武士の発生と成立  「奥州後三年記」に見る義家像

05_0611_UN_03.jpg
色調補正してますが、衣装と鎧から多分義家?
国立博物館「後三年合戦絵巻」(1347年飛騨守惟久筆)

頼義の前九年の役より25年後、頼義の子八幡太郎義家が奥州清原氏のお家騒動に介入したのがこの後三年の役です。この後三年の役が東国における源氏の覇権と言うか、武家の頭領としての地位が高まり・・・、と一般に言われています。
そしてその後三年の役を記した「奥州後三年記」にはその後の関東武者を理解するうえで重要な人物がほとんどオールキャストで登場します。ちょっと長くなりますが要所要所を見ていきましょう。ちなみに一部「よし光」を「義光」とか読みやすいように編集しておきます。

尚「後三年合戦絵巻」は1171年(承安1)に後白河院が絵師に命じて4巻の絵巻を制作させたものが原型と思われますが、その絵巻は現存していません。現在上野の国立博物館にある「後三年合戦絵巻(絵詞)」は1347年の飛騨守惟久筆によるものです。その2つの関係については「奥州後三年記と義家の郎党」をご覧ください。「奥州後三年記」は、その絵詞の「詞」を書き写したものです。

八幡太郎義家は正に英雄?

続群書類従」におさめられた「奥州後三年記」の冒頭で八幡太郎義家は正に英雄として描かれています。

大将軍陸奥守の武徳威勢上代にもためしすくなく、漢家にも又稀なり。所謂雪の中に人をあたヽむる仁心は陽和の気膚にふくみ、雲の外に雁をしる智略は天性の才智に蓄ふ。或は士卒剛臆の座、はかりごとをもて人をはげまし、あるひは凶徒没落の期、掌をさしてこれをしめす。仍て寛治五年十一月十四夜、大敵すでに滅亡して残党ことごとく誅に伏す。其後解状を勒して奏聞、叡感尤はなはだし。俗呼でこれを八幡殿の後三年の軍と称す。星霜はおほくあらたまれども、彼佳名は朽ることなし。源流広く施して今にいたりて又弥新なり。古来の美歎、誰か其威徳を仰がざらん。

私が子供の頃に読んだ絵本にも空を飛ぶ雁の動きから伏兵を察知したとか書いてありました。
これがそうですね。


かなりリアルで左は血が噴き出しています

その後に読んだ本も奥州の反乱を鎮める戦い、まさしく「古来の美歎、誰か其威徳を仰がざらん」調でした。義経デジタル文庫にある黒板勝美義經伝の「武士道の権化」はまさにそれですね。

しかしはたしてそうでしょうか。別に他の資料から論証する必要もなく、ただ単に「奥州後三年記」を読むだけでも「おいおい(;-_-X;)」と思えてきます。実はこの絵巻、本当は八幡太郎義家を賛美するためのものではなく、今で言えば一大スペクタクル映画、NHK大河ドラマみたいなもんです。

わが日本国は尚武の国である、神武天皇、日本武尊、神功皇后をはじめ、皇室の方々は申すも畏(かしこ)し、建国以来ここに数千年、武を以て功を成し名を遂げた幾多の名将勇士が、炳焉(へいえん)として国史の上にその事蹟を留めている。・・・さりながらかの平清盛の如き、源頼朝の如き・・・戦国時代の豪傑も、多くは風雲に際会して、旗を京師に樹(た)てんとした功名心に駆られたもので、私がここに伝えんとする武士道の典型ではない。
・・・武士道に光輝を放っている名将は、何というても八幡太郎義家である。義家は板東武士を率いて、前九年後三年の両役に勇名を轟かし、優に柔しき武士、物の哀(あわれ)を知れる大将として・・
武士道の権化

でもこういうのが昔の日本史の歴史観です。 
個人の方のサイトのようですが「歴史データ館」の「後三年の役」は一部に今では古くなった学説も見られますが(後述)、でも良くまとまって居て、合わせて読むと全体感が良く解ると思います。

岡部精一氏の「奥羽沿革史論 第三」も特に地名の検証等で学研的な緻密な論述が見られますが・・・・

重光なるものの言葉について申しますが「雖一天之君不可恐、況於一国之刺史哉云々」という一言は聞棄にならぬ言葉である。これ恰も将門記に見えて居る所の天慶の乱に武蔵権守興世王が平将門に勤て兵を挙げさせた時の言葉即ち「八州を取っても誅せらる、一州を取っても誅せらる、誅は一のみ」という有名な言葉と共に頗る破壊的の思想ともいうべきものである。当時僻遠の地殊に所謂植民地に於いては往々にしてかかる不穏当なる思想上の一種の暗流があったものと見えます。今日でも台湾や満州などの植民地には如何はしい思想が流行して居るだろうと思います。

いや、それは源頼義・義家親子にこそふさわしいと私は思いますけど。
異母、異父の清原3兄弟のお家騒動など同じ父母から生まれた義家・義綱・義光兄弟、そして孫達の方が遙かに上を行くと思いますが。

それにしても「今日でも台湾や満州などの植民地には如何はしい思想が流行して居るだろうと思います。」とはさすが大正5年。「武士道の権化」よりは冷静に歴史を分析していると思っていたらやはり出てきてしまいますね。

