武士の発生と成立   10世紀以降の受領と国衙


任国に赴く受領(因幡堂縁起)

  • 受領 
    律令制下の国司 受領の意味 受領の役割の変化 説話集・日記に見る受領 紫式部の父 
  • 「郡衙」から「国衙」へ
    「郡衙」の消滅 私営田の納所 郡司に変わる地元有力者・田堵負名 国衙と在地勢力の入れ替わり 

さて、前章では律令制から王朝国家体制への移行について見てきましたが、ここではその王朝国家体制期と言われる10世紀から11世紀の頃、「国」ではどういう状態だったのかを見ていきます。あっ、ここでの「国」とは、常陸国とか武蔵国と言うような県レベルの地方行政の話ですね。国司とか受領と言うものも、時代によって大分変わります。

受領

律令制下の国司

その前に国司・受領について簡単にまとめておきましょう。
律令制では朝廷が派遣する地方官を国司と呼び、役職名としては4種類あります。長官=守、次官=介、判官=掾(じょう) 、主典=目(さかん)の4種類・四等官です。

その四等官の実質筆頭官を、受領、それ以下を任用国司と呼びます。時代劇を見てると松平伊豆守とか良く出てきますね。大抵は○○守なんですが、でも、相模介とか「掾」だの「目」なんて見たことありません。それは武士の世になった頃には受領以外の国司はとっくのとうに消え去っていたからです。例外は鎌倉時代の安達氏が秋田城介の官職を名前だけもらったぐらいですね。

わざわざ実質筆頭官と言うのは親王任国と言うのがあって、上野・上総・常陸の3国の国司筆頭官である国守には9世紀から親王が補任され、それら親王は名目だけで給料は受け取るけど任国には行かない、で本来は次官であるはずの介が国守の役割を果たし、官位も他国の国守と同格だったのです。戦国以降の時代劇に相模介とか武蔵介とかは絶対にでてこないのに、何故か織田上総介(信長の若い頃)とか吉良上野介とかが出てくるのはそのためです。

8世紀頃の話ですが、国によっては守が任命されずに親王任国でもないのに介が筆頭官だったこともあるようです。「坂本賞三氏の前期王朝国家」に登場した、豊後介中井王がそうです。で、それら親王任国他の介まで含めた実質筆頭官を「受領」と呼びます。

受領の意味

何で「受領」なの? と言う話は当時の国司交代を説明しなければなりません。
除目(人事発令)で補任された新任国守はその国の国衙に対して初度庁宣を行います。要するに最初の庁宣(業務命令)です。もっともこれは「可勤仕恒例神事」「可修固池溝堰堤事」「可催観応勧農事」(阿部p65)なんてまったく具体的でないあたりまえな内容で、要するに「こんどの国守は俺だ!」宣言みたいなものです。とはいえ、ここですでに国衙には国司の交代に関係なく勤めている在庁官人が居ること、そしてその仕事の基本、地方行政の内容が判りますね。

ちなみに「除目」と言うのは「前任を人事の目録から除き」「新任を人事の目録に書き入れる」ことなんだそうです。

任国に向かう途中では宿泊する所々にひそかに道祖神を祀り道中の安全を祈ったとか。これは源頼義の由比若宮と、奥州に向かう所々に八幡神を祀ったと言う伝承を思い出しますね。任国に到着するとまず国境で在庁官人の「境迎」があります。
そして吉日を選んで館(国司館)に入ります。北条政子の鎌倉入りを思い出しますね。もうすぐ館なのに野宿か民家を借りたのか、あるいは近くのお寺か。きっと館(国司館)からの方角もその場所を選ぶ重要な要素だったのでしょう。
館に入ると、新任国守は太政官の任符(辞令)を在庁官人に披露します。また国衙の在庁官人の雑色(最下級役人)に至るまで庭に並び、ひとりづつその職、官位、姓名を名乗り、国守は「与之(よし)」と言います。まあ、新任国守の元での再任の儀式なんでしょう。もっとも平安後期には行われなくなったようで、その頃の在庁官人の自立が感じられます。そしてその日から3日間、国人による供給(歓迎の宴会)があります。鎌倉殿頼朝への椀飯(おうばん)をイメージすれば良いかと。

