| 武士の発生と成立 10世紀以降の受領と国衙 |
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受領さて、前章では「律令制からの変化の兆し」について見てきましたが、ここでは「国」ではどういう状態だったのかを見ていきます。あっ、ここでの「国」とは、常陸国とか武蔵国と言うような県レベルの地方行政の話ですね。時代はおよそ10世紀から11世紀ぐらい。あまり厳密ではありあせんが。国司とか受領と言うものも時代によって大分変わります。 受領の意味その前に国司・受領について簡単にまとめておきましょう。 その四等官の実質筆頭官を、受領、それ以下を任用国司と呼びます。 わざわざ実質筆頭官と言うのは親王任国と言うのがあって、上野・上総・常陸の3国の国司筆頭官である国守には、9世紀から必ず親王が補任され、それら親王は名目だけで給料は受け取るけど任国には行かない、で本来は次官であるはずの介が国守の役割を果たし、官位も他国の国守と同格だったのです。8世紀頃の話ですが、国によっては守が任命されずに親王任国でもないのに介が筆頭官だったこともあるようです。「坂本賞三氏の前期王朝国家」に登場した、豊後介中井王がそうです。で、それら親王任国他の介まで含めた実質筆頭官を「受領」と呼びます。 何で「受領」なの? と言う話は当時の国司交代を説明しなければなりません。 除目(人事発令)で補任された新任国守はその国の国衙に対して初度庁宣を行います。要するに最初の庁宣(業務命令)です。もっともこれは「可勤仕恒例神事」「可修固池溝堰堤事」「可催観応勧農事」(阿部p65)なんてまったく具体的でないあたりまえな内容で、要するに「こんどの国守は俺だ!」宣言みたいなものです。 とはいえ、ここですでに国衙には国司の交代に関係なく勤めている在庁官人が居ること、そしてその仕事の基本、地方行政の内容が判りますね。 ちなみに「除目」と言うのは「前任を人事の目録から除き」「新任を人事の目録に書き入れる」ことなんだそうです。 任国に向かう途中では宿泊する所々にひそかに道祖神を祀り道中の安全を祈ったとか。これは源頼義の由比若宮と、奥州に向かう所々に八幡神を祀ったと言う伝承を思い出しますね。任国に到着するとまず国境で在庁官人の「境迎」があります。 更にその後の吉日に(前司)前任国守の差し向けた任用国司(とりあえず下級の国司)が、印鎰(いんやく:国印と国倉の鎰鍵)を受け取り、そして、吉日を選んで神拝し、更に吉日を選んで、交代政、つまり公文(公文書、帳簿、田図等の台帳、その他諸々の引継ぎなんですが、これを「分付−受領」と言います。 やっと受領に辿りつきました。この任国に赴いて印鎰・公文・官物を前司から受領する国司の事、もっと単純に言えば、ちゃんと任国に赴任して役目を果たす筆頭国司のことを「受領」と言うようになります。 と言うことは、親王でもないのに任国に赴かない国守も出てきたと言うことで、これを遥任国守(ようにんこくしゅ)と言います。 受領の役割の変化制度(律令制)が空洞化したとか、腐敗・堕落したと言ってしまうのは単なるマンガ化で物事の本質を見失ってしまうでしょう。荘園もそうなのですが。そもそも空洞化が変化であるほど律令制は文字通りに実施されていたのかと言う疑問もあります。 色んな社会基盤の変化から古来の律令制のままでは産業(農業が中心だけど)育成がうまくいかず、税収も低迷し国の業績は下がる一方だったので、菅原道真とかが国政のリストラを提案し、道真は失脚しても政策だけは藤原氏に引き継がれた。 それに伴い、国司による地方支配の形態にも変化が現れ、元々国司は長官=守、次官=介、判官=掾(じょう) 、主典=目(さかん)の4種類、平たく言えば部長、次長、家長、係長が役員会(太政官)から任命されていたものが受領の単独責任制に近くなります。