| 武士の発生と成立 坂本賞三氏の前期王朝国家 |
|
|
国司の受難さて、その伊賀国名張郡に藤原倫滋の頃、9世紀半ばとは国司や戸籍上租・庸・調・雑徭の中の調・庸・雑徭を課税すべき課丁が激減を始める時期です。また残る「租」のベースとなる登録された農地からも人が少なくなり荒廃をはじめています。国司も楽ではありません。当時こういう事件がありました。
この事件は農村での領主制の発生を準備する解官した前任国司の活動を典型的に示すものであると同時に、当時の国司の追い詰められた状況を見ることが出来ます。戸田芳実氏『日本領主制成立史の研究』にはこうあります。
「正税調庸の未進累積」ですが、この時代から受領は4〜5年契約でいわば税徴収を請負っているようなものです。時代によって変わりますがこの勤務評定は、最初は国司交替の際に後任国司が行うことになっていました。つまり引継のとき、前任国司が任期中に税の未納やその他不正はないかを調査し、問題がなければ前任国司は後任国司から 解由状(げゆじょう)を受け、政府に提出することにより職務を完遂した証とします。 延暦16年(797)
からは後任国司ではなく新たに勘解由使(かげゆし)が設けられその判定を行うようになったが、いずれにせよ「解由状」を与えられない国司は欠損部分を補填しなければ勤務評定に×が付いてもう次の官職にもつけず、それどころか帰京までできません。なかなか厳しい実績主義ですね。年功序列が崩れた現代の企業でもここまでではありません。なんせ未達の国司には任国に留まって未納分を掻き集める義務が課せられるのですから。あくまで9世紀の話ですが。 戸田芳実氏が、「問題の根源は、在地諸勢力の国務対捍や抵抗によって律令制の国務遂行が困難になり、正税調庸の未進が累積していた事実にあり」と書いているのは菅原道真や三善清行が警鐘を鳴らしたような、生産現場、あるいは課税対象での社会構造変化に中井王がうまく対処できなかった結果と言うだけではないでしょうか。律令制を無視してうまく国内を治め、そうとは知らない中央の太政官府にちゃんと税収を完納して勘解由使にも◎を貰い、ベテラン国司として名を上げた国司もいる一方で、中井王の様に制度(律令制)と現実の谷に落ちてしまった国司も相当いるのでしょう。当時、居直って「富豪浪人」として土着した「王臣子孫」はかなり居たようで、中井王が訴えられた同年の843年(承和9)八月に大宰大弐 藤原衛 は
と前任の国司の行為を糾弾し、五位国司の帰京を命令するよう奏上しています。もちろん中井王の件が念頭にあるのでしょうが彼だけでは無かったようで、彼らは富豪浪人ともよばれ、地の「凶党」と結託し、多くの土地を持ち農民を支配していたようです。寛平・延喜の地方の争乱、板東群盗蜂起はそうした背景もあるのでは無いかと思います。 この中井王自身は結局は土着はせず、そうして蓄えた冨で未納の官物を完済したのか、それとも太政官処分(帰京命令)をうけるやさっさと帰京したのか、その9年後の853年(仁寿3)には正六位上から従五位下に昇進しているらしいですが。(『文徳実録』仁寿3年正月7日条) 更に 文室真人(ふんやのまひと) の姓を与えられたとこちらのサイトに。えー!ですね。文室という中級貴族は、軍事貴族周辺によく登場します。更に「中井王は 日田 大蔵(おおくら)氏の祖といわれ、一方では私営田領主として在地に根を張っていたことが推測できる。」と。これまた、エー!ですね。日田 大蔵(おおくら)氏というのは豊後大蔵氏のことです。大分放送刊「大分歴史事典」は歴史学者渡辺澄夫氏を編纂委員長に、大分県内の多数の研究者が協力して・・・、とありますので、一介の素人にすぎないこのサイトよりはずっと信用できそうです。(2008.01.04追記) これらは菅原道真や三善清行が悶々としはじめる以前から起こっていたことです。 群盗蜂起そういう背景の下に新たな軍事問題が持ち上がります。群盗と海賊です。 (「俘囚」の問題もあるんだけどややこしくなるからパス) 例えば、857年(天安1)には対馬で郡司らが「党類」300余人を率いて対馬守立野正岑ら17名を襲い殺しています。 実は国衙に「百姓の弓馬に便なるもの」を登録したその実体もこうした郡司・豪族・富裕層やとか王臣子孫達が実体ですから国守が「言うこと聞かないならお仕置き!」と思ってもそう簡単にはいきません。そういう9世紀の世相の中で、物流は地方の国司から郡司・豪族・富裕層が請負って官物(年貢)を京まで運ぶと言うものでした。 