私が前九年の役の発端から連想するのは第二次世界大戦前夜1931(昭和6)年9月18日、関東軍の奉天北部の柳条湖において南満州鉄道の線路を自ら爆破、これを中国軍の仕業として満州事変を勃発させたこと、1937(昭和12)年7月7日の盧溝橋事件(発端は偶発的らしいが)、であり後三年の役は政府の意志を無視した関東軍作戦主任参謀石原完爾大佐(後中将、最近マンガの「ジパング」にも登場と永山鉄山陸軍省軍務局長(今検索したらろくに出てきませんね、皇道派のに斬殺されたのは出てるけど)が満州事変準備の為に確か建築資材(だったっけ?)と偽って大砲を満州に送ったこと、そしてその石原完爾の「中央の命令に反しても結果さえ良ければ処罰されることはない」という前例が後の軍部独走に結びついたことです。

「後の関東軍、軍部全体の独走、政党内閣の崩壊」、「後の関東武士の台頭、朝廷支配の崩壊」、う〜ん、すごい似てますね〜。

さて、話を戻して「奥州後三年記」

将軍の舎弟左兵衛尉義光、おもはざるに陣に来れり。将軍にむかひていはく、ほのかに戦のよしをうけたまはりて、院に暇を申侍りていはく、義家夷にせめられてあぶなく侍るよしうけ給る。身の暇を給ふてまかりくだりて死生を見候はんと申上るを、いとまをたまはらざりしかば、兵衛尉を辞し申てまかりくだりてなんはべるといふ。義家これをきヽてよろこびの涙ををさへていはく、今日の足下の来りたまへるは、故入道の生かへりておはしたるとこそおぼえ侍れ。君すでに副将軍となり給はヾ、武衡、家衡がくびをえん事たなごヽろにありといふ。

これは後生兄の苦境に弟が官職をなげうって駆けつけたという「美談」として伝えられます。しかし冷静に読めば朝廷は最初からこの紛争を「私闘」と見ていたんですね。実際それに先立つ頼義の前九年の役もあるし、「また初めおったか」と。

この義光は新羅三郎とも呼ばれ、後の佐竹氏、甲斐の武田氏の祖となります。この後三年の役の出撃拠点が鎌倉であり、伝承ではその鎌倉に新羅三郎義光の館もあったとも言われています。現在の八雲神社(大町)も新羅三郎義光のゆかりの地です。

さて、後の鎌倉に大きな影響を及ぼす、と言うか実質支配者となった二人の武士がデビューするのもこの後三年の役です。

前陣の軍すでにせめよりてたヽかふ。城中よばひ振て矢の下る事雨のごとし。将軍のつはもの疵をかうぶるものはなはだし。
相模の国の住人鎌倉の権五郎景正といふ者あり。先祖より聞えたかきつはものなり。年わづかに十六歳にして大軍の前にありて命をすてヽたヽかう間に、征矢にて右の目を射させつ。首を射つらぬきてかぶとの鉢付の板に射付られぬ。矢をおりかけて当の矢を射て敵を射とりつ。さてのちしりぞき帰りてかぶとをぬぎて、景正手負にたりとてのけざまにふしぬ。
同国のつはもの三浦の平太為次といふものあり。これも聞えたかき者なり。
つらぬきをはきながら景正が顔をふまへて矢をぬかんとす。景正ふしながら刀をぬきて、為次がくさずりをとらへてあげざまにつかんとす。為次おどろきて、こはいかに、などかくはするぞといふ。景正がいふやう、弓箭にあたりて死するはつはものののぞむところなり。いかでか生ながら足にてつらをふまるゝ事にあらん。しかじ汝をかたきとしてわれ爰にて死なんといふ。為次舌をまきていふ事なし。
膝をかヾめ顔ををさへて矢をぬきつ。おほくの人是を見聞、景正がかうみやういよいよならびなし。ちからをつくしてせめたヽかふといへども、城おつべきやうなし。

三浦氏が初めて史書に出てきたものですね。鎌倉の権五郎景正は鎌倉権五郎神社(御霊神社:坂の下)、御霊神社(梶原)の鎌倉権五郎景正です。鎌倉の西側、梶原から藤沢周辺を開発し、藤沢周辺は大庭荘(御厨:みくりや)で後に義朝の大庭御厨の濫妨の舞台となります。


年功序列なんてくそ食らえ、あくまで実績本意の人事制度がこの時代から有りました。

柵をせむる事。数日におよぶといへども。まだおとしえず。将軍つはものどもの心をはげまさんとて。日ごとに剛臆の座をなんさだめける。日にとりて剛に見ゆる者どもを一座にすへ。臆病に見ゆる者どもを一座にすへけり。をのゝ臆病の座につかじと。はげみたゝかふといえども。日ごとに剛の座につく者はかたかりけり。腰瀧口秀方なん一度も臆の座につかざりけり。かたへもこれをほめかんぜずといふ事なし。季光は義光が郎等なり。将軍の郎等どもの中に。今度殊に臆病なりと。きこゆるものすべて五人ありけり。これを略頌につくりけり。鏑の音きかじとて耳ふさぐ剛のもの。紀七・高七・宮藤王・腰瀧口・末史郎といふは末割惟弘が事なり。

右がその日の勇者(腰瀧口秀方?)と手前)の席が臆病者5人?。上は義家でしょう。
腰秀方は左右衛門尉として京に勤務していた「義光が郎等」で、「瀧口」とあるところから無位の下級京武者だと思います。

(続く)