つまり「部長に全権委任、予算配分も部下の任命も全部任す。そのかわり業績(約束した税収)を上げなければ首だ!」 とまあ実質分社化を進めたみたいなもんです。 この結果中央からは守とか介(受領)が武士やら行政の実務経験者を京で雇い入れて(嘱託か契約社員?)地方へ赴任し、その地方の官庁(国衙)には地元の名士(実力者)や、その子弟が在庁官人として勤務しています。 在庁官人が在地の大勢力としてはっきりとしてくるのは平安時代でも後半だと思いますが。 ちなみに、前九年の役だの後三年の役なんて時代にはひとつの国には「兵の家(武士:軍事貴族)」と文官の貴族を交互に任命していたらしいです。普通の貴族だと地元豪族がのさばるし、軍事貴族ばかりだとギュウギュウ絞めすぎて地方が荒廃するしってことらしいです。在地支配の「飴と鞭」ですね。 「部長に全権委任、・・・そのかわり業績を上げなければ」と言う体制は国司(受領)の収入にも大きな変化をもたらします。昔の国司はお役人。給料は決まっていました。勿論任国には陸奥国のような東北地方全体みたいな大国から、壱岐国、対馬国みたい小国までありますから、その国のに定められた租税の高によって、国司の給料も変わりますが。 それがリストラクチャリングの結果、「その国のに定められた租税の額を任期内に朝廷に納めればあとの儲けはおまえのもんだ。だから頑張って任国の生産高を上げてちゃんと定められた租税の額を朝廷に納めろ!」と、こうなるともうただのお役人、サラリーマンではなくなります。 支店長が分社化で子会社社長になって、株主=親会社に決まった配当(高率だけど)をすれば自分の役員報酬はお手盛りで良いと言うようなもの。 説話集・日記に見る受領有名なのは「今昔物語 巻28第38」の「信濃守藤原陳忠(のぶただ)、御坂に落ち入る話」です。例の「受領は倒れる所に土をつかめ」ですね。藤原陳忠は後に触れる正三位大納言民部卿・藤原元方での子で、「尊卑分脈第3冊7/58」に「勇士武略之長名人也」と書かれる藤原保昌の叔父にあたります。 と言っても、受領になるのはなかなか狭き門で「更級日記」の著者の父菅原孝標は菅原道真の子孫で五位の家柄でしたが、受領になれたのは45歳のとき、以後計3回だけです。「更級日記」は最初のの任地上総国からの帰路、主人公が夢多き物思う年頃13〜4あたりから始まりっています。 紫式部の父菅原道真の孫菅原文時に師事して文章生に挙げられその後、花山天皇の側近藤原義懐に取り立てられて式部丞(紫式部の式部はここから)・蔵人となりますが、花山天皇が例の陰謀で退位に伴い失職。以降10年も官職に就けずに散位で過ごします。それが996年(長徳2)にやっと淡路守に任じられましたがこのときに事件が起こります。 「日本紀略」後編十によると996年(長徳2)正月25日の除目で淡路守に任ぜられますが、3日後の28日に藤原道長が参内して、俄に越前守の除目を受けたばかりの源国盛を停めて、藤原為時を淡路守から越前守に変更したとか。淡路は下国で越前は大国。その収入には雲泥の差がります。 この話は「今昔物語集・巻24」や、後世の「古事談」にも載っているますが、「日本紀略」と突き合わせると「古事談」の方がまだ正確だそうで、それによれば藤原為時は「苦学寒夜、江涙霑襟、除目後朝,蒼天在眼」の句を女房(女官)を通して奏上したそうです。一条天皇はこれを見て食事も喉を通らず、寝所に入って泣いたと。 一方、越前守を譲らされた源国盛の家では嘆き悲しみは国盛はショックのあまり病気になってしまい、秋の除目で播磨守に任じられたものの病は癒えず、とうとう死んでしまったと。