が、請負った郡司・豪族がそれを着服、強奪してしまうのです。僦馬の党 (しゅうばのとう)ですね。実際には国司が誰々に襲われて官物(年貢)を奪われたと訴え、敵対者の追討令を出してもらい官物(年貢)を着服したりと言うことも。 前期王朝国家への転換菅原道真を左遷した藤原時平もかなりの秀才だったようですが、しかしその政治はあくまで律令制の堅持と言うもの。有名な延喜式(格と式:格式と言う言葉はここから?)をまとめたりしていましたが、「おいおいそれどころじゃねぇだろう!」って感じですね。 「そりゃ膨大な荘園を持っていたから国の財政がどうなろうが知ったこっちゃないんだよ」って? 「じゃ〜どうしてなのさ!」とお思いでしょうが、実は私にも良くは解りません。正直に言うと首を突っ込みたくありません。えらい難しいので。 ここではこう言って逃げちゃいましょう。現場の行政官(諸国に赴任しる国司(受領)は型(律令制)通りにやっていたら中井王のように自分の任務は全う出来ない。京へ税を届けなければ勤務評定に×が付いてリストラされてしまうと言うので任地で現実的な政策を行い、それが最初はバッファになっていたのかもしれません。またこうしてあまりうまく機能しなくなった律令制への規制緩和、行政改革が藤原時平の跡を継いだ弟忠平の頃から始まります。 そのあたりから先が前期王朝国家への転換と言うことになるようです。「年表」には902年(延喜2)の延喜荘園整理令からを「前期王朝国家への転換」としておきましたが、はっきりしてくるのが10世紀と考えても良いのではないでしょうか。 「王朝国家」という時代区分は、複数の歴史学者によって、その範囲は大きく異なりますが、その基礎を作ったのは1956年頃からのようです。思いっきりアバウトにまとめてしまうと、律令制の崩壊の始まりから、中世・封建制に至までのあいだ、ぐらいの意味です。「奈良時代は”王朝”じゃなかったというのか!」なんて突っ込んではいけません。”王朝”という言葉自体にはあまり意味はなく、よく『源氏物語』とか、藤原道長の時代の文化を「王朝文化」とかいうから、ちょっと拝借、という程度に考えておいた方が無難でしょう。 詳しく知りたい方は、『シンポジウム日本の歴史5 中世社会の形成』(学生社 1972年)に中で、戸田芳実氏が「中世社会成立期の国家」という、基調レポートをベースとした学者さん達の議論があります。 寛平・延喜の国政改革下向井龍彦氏は寛平・延喜の国政改革として4点をあげています。(p45)下向井龍彦氏は前項に書いたより少し早く、藤原時平の時代、と言うか宇多天皇の時代から既にこうした改革が進んでいたと書かれていますが、まあ変化は徐々に起こるのではっきりした境目などありません。
がまあかなりはしょっていますので詳しいことは専門書が沢山ありますからそちらを読んでください。坂本賞三氏や戸田芳実氏などがその方面で有名です。お二人とも30年ぐらい前からこのあたりの研究では有名だったようです。 ![]() 簡単にまとめると特徴的なのは人に対する課税から土地ベース(名へ)の課税に変わっていったことです。そしてそれは中央政府が方針転換するより以前から地方では受領(国司)が「律令法を守っていては任国を治めることが出来ない」と初めていたことですが、それを中央政府も追認しはじめます。その課過程は国衙の公田経営、負名、田堵と言われる富裕層(私営田経営者)が成長していく過程でもあります。 この前期王朝国家から(後期)王朝国家体制となるのはその150年後、「平将門の乱」や「平忠常の乱」を挿んで、そろそろ源頼義が「前九年の役」を、と言う1040年代という説や、院政期が後期じゃないかい? とか。 そもそも「前期は終わった!今日から後期王朝国家体制!」なんて詔(みことのり)が出た訳じゃありませんから、学者さんのポイントの置き方によって前後します。そして大規模荘園花盛りとなるのは源義家の「後三年の役」をよりずっと後、12世紀の鳥羽院政時代です。 おまけ坂本賞三氏や戸田芳実氏の紹介画像は1974年の小学館「日本の歴史6−摂関時代」にはさんであった「月報6」での対談のときのものですが、その中でお二人はこういうことをおっしゃっています。
う〜ん、要約しようとしてもポイントてんこ盛りで、これはご自分で読まれた方が良いですね。と言ってもこれって本かなにかに再録されているんだろうか? 2007.10.23追記 |
|
|