武士の発生と成立  坂本賞三氏の前期王朝国家

国司の受難 


国立博物館・北野天神縁起絵巻(弘安本)より

さて、その伊賀国名張郡に藤原倫滋の頃、9世紀半ばとは国司や戸籍上租・庸・調・雑徭の中の調・庸・雑徭を課税すべき課丁が激減を始める時期です。また残る「租」のベースとなる登録された農地からも人が少なくなり荒廃をはじめています。国司も楽ではありません。当時こういう事件がありました。

『続日本後紀』 承和九(842)年八月条
庚寅、大宰府言すらく。豊後国言すらく。前の介中井王、私宅日田郡に在り。私営田は諸郡に在り。意に任せて郡司百姓を打ち損ず。これによりて吏民騒動し、いまだ心を安んずるに遑あらず。また本より筑後・肥後等の国に浮宕し、百姓を威陵し、農を妨げ業を奪う。蠢たること良に深し。中井、なお入部して旧年の未進を徴し、兼ねて私物を徴せんと欲す。しかるに調庸未進の代、便に私物を上り、その利を倍取す。望み請うらくは、延暦十六年四月廿九日の格の旨に准拠し、本土に還さしめん、と。太政官処分すらく。罪は去ぬる七月十四日の恩赦に会えり。よろしく身は本郷に還すべし、と
   ※「浮宕(ふとう)の類」(戸籍のある本貫地を離れて多郷に流失しているもの=浪人

この事件は農村での領主制の発生を準備する解官した前任国司の活動を典型的に示すものであると同時に、当時の国司の追い詰められた状況を見ることが出来ます。戸田芳実氏『日本領主制成立史の研究』にはこうあります。

豊後介であった中井王は、・・・・日田郡の「私邸」を中核として、彼の私営田が国内の諸郡に渡って散在的に分布していたのである。(p139)

前司中井王が私宅を日田郡に構えたということは、一見彼が土着受領の先駆者であるかのごとく感じさせるが、それは決してのちにいう「土着」ではなく、その前段階ともいうべき「留住」にすぎないものであった。彼は日田郡に定住しその一円を支配する土着豪族化したのではなく、豊後国内からさらに隣国の筑後・肥後まで「浮宕」して、「百姓を威陵し農を妨げ業を奪う」といわれているように、各地を移動しつつ百姓の収奪によって自己の経営の拠点を設け、また経営を展開してまわっているのである。(p140)

国司級官人が田家や営田を設け交替を契機としてそこに留住することを、たんに彼らの私欲や不正、あるいは土着の志向からだけ説明するのは表面的であるといわざるをえない。彼らがそのような行動をとるには、それだけの前提条件が存在している。彼らの不正を問題の根源と見るのは、律令国家の国司観の踏襲にすぎない。問題の根源は、在地諸勢力の国務対捍や抵抗によって律令制の国務遂行が困難になり、正税調庸の未進が累積していた事実にあり、その上に国司の「不正」や「留住」が発生するのであって、このような状況のもとでは、たとえ国務の実績によって官途の昇進を求める五位の徒においても、その道はしばしば塞がれざるをえないのである。(p142)

「正税調庸の未進累積」ですが、この時代から受領は4〜5年契約でいわば税徴収を請負っているようなものです。時代によって変わりますがこの勤務評定は、最初は国司交替の際に後任国司が行うことになっていました。つまり引継のとき、前任国司が任期中に税の未納やその他不正はないかを調査し、問題がなければ前任国司は後任国司から 解由状(げゆじょう)を受け、政府に提出することにより職務を完遂した証とします。

延暦16年(797) からは後任国司ではなく新たに勘解由使(かげゆし)が設けられその判定を行うようになったが、いずれにせよ「解由状」を与えられない国司は欠損部分を補填しなければ勤務評定に×が付いてもう次の官職にもつけず、それどころか帰京までできません。なかなか厳しい実績主義ですね。年功序列が崩れた現代の企業でもここまでではありません。なんせ未達の国司には任国に留まって未納分を掻き集める義務が課せられるのですから。あくまで9世紀の話ですが。
自分の私財で補填できるぐらいなら最初からそうしていますからそうなると農民への厳しい強引な取り立てしかありません。と同時に私的な収奪をも合法化させてしまう結果になってしまいます。後任の国司からすればたまったもんではありません。