と言うのは説話の世界で本当にそうだったのかどうかは判りませんが。しかしちょっと後の貴族達が「ショックで病になって死んでしまうほどの落胆」話に「そうだろうそうだろう」「さもありなん」と思ったのは確かでしょう。中下級貴族にとっては受領、それも大国の受領はそれほどに待ち望み夢に描いたポストだったんですね。 それに、それだけの収入が約束されると言うことは、それだけの困難がその任国に待ちかまえていると言うことでもあります。任国の方だって居るのは従順な奴隷ではありません。昔の教科書は従順な奴隷だと思っていたみたいですが、どうしてどうして、海千山千の手強い相手が待ちかまえています。彼らだって生きるのに一生懸命なのですから。 と言うようなちょっとばかりマンガ化したあらすじを押さえた上で、その任国の中身をもう少し詳しく見ていきましょう。 「郡衙」から「国衙」へさて、前章の「受領」で、地方=国の行政の変化をイメージ的に述べてみましたが、「国庁」と「国司館」については少々真面目に書かざるをえません。 律令制は、少なくとも本格的な文書行政が開始された8世紀初頭の大宝律令からは「国」「郡」「里」制であり、「国庁」「国衙(こくが)」の担い手である国司は長官=守、次官=介、判官=掾(じょう) 、主典=目(さかん)の4種類(四等官)が中央から任命されてやってきます。そのうちの筆頭官が「受領」です。一方「郡」「郡衙(ぐんが)」の長は地方の有力者(豪族?)です。 ただし、「国庁」=「国衙(こくが)」には守、介、掾(じょう)
、目(さかん)しか居なかった訳ではありません。 この実務者の組織が(法的にはともあれ)だんだんと整備されて、「国庁」「国衙(こくが)」の元に「所」(部署)が出来はじめ、太宰府のような大型地方行政組織では9世紀後半には「田文所」に「頭」と「書生」の2階級が見られるようになります。それは受領の単独責任制が進むのと平行して、またはその結果としてかもしれません。 いずれにせよ、「国庁」「国衙(こくが)」に中央からやってくる国司は守だけになり、「国庁」「国衙(こくが)」の実務はすでにあった地方の有力者の出の「書生」が担う比率が高くなります。 「郡衙」の消滅同時に「国」「郡」「里」制は実質的には変質し、発掘調査でも「郡衙」として知られたところは10世紀頃に姿を消していきます。 と言うのは10世紀ごろから、国内の公田を名田へ再編成し、田堵に名田経営と租税納入を請け負わせる負名体制へと移行していきます。そして税率・税目などは各地域の実情に合わせて各名田ごとに異なるなどが設定されたりもし、これが「先例」として各国司と田堵負名の間で固定化しつつありました。 10世紀ごろを年表で見ると東国群盗蜂起に始まり将門の天慶の乱、尾張国解などの国司苛政上訴の頃です。 郡司に変わる地元有力者・田堵負名実際に請け負った名田で経営を成功させて、実際の農民にも満足出来る収入を保証し(でないと逃げてしまう)それによって余所から逃げてきた農民もやってきて生産力アップ、かつ請け負った租税以上の粗利をあげられた田堵負名だけがお大尽・億万長者となってベンツ・・・は無いけど、豪邸を建てたり出来たのであって、その経営に失敗したら、まあテナント料(請け負った租税)が払えなくなって負名契約解消、赤字倒産と言う訳です。その成功者はこのように表現されます。
これは京でお祭りの見物をしているお大尽の一族と言う設定で当時の世相を描写したものなんですが。出羽権介田中豊益とは「成功」で名目的な官職を買ったんでしょうね。ベンツより高いでっせ。ロールスロイス何台分だろうか。 えっ、田堵負名って開発領主のことかって? いや、その、まあ、ここでは田堵負名のような経営形態の中で、大名田堵が開発領主が生まれる基盤になったとだけ押さえておきましょう。 王臣子孫の「留住」中には国司(受領)自ら開拓・農業経営に乗り出すことも。かなり時代は遡りますが、千葉県茂原市のサイトにこうあります。「宝亀5年(774年)に上総介に任じられた黒麻呂とその子孫によって開墾された牧野は、広大な荘園を形成するに至りました」。それが藻原荘で茂原の地名の起こりです。