更にその後の吉日に(前司)前任国守の差し向けた任用国司(とりあえず下級の国司)から、印鎰(いんやく:国印と国倉の鎰鍵)を受け取り、そして、吉日を選んで神拝し、更に吉日を選んで、交代政、つまり公文(公文書)、帳簿、田図等の台帳、その他諸々の引継ぎなんですが、これを「分付−受領」と言います。

やっと受領に辿りつきました。この任国に赴いて印鎰・公文・官物を前司から受領する国司の事、もっと単純に言えば、ちゃんと任国に赴任して役目を果たす筆頭国司のことを「受領」と言うようになります。

と言うことは、親王でもないのに任国に赴かない国守も出てきたと言うことで、これを遥任国守(ようにんこくしゅ)と言います。

受領の役割の変化

制度(律令制)が空洞化したとか、腐敗・堕落したと言ってしまうのは単なるマンガ化で物事の本質を見失ってしまいます。前ページの「坂本賞三の王朝国家体制論」でも見た通り、班田収受制・租庸調制度から負名体制への移行が始まって、伴い、国司による地方支配の形態にも変化が現れ、元々国司は長官=守、次官=介、判官=掾(じょう) 、主典=目(さかん)の4種類、平たく言えば部長、次長、家長、係長が役員会(太政官)から任命されていたものが受領の単独責任制に近くなります。つまり「部長に全権委任、予算配分も部下の任命も全部任す。そのかわり業績(約束した税収)を上げなければ首だ!」  とまあ実質分社化を進めたみたいなもんです。

よく例として挙げられるのは『将門記』に939年5月に武蔵守となった百済王貞連(くだらのこにきし・ていれん)が武蔵権守興余王を政務の場に参加させなかったので興余王がふてくされて平将門の処に身を寄せたという下りです。

また、988年(永延2)の「尾張国郡司百姓等解」には尾張守藤原元命(もとなが)が「三分以下、品官以上の国司」(掾や目)の給料を払わなかった、とあるので一応居たには居たらしいけど、無視されていたことが解ります。

この結果、受領はが武士やら行政の実務経験者を京で雇い入れて(嘱託か契約社員?)地方へ赴任します。その地方の官庁(国衙)には地元の名士(実力者)や、その子弟が在庁官人として勤務しています。しかし在庁官人と言っても、現地採用の書記のようなもので、平安時代後期のような国衙の実務を取り仕切る、というほどではありません。

「部長に全権委任、・・・そのかわり業績を上げなければ」と言う体制は国司(受領)の収入にも大きな変化をもたらします。昔の国司はお役人。給料は決まっていました。

勿論任国には陸奥国のような東北地方全体みたいな大国から、壱岐国、対馬国みたい小国まであり、国司の給料も変わりますが。

それがリストラクチャリングの結果、「その国のに定められた租税の額を任期内に朝廷に納めればあとの儲けはおまえのもんだ。だから頑張って任国の生産高を上げてちゃんと定められた租税の額を朝廷に納めろ!」と。
こうなるともうただのお役人、サラリーマンではなくなります。支店長が分社化で子会社社長になって、株主=親会社に決まった配当(高率だけど)をすれば自分の役員報酬はお手盛りで良いと言うようなもの。お手盛り出来るのは経営に成功すればの話ですが。おまけに出向社長ですから4年(一部は5年)と言う任期で交代しなければなりませんが。しかしこんなうまい話はありません。

説話集・日記に見る受領

有名なのは「今昔物語 巻28第38」の「信濃守藤原陳忠(のぶただ)、御坂に落ち入る話」です。例の「受領は倒れる所に土をつかめ」ですね。藤原陳忠は後に触れる正三位大納言民部卿・藤原元方での子で、「尊卑分脈第3冊7/58」に「勇士武略之長名人也」と書かれる藤原保昌の叔父にあたります。いつ頃の話か正確には解りませんが、親の歳から察するに10世紀中頃の話でしょうか。

と言っても、受領になるのはなかなか狭き門で「更級日記」の著者の父菅原孝標菅原道真の子孫で五位の家柄でしたが、受領になれたのは45歳のとき、以後計3回だけです。「更級日記」は最初のの任地上総国からの帰路(1020年)、主人公が夢多き物思う年頃13〜4あたりから始まりっています。