戸田芳実氏が、「問題の根源は、在地諸勢力の国務対捍や抵抗によって律令制の国務遂行が困難になり、正税調庸の未進が累積していた事実にあり」と書いているのは菅原道真や三善清行が警鐘を鳴らしたような、生産現場、あるいは課税対象での社会構造変化に中井王がうまく対処できなかった結果と言うだけではないでしょうか。律令制を無視してうまく国内を治め、そうとは知らない中央の太政官府にちゃんと税収を完納して勘解由使にも◎を貰い、ベテラン国司として名を上げた国司もいる一方で、中井王の様に制度(律令制)と現実の谷に落ちてしまった国司も相当いるのでしょう。当時、居直って「富豪浪人」として土着した「王臣子孫」はかなり居たようで、中井王が訴えられた同年の843年(承和9)八月に大宰大弐 藤原衛 は

交替の務め了り未だ解由を得ざる五位の徒ら、事を格旨に寄せ、管内に溜住して常に農商を妨げ、 百姓(ひゃくせい)を侵し漁り、巧みに 利(かんり)の謀を為して未だ填納を 覩ず。

と前任の国司の行為を糾弾し、五位国司の帰京を命令するよう奏上しています。もちろん中井王の件が念頭にあるのでしょうが彼だけでは無かったようで、彼らは富豪浪人ともよばれ、地の「凶党」と結託し、多くの土地を持ち農民を支配していたようです。寛平・延喜の地方の争乱、板東群盗蜂起はそうした背景もあるのでは無いかと思います。

この中井王自身は結局は土着はせず、そうして蓄えた冨で未納の官物を完済したのか、それとも太政官処分(帰京命令)をうけるやさっさと帰京したのか、その9年後の853年(仁寿3)には正六位上から従五位下に昇進しているらしいですが。(『文徳実録』仁寿3年正月7日条) 

更に 文室真人(ふんやのまひと) の姓を与えられたとこちらのサイトに。えー!ですね。文室という中級貴族は、軍事貴族周辺によく登場します。更に「中井王は 日田 大蔵(おおくら)氏の祖といわれ、一方では私営田領主として在地に根を張っていたことが推測できる。」と。これまた、エー!ですね。日田 大蔵(おおくら)氏というのは豊後大蔵氏のことです。大分放送刊「大分歴史事典」は歴史学者渡辺澄夫氏を編纂委員長に、大分県内の多数の研究者が協力して・・・、とありますので、一介の素人にすぎないこのサイトよりはずっと信用できそうです。(2008.01.04追記)

これらは菅原道真や三善清行が悶々としはじめる以前から起こっていたことです。

群盗蜂起

そういう背景の下に新たな軍事問題が持ち上がります。群盗と海賊です。 (「俘囚」の問題もあるんだけどややこしくなるからパス)
しかしそれは以上見てきたように、食うに困った農民が山賊になったとか言うものではありません。おそらくは郡司層、そして京から赴任してきてそのまま土着した前任の国司とか王臣子孫達です。
国司は律令法を守っていては任国を治めることが出来ない」ひとつの現れは、国守(受領)と地元の有力者(豪族)がその地位についていた郡司(市長)や負名(豪族・富裕層)の対立、それに中井王で見たような前任国司やその子弟、つまり王臣子孫が加わった租税の争奪戦が激化もあります。

例えば、857年(天安1)には対馬で郡司らが「党類」300余人を率いて対馬守立野正岑ら17名を襲い殺しています。
883年(元慶7)に九州筑後国で群盗百数十人が筑後守都御酉(みやこのみとり)の館を襲い、筑後守を殺して財物を強奪。この首謀者は筑後掾(じょう、守の下の介の下)藤原近成であり、共謀者には前掾、目(掾の更に下)、王臣子孫らでした。
884年(元慶8)には石見国の郡司らが「守の政策は法にそむく」と権守上毛野氏永(かみつけぬのうじなが)を襲撃拘禁し、国守の印と国衙正倉の鍵を奪って介(次官)の忍海山下(おしのみぬやましたの)氏則に渡したと言う事件も。(下向井p023)
板東の群盗蜂起もこうした一連の流れのひとつです。

実は国衙に「百姓の弓馬に便なるもの」を登録したその実体もこうした郡司・豪族・富裕層やとか王臣子孫達が実体ですから国守が「言うこと聞かないならお仕置き!」と思ってもそう簡単にはいきません。そういう9世紀の世相の中で、物流は地方の国司から郡司・豪族・富裕層が請負って官物(年貢)を京まで運ぶと言うものでした。

