進に一喜一憂、そのためには勉強だって必死になってやっています。当然受領になってからもそれまで以上に必死です。

かつては一緒に任命された四等官の下位国司、介、掾、目、の代わりに、自分の腹心を連れて任国へ赴くようになります。その腹心とは自分の一族郎党も含みますが、それだけではなくて、在庁官人を有る程度は押さえられるだけの実務能力を持った下級官僚を契約社員・嘱託のような形態でそれなりの人数を連れて行きます。地方行政のそうした二通りの担い手として、「国ノ人」「館ノ人」というとき、「館ノ人」には、こうした受領国司の私的なスタッフを指す場合がかなりあります。

余談ですが京で雇い入れた行政の実務経験者とは実はなかなかの面子だった様です。相当の法務知識が無いと勤まりませんから、実は受領と同ランクの下級貴族(従五位下)あたりが受領の順番待ちの間のアルバイトにやっていた例も多いようで、平正盛が受領(隠岐守)の順番待ちをする間、白河院の近臣藤原為房の郎等となって彼の任国に赴いていたのもそのひとつの現れです。

新任受領の心得と言うかノウハウ本「国務条々事」(1116年編纂の『朝野群載 巻22 諸国雑事上』所収)の39条には「不可用五位以上郎党等事」と、また987年(寛和3)の九箇条官符にも「禁制諸国受領吏多率五位六位有官散位新賽(?)趣任事」と、官位の有る者を郎党として連れて行くことを禁止していますが、要するにそれが社会問題になるほど多かったと言うことです。

その「国務条々事」の、え〜と、38ヶ条目ですね(番号は付いてなくて全て「一」なんですが便宜上)。そこには「諸国公文目代。必少優良。然則不論貴賤。唯以堪能人」、つまり「貴賤などどうでもよいから只々堪能な者を連れていけ」と(『国史大観 朝野群載』 巻22 「諸国雑事上」 p525)。そうした堪能、ようするにプロフェッショナルな者は「故に除目の朝には親疎を問わず先ず尋ね求めらるる者」であったようです。

 「六浦道と朝比奈切通し」で触れた相模国の内蔵武直も元は内蔵寮(くらのつかさ)の下級役人の家と思われ、そうした形で除目を受けた新任の相模守にスカウトされたのではないでしょうか。そしてそのまま国衙に根を下ろして在庁官人の実務官僚となり、六浦にまで足場を広げていったのではないかと。 ・・・と思ったら、内蔵氏は伊豆守にもなったことのあるそれなりの家柄のようです。

一方で定例の除目の前には自分を雇ってもらおうと大勢の人がゴマをすりすりその受領候補者のもとに売り込みに集まり、除目に漏れたとたに手のひらを返すように居なくなったとか。たしか「更級日記」にそんなことが書いてあったような。あっ「枕草子」の「すさましき物」22段でした。まあいつの世も変わりませんね。

そうした「これだけは連れていけ」と言う中に、能書者(40条)、験者並びに智僧侶(42条)、とともに41条には「可随身堪能武者一両人事」と、「人心如虎狼。自非常之事。必以要須也」だから武者も連れていけ、ただし「新武者」とかいって、ただの自称で「弓箭不覚之者」も居るから気をつけろ、とか書いてあります。当時の武士の統領は、そうした「堪能武者」の人材派遣業もやっていたようです。ここでの武者(武士)は馬術と弓箭(きゅうせん:弓矢のこと)の能なるもの、完全に「職能」です。

受領と在庁官人・田堵負名の利害

受領になったら任国のことは何でも意のまま、独裁者、と言う訳にはいきません。自分の家の子郎党、そしてスカウトした堪能者を合わせても30人前後はいたようです。一方、任国には有力な田堵負名(私営田経営者)が実際の生産の経営に当たっており、かつ国衙の実務機能を継続して担っている事務方、つまり在庁官人がいます。

その二者が互いに領分を守って折り合い(それが前例、国の習慣であったり)を付ければ任国経営はうまく行きますが、ぶつかれば争乱や事件になります。

「国司苛政上訴」については「坂本賞三の王朝国家体制論」の中で紹介しましたが、国司側の一方的収奪で、弱い農民が苦労したみたいなイメージがあるかもしれませんがとてもとても。既に紹介したように、1023年には丹波守藤原資業(すけなり)の京都中御門の家が国人(当時の記録『中右記』では「州民」)の騎兵に襲われ放火されたことは既に見てきた通りです。

これも「州民」(百姓)と書かれますが武装した騎兵ですよ。その2年前の1021年頃に「十訓抄」 (じっくんしょう)に道長時代の「世に優れたる四人の武士」とまで書かれた藤原保昌が、妻の和泉式部を伴って(多分)、任国に赴く途中、丹波国から丹後国へ抜ける途中の与謝野峠で平致頼とその子致経の率いる武士の一団に出会ったりしていますから「州民」と書かれた「騎兵十数人」も、今から見れば「武士」だったのでしょう。