紫式部の父

紫式部の父、藤原為時は平安中期、一条朝の代表的なインテリで詩人としても有名です。

菅原道真の孫菅原文時に師事して文章生に挙げられ、その後、花山天皇の側近藤原義懐に取り立てられて式部丞(紫式部の式部はここから)・蔵人となりますが、花山天皇が例の陰謀で退位に伴い失職。以降10年も官職に就けずに散位で過ごします。それが996年(長徳2)にやっと淡路守に任じられましたがこのときに事件が起こります。 

「日本紀略」後編十によると996年(長徳2)正月25日の除目で淡路守に任ぜられますが、3日後の28日に藤原道長が参内して、俄に越前守の除目を受けたばかりの源国盛を停めて、藤原為時を淡路守から越前守に変更したとか。淡路は下国で越前は大国。その収入には雲泥の差がります。

この話は「今昔物語集・巻24」や、後世の「古事談」にも載っているますが、「日本紀略」と突き合わせると「古事談」の方がまだ正確だそうで、それによれば藤原為時は「苦学寒夜、江涙霑襟、除目後朝,蒼天在眼」の句を女房(女官)を通して奏上したそうです。一条天皇はこれを見て食事も喉を通らず、寝所に入って泣いたと。
藤原道長が参内してこれを聞き、自分の側近(「今昔物語集」では乳母子)でおそらくは道長の推挙でしょうが越前守に任じられたばかりの源国盛を呼び、越前守を辞退させて、代わりに藤原為時を越前守とする除目を行ったそうです。一方、越前守を譲らされた源国盛の家では嘆き悲しみは国盛はショックのあまり病気になってしまい、秋の除目で播磨守に任じられたものの病は癒えず、とうとう死んでしまったと。

これは説話の世界の話で、細かい経緯が本当にそうだったのかどうかは判りません。しかしちょっと後の貴族達が「ショックで病になって死んでしまうほどの落胆」話に「そうだろうそうだろう」「さもありなん」と思ったのは確かでしょう。中下級貴族にとっては受領、それも大国の受領はそれほどに待ち望み夢に描いたポストだったんですね。

それに、それだけの収入が約束されると言うことは、それだけの困難がその任国に待ちかまえていると言うことでもあります。任国の方だって居るのは従順な羊ではありません。昔の教科書は従順な奴隷だと思っていたみたいですが、どうしてどうして、海千山千の手強い相手が待ちかまえています。彼らだって生きるのに一生懸命なのですから。実際そうした「州民」に殺されてしまった国司も何人もいます。

915年(延喜15)には上野国介藤原厚載(あつのり)が殺され、939(天慶2)年11月には平将門は常陸国衙を襲い、1003年(長保3)には平維良が下総国府を焼討ちし、1023年12月には丹波守藤原資業(すけなり)の京中の家が騎兵十数人に襲われ、1028年(長元1)6月には平忠常が安房守惟忠(氏不明)を焼き殺し、1040年(長久1)には肥後前司藤原定任が京中で射殺されています。最後のものは反受領闘争かどうかは解りませんが。

次はその任国の中身をもう少し詳しく見ていきましょう。

「郡衙」から「国衙」へ

さて、「受領」の足下はどうだったのでしょうか。

律令制は、少なくとも本格的な文書行政が開始された8世紀初頭の大宝律令からは「国」「郡」「里」制であり、「国庁」「国衙(こくが)」の担い手である国司は長官=守、次官=介、判官=掾(じょう) 、主典=目(さかん)の4種類(四等官)が中央から任命されてやってきたことは既に触れたとおりです。一方「郡」「郡衙(ぐんが)」の長は地方の有力者(豪族?)でした。

しかし、「国庁」=「国衙(こくが)」には守、介、掾 、目しか居なかった訳ではありません。やってきた国司の元で文書行政の実務を担っていたのが「書生」(しょじょう)です。書生と言うと明治時代のえらいさんの邸宅に住み込んで雑用をやりながら大学に通わせてもらっている学生みたいなイメージが思い浮かびますが、それは「しょせい」。「書生」(しょじょう)は下級書記官とでも言った方が良いでしょう。その書生は中央からではなくて、地方の有力者の出です。文書行政の担い手ですから多少は学が無ければできません。