が、請負った郡司・豪族がそれを着服、強奪してしまうのです。僦馬の党 (しゅうばのとう)ですね。実際には国司が誰々に襲われて官物(年貢)を奪われたと訴え、敵対者の追討令を出してもらい官物(年貢)を着服したりと言うことも。

前期王朝国家への転換

菅原道真を左遷した藤原時平もかなりの秀才だったようですが、しかしその政治はあくまで律令制の堅持と言うもの。有名な延喜式(格と式:格式と言う言葉はここから?)をまとめたりしていましたが、「おいおいそれどころじゃねぇだろう!」って感じですね。
国力の源、生産現場では農村共産主義から資本主義に変わっているのにそれに気づかずに共産主義税制(どんなんかしらんけど)で突き進もうとしたみたいなものです。これでは普通国は滅びてしまいます。しかし、滅びるどころか、この頃から豪華絢爛「王朝文化」が花開き、100年ぐらい後の藤原道長(966-1028)は「この世をば,我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思えば」と、この世はすべて自分のためにあるかのように自信満々に詠っています。変ですね〜。

そりゃ膨大な荘園を持っていたから国の財政がどうなろうが知ったこっちゃないんだよ」って?
昔はそう思われていたようですね。でも誤解です。このころの荘園はそんなに大きなものではありません。でっかい荘園がバカスカ出来たのは道長が死んでから更に200年ぐらいは後の話です。それにバカでかい荘園は国司(受領)にまったく税金を納めなかった訳ではありません。

じゃ〜どうしてなのさ!」とお思いでしょうが、実は私にも良くは解りません。正直に言うと首を突っ込みたくありません。えらい難しいので。

ここではこう言って逃げちゃいましょう。現場の行政官(諸国に赴任しる国司(受領)は型(律令制)通りにやっていたら中井王のように自分の任務は全う出来ない。京へ税を届けなければ勤務評定に×が付いてリストラされてしまうと言うので任地で現実的な政策を行い、それが最初はバッファになっていたのかもしれません。またこうしてあまりうまく機能しなくなった律令制への規制緩和、行政改革が藤原時平の跡を継いだ弟忠平の頃から始まります。

そのあたりから先が前期王朝国家への転換と言うことになるようです。「年表」には902年(延喜2)の延喜荘園整理令からを「前期王朝国家への転換」としておきましたが、はっきりしてくるのが10世紀と考えても良いのではないでしょうか。

「王朝国家」という時代区分は、複数の歴史学者によって、その範囲は大きく異なりますが、その基礎を作ったのは1956年頃からのようです。思いっきりアバウトにまとめてしまうと、律令制の崩壊の始まりから、中世・封建制に至までのあいだ、ぐらいの意味です。「奈良時代は”王朝”じゃなかったというのか!」なんて突っ込んではいけません。”王朝”という言葉自体にはあまり意味はなく、よく『源氏物語』とか、藤原道長の時代の文化を「王朝文化」とかいうから、ちょっと拝借、という程度に考えておいた方が無難でしょう。

詳しく知りたい方は、『シンポジウム日本の歴史5 中世社会の形成』(学生社 1972年)に中で、戸田芳実氏が「中世社会成立期の国家」という、基調レポートをベースとした学者さん達の議論があります。
また、その2年後に福田豊彦氏が、同じ『シンポジウム日本の歴史』の「7 中世国家論」(学生社 1974年)の為に書かれた「王朝国家をめぐって」と言う論文が、『東国の兵乱ともののふたち』(福田豊彦:吉川弘文館 1995年)と言う本に収録されています。現在手に入りやすいものはその『東国の兵乱ともののふたち』だと思います。(2008.1.4追記)

寛平・延喜の国政改革

下向井龍彦氏は寛平・延喜の国政改革として4点をあげています。(p45)下向井龍彦氏は前項に書いたより少し早く、藤原時平の時代、と言うか宇多天皇の時代から既にこうした改革が進んでいたと書かれていますが、まあ変化は徐々に起こるのではっきりした境目などありません。