京の近国と東国の違い

坂本省三「日本の歴史」6摂関時代p309には国司苛政上訴の一覧が有りますがほとんどが尾張以西の近畿、中国地方で、京との行き来、法務に詳しい京の官吏(いわば弁護士)とコンタクトが取りやすい国だけです。それが遠方の東国ではままならずに実力行使しか残されていなかったのかもしれません。記録に残るものではそちらの方が目立ちます。

実際、後に朝敵平将門を打って英雄になった下野国の藤原秀郷は、915年(延喜15)2月、上野国の豪族(郡司?)上毛野(かみつけぬの)基宗、貞並と大掾藤原連江(つらえ)の反受領闘争で受領藤原厚載(あつのり)が殺された件に連座して太政官府は下野国衙(国府)に秀郷とその党18人の配流を命令。しかし秀郷はそれに従わず、更に929年には下野国衙は秀郷らの濫行(らんぎょう)を訴え、太政官府は下野国衙と隣国五カ国に秀郷の追討官符を出しますが秀郷らが追討された形跡はありません。

平将門・天慶の乱の中編で触れた、武蔵国での一件。国司着任前に国内巡検を始めようとした権守興余王と介源経基に武蔵武芝らが反対。武蔵権守興余王と武蔵介源経基は兵を率いて武蔵武芝の郡内に侵入し、財物を押収。武芝を支持する在庁官人(有力負名)は国衙前に国司弾劾文を掲示。国衙対負名層で一触即発の常態に、と言うのも一見国司側の横暴。

逆に後編での常陸介藤原惟幾は藤原玄明に「広大な公田を請け負いながら官物(租税)をまったく弁済しない」と糾弾」し、弁済と国衙への出頭を求める「移牒」(いちょう)を出しますが藤原玄明はこれに従わず、常陸介藤原惟幾はこの年6月に出された群盗追補官符に基づき玄明を追補しようとしますが藤原玄明は将門の元へ身を寄せ・・・。と言うのは一見、田堵負名、富裕な私営田経営者側の強欲と見えます。『将門記』でしか知られていないので、本当のところは判りませんが。


もうひとつ、常陸介藤原惟幾は藤原玄明に出したのは「移牒」(いちょう)です。国語辞典では「役所から管轄の異なる他の役所へ文書で通知すること」で今も使われているらしいです。で、要するに「下文」ではない。「下文」は良く時代劇に出てきますね。「下」と書いた封書みたいなものを突きつけて「ひかえい!」「ははー」ってあれです。そうではなくて、自分の支配下ではない、対等な立場の者に対する連絡・依頼書のようなものです。藤原玄明も、平将門も常陸介藤原惟幾と同等とみなしうる地位の者となります。その地位が何によるのか、中央の権門とそ私的な臣従の可能性も指摘されています。

1003年(長保3)には平維良(余五将軍平維茂か)が下総国府を焼討ちし官物を掠奪したかどで押領使藤原惟風の追補を受け越後に逃亡。この平維良は犯罪者のはずなのにその後陸奥国の鎮守府将軍になったらしく、1014年(長和3)小右記の2月7日条には鎮守府将軍の重任を得るため、藤原道長に馬20疋他豪華な貢ぎ物を行い、門前にはそれを見ようとする見物人が列をなしたと。

平忠常の乱も受領と在庁官人・田堵負名(私営田経営者)の抗争のようです。1051年には陸奥守として下向した藤原登任(なりとう)と秋田城介平重成が、奥六郡の司・阿倍頼時を攻めた件も似たようなものですね。前九年の役の前哨戦です。

ここでちょっと注目。これらの争乱の中で旧勢力郡司層は平将門・天慶の乱のときの武蔵武芝だけですね。

国司と国ノ人の妥協

坂本賞三の王朝国家体制論」の中で見てきたように、11世紀中頃、寛徳荘園整理令によってそれまでの輸祖荘園は荘園ではないとされ、代わりにそれら在地勢力が開墾してきた土地は別名(べつみょう)として課役が有る程度免除され、かつそこを開墾してきた在地勢力はその別名としての郡、郷、保の郡司、郷司、保司という事実上世襲可能な公権、「職(しき)」を手に入れます。

同時にそれまでは、国司による恣意的な賦課(官物加徴)が認められていて、どれだけふんだくるかは受領の甲斐性みたいだった傾向が改められて、公田官物率法によって国司の租税収取権に大きな制限が加えられます。

これもまた飴とムチではありますが、在地勢力にとっては今までに無い美味しい飴で、それによって京周辺諸国では国司苛政上訴が収まり、東国においても国司対在地勢力の争乱はなりを潜めます。

過去の苦い経験から、国司の態度も変わってきます。国人の力はあなどりがたし、部分的にならともかく、全部を向こうに回して争乱にでもなったら、4年の任期中に朝廷に約束した官物が納入出来ず、勤務評定も×、もう官職に就けなくなっておまんま食い上げ。