この実務者の組織が(法的にはともあれ)だんだんと整備されて、「国庁」「国衙(こくが)」の元に「所」(部署)が出来はじめ、太宰府のような大型地方行政組織では9世紀後半には「田文所」に「頭」と「書生」の2階級が見られるようになります。それは受領の単独責任制が進むのと平行してかもしれません。

そのうち、先に触れた通り、「国庁」「国衙(こくが)」に中央からやってくる国司は守(受領)だけになり、受領は側近としての実務家や郎党をつれてはいますが、「国庁」「国衙(こくが)」の実務はすでにあった地方の有力者の出の「書生」が担う比率が高くなります。

「郡衙」の消滅

同時に「国」「郡」「里」制は実質的には変質し、発掘調査でも「郡衙」として知られたところは10世紀頃に姿を消していきます。
これは農村の変貌と戸田芳実の富豪層論や、坂本賞三の王朝国家体制論でも見てきたように、王臣子孫も含めた新興勢力・私営田経営者が台頭しはじめたことに直接関係します。つまり実際の地の農民を支配しているのは郡司というより、負名、私営田経営者が多くなっていきます。もちろん郡司一族もその私営田経営の先鞭を付けたかもしれませんし、小規模の田堵負名は郡司が統括していたでしょうが、しかし私営田経営に乗り出したのは旧来の豪族だけではありません。

私営田の納所

11世紀中葉の人で、父は『今昔物語集』巻第28巻31話 「大蔵大夫藤原清廉怖猫語」に出てくる藤原清廉(きよかど)が居ます。実はこの人も、話の中に出てくる大和守藤原輔公(すけきみ)も実在の人物です。『今昔物語集』の話はこういうもの。

清廉は前世がネズミであったのか猫を極端に怖れ、猫恐(ねこおじ)の大夫と渾名されていた。彼は山城、大和、伊賀三国に広大な土地を持っていたが納めるべき官物をまったく納めようとしない。大和守はこれを徴収しようと思うものの、清廉も五位の貴族であるので検非違使庁に突き出すこともできない。困り果てた輔公は一計を案じ、清廉を猫で脅して見事に税金を完納させるというお話。実に愉快、描写も実に生き生きしています。

が、ここでの問題はどう面白いのかではなくて、当時の受領は、貴族社会では同じ階層のこんな海千山千を相手に苦闘していたんです。『今昔物語集』に書かれている藤原清廉の内心は・・・

何を抜かすかこの貧乏国司め。屁でも放りかけてやろうかい。帰ってすぐに伊賀国の東大寺の荘園の中に入り込んでしまえば、いくら国司でも手出しはできんわい。・・・これまでの国司に対してだって、天の分、地の分と理屈をつけてうやむやにしてやったんだ。それをこの国司め、したり顔で税金を取り立てようなどとは馬鹿もいいところじゃい。大和守になっているところを見ても、お上のお覚えのほどは知れたものだ。まったく笑止の沙汰よ。誰が納めるものか。(適当に意訳)

しかし、猫を五匹も部屋には放たれて、清廉は大粒の涙をこぼし、「仰せのままに従います。命あってのもの種、生きていてこそ・・・」云々。あたりは誠にもって愉快痛快。しかしここでの問題はその次です。大和守藤原輔公はその場に硯を持ってこさせて・・・、また適当に意訳すると。

この場で領地の部下に五百石を引き渡せと下文(指示書)を書け。ただし伊賀国の納所にあてたのではダメだ。偽の下文を書くかもしれないからな。この大和国の宇陀(うだめ)郡のに対して、稲や米を引き渡すように書け!
原文は「・・・伊賀ノ国ノ納所ニ可成キニ非ズ・・・家ニ有ル稲・米ヲ可下スキ也」

問題はこの「納所」と「家」です。大和守藤原輔公は即座に配下にその下文を持たせて取り立てる為に大和国の宇陀郡の家あてにさせたのでしょうが、家とは別の「納所」に対しても下文ひとつで収穫物や貯蔵物の移動指図が出来たことを物語っています。「納所」はおそらく分散した所領に於かれた現地管理事務所の稲倉でしょう。「郡衙」の消滅の理由がこれです。農民の年貢は「郡衙」に集積されることなく、私営田経営者の「納所」に納められ、場合によっては私営田経営者の本宅・屋敷にも集められて、そこから官物として国衙か、あるいはその受領の京宅に直接運ばれるようになります。