藻原荘に定住し、墳墓まで造らせた藤原春継の子や孫は若い頃に京で猛勉強して出世の緒をつかみます。 「留住」した王臣子孫の全てがこのように中央で帰り咲いた訳ではなく、むしろ例外かもしれませんが、いずれにせよ郡司などの手の出せる相手ではありません。国司の受領・上総介(親王任国なので介が受領、常陸も同様)だってなかなか手が出せる相手ではありません。自分と同格なんですから。さらには大納言元方が領有したとなっては。 初期の荘園の問題先の戸田芳実氏の書いた藻原荘は初期荘園です。それも寄進系荘園のはしりと言っても良いでしょう。また、初期荘園にはあまり触れたくはないのですが、「類聚三代格」にはこういう記録が残っています。記録と言うか法令集みたいなものですが。10世紀初頭、902年です。
そういうことが出来なくなったと言うより、そういう事態があまりにも多く横行していた現れと見ることが出来ます。荘園禁止令は繰り返し出されますが、繰り返し出されたことも荘園禁止令がなかなか浸透しなかった現れでしょう。 ただし、この段階から荘園がどんどん広がっていったと言うのはもはや過去の学説で、この初期の荘園と平安時代末期の荘園とは実はつながりが無いこと、また荘園が国に全く官物(租税)を納めず・・・、と言うものでは無かったと言うのが現在の定説になっています。例えば「中世荘園の立荘と王家・摂関家」高橋一樹(元木泰雄編「院政の展開と内乱」p186 )などに学会での経緯が。 ただし荘園は私の手に余るので、ここでは国衙−郡衙(郡司)が地方行政の基本と言う9世紀以前の原則では行詰まった結果その解消として田堵負名から私営田経営者の出現、そしてそれが初期の荘園と言う形にも表れたと理解し、それが郡司の衰退・郡衙の消滅のインフラだったと押さえておけば良いと思います。 国衙と在地勢力の入れ替わりところで「郡」制の事実上の消滅があったからと言って在地の有力者層が消滅した訳ではありません。国司はどのみち4〜5年で交代するのです。彼らは郡衙を拠点とした郡司としてではなく、国衙行政の担い手として国衙の在庁に比重を移します。先に見た通り、国衙にも最初から書生として在地の有力者は根付いていますから。 もちろん、かつての郡司層の全てが在庁官人として生き残った訳ではなく、在地の有力者そのものがかつての国司の子弟とか、「留住」した王臣子孫がそのまま土着したりとかで大幅に入れ替わりはしましたが、いずれにせよ、在地の有力者抜きに地方行政を行うことは不可能だったのです。 前期王朝国家への転換の「寛平・延喜の国政改革」で触れた、向井龍彦氏の寛平・延喜の国政改革の要点4点の最後に、国衙改革として、とまとめています。徐々に起こった変化をばっさりと要約してしまったような感はありますが。
こうして国司(もはや四等官ではなく守だけ)の権限が強化されましたが、それは国司一人の独裁政治となった訳ではなく、郡衙に分散されていた行政機能と在地勢力の力を国衙にまとめることであった、あるいは在地での力を失いつつあった旧勢力郡司層のを支配することから、すでに根を張っていた新興勢力、かつての「浪人」王臣子孫達を改めて地方行政の枠に取り込む方向に切り替えたことが郡衙を経由しない国衙による国内統治であった、とも言えるのではないでしょうか。
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