尾張守の藤原元命なんか見てみなよ、任期途中で朝廷から首にされてもう受領には成れなかったんだぜ。沢山武士を引き連れた受領だって、勝手に国内で戦争をおっぱじめちゃったら、 源頼義みたいにまあ最終的には貰えたものの、なかなか追討官符が貰えないで10年近くかかっちまったし、途中で首になりかけるし。 義家なんか最後まで「私戦」とされて官物未納だと追求されて苦しんだんだぜ。あんなふうにはなりたかないや。まあ、ちゃんと朝廷に約束した官物を納めてくれて、俺の取り分もちゃんと用意してくれるのなら、あとは任せる。

みたいな雰囲気が出てきます。

1116年に三善為康が編纂した『朝野群載 巻22』の「諸国雑事上・国務条々事」は、中央から任国へ下る受領(国守)の心得うべき事柄を四二ヶ条にわたって書き上げたものですが、そこでは

  • 国境に入るに当っては在庁官人を召して「国風」を問うべし
  • 境迎えの儀式は「土風」に従うのみ
  • 新任国守の饗応は「国例」に従え
  • 国庁での著座の儀式は公損がなければ「旧跡」を改めるな
  • 老人に「故実」を尋ねるようにしたら善政といわれよう

個別の事例はともかく、それらに対処するのに「国風」「土風」「国の古風土俗」「国例」「国躰」あるいは「故実」「旧跡」に従うことを説いています。藤原元命が訴えられた最大の要因は「国例」を無視したところに有ったのかもしれません。

国司の守(受領)の仕事、そして京の朝廷の一番の関心事は国(武蔵国とか地方の意味で)がちゃんと官物(租税)を京に送ることです。国司(受領)はその職務遂行の為に受領郎党を連れていきます。しかし、在地の勢力も以前と比べたら格段に成長してきていて、昔のように強引に利益を蓄えることは出来にくくなります。

もっともその在地勢力というのは、生粋の地元民というより、かつての国司や、それに付いてきた行政スタッフなどの京の下級官僚、軍事貴族達がそのまま権益を確保して居座ったケースの方が多いようですが。連れていった「堪能武者」なんか、やりそうですね。

であれば、行政スタッフをごっそりと引き連れて下るよりも、代官(目代)を派遣して、在地勢力を国衙に取り込んでしまって、実際の細々とした地方行政は、在地の勢力に任せてしまった方が、紛争も少なく効率的、と考える国守が増えていくのも理解出来るのではないでしょうか。こうして在庁官人は、受領やその行政スタッフの下働きから、国衙・地方行政の主役へと成長していきます。

この1140年頃を「在地領主制(開発領主)」への転換点と見る学者さんは結構います。ただし、「在地領主制」については、1040年頃、あるいは11世紀後半というのは、徐々に色が変わるグラデーションの最初の時点ということで、はっきりと色が変わったのは12世紀に入ってからだと思いますが。

建物としての「国庁(国衙)」と「国司館」

さて、「国庁」、所謂旧来の「国府」は10世紀には衰退を初め、平安時代後半には多くの国で姿を消していきます。早い例では下野国府の10世紀初頭、遅い例では陸奥国の国府である多賀城の10世紀後半です。

寛平・延喜の軍制改革改め行政改革で国衙が強化されたと言ったじゃないか、おかしいじゃないか! とおっしゃられるかもしれません。もちろん国衙機構はあったのですが、その場は四等官全員の赴任が無くなり、受領が郎党をひき連れて赴任することが定着した段階で国府の大規模な建造物を国司舘と別に維持しなければならない理由が無くなったのかもしれません。
行政機関の官庁は国司舘に場を移していくように思われます。受領の私的従者としての郎党が資料上に見られるようになるのも10世紀前半からとか。(『城と館を掘る・読む』 「平安時代の「国」と「館」」鐘江宏之p100)

ところで「館」は単なる立派な住居ではなく、その長にとっての住居であると同時に官庁、または経営体としての役割をもつときに「館」と呼ばれ、「宅」「家屋」とは区別されます。

では「国ノ人(在庁官人)」も「館ノ人」ではないか、と言う素朴な疑問ももっとも。そう呼ばれることもあります。同じ建物を「国衙」と言ったり、「館」と言ったり。

これは今思いついたことですが、頼朝が鎌倉に入った直後の「新造の御亭」が、その国司館のイメージを体現しているのではないでしょうか。これですね。

吾妻鏡1180年(治承4)12月12日
亥の刻、前の武衛新造の御亭に御移徙の儀有り。景義の奉行として、去る十月事始め有り。大倉郷に営作せしむなり。
時剋に、上総権の介廣常が宅より、新亭に入御す。
寝殿に入御の後、御共の輩侍所(十八箇間)に参り、二行に対座す。義盛その中央に候し、着到すと。
凡そ出仕の者二百十一人と。また御家人等、同じく宿館を構う。爾より以降、東国皆その有道を見て、推して鎌倉の主と為す。所辺鄙にて海人・野叟の外、素より卜居の類これ少し。正にこの時に当たり、閭巷の路を直し、村里の号を授く。しかのみならず家屋甍を並べ、門扉軒を輾ると。

そこは単に頼朝の住まいであるだけでなく、御家人が出仕する行政の場でもあります。時代はだいぶ後になりますが。

2008.01.07 2009.09.07 9.27追記