なんだい。たった500石かい、と思われるかもしれませんが、清廉は山城、大和、伊賀で私営田経営を行っており、本拠地は伊賀国で、大和国はごく一部です。
ちなみに、その猫恐の大夫清廉の子は、石母田正の『中世的世界の形成』の書き出しの、「伊賀国名張郡に平安時代の中葉、藤原実遠というこの国に比肩する者のない大領主がいた。」とあるその人です。

もうひとつ。「大和守になっているところを見ても、お上のお覚えのほどは・・・」というと、大和国はよほどさびれた国のように受け取られてしまうかもしれませんが、そんなことはありません。ただ、藤原氏の氏寺・興福寺勢力が大きすぎて、国司は

郡司に変わる地元有力者・田堵負名

実際に請け負った名田で経営を成功させて、実際の農民にも満足出来る収入を保証し(でないと逃げてしまう)それによって余所から逃げてきた農民もやってきて生産力アップ、かつ請け負った租税以上の粗利をあげられた田堵負名はお大尽・億万長者となってベンツ・・・は無いけど、豪邸を建てたり出来たのであって、その成功者はこのように表現されます。書かれた時代は11世紀半頃でしょうか。後期王朝国家に切り替わる頃ですね。

藤原明衡新猿楽記」に見る大名田堵
三の君(右衛門尉の三番目の娘)の夫は、出羽権介田中豊益なり。偏に耕農を業と為し、更に他の計なし。数町の戸主(へぬし:土地所有者)、大名の田堵なり。兼ねて水旱(すいかん:水害や日照りの害)の年を想ひて鋤・鍬を調へ、暗(ひそか)に腴え迫せたる地を度りて馬杷(うまくわ:田をならす道具)・犁(からすき:水田を耕起する農具)を繕ふ。或は堰塞(いせき:川の堰)・堤防・〔土冓〕渠(小さなみぞ)・畔畷の忙に於て、田夫農人を育み、或は種蒔・苗代・耕作・播殖の営に於て、五月男女を労(いたわ)るの上手なり。作るところの稙・粳糯(うるち米やもち米)、苅穎(収穫)他人に勝れ、舂法(玄米にする)年毎に増す。…春は一粒をもて地面に散すといへども、秋は万倍をもて蔵の内に納む。

これは京でお祭りの見物をしているお大尽の一族と言う設定で当時の世相を描写したものなんですが。出羽権介田中豊益とは「成功」で名目的な官職を買ったんでしょうね。ベンツより高いでっせ。ロールスロイス?

「数町の戸主」から、そんなに大名じゃないじゃないかと思われるかもしれませんが、これは所有する家倉に付属する土地であって、経営耕地の広さを示すものではない、と考えた方が良いように思います、そう明言している学者さんを知っている訳ではないですが。数町の田圃なら農家数件分に過ぎません。その程度で出羽権介なんて官職は買えないでしょう。

えっ、田堵負名って開発領主のことかって? いや、まあ、その、ここでは田堵負名のような経営形態の中で、大名田堵の経営形態が開発領主が生まれる基盤になったとだけ押さえておきましょう。大名田堵も後で述べる初期荘園も意外に脆いもので、

この時代は先に述べたように後期王朝国家に切り替わる頃で、こうした大名田堵・私営田経営者が開発領主に移行し始める時期ですが、しかし大名田堵の家系がそのまま開発領主に、などというケースは、無いこともないでしょうがかなり少ないのではと思います。

なんせこの段階では耕作地は国衙から負名契約で借り受けているだけで、経営に失敗したらテナント料(請け負った租税)が払えなくなって契約解消、赤字倒産です。江戸時代の大名はいくら財政難に苦しんでも赤字倒産ということはありませんでした。領地は自分のもので、年貢も一応自分のものになったからです。ところが田堵負名は定額の納税を請負っています。不作で収穫が請負った納税額に満たなければ不足分は家財その他を差し押さえられて、夜逃げをするか、捕まって下人にされるか、とこうなってしまいます。
『更級日記』の最初の方で、作者がまだ少女時代に受領だった父親とともに京へ帰る途中の記述にこういうのがあります。1020年(寛仁4)、平忠常の乱の少し前のことです。

 十七日のつとめて立つ。昔、下総の国に、まののてうといふ人住みけり。疋布を千むら万むら織らせ、晒させけるが家の跡とて、深き川を舟にて渡る。昔の門の柱のまだ残りたるとて、大きなる柱、川の中に四つ立てり。人々歌よむを聞きて、心のうちに(歌を詠んだ)、

  朽ちもせぬこの川柱残らずは昔の跡をいかで知らまし

このことに触れて竹内理三がこう書いているようです。

「下総国まののてう」は「下総国真野の長者」の意であろうという。昔の橋柱の残るを見て長者の邸趾といい伝えられたことを信じた人々が、十世紀頃あったことが知られる。その河は、今日のいずれに当たるかさだかでないが、下総国にはそうした没落した長者伝説が古くに存在したわけである。そしてこの長者は、さきに述べた私営田領主が、農民の抵抗によって田地の経営に失敗し、没落したものだといわれる。(『市川市史』 第二巻古代中世編p.150 )

農民の抵抗というのは「百姓一揆」というようなものではなく、「待遇が悪い」、「他所にもっと良い条件の所がある」とかで居なくなってしまって経営破綻をきたしたということでしょう。戦後の中世史論争で、奴隷か農奴かとそうとう真剣な議論があったようですが、自作耕地を持たないだけで、今で言えばフリーター、貧乏だけど結構自由人。人格的支配など受けていなかったようです。まあ今のフリーターと同じで、景気の良いときには良いけど・・・、ってことは同じでしょうが。また当時の低い生産技術では、「農民の抵抗」が無くても、天候とか水害とか、自然条件だけでも、十分に経営破綻がおこり得ます。

堰塞・堤防・畔畷、ようするに適切な潅漑を行って、「田夫農人を育み」、「五月男女を労るの上手なり」と描かれた田中豊益のような有能な経営者の二代目、三代目が同じように有能な経営者であるケースがどれほどあるか。そりゃぁ今でも同じことですが。
より具体的に例をあげれば、石母田正氏の『中世的世界の形成』に出てくる先ほどの藤原清廉、実遠親子です。その父清廉(きよかど)はやはり11世紀の中頃に、先に見たような大私営田経営者でしたが、しかしその子の藤原実遠の代には最初のうちこそ威勢はよかったものの、年老いた頃には農民に逃げられ、田畑は荒れ地となってしまうところも。藤原実遠の失敗は何によるものか、なんてことを学者さん達が何人も論じていますが、要するに破産こそしなかったものの、経営には失敗して衰退します。

国衙と在地勢力の入れ替わり

ところで「郡」制の事実上の消滅があったからと言って旧来の郡司層が消滅した訳ではありません。彼らは郡衙を拠点とした郡司としてではなく、国衙行政の担い手として国衙の在庁に比重を移します。先に見た通り、国衙にも最初から書生として在地の有力者は根付いていますから。

もちろん、かつての郡司層の全てが在庁官人として生き残った訳ではなく、在地の有力者そのものがかつての国司の子弟とか、「留住」した王臣子孫がそのまま土着したりとかで大幅に入れ替わったでしょうが、いずれにせよ、在地の有力者抜きに地方行政を行うことは不可能だったのです。

こうして国司はもはや介・掾。目を含めた四等官ではなく、守だけになり、その権限は強化されましたが、かと言っていくらスタッフを京から連れていったとしたって国司一人の独裁政治となった訳ではなく、郡衙に分散されていた行政機能と在地勢力の力を国衙にまとめ、その上に乗っかること必要でした。

それはある意味、在地での力を失いつつあった旧勢力郡司層を支配することから、そうした旧勢力郡司層も、かつての「浪人」王臣子孫達をも含めた新興勢力の私営田経営者も、改めて国衙の在庁官人として地方行政の枠に取り込むことが、郡衙を経由しない国衙による国内統治であったとも言えるのではないでしょうか。

再び峰岸純夫氏について

「富豪層論」に関して、峰岸純夫氏が『中世の合戦と城郭』p9 書かれていたことに触れましたが、戸田芳実の富豪層論が峰岸純夫の言うようなものであるか、また「武士化のコース」ということについては一旦保留しておくとして、峰岸純夫氏が当時の農業経営者の不安定さについて述べた部分についてはその通りだと思います。峰岸純夫氏はこう書いています。

富裕な農業経営者がいて、彼らが富みを蓄積して力をつけ、武士化していくというコースである。しかし私はそれに必ずしも賛成できない。平安時代後期において農業経営者が富みを蓄えるというのは困難であろうと思うからである。
なぜなら、さほど自然条件がよくない不安定な状況が常につきまとう時代に、恒常的に富みを蓄えるためには、農業では十分ではないと思う。・・・

ただし、それに続くこちらはどうでしょう。

私はむしろ古代以来の在地に力を持っていた豪族(在地首長)が、古代国家の枠組みの中で国造りに任じられ、やがて律令制の中で郡司に転化し、併せて国衙の役人(在庁官人)などとなって彼らが次第に武士化していくというコースを考えたい。

峰岸先生は高名な学者さんですから、そうおっしゃる根拠を十分にお持ちなのかもしれません。
しかし、律令制時代の郡司が、王朝国家体制の元でも郡司として生き残り、更に後期王朝国家の段階でも在庁官人として必ずしも生き残れただろうか。もちろん生き残ったのも居るでしょう。すぐに思いつくのは山内首藤氏の祖・藤原資清 で、「尊卑分脈」に「本姓守部」とあることから守部資清が秀郷流・藤原公清の養子になったということが定説になっています。しかし、「中には」というような程度では上記の文面にはならないと思います。

更に前の引用に振り返って考えてみれば、王朝国家体制下に生き残った郡司層もまた富裕な農業経営者の一部ではなかったのだろうかと。戸田芳実はひとつの象徴的なケースとして戸籍を離れた浪人からの富豪層への上昇にも触れましたが、それは言ってみれば戦国乱世の下克上の例に農民層からも太閤秀吉みたいなのが生まれたことを述べたからと言って、戦国大名全般が農民の出だったなどと言ったことにはならないのと同じではないでしょうか。下克上とは、名門というだけでは生き残れなかった、実力があって、勝ち抜いて初めて生き残れたということです。律令制の崩壊期には在地ではその下克上、今の言葉に直せば大きな社会基盤の変化と、それに応じた激しいリストラクチャリングがあったと考えれば良いと思います。そして「富豪の輩」の中身は代毎にかなり激しく入れ替わったのではないかと思います。

上記の引用の中から、古代豪族云々を無くして、国衙、またはその他の権力と結びついたものが生き残った。国衙等の権力と結びついたものが生き残ったとするならば、それは私も確かだろうと思います。単なる「富裕な農業経営者」が単なる「富裕な農業経営者」のままでは、まず生き残れなかっただろうと。

そして単なる「富裕な農業経営者」でなくて、国衙等の権力と結びついたのは、元は単なる「富裕な農業経営者」でありながら貴族社会に擦り寄った者と、貴族社会から在地に下った者とを比較すれば、後者の方が多かったのではないかと思います。

そして「武士化していくというコース」については、これはもっと後のページでのテーマですが、武士の多くが在地領主ではあったけれど、在地領主が武士だった訳ではないという処が味噌かと思います。単なる富裕な農業経営者から、古代豪族の子孫から、自出はどちらも有りえたとしても、在地領主=武士でない以上、そのどちらも「武士へのコース」、「武士の条件」にはならないと私は思います。そのあたりを、早い時期に問題にしたのが戸田芳実と石井進ではなかったかと。

と書いてからもう一度『中世の合戦と城郭』のp9以降を読んでみました。今更ですが、これって、武蔵の武士団のことを書いているんですね。武蔵の武士団と限定すれば、「富裕な農業経営者」よりも、武蔵竹芝みたいな旧勢力の郡司層らが、牧の現地管理人となって、そこに中央からの天下りも土着してって筋書きはその通りだと思います。「武蔵国においては」とひとこと書いておいてくれたら良かったのにねぇ。

2009.9.7 更級日記他  9.10 私営田の納所 9.25-10.5 峰岸純夫氏 追記