  1. 富豪層と王臣家との私的結合を分断したこと。 富豪層の王臣(貴族のこと)家人化の禁止、王臣家人化した富豪層の納税拒否の禁止。受領に納税拒否をする王臣家人の逮捕・国外追放の権限を与えたことにより、身分による免税特権を否定し、その国では国衙の支配に服しなければならないとしたこと。でもこれらは「しようとしたこと」だと思いますが。 
  2. 受領の請負総額を固定し、任国から京への物資(年貢)の運搬、保管は受領の任務となった。つまり地方の国司から郡司・豪族・富裕層が請負って官物(年貢)を京まで運ぶと言うのを止めた。
  3. 土地制度改革として902年(延喜2)の延喜荘園整理令。班田(国勢調査)を止めて基準国図に公田・免田面積を固定、この公田を請け負った負名が国衙に直接納税義務を負わせた。
  4. 国衙改革として、行政機構毎に公文所(政所)、田所(たどころ)、税所(さいしょ)、調所(ずしょ)、検非違所、船所などの地方行政組織を置いた。こうした部署に京下りの側近を目代として配置し、その下に豪族・富裕層(有力負名・田堵(たと))を在庁官人として配置。

がまあかなりはしょっていますので詳しいことは専門書が沢山ありますからそちらを読んでください。坂本賞三氏や戸田芳実氏などがその方面で有名です。お二人とも30年ぐらい前からこのあたりの研究では有名だったようです。

簡単にまとめると

特徴的なのは人に対する課税から土地ベース(名へ)の課税に変わっていったことです。そしてそれは中央政府が方針転換するより以前から地方では受領(国司)が「律令法を守っていては任国を治めることが出来ない」と初めていたことですが、それを中央政府も追認しはじめます。その課過程は国衙の公田経営、負名、田堵と言われる富裕層(私営田経営者)が成長していく過程でもあります。

この前期王朝国家から(後期)王朝国家体制となるのはその150年後、「平将門の乱」や「平忠常の乱」を挿んで、そろそろ源頼義が「前九年の役」を、と言う1040年代という説や、院政期が後期じゃないかい? とか。 そもそも「前期は終わった!今日から後期王朝国家体制!」なんて詔(みことのり)が出た訳じゃありませんから、学者さんのポイントの置き方によって前後します。そして大規模荘園花盛りとなるのは源義家の「後三年の役」をよりずっと後、12世紀の鳥羽院政時代です。

おまけ

坂本賞三氏や戸田芳実氏の紹介画像は1974年の小学館「日本の歴史6−摂関時代」にはさんであった「月報6」での対談のときのものですが、その中でお二人はこういうことをおっしゃっています。

戸田:(石母田正氏の研究で)摂関時代のもう民の常態が比較的自由であったと言うこと・・・・、坂本さんがこの本でもお書きですけれども、大土地所有者の発展で律令国家が次第に崩れていく、世の中が乱れていくと言うような歴史感で従来はだいたい一貫していたと思います。けれども、そうではなくてかなりダイナミックな初段階が有ると言うことを感じました。

坂本:従来の概説では、十世紀以降も律令制の延長と言われていたわけです。律令制からなぜすぐにポンと荘園が出てくるかというと、ただ単純に土地と人をプライベートに所有するからと言うような説明だったわけです。戸田さんがその途中のひとつの独自の段階を厳密に研究されて、在地領主制は十世紀からの王朝国家の中から出てくると言われた。

戸田:・・・・それに対して新しい権力を握るのが幕府である。その担い手である武士イコール在地領主の発展度を研究していくと言うのが従来のスタイルでしたが、社会経済史で、特に農民の常態から考えていくと、貴族も武士も支配対象は同じなんです。両者がひとのものとして民衆に対置される様子が在地の文章を見るといやおうなしに解ります。そうすると、王朝国家のもとで領主が成立すると言うことの意味は、彼らの権力機構が国家の官職をあしがかりとして出来上がると言うことです。

坂本:いままでは全く無秩序で、農村の中で武士が自営の為に武力を持っていて、それがだんだん中世の武士になっていくという考え方をしていた訳です。・・・十世紀に農民が自由だったと言う事と関係しますが、本当にそんな状況だったのかどうか、それでは十世紀には国家支配が無かったのかと言うことになります。

戸田:・・・・武士はそういう新しい国政の中でこそ武士になれたのであって、武装したものが武士と言うふうには当時でも考えてはいなかったと思います。・・・・武士の武士たるゆえんは、むしろ領主の成立以前に武士の身分とか地位とかある機構とかと言うのもが出来てしかるべきで有るという考えを持っています。

 

う〜ん、要約しようとしてもポイントてんこ盛りで、これはご自分で読まれた方が良いですね。と言ってもこれって本かなにかに再録されているんだろうか?

2007.10.23追記
2008